関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

カクレの末裔―立山のキリシタンたち―

カクレの末裔―立山キリシタンたち―
藤村雄一郎


【目次】

1.はじめに
1-1.カクレの名称について
 1-2.本論文の目的
 1-3.本論文の意義
 1-4.立山地区の概況
2.カクレキリシタン
 2-1.カクレの変遷
 2-2.中町教会
3.A.B.さん(女性)
 3-1.来歴
 3-2.A家のルーツ
 3-3.生業としての農家
4.A.C.さん(男性)
 4-1.来歴
 4-2.カトリックという選択
 4-3.生業としての脱農家
 4-4.集住の過程
 4-5.地域社会
5.D.E.さん(男性)
 5-1.来歴
 5-2.D家のルーツ
 5-3.カトリックとして
 5-4.生業としての農家
6.結び


謝辞
参考文献

1.はじめに
 本論文は、社会調査実習の一環として長崎で行ったフィールドでの聞き取り調査及び文献基礎資料に基づくものである。

1-1.カクレの名称について
 本論文名におけるカクレあるいはカクレキリシタンとは、学術的に言う潜伏キリシタンのことを指す。潜伏キリシタンとは、キリシタンが禁教時代に仏教徒を装い、隠れてキリスト教を信仰していたということに基づくものである。
 学術的に言えば潜伏キリシタンになるが、これは多くの人が聞きなれない単語であり、これを分かりやすく咀嚼するとなると、歴史の教科書でよく目にするカクレキリシタンという言葉になる。そのため、本論文では、カクレキリシタンを上記の意味を持って採用したい。
 ただ、正確に言えば、「隠れキリシタン」という語は上記とは異なるもう一つの意味を持っている。以下はその説明と筆者の見解を示すものである。
 宗教学者の宮崎によると、「かくれキリシタンとは、日本のキリシタン時代にキリスト教に改宗した者の子孫であり、1873年明治6年)に禁教令が解かれて信仰の自由が認められた後も、カトリックとは一線を画し、潜伏時代から伝承されてきた信仰形態の組織下にあって維持し続けている人々を指す」(宮崎2001:21-22)。
 筆者自身は宮崎の定義に従っており、かくれキリシタン潜伏キリシタンとを全くの別物として区別して用いるが、本論文は潜伏キリシタンかくれキリシタンとを問う類のものではない。なので、前者をカクレキリシタン、後者をかくれキリシタンと表記している。

1-2.本論文の目的
 かつてカクレキリシタンが存在していたとされている場所は、日本各地に存在する。その中でも、長崎県長崎市浦上において、1865年に信徒発見が起こったことは、浦上においてカクレキリシタンが存在していたことを証明するものであろう。
 だが、本論文は長崎県長崎市立山に着目し、現在、立山で生活するカクレの末裔の実例を取り上げ、かつて先祖が禁教時代にカクレを余儀なくされたことやカトリックへと復帰を果たしたことが、末裔にあたる彼らにどう関係するのか、末裔の現在を記述することを目的としている。
 そのため第一に、立山を地理的に理解する。第二に、カクレキリシタンの史的理解を加える。第三にカクレの末裔の方々の実例を、長崎でのフィールド調査に基づき記述する。

1-3.本論文の意義
 本論文は金毘羅山を挟み、浦上の南東に位置する立山で、カクレキリシタンが存在していたことを肯定しつつも、現在、カクレの末裔として生きる人々の生活実態をとりあげ、彼らを単に宗教実践者として捉えるのみならず、生業者としても捉えることを試みる。

1-4.立山地区の概況
 立山地区は、長崎市の中央東部に位置しており、中心市街地に隣接した地域である。また、当地区は金毘羅山の山腹に沿う形で、市街地が形成されている。 *1
 現在、1180世帯、人口2343人が立山地区で生活をしている。(2015年度(平成27年)1月末現在。長崎市ホームページhttp://www.city.nagasaki.lg.jp/syokai/750000/752000/p023436.html
立山地区は1丁目から5丁目まで存在し、4丁目と5丁目の間にバス道がある。このバス道以上に大きい道路はこの地区には無く、住民はバスで山の中腹まで登って来て、そこから更に登るか下るかをするという。
 現在の立山1丁目には長崎歴史文化博物館があるが、そこにはかつて長崎奉行所の東役所にあたる立山役所が置かれ、長崎の行政や司法を司り、キリシタンの禁圧なども行っていた。
 また、隣町にはなるが、長崎くんちで知られる諏訪神社が近くにある。長崎くんち諏訪神社の氏子たちによって諏訪神社に奉納される踊りである。この祭礼はキリシタンへの見せしめとしての役割を持ち、長崎奉行所によって奨励されていた。


