関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

寺院と子供―浄土真宗本願寺派光源寺の事例―

社会学部 仲森 裕樹

目次 
はじめに
第1章 光源寺について
①寺町とは
②光源寺
第2章 浄土真宗と日曜学校
浄土真宗と日曜学校の来歴
②光源寺における日曜学校
③光闡日曜学校から光源寺日曜学校へ
第3章 ひかり子ども会と楠達也師
①楠達也師
②ひかり子ども会の来歴
③ひかり子ども会の現在の様子(11月29日)

結び
謝辞
参考文献

はじめに
  本論文は、社会調査実習として行われた長崎巡検の調査報告書となる。今回の調査は長崎市にある浄土真宗本願寺派光源寺をフィールドとして行った。100年以上、光源寺が青年教化の一環として取り組んでいる日曜学校・子ども会の取り組みに焦点を当て、光源寺と子どもたちの関わりが時代とともにどのように変化していったかを聞き取り調査・文献に沿って述べる。

第1章 光源寺について
①寺町とは
寺町とは長崎市にある町名のことで光源寺はこの寺町の一角伊良林にある。

  寺町は大正2年〜現在の長崎市の町名。もとは長崎市伊良林の郷の一部。地内には寺院が多く,町名の由来も寺院が多いことにちなむ。曹洞宗海雲山晧台寺(慶長12年開創)・真言宗医王山延命寺(元和2年開創)・黄檗宗東明山興福寺(元和6年開創)・浄土宗東雲山浄寺(寛永元年開創)・浄土宗万年山三宝寺(元和元年開創)・臨済宗河東山禅林寺(正保元年開創)がある。(「角川日本地名大辞典」編纂委員会、1987 )

②光源寺
  光源寺は寛永8年(1631)に創建された浄土真宗本願寺派のお寺である。創建者は松吟法師である。越後柳川・瀬高(現・福岡県みやま市)光源寺の住寺で、寛永8年頃、当時まだキリシタンの街としてその名残を強くとどめていた長崎へ出向き、浄土真宗の教えを布教し多くの同行同胞を得た。その功により寛永十四年(一六三七)、長崎奉行・馬場三郎左衛門から寺地を銀屋町に与えられ、京都西本願寺の末寺となり山号『巍巍(ぎぎ)山』、寺号『光源寺』の公称を許可された。寛文三年(一六六三)三月、長崎で空前の大火災が起こりほとんどの町が消失し光源寺も類焼した。さらに延宝四年(一六七六)にも大火があり、この時も光源寺は類焼したため寺地を伊良林の源在地に移した。光源寺には全国に伝わる子育て幽霊飴の伝説が伝わるお寺でもあり、毎年8月16日に光源寺の法物である全国でも珍しい産女の幽霊像を御開帳している。


写真1−1 光源寺山号『巍巍(ぎぎ)山』


写真1−2 光源寺の境内の様子

第2章 浄土真宗と日曜学校
浄土真宗の日曜学校の来歴
 浄土真宗における日曜学校の歴史は明治38年始まる。
 
 明治38年「仏教大学」(大正十一年に龍谷大学と改称)の学生無漏田謙恭らが、キリスト教日曜学校の活躍に刺激され「求道日曜学校」を開設したから始まる。これが仏教界で日曜学校という名称を用いた最初であるとされている。西本願寺は大正四年に日曜学校規定を制定し、全国の本願寺派寺院に日曜学校の開設を呼びかけ、六五〇の日曜学校が開校し、翌年大正五年には七七三校が開校し全国で十一万四九五〇人の子どもたちが日曜学校で学ぶこととなる。また、大正5年は真宗大谷派や浄土宗にも日曜学校の開校が相次いだ年でもあった。(ひかり子どもOB会編:10)

