コクラヤギャラリーのエスノグラフィー―長崎市の画廊「コクラヤギャラリー」―
芝野さくら
【目次】
はじめに
第一章 コクラヤギャラリー
第一節 めがねのコクラヤ
第二節 露天画廊(青空ギャラリー)
第三節 近視予防
第四節 ギャラリーの現在
第二章 少国民資料館
第一節 憲法9条とノーベル平和賞
第二節 資料館に込められた思い
第三節 資料館の今後
第四節 高浪氏の主張
第三章 結び
謝辞
註
参考文献
付録 長崎雑貨店「たてまつる」
はじめに
長崎県長崎市万屋町のよろずや通りには、長崎では有名な眼鏡店「めがねのコクラヤ」がある。めがねのコクラヤはこの万屋店以外にも長崎県と北九州地区に店舗があり、万屋店は中でも特徴的な店舗となっている。店の3階と4階に「コクラヤギャラリー」というギャラリーを併設しており、万屋店独自の広告などによって他店舗とは違う雰囲気を作り上げてきたようだ。高浪藤夫氏(※註1)とは、この万屋店とギャラリーを作り上げてきた中心人物である。それ以外にも「泣くな長崎」の作詞や、反戦活動の一つとして少国民資料館という資料館の開設・運営にも携わり、彼の活躍は多岐に渡る。よって、今回の調査では、主に密着してインタビューを行うことにした。本論文は主に、コクラヤギャラリー、反戦活動などについて記述する。
第一章 コクラヤギャラリー
第一節 めがねのコクラヤ
めがねのコクラヤとは、昭和2年に福岡県直方市で創業された眼鏡専門店である。これは高浪氏による創業ではない。昭和33年、高浪氏は長崎県長崎市に中通り店を創業した。昭和36年、中通り店内の待合室の壁に作品が展示されていたことが、コクラヤギャラリーの始まりである。高浪氏の住居であった中通り店の2階を画廊に改造した。昭和40年代に入り、高浪氏は鍛冶屋町にダイナミックコクラヤという店を出し、1階右壁面と2階の全てを画廊とした。昭和50年、この鍛冶屋町店を現在の万屋店に移転。万屋店では、3階と4階がギャラリーとなった。昭和62年には、それより前にあったコクラヤ住吉ギャラリーを理想的なギャラリーへと改造した。
現在、めがねのコクラヤは長崎市内に万屋店、東長崎店、アミュプラザ店、アイウェアショップコンネックス店の4店舗、さらに山口県下関市、福岡県中間市、直方市の北九州地区の3店舗がある。
写真1 所在地。めがねのコクラヤ万屋店 〒850-0852長崎県長崎市万屋町1-26 万屋通
写真2 右列・下から2番目に中通り店が位置している。
写真3 中通り商店街の様子。「めがねはコクラヤ」と書かれてある。
写真4 鍛冶屋町ダイナミックコクラヤ時代のかじや町通りの様子。コクラヤの眼鏡がモチーフのゲートがきらびやかである。
写真5 デザイン画。一見眼鏡屋とは思えないほど個性的である。
写真7 万屋店に移転する前の鍛冶屋町店。かなり個性的でセンス溢れる内装となっている。
写真9 高浪氏がモデルの「ミスターコクラくん」。これは中学校の運動会にミスターコクラくんの顔の的(まと)がゲームのように活用されているスナップ写真を、当時の店員が撮ってきてくれたもの。
写真10 現在のよろずや通りのゲート。2015年2月14日に長崎市都市景観賞受賞。
第二節 露天画廊(青空ギャラリー)
高浪氏がコクラヤギャラリーを開設しようと決意したきっかけは、諏訪神社付近で貧乏な画家達が絵を展示しているのを発見した出来事である。それをここでは露天画廊と呼ぶことにする。諏訪神社横の長崎公園には、月見茶屋という茶屋がある。月見茶屋は明治18年創業だが、その時点ですでに月見茶屋前の池横に呑港(どんこ)茶屋という茶屋が存在していた。呑港茶屋がいつ創業したのかという情報を得ることはできなかったが、高浪氏の証言によると露天画廊を見つけた時点では月見茶屋しかなかったとのことだった。したがって、呑港茶屋はコクラヤギャラリーを開設した昭和34年時点では存在していなかった、ということが新たにわかった。