写真1.立山から眺望            

写真2.立山からの眺望

写真3.立山の風景

写真4.道路竣工記念碑
この記念碑によると、昭和39年(1964年)10月10日にバス道が竣工されたということになっている。

2.カクレキリシタン

2-1.カクレの変遷
 イエスズ会宣教師フランシスコ・ザビエルらによって、戦国時代の1549年に日本へと伝わったキリスト教。その後、権力者の庇護のもと、次第に全国へと広がっていった。
 特に長崎では、キリシタンである大村純忠が領地を支配していたこともあり、仏教寺院はことごとく破壊され、キリシタン以外は改宗するか退去が命じられた。つまり、領内は人も物もほとんどがキリシタン化されていた。
勢力を拡大したキリスト教による仏教や神道の迫害が起こるようになり、1587年に豊臣秀吉によって宣教師追放令が出されるに至った。しかし、キリシタンの増加は衰えなかった。
 江戸時代へと時代が変わり、1614年徳川家康によって禁教令が出された。その結果、年々キリシタンへの弾圧・迫害が厳しくなり、寺請制度によって、仏教徒への強制改宗が推し進められた。また、キリスト教の指導者たちも1644年の小西マンショを最後にその後、約230年間不在となる。それでもキリスト教の信仰を守り続けた者たちは、表向きは仏教徒を装いながら、隠れてマリア観音を拝むといった潜伏キリシタンとなった。しかし、長年指導者のいないまま、民衆のもとで伝承され続けたため、カトリックとどこか似ているが、カトリックとは一線を画す宗教へと変容を遂げることとなった。
 禁教令が解かれ信仰の自由が保障されると、カクレキリシタンたちは、3つのグループへと別れることとなった。以下はその3つのグループの説明である。
カトリックへと復帰を果たしたグループ
②潜伏中お世話になったお寺の檀家へとそのままなり、仏教徒となったグループ *2
カトリックへと復帰をせずに、潜伏時代までに継承してきた宗教形態を守るグループ(かくれキリシタンと呼ばれるグループ)
 再度確認しておくが、今回のレポートで取り上げるのは、①カトリックへと復帰を果たした方々で、先祖がカクレを余儀なくされた、彼ら自身はカトリック教徒、つまり、カクレの末裔である。
 
2-2.中町教会
 1873年明治6年)に禁教令が解かれ、信仰の自由が認められたわけだが、長崎の市街地には、当時大浦天主堂しか教会が無かったとされている。大浦天主堂はフランスのプチジャン神父によって建てられた教会で、正式名称は日本二十六聖人殉教聖堂と言う。その名の通り、日本二十六聖人に捧げられた教会であるが、外国人居留地の在留外国人のために建設されたものである。
 そこで、島内要助神父は殉教の歴史を持つ地に、日本人のための教会を建てようと志し、フランスのパピノー神父の設計のもと、1897年(明治30年)に中町教会を創設した。*3当時、中町教会は赤いレンガの外壁に瓦の屋根といった様相を呈しており、町の中心かつ、町で一番高い建物であったことから時計塔の役割もあったという。町の中心に十字架が天高くそびえ、町のランドマークとなっていた。
 禁教令が解かれ、法的にカクレは終わりを告げた。そして、中町教会に見る限り、目に見える形でカクレは終わりを告げた。

3.A.B.さん(女性)

3-1.来歴
 A.B.さんは長崎の坂本町で、カトリック信者として生まれ育った。現在90歳。幼児洗礼を受け、生まれてから今日に至るまで、朝晩毎日サンタ・マリア様に、自分の先祖を思って祈りをささげている。
1945年(昭和20年)8月9日、A.Bさん20歳のころ、自宅で被爆体験をされ、家族を亡くされた。原爆を機に天涯孤独となってしまったA.B.さんは、同じくA姓で血縁に当たるA.F.さんと結婚。1947年(昭和22年)に立山へ嫁ぐこととなり、農家を営むに至った。