②光源寺における日曜学校の来歴
 光源寺の日曜学校の歴史は明治42年6月6日から始まる。現在のひかり子ども会の前身である光闡日曜学校である。現指導者楠達也師の祖父に当たる当時の住職楠活雷師のバックアップもあり、楠達也師のお父様にあたる越中聞信師が初代の指導者を務めた。
  光闡日曜学校の最初の参加者は子ども20人ほどで正信偈の唱和、讃仏歌、童話の読み聞かせで日曜学校を行った。越中聞信師の指導は子どもたちを引きつけ、子どもの参加人数も増え、参加する年代も幅広かったため年齢別に3つのクラスに分かれて運営し、毎週日曜日には光源寺にたくさんの子ども達が集まった。(参加者が150人になるほど)
 しかし、光闡日曜学校は大正5年5月に閉校することとなる。その理由として『楠活雷師と本山・西本願寺との間に布教方法の違いがあり意見の相違が目立ち始め、大正七年楠活雷は住職の地位を降り布教活動に専念する。』があげられる。楠活雷師は当時としては革新的な考えを持った人で『死んだ後の地獄、極楽を考えるのではなく、いま生きている人間の生活に地獄(生活の苦しみ)があるのだ』といことを説きその考えは当時西本願寺には受け入れてもらえなかった。そういった煽りを受け光闡日曜学校は閉校してしまう。光闡日曜学校の名前はこの年に消滅してしまったが、子ども達との関係が無くなったということではなく、子どもたちのための日曜学校は継続して続いていったそうだ。


写真2−1 日曜学校の初代の指導者越中聞信師と楠活雷師。
      越中聞信師は後の光源寺の代務住職となる。
    

写真2−2 大正時代の日曜学校教科書

③ 光闡日曜学校から光源寺日曜学校へ
  光源寺の日曜学校は最初の指導者である越中聞信師の長男の越中哲也氏によって正式に再開されることになる。越中哲也氏は大正10年生まれで、昭和13年に京都の龍谷大学に進む。そこで龍谷大学教授で教育学の権威山崎昭見氏から青少年教育の理論や実践・ソーシャルエデュケーションについて学び、子どもたちに社会教育が必要であるという想いから昭和13年に日曜学校を再開させる。また、再開した時に、『光闡日曜学校』から『光源寺日曜学校』に名称が変わった。光源寺の日曜学校は当初、哲也氏が大学の夏季休暇で帰郷する折に行われた。京都から帰郷の折に紙芝居を購入したりするなど子どもたちを引きつけた。『鞍馬天狗』が当時は人気を博していたそうです。子どもたちにとって仏教的なことや社会教育を学ぶことは勿論のことであったが、戦前の子どもたちにはほとんど娯楽がなく、日曜学校は子どもたちの間で楽しみの一つになっていたそうです。
  再開された日曜学校に集まる子どもたちも徐々に増えていき、光源寺のお寺の境内には沢山の子どもたちが集まることになる。しかしながら太平洋戦争に向かっていく中で日曜学校を続けていくことも難しくなり、日曜学校の教育の在り方も軍事的なものにならざる負えない時代になっていく。越中哲也氏がいうに指導者も社会に生きているわけであるから時代・社会によって指導の内容も時代によって変わっていくと語る。昭和18年哲也氏の出征と共に日曜学校は一時休校となる。
  昭和20年9月哲也氏は復員する。国にある種統制されていた教育から子ども個人をみて個人に即した教育しなくてはいけないという想いから、一息入れる間もなく昭和21年に日曜学校を再開させる。この当時戦争の影響で娯楽もほとんどなく、食料も乏しかった長崎の子どもたちにとって日曜学校の再開は非常に喜ばしことであったそうである。


写真2−3 2代目指導者 越中哲也氏


写真2−4 出征する直前の越中哲也氏と子どもたち

第3章 ひかり子ども会と楠達也師
①ひかり子ども会の来歴
  光闡日曜学校から光源寺日曜学校と名称を変えていったが昭和24年に光源寺日曜学校の1文字光をとって『ひかり子ども会』と名称を変えることとなる。哲也氏曰くこの当時『子ども会』という名称が流行っていたそうで、その流れに乗り日曜学校という名称から子ども会に変えたそうだ。
昭和30年、日曜日の朝に行われていた子ども会の活動は土曜日の夜に変わる。その理由として子どもたちの意見として日曜日は、家の人たちと遊んだほうが(過ごす)いいという意見、日曜日の朝はゆっくり過ごしたいという要望がでたからである。子どもの意見を受け入れる空気があり子どもたちと一緒に作り上げる子ども会の活動であった。また昭和30年ごろは子ども会の会員数は増え続け町内の約半分が会員となった。
  戦前、戦後の指導者であった越中哲也氏が復員後勤務先の長崎市博物館学芸員としての研究活動に専念するためにひかり子ども会の運営・指導は弟の楠達也師に昭和32年4月に変わることとなる。(この年楠達也師の性は越中であったが昭和37年光源寺の住職に就任した時に楠に改正する。)
 順調に子どもたちも増えていった子ども会であるが昭和37年ごろから少しずつ子ども会に欠席が増えるようになる。理由として子どもの絶対的な減少、長崎にもテレビ放送が始まったことにより子どもの会の活動に影響を与えることになる。また子どもたちが大きくなり中学・高校と進学するにつれて子ども会から足が遠のいてしまった。そして昭和48年になると子ども会の参加人数が激減する。参加者が2、3人という状態が続き子ども会の運営が困難になる。
  しかし昭和50年代に子ども会に転機が訪れる。ひかり子ども会のOBの方が二世会員を率いて子ども会に参加し子ども会に参加する子どもも増えていった。達也師曰く「これ以上大きな力(存在)はない」と思ったそうである。
 現在は少子化なども進み約20−30人の子ども達が子ども会に参加している。