露天画廊は長崎の画家達によって月見茶屋の庭先で行われていた。そこでは絵が展示されていたとは言っても、壁などを設けてそこに掛けるなどしていたわけではなく、地べたに置いて展示していたそうだ。それゆえ、雨が降ると急いで茶屋の庇(ひさし)に絵をしまい、雨が止むとまた絵を出す、ということを繰り返さなければならなかった。そのような不安定な場所で絵が展示されていたのは、次のような理由である。長崎市に画廊も美術館もなかった当時、絵を展示する場所といえばデパートぐらいしかなかった。しかも、デパートで展示するには場所代として高い料金もかかった。そこで、この諏訪神社付近の月見茶屋の庭先であれば、デパートで展示するような余裕のない画家が一銭も使うことなく絵を展示することができる。その上、くんちで有名な諏訪神社付近という長崎の中心地であれば、たくさんの人が集まるためより多くの人々に絵を見てもらうことができる。したがって、この諏訪神社付近の月見茶屋の庭先という場所で露天画廊は開かれたのである。このような状況を発見した高浪氏は、「自分は(長崎の)外部から来た者なのだから、何か長崎の人々のためになることをしておかなければならない」という思いから、めがねのコクラヤの3階と4階にコクラヤギャラリーという画廊を併設しようと決意したのである。
第一節 近視予防
高浪氏がコクラヤギャラリーをめがねのコクラヤに併設したことには、露天画廊を発見した出来事とは別に、高浪氏のポリシーが関係している。眼鏡と眼科について熱心に学び、経験を積んできた高浪氏は、なるべく目が今より悪くならないための近視予防を重視していた。例えば、風邪が流行ったとすると、薬屋は店先で「いらっしゃい、いらっしゃい」と客を呼び込むことができるが、高浪氏はそうではなく、最初から目が悪くなるのを予防するという考えに行き着いた。そこで、めがねのコクラヤ万屋店にも「徹底しためがね専門店です」というキャッチフレーズが付けられた。
では、このポリシーがどうコクラヤギャラリー開設にどう影響したのか。絵を描く、という行為は、近くのキャンパスを見たり、遠くの対象物を見たりする。近くと遠くを交互に見ることを繰り返すことによって、自分で自然に目のトレーニングをすることになる。高浪氏曰く、それは長崎では「ハタ揚げ」と呼ばれる凧揚げもと同様で、遠くを見ることによって目を休ませることにも繋がる。例えば、力仕事をしていてずっと腰を曲げていた時に、休憩をしようと腰を伸ばすことと同じである。高浪氏は「美術人口を増やすことは近視予防に結びつく」と延べた。つまり、コクラヤギャラリーを開設することが「美術人口を増やす」ことに繋がり、そうすれば少しでも多くの人々の近視予防となる。したがって、コクラヤギャラリーの開設には、高浪氏のポリシーが深く通じていると言うことができるのではないだろうか。
第二節 ギャラリーの現在
めがねのコクラヤ万屋店ではアポイントメントを取ることが困難であったため、コクラヤギャラリーにのみ訪問することにした。ギャラリー展示の広告は、主にテレビCMや新聞広告でなされる。NBC長崎放送では毎週土曜日の18:55〜19:00の5分間で、ギャラリー展示についての宣伝が放送される。このようにテレビや新聞などのメディアによってもめがねのコクラヤ・コクラヤギャラリーは長崎の人々に広く認知されているようだ。
第二章 少国民資料館
第一節 憲法9条とノーベル平和賞
2013年、「憲法9条にノーベル平和賞を」という話題が上がった時、高浪氏は「とても素晴らしい」と感激した。それは、日本国民一人ひとりに授与されるものとして候補に上がっていたからである。日本の憲法9条がノーベル平和賞に注目され、最有力候補となっていた。高浪氏は「世界にはこれ(=憲法9条)が必要だ」という思いを強く持っている。憲法9条がノーベル平和賞に選ばれ、全世界にその存在が知れ渡る、そう高浪氏は信じていた。ところが、ノーベル平和賞発表前夜、テレビで少し違う内容が流れたのを見て、高浪氏はどこか違和感を覚えたと言う。