3-2.A家のルーツ
 A家は親の代から代々農家を営んでおり、いつから立山に住んでいたかは、A.B.さん、後述するA.C.さんにも正確には分からないという。
ただ、A.B.さん曰く、「私の母方の実家はAで坂本町のずうっと上の方。今でも何人かは住んどるやろう。浦上の三番崩れ*4とか浦上の四番崩れ*5とかの時に、たぶん、ずれたんやろう。もとは坂本やったんやろう。たぶんそうよ。」ということだった。
 また、「ずれた先祖は高札から逃れるため、上に上にと、人の目の届きにくいところにいったんやろう」とも言っていた。
 正確には分からないが、いずれにせよ、立山に広く土地を持っていることから、A家の先祖が金毘羅山を切り開き、開拓したことは疑いようもないことだろう。

3-3.生業としての農家
 A.B.さん曰く、「町が近いから、土地を持っていて仕事ができた。」と言う。長崎に原爆が落とされて以降、金毘羅山の向こう浦上の方は焦土と化し、山に阻まれて被害は浦上に比べると少ないものの長崎の町の復興に時間を要したことは想像に難くない。その際、食料が大変貴重であったことは言うまでもなく、また、重機もない当時の農家にとって畑を耕すためには牛が必要となってくるが、原爆によって牛が死んでしまったため、牛がいる家はこの辺ではAさんの家だけだったと言う。食料を求めてAさんのもとを訪ねてくる人もいたそうだ。土地を持っていて仕事ができたという背景には原爆の影響もあったのだろう。
 A.B.さんは当時、栽培した白菜、人参、ネギ、キャベツ、大根、ジャガイモ、麦といった常備菜を青空市場へと持って行って、振り売りをしていたそうだ。青空市場までの道は狭く、また、立山の道はさらに狭い。幅は約1メートルほどで、牛が1頭やっと通れるくらいだったと言う。かごに野菜を入れて担ぎ、片道約90分かけて、中島川の沿いにある眼鏡橋付近の諏訪町まで通っていたそうだ。また、帰りには毎回教会にお祈りに行ってから帰っていたという。
 当然のことながら、生きていくためには、マリア様に祈るだけではなく、仕事をしてお金を得て、生計をたてなければならない。つまり、お祈りといった宗教実践は生計によって規制されており、宗教実践のみで生活は成り立つものではない。A.B.さんの場合は、生計を立てるものが農業であり、それはカクレの末裔の一側面と言えるだろう。

4.A.C.さん(男性)

4-1.来歴
 A.C.さんは立山の町で、A家の末っ子として生まれ育った。先述したA.B.さんの夫であるA.F.さんの弟にあたり、A.B.さんにとっては義理の弟にあたる。現在72歳。
 A.C.さんも幼児洗礼を受けている。そのため、A.C.さん自身は自身がカトリックであることに対し、カトリックは親から受け継いだもの、受け継ぐことが当然だったという。

4-2.カトリックという選択
 カトリックは基本的には、幼児洗礼によりカトリックになることが多く、先祖代々カトリックを受け継ぐことが良く見られる。(2013年12月31日現在。長崎大司教区現勢統計)
 また、カトリックの方はカトリックの方としか結婚できなかったという。そのため、カトリックの方とカトリックでない方が結婚をするためには、きちんとカトリックの勉強をして、成人洗礼を受け、結婚する形式がとられていたようだ。
 A.C.さんご夫婦は、A.C.さんがカトリック奥さん仏教徒だったという。そのため、カトリックの勉強をして、成人洗礼を受け、カトリック教会で結婚をされたという。A.C.さんはこのように言う。「昔の人に比べたら信仰は薄いかもしれないけど、それなりに信仰は守ってる。代々やっているから抵抗もないし、習慣だから守らねば」と。
 ただ、A.C.さんご夫婦はこのようにも言う。「キリスト教にしろ何にしろ、宗教は良いことを目指すもの。宗教対立や宗教の強制で殺しだったり戦争だったりがあるのはおかしい。また、カトリックの文化は自分で受け入れるもの。孫にしろ、子どもにしろ押し付けてはいけない。あくまで本人の自由」と。
 これらを含め更に、「カトリックは探すこと自体が困難。カトリック同士の結婚以外認めないのは、結婚しないのと同じ。宗教人口が減っていることを考えればなおさら。ゆるやかに異宗教とのまじわりを重視するように変わってきている。*6」と。
 
4-3.生業として脱農家
 A.C.さんは現在は定年されており、自分たちの食べる分くらいは作っているそうだが、農家は行わずに、サラリーマンをしていた。現在、作物を作っていることから考えるに、A.C.さんが土地を持っていなかったわけではないだろう。A.B.さんは「土地があったから仕事ができた」と言っていたが、A.C.さんは「生活するため、農業は職にならない」と言っていた。
 A.B.さんとA.C.さんの年齢差と生産年齢、また当時の男女の雇用機会を考えると、A.B.さんの場合、生産年齢のピークは戦時中から戦後復興が起こるまでだったろう。また、女性ということもあり職業はかなり少なかったのが実情だろう。一方、A.C.さんの場合、生産年齢は戦後復興から高度経済成長期、バブルと経て、失われた10年にまで及んでいる。こういった背景を基に、農家ではなくサラリーマンを選んだのであろう。
 また、自身が農家ではなくサラリーマンを選んだ経験を踏まえて、息子や孫世代についてこのように言う。「長崎では仕事がない。あっても中小しかない。大学も遠くの大学に行ってしまって同居世帯が少ない」と。
 A.C.さんの話から、生計を立てる手段が農家からサラリーマンへと移り、土地の価値が変わったように思える。居住する場であり仕事場としての土地から居住する場としての土地へと重きが置かれるように変容を遂げた。更にサラリーマンとして働く場所も都市から大都市へと移っていき、居住する場としての土地自体が流動的になっているように思われた。
 更に、脱農家により、その仕事の対象がある程度時間の都合がつけられる自然から、定時出勤・定時退勤といった時間の都合がつけづらいものへと変化、休日出勤による多忙化が起こり、ミサへ行く機会が減少し、仕事と宗教の両立が難しくなってきている。*7

4-4.集住の過程
 金毘羅山を開拓し、立山に自らの土地を築いたA家。彼らは農家として代々この地で生活をしてきた。A.C.さん自身は農業を営まなかったが、A家がこの地で暮らしてきた理由はA.C.さんのこの言葉に表れているのではないだろうか。
 A.C.さん曰く、「立山は山だけど、駅に比較的近い。浜町で終電に乗り遅れても歩いて1時間くらいで帰ってこれる」ということだった。立山は山ということもあり、生活をするには苦労するのではないかと筆者の私を含め、外から来た人は思うだろう。だが、A.C.さんは立山での生活に全く苦は感じていない様だった。元から住んでいた人にとって山、言うなれば坂の町での生活は当然あったもので、下での生活と何ら変わりないとのことだった。
 自らの所有する土地が利便性に優れていれば、その土地から離れず、その土地に住むことは当然の帰結だろう。そして、代を経ることによって、気付いたら立山に一族が増えたということになったのだろう。
 加えて、A家は一族皆カトリックである。それはカトリック同士での結婚しか許されなかったというカトリックの性質によるものだが、これにより立山にカクレの末裔が集住するということになったのだろう。

4-5.地域社会
 立山においてカトリックの方が多くいることは確かであるが、立山の全ての住民がカトリック信者なわけではない。立山には、カトリックや仏教、神道、そのほかの方が住まわれている。そして、この立山自治組織として、町内会が存在し、その町内会を構成する人々は一様ではない。
 町の運営として町内会が扱う案件は多岐にわたるが、その中の一つとして、もやい船がある。もやい船とは地域で出す精霊船のことを指すが、これは長崎の夏の風物詩の一つとして数えられる精霊流しに用いるものである。精霊流しはお盆の時期に故人を偲んで行うつまり、先祖祭祀行事である。しかし、カトリックにおいて偶像崇拝はあまり行われず、精霊船を出す風習は無い。だが、もやい船を作る為には、町内会でお金を集めたり、竹を編んだりと町内会での協力が求められる。では、どうするのか。  A.Cさんの奥さんはこのように言う。「もやい船を町内会で作るときは、やっぱりカトリックだからお金まではだせないけど、竹を編んだりと手伝いはする」と。更に、このようにも言う。「カトリックだからと言ってまったくやらないというわけではない。あくまで、私たちは町内会の一員だから」と。町内会でもこのようにして折り合いがつけられ、成り立っているという。
 確かにAさんはカトリックであるが、カトリックであることがAさんの全てではない。Aさんが地域に根差して生活していて、地域住民もそのことを理解しているのである。地域の方は、Aさんに対し、カトリックの方というよりも地域の方、更には長崎の人といった認識にあるのだろう。