結果、憲法9条はこの年ノーベル平和賞を受賞することはできなかった。最有力候補だと言われあれだけ世界に注目され、オランダ世界会議でも憲法9条を各国の憲法に入れるべきだというメッセージも発信されていたにもかかわらず、なぜ憲法9条が選ばれなかったのか。高浪氏はひどく落胆した。
しかし、憲法9条がノーベル平和賞を受賞することができなかったとしても、このことを老若男女が知ったことは無駄ではない。スマートフォンやインターネットを通して、このことに関する記事が若い人達の目にも触れたはずだ。我々は、これを機に憲法9条や平和について「考える」「願う」だけではなく、平和を「構築する」「作り上げる」必要があるのだ。憲法9条は、どうしても2013年にノーベル平和賞を受賞しないと意味がなかったのだ、と高浪氏は主張した。
写真13 高浪氏の作品。小さな日本列島に対して、日本の空をこれだけの敵機が占領しているということを表している。
第二節 資料館に込められた思い
高浪氏は自宅横に少国民資料館を設けた。資料館に入ると、数え切れないほどの資料で埋め尽くされている。少国民とは、戦時の日本において年少の国民を指した言葉である。博多大空襲を受け、甘木で35人の少国民が亡くなった。高浪氏はこの35人の少国民のために資料館を作ることで、何かができるのではないかと考えた。昭和が終わり、平成が始まった時が高浪氏にとってけじめを付ける大きなきっかけとなった。この時はおそらく56歳で、今やっておかないともう機会はないと感じたという。
甘木で亡くなった35人の少国民のために資料館を作ったことと、貧乏な画家達の絵の展示や長崎の人々の近視予防のためにコクラヤギャラリーを作ったことには、ある一つの信念が通じている。それは、「自分の一生のうちに誰かの役に立っておかなくてはならない」というものである。高浪氏は長崎に飛び入ってから、常にこれを意識しながら行動していた。少国民資料館を設けてそれに集中するようになると、自ずと眼鏡屋に力を注ぐ比重が低くなっていった。しかし、高浪氏は店にはもう出ていないが辞めたわけではなく、先ほど述べた通り「相談役」という立ち位置にいる。
写真16 「黒塗り」。教師がある日突然教科書の指定の箇所を児童に塗りつぶさせた。
第三章 資料館の今後
高浪氏は高齢のために体調が優れなくなり、持病もある。そのため、今後資料館を跡継ぎする人物を探さなくてはならない。高浪氏には2人の息子がいる。2人の息子を東京から呼び寄せ、資料館を継いでもらうよう交渉したが、2人とも「自分は息子だから継いだ方が良いことはわかるが、自分ではやり切れない」という意見だった。それぞれ人生の建設期の真っ只中にいる息子達の意見に高浪氏は賛成し、他に引き受けてくれる人物に寄贈するという結論で息子2人と妻にも了承を得た。資料館を県や市に譲渡せずにわざわざ後継者にふさわしい人物を探す理由は、戦争を経験していない県や市の職員に任せると、高浪氏の思惑とはどこかがずれたものになり、本物でなくなってしまうためである。同様の資料館が県や市に寄贈されたものを高浪氏が実際に見学しに行くと、それを受け持つ人は戦後のサラリーマンであるため戦争に対する理解にも差があり、ディスプレイもうまくいっていなかったそうだ。「自分の職質としてやってるだけだから、根を下ろしていないから、だめ。成功しない」と高浪氏は述べた。
高浪氏は戦争の悲惨さを忘れてはならない、という思いから「泣くな長崎」の作詞を担当した。この「泣くな長崎」を作調し、詩吟する田川昌央氏とその同窓生が、ある日少国民資料館を訪ねた。田川氏は頻繁に資料館を訪れるそうだ。彼が資料館を見てつぶやいた「俺は今晩眠れるかなあ」という言葉が、高浪氏を感動させた。それは25年間資料館を開いていて初めて言われた言葉だった。「すごいお褒めの言葉ですよ、僕にとっては」と高浪氏は言う。
高浪氏は現在、長崎の平和町辺りに資料館のような店を出す構想を練っている。「泣くな長崎ミュージアム」あるいは「ミュージアム泣くな長崎」という店名で作ると、例えば修学旅行生などが観光しに来てくれるのではないかという思いからだそうだ。現在の資料館は自宅に併設しているため入場料は無料としているが、そのような資料館を別の場所に設けるとなると維持費がかかる。よって、その入り口に喫茶店を設け、ワンドリンク制のようなシステムを設定しそれを入場料とすると、筋道が通るのではないかと高浪氏は構想を練っている。
第四節 高浪氏の主張
高浪氏の主張とは、戦争を否定しなくてはならない、ということだ。戦争がなければ、全く違った日本があったはずだ。戦争は、人身も人の心も壊してしまった。長崎は世界に類を見ない原爆が落ちた街だ。憲法9条はノーベル平和賞を受賞しなかったが、2014年、あの年に受賞しないと意味がない。日本国民一人ひとりに差し上げる、というこの構想は、素晴らしい発想である。世界中45箇所ほどの場所で戦争が起こっている。そのような戦争にブレーキをかけるには、日本の戦争放棄の憲法を世界各国の憲法に取り入れるべきだ、とオランダのハーグで宣言されているのだ。このような流れの中で日本は絶対に憲法9条でノーベル平和賞を受賞すべきだった。日本中にある「憲法9条の会」なるものは、全てに当てはまるとは言わないが、存在はしているが全く立ち上がって行動しているようには見受けられない。被爆者達が、自分達の医療保護などの充実を求め声明を上げるのは理解できる。それをするならばなぜ、戦争のせいで自分達はこのような状況に陥ってしまったのだ、ということを主張するために立ち上がらなかったのか。戦争をやめさせるには一銭も必要ないのだから、被爆者達がそのように立ち上がることできたはずだ。大学教授が平和に関する新聞記事を出しているのに、その内容に憲法9条のことが全く見受けられない。「世の中は憲法9条を舐めている、甘く見ている。日本人はみんな油断していた。そういう日本を大嫌いと僕は泣いている。何かあっても後の祭り」と高浪氏は憤りを見せた。
世の中にはインテリゲンチャと呼ばれる人々がたくさんいるが、国から給料を貰っている立場の人間は、何もできないし何も言えない。戦争を否定するにはただプラカードを立ててデモをするだけでは不十分である。世間は何かが起こってから「平和を守らなくてはならない」と言うが、“平和”という言葉の後に続くのは「思う」「祈る」「願う」ばかりである。そのようなスタンスでは不十分で、平和を「建設する」「組み立てていく」「平和を作る労働者になる」というアクションが必要である。ただこのようなことを言っているだけでは観念論で終わってしまう。高浪氏の抱くその悔しさ、腹立たしさが、現在もこのような思想、活動、資料館という形で現れているのだ。
第四章 結び
高浪氏へのインタビューから、次のことが明らかとなった。
1. 高浪氏はめがねのコクラヤ全体の創業者ではなく、万屋店とそれに続く長崎の店舗の創設者である。
2. 長崎の人々にとってめがねのコクラヤは一つの独立した長崎の眼鏡専門店である。
3. コクラヤギャラリーは長崎の画家達の芸術活動と、長崎の人々の近視予防のために開設された。
4. 少国民資料館は大空襲で無くなった35人の少国民のために開設された。
5. 高浪氏の主張は、平和を「願う」のではなく「建設する」アクションが必要だ、ということである。
謝辞