5.D.E.さん

5-1.来歴
 D.E.さんは立山で、D家の7男として生まれ育った。幼児洗礼を受け、カトリック信者として育った。現在81歳。12歳(昭和20年)のころ、被爆体験をされ、その際にお兄さんをなくされている。原爆でお兄さんを亡くされたこともあり、21歳(昭和30年)まで家の手伝い、農業をしていた。その後、日本冷蔵、自衛隊入隊までを経験。
 自衛隊入隊に関しては黙っていたそうだが、入隊1週間前、自衛隊入隊のための身元調査によって家に発覚、農業をどうするかで大いにもめたそうだが、今まで家の手伝いをしていたこともあって、D.Eさんの望みを叶える形で自衛隊入隊の許可が下りたそう。
 その後、家が心配となって自衛隊を辞め、家に戻ってきたが、やっぱり農業が合わないと感じたD.Eさんは農業をやめ三菱製鋼で働くことにしたという。

5-2.D家のルーツ
 詳しくは分からないが、D.E.さんの曽祖父は関西で商売をやっていて、仕事で長崎へやってきたと言われているという。そして、ここからは確かなことで、祖父はカトリックだったそうだ。
 D.E.さんの祖父は生きていたら150歳くらいになるということから、浦上での信徒発見(1865年)のころに生まれ、浦上4番崩れ、浦上4番崩れ第1次流配(1868年)、浦上4番崩れ第2次流配(1870年)年ごろに幼少期を迎えている。まだ幼かったD.E.さんの祖父と大叔父は浦上4番崩れの際、金毘羅神社で匿ってもらい、流配*8から難を逃れたそうだ。
 当時、浦上川の支流にあたる江平川の源流わきにある小屋に兄弟二人で暮らしていた。昼間は江平の方から金毘羅神社へと続く道を通って、金毘羅神社に出向き、そこで働いていた。その後、迫害を経て、立山へ移り住んだという。
 立山に移り住んでからは、家の近所はみなカトリックで、結婚したり、分家したりで立山の下の方にまでカトリックが増えていったという。

5-3.カトリックとして
 幼児洗礼を受けた、D.E.さんは自身の家の宗教であるカトリックを受け継ぐことを自然と義務であるかのように受け入れ、育った。幼少期から中町教会へと通い、日曜学校で公共要理の勉強をしていたという。
 1945年、長崎に原爆が落とされ、中町教会は塔と外壁を残して焼失してしまい、中町教会へはしばらく通えなくなった。その間も大浦天主堂や聖母の騎士にいっていたそう。
 翌年の年末には中町教会の仮聖堂が木造で作られ、D.E.さんのお兄さんたちは仮聖堂造りの奉仕によく出かけていたらしい。
 1951年には中町教会が再建され、教会再建時にはD.E.さんも奉仕によく出かけ、グリを用いて土つきを行ったり、漆喰を造ったりと早朝から日没まで奉仕を行っていたという。D.E.さん曰はく、「自分のところでミサをやりたいという気持ちが強かった」という。
 教会の再建を担ったりと中町教会に思いれのあるD.E.さんは、20年前まで立山地区の地区委員を3期、計6年にわたり歴任したり、17年前まではミサの際、先唱を行っていたという。これらを通じて、D.E.さんはこのように言う。「選ばれたことは、周りの信者や中町教会から信頼を得たという証拠だった」と。
 地区委員になるにあたり、D.E.さんは広すぎる立山地区を4つに分割し、それぞれに班長を置くといった改革を行うなど、地区委員として奮闘した。
 D.E.さんは地区委員として、また、一人の信者として、宗教人口の減少を概観してこのようにいう。「終戦前までは信者以外との結婚は信者が増える一つの手段だった。でも今は、引っ張るというより、むしろ引っ張られるようになった。」「30年ぐらい前からプロテスタントとは共同路線で、共同聖書が存在する。」と。これらの言葉から、キリスト教の宗派による境界が緩くなった結果、さらに異宗教とのまじわりへと次第に発展していったと思われる。