今回の調査、本論文の執筆に当たり、多くの方々にご協力いただき、心より感謝申し上げます。高浪藤夫氏には11月という年末の多忙な時期に何度もお時間を頂戴し、大変ありがたく感じております。高浪氏にお会いし、お話を伺い資料館を見せていただけたことは、私の人生で忘れられない経験のうちの一つとなりました。
本論文を完成させることができたのは、皆様にご協力いただけたおかげです。今回の調査、本論文の執筆に関わる全ての方々に、心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。
※註1 高浪氏の「高」は、本来は梯子高であるが、パソコンでは環境依存も字のため変換することができなかった。そのため、本論文では「高浪氏」と記述している。
参考文献
「コクラヤギャラリー|めがねのコクラヤ」〈http://www.kokuraya.co.jp/gallery/〉(2016/1/3)
「店舗案内|めがねのコクラヤ」〈http://www.kokuraya.co.jp/shop/〉(2016/1/3)
付録 長崎雑貨店「たてまつる」
芝野さくら
【目次】
第一章 親から子へ
第二章 ディスプレイ
第三章 音楽
第四章 結び
謝辞
第一章 親から子へ
高浪藤夫氏は名古屋から長崎に飛び入り、長崎の町を歩きながら、長崎奉行所(現在の長崎県庁)の前で「ここに自分の店を作りたい」と考えた。昭和50年、少し高かったが土地が手に入ったため、藤夫氏は「長崎奉行所」という名の店を作った。藤夫氏は、この店で長崎らしいものを売ろうと考え、自然食品、藤夫氏オリジナルの作品、土産物などを販売していた。
ある時、藤夫氏の友人が店を出したいと言うので、藤夫氏は友人に「長崎東奉行所」という店名を提案した。その友人は店名を「長崎東奉行所」として経営した。この時友人は「長崎東奉行所」という店名を商標登録したのだが、藤夫氏は「長崎奉行所」という店名を商標登録していなかった。そのため、「長崎奉行所」を藤夫氏から次男の高浪高彰氏に引き継ぐ時、法務局より同じ業種で似た店名を使用することはできないとされ、「長崎奉行所」という店名は使えなくなってしまった。その時点では「長崎東奉行所」は閉店しており、今では別のコンビニが入っているが、商標登録が取り下げられない限りは似た名前を使用できないとして、許可が下りることはなかった。そこで高彰氏は「長崎奉行所」の「奉」から取って「たてまつる」という店名を考え出したそうだ。この「たてまつる」は2003年開店である。このように、父・藤夫氏の「長崎奉行所」は、次男・高彰氏に引き継がれ「たてまつる」となったのである。「たてまつる」では、長崎の土産物が販売されている。土産物と言っても、空港や駅で売っているようなお菓子などではなく、長崎をモチーフとした絵が入った手ぬぐい、ファイルなど、様々な商品が販売されている。どれも他の土産店にはないような、シンプルとアーティスティックが共存するデザインが特徴的である。
写真18 所在地。〒850-0861長崎県長崎市江戸町2-19
写真20 たてまつるオリジナルファイル「たてまファイル」。
和、洋、中の様々な異国文化のモチーフが散りばめられている。
写真21 たてまつるオリジナルガーゼ「たてまガーゼ」。父 藤夫氏へのインタビューの際、お土産としていただいたもの。
第二章 ディスプレイ
高彰氏にとって長崎とは、一番最初に西洋文化が入ってくる場所であるそうだ。最新のものは全て出島から入ってくるのである。長崎には、異文化と和の融合のダイナミズムがある。
写真22は、店内に設置された中国の清の時代の蔵扉である。古い和風の店内に、中国のものをそのまま置いた時に、なんとなく滲み出る雰囲気こそが、異国情緒、エキゾチックなのだ。写真22は、特別な効果や加工などは全くかけていない原画であるが、写真からでもその雰囲気が滲み出ているように感じられるであろう。
また、写真23・24はイギリスの1920年代の協会の古い椅子である。古い和風の店内に、西洋のものをそのまま置いた時に滲み出る雰囲気こそが、異国情緒なのである。
写真23・24 イギリス1920年代の協会の古い椅子
長崎の街中では、何の前触れもなく“突然”長崎の教会が建っていることがある。これも同様であり、長崎の街中に西洋の教会が“突然”建っている時に、なんとなく滲み出る雰囲気が異国情緒なのだ。高彰氏にとって、長崎とは文化と文化の混ざり始めの街なのである。
第三章 音楽
高彰氏にとって、音楽は生き甲斐だと言う。
現代では情報が均一化されており、長崎に住んでいても東京に住んでいても、そこで得られる情報量に変わりはない。しかし、昔は長崎と東京では、そこで得られる情報量にはかなりの差があった。当時、日本は経済、音楽、映画など、何事に関しても西欧文化に追いつこうとする風潮であったため、西欧の音楽にいかに日本人が追いついて、自分なりにどう取り入れて消化するかが重要であった。当時洋楽は多くの人々に聴かれ、人々の憧れの的であった。短いスパンで新たな音楽のジャンルが生まれる時代だった。それまでに全く無かった価値観の音楽が生まれ、それが1つのジャンルになっていく。それは、それまでの音楽とあまりにも違うものであった。そういった音楽は主にアメリカやイギリスが作り出していた。しかし音楽のジャンルは、デジタルというジャンルを最後に90年代頃に出尽くしてしまった。それから後は、それぞれのジャンルの中でのバリエーションが出てくるだけである。50年代から90年代にかけての40年間は、一番初めにその音楽ジャンルが出てきた時の衝撃というものが、数年単位でパラダイムシフトのような感覚で起きていた。「この衝撃が楽しかったし、それで人間的に成長した。何より『価値観ってひっくり返るんだ』ということを音楽で学んだ」と高彰氏は言う。音楽にも黎明期、過渡期、成熟期があり、その50年代から90年代は過渡期であった。ジャンルが出尽くした現在は、音楽の成熟期であると言える。成熟期は質が高いものが生まれる一番良い時期であるはずなのだが、高彰氏が経験した過渡期のような、価値観がひっくり返るパラダイムシフトのようなダイナミックさ、感動がなく、それらはもう終わってしまっている。その時代を知る人々にとっては、現代の音楽は質が高く、それは幸福であるはずなのに、刺激が無くどこか物足りなさを感じるかもしれない。確かに、高彰氏の言う音楽の成熟期に生まれた筆者は、音楽の新ジャンルが生まれる瞬間を見た経験も、そのような衝撃に感動した経験もないように思う。
第四章 結び
高彰氏へのインタビューから、次のことがわかった。
1. 藤夫氏の「長崎奉行所」という店を次男の高彰氏が引き継ぐ際、商標登録の関係で同じ店名が使えなかったため、「奉」を訓読みして「たてまつる」という現在の店名となった。
2. 高彰氏にとって、長崎とは一番最初に西洋文化が入ってくる場所であり、古い和の空間に異国のものが置かれた時ににじみ出る雰囲気が異国情緒なのである。
3. 50〜90年代の音楽は短いスパンで新しいジャンルが生まれ、パラダイムシフトのような衝撃があった。成熟期にある現代の音楽は質は高いが、刺激がなくどこか物足りなく感じる。
謝辞
今回の調査、本論文の執筆に当たり、多くの方々にご協力いただき、心より感謝申し上げます。突然の営業時間中の訪問にもかかわらず、お時間を頂戴しインタビューにお応えいただいた高浪高彰氏には、心より感謝申し上げます。長崎に来る前の事前調査の時点では見つけられなかったことをたくさん教えていただけたおかげで、より深い論文内容となりました。音楽のお話も初めて知ることばかりで、とても興味深かったです。本当にありがとうございました。