写真5.再建後、現在の中町教会

5-4.生業としての農家
 D.E.さんは自身は農業を職として選ばなかったが、D家は農業を行っていた。かくいうD.E.さんも三菱製鋼で働きながらも、家の手伝いとして、仕事の前に毎朝2回、野菜を青空市場へと運んでいたという。土地を活かし、収入を得るには青空市場で野菜を売ることが一番良かったからだろう。
 D.E.さんは当時を振り返り、このように言う。「D家は5反の土地を持っていたが、そのうち3反ほどは借りていた。借りているから増設もできないし、小作料も払わないといけない」と。生活をするためには、小作料の分まで余分に、お金を稼がなければならなかったのだ。
 金毘羅山を開拓し、土地を手に入れたはずではあったが、すべてが彼らの土地となったわけではないのだ。立山の下の方には仏教徒の方も住んでいて、平坦な土地には仏教徒の土地が広がっていたという。「すべて自分の土地で畑をやっているところもあれば、借りているところもあった。元は平坦でない辺鄙な土地に追いやられて、さらに小作料も取られてと昔の人は大変だったろう。」とD.Eさんは言う。
 しかし、現在、D.E.さんは税金を払うのが馬鹿らしいとほとんどの土地は売却してしまったという。
D.E.さんの話から、かつては土地が大切なものであり、土地を借りてまで農業を行うことが生計を立てる上で重要視されていたことが分かる。しかし、土地の重要度が下がり、土地さえあれば生活できたという状況から、土地を持っていることによって税金が生じるといった、むしろマイナス面の方が目立つようになってきたと思われる。
 これらは、居住の場としての土地が人々の移動と共に流動的になったこと、加えて、長崎で同居世帯が減少したことによって生じた、開拓した土地の余剰の結果だと思われる。

6.結び
 本論文は、長崎県長崎市立山をフィールドに、立山で生活するカクレの末裔の生活実態を調査し、カクレの末裔の現在を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

1.浦上にカクレキリシタンがいたように、立山にもカクレキリシタンはかつて存在した。彼らは迫害から逃れるため、より人目の届かない所を探し求め、金毘羅山を登り、そこに居を構えるに至った。金毘羅山を開拓することで自らの土地を手に入れた。

2.立山にはかつて立山の上の方にしかキリシタンは存在しなかったが、結婚や分家を経て立山一帯に広がっていった。これが立山におけるキリシタン集住の過程と思われる。

3.金毘羅山を開拓することで土地を手に入れた立山キリシタンたちだが、すべてが自分の土地というわけではなく、中には仏教徒の土地もあった。これらを間借りすることで農家を営んでいたが、小作料が発生し、迫害と小作料とに苦しめられるところもあった。

4.立山で農家を営むにあたり、その収入源は青空市場での取引によるものだった。

5.土地があれば、農業をやって仕事ができるという状況から、農業が職として選ばれなくなった。その結果、農業ではなく会社勤めを選ぶようになった。この際、土地という点に着目すると、仕事の場+居住の場としての土地から居住の場としての土地へと重点が置かれるようになったと考えられる。
 更に、会社勤めに関しても、その勤め先の少なさから人々が都市から大都市へと移動している。そのため、居住の場としての土地でさえも流動的になっていると思われる。

6.会社勤めが多くなったことで、定時出勤や定時退勤といったように時間の都合がつけにくくなったこと、休日出勤といったような多忙化が起きたため、仕事と宗教の両立が困難となっている。

7.長崎において、カトリックプロテスタントが共同路線となって、キリスト教宗派による境界が緩くなり、さらに異宗教とのまじわり推奨へと発展していった。これにより特定の宗教だからという考えから長崎の人という考え方に変化していっている。

本文では註を*で表している。

(1)斜面市街地を意味する。斜面市街地とは、標高20m 以上、勾配5 度以上の市街地を指す。

(2)彼らは自らのことを転びと自称することもある。現在は仏教徒であるが、禁教令に伴い、自らの先祖がキリスト教から強制的に仏教に改宗された、転ばされたという記憶が根底にあると言う。

(3)教会建設にあたり、多くの寄付が寄せられた。その中の一人には、自らが没落しようとも長崎で日本人のための教会建設を後押しし、当時の金額で8万フランにも及ぶ額を寄付した婦人の存在もあった。

(4) 禁止していたキリスト教が、開国を機に広まることを恐れた長崎奉行所は、領土内を調査し、その結果、浦上山里村に多くの異教者がいることが発覚、これを処罰したことを浦上3番崩れという。当時、国内に日本人のキリシタンはいないとされていた為、キリシタン扱いでは無く、異教徒として扱われていた。

(5)浦上4番崩れは1867年に起きたカクレキリシタン大発覚事件である。浦上ではかつて3度にわたり崩れが起きたが、浦上4番崩れはこれまでの崩れとは異なり、異教徒としてではなく、キリシタンとして処罰された。
 まず、背景として1865年に浦上の大浦天主堂で、開国後初となる信徒が発見され、以降次々と当時カクレを余儀なくされていたカクレキリシタンたちは信仰を表明するようになっていった。しかし、当時は禁教令の真っただ中にあり、カクレキリシタンたちはどこかの寺の檀家に組み込まれていた。また、死者が出た場合は檀那寺での葬式が義務付けられていた。
 こういったなかで、1867年浦上村山里で死者が出るが、檀那寺の聖徳寺の僧侶の立会無しに勝手に葬式を上げ、加えて山里村の総代が檀那寺との関係を打ち切りたいと庄屋に申し出た。この行為は幕府の寺請け制度に反するものであった為、幕府、さらに幕府の政策を引き継いだ明治政府によって約3000人もの村人が各地へ流配されるに至った。

(6)異宗教との交わりを奨励することになって起こった二つの例を紹介したい。
1つは枯松神社大祭である。これは3つに分かれたカクレキリシタングループが和解した例である。カトリックに復帰したグループ、転びのグループ、かくれキリシタンこれら3つのグループは分裂以後、その交流を断絶させていたが、元は共に同じキリスト教を信仰した者たちである。分裂の際にいざこざがあろうと、かつて私たちは友であり、隣人であったということを強調することで和解に至った。
詳しくは、以下の文献を参照されたい。
ムンシ、ロジェ ヴァンジラ2013 「枯松神社と祭礼―地域社会の宗教観をめぐって―」、『人類学研究所 研究論集』1。
 もう1つは原爆殉難者慰霊祭である。長崎県宗教者懇話会によって毎年8月8日、原爆落下中心地にて行われる。原爆を落とされた長崎において、多くの方が原爆を機に命を落とされた。その方々の慰霊と平和への祈りをささげるために行われる。
詳しくは以下を参照されたい。長崎市 「宗教者懇話会」http://www.city.nagasaki.lg.jp/syokai/710000/715000/p025293.html

(7)カトリック教会では、ミサは平日と休日に行われ、特に休日のミサは多くの人が集まる。休日のミサは多くの所で日曜日に行われる。長崎でも休日のミサは日曜のみだった。しかし、仕事で休日のミサに行けないとのことが叫ばれだしたため、長崎の教会は土曜も行うようになったという。(A.C.さん)。

(8)流配先によってその待遇は異なるが、大部分はキリシタンたちにとって辛く、苦難を強いるものだった。この苦難を受難として捉え、流配のことを旅とたとえることもある。


謝辞

 本論文の執筆にあたり協力をしてくださった皆様には大変感謝しております。突然の訪問にも関わらず、お話を聞かせてくださった、A.Bさん、A.Cさんご夫婦、D.Eさん本当にありがとうございました。また、本論文ではあいにく触れはしなかったものの、上記以外の方々にもお話を聞かせいただきました。おかげさまで背景理解に大変役立ちました。
 皆様の協力なしでは、本論文は完成させることはできませんでした。協力してくださったすべての方々に、この場を借りて、心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。


参考文献

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