写真3−1 昭和30年1月22日に新聞に掲載されたひかり子ども会の活動の様子
 またこの当時は子ども会の活動は日曜日だけに限ったことではなく毎朝行っていたそうである。日によってマラソン競争、竹刀体操 操 写 真3−1に写っているのは竹刀体操の様子)など様々な活動を行っていたそうである。  
②楠達也師
 昭和13年に生まれる。楠達也師は「ひかり子ども会」位の現在の指導者であり16代の住職である。父である越中聞信師、越中哲也氏から「ひかり子ども会」の指導者の後を継いだ3代目である。昭和32年住職への道を進むべく京都の龍谷大学に進学する。兄の哲也氏と同じく当時の龍谷大学教授で教育学の権威である山崎昭見氏の下で学ぶ。

 楠達也はクラブ活動を顧問教授として山崎昭見が率いる「宗教教育学」を選び、少年教化の理論と実践を徹底的に叩きこまれた。クラブ員は直ちに京都市内の各寺院の日曜学校に配属され、子どもたちの教化活動に励んだ。楠達也は本願寺別院の角坊日曜学校で子どもたちの指導を行う。(ひかり子ども会編:1982 10)

大学在学中は主に夏休みなどの長期休暇に子ども会の指導にあたっていた達也師であるが昭和34年に大学を卒業と共に本格的に子ども会の運営・指導に携わる。
 仏教を通して子どもたちに宗教的情操を育むことは勿論のことであるが、達也師が子どもたちに指導するにあたって大切にしている一つの想いがある。それは子どもを大切にするお寺であり続けるということだ。つまり子供が自然と集まり、子供が核となるお寺で有るということである。
 これがなぜ大切な想いのひとつになったのかというと光源時に伝わる民話「産女の幽霊」が大きく関わってくる。この民話は結末などに細かな異同が見られるが伝承地は全国に分布してする民話である。そして今回調査を行った光源寺にも伝わる。おおまかな粗筋は子どもを出産したが,亡くなってしまった母親が子どもを育てるために毎晩飴屋に行きその飴を子どもに与えて育てるという話である。これは亡くなってまでも子どもを想い続ける母親の愛情を表した民話である。この子どもを想う愛情というものを民話・伝説で終わらせるのではなく子どもへの愛情が息づいたお寺にしなければならないという想いが子ども会にはあるのだという。

民話の詳しい話はレポートと主旨が逸れるため詳しい話は以下に添付する。
http://www1.cncm.ne.jp/~k-naoya/ugumenoyurei.html
  

写真3−2 3代目指導者楠達也師


写真3−3 光源寺に伝わる幽霊像

  
写真3−4 井戸と子育て幽霊の図

③ ひかり子ども会の現在の様子(11月29日)
  かつては日曜日の朝に行っていた活動も現在では毎週土曜日午後7時〜8時から行っている。参加する年齢層上は中学生から下は二歳〜三歳くらいの子供と幅広い年齢層の子供たちが参加している。決まった人が参加しているわけではなく週によって参加する人も異なってくる。浄土真宗を信仰していなくても、光源寺の檀家の方でない保護者、子ども達も子ども会の活動に参加できる。
 調査を行った11月29日は子供たちの保護者、子ども併せて20数名が参加していた。また保護者の方以外にも近所の大人の方も参加していた。子ども会の始まる10分前くらいから人が集まりはじめる。待っている間みんな楽しそうにおしゃべりをしたり、風船で遊んだりとリラックスした雰囲気であった。また保護者の方の会話で「〜ちゃん、〜くん大きくなったね」とあったように子どもたちの成長の機会をみる場でもあった。子ども会の始まりの合図は光源寺にある鐘の音とともに始まる。その鐘の音がきっかけで遊んでいた子どもたちも遊びをやめて真ん中に集まり座る。特に決まった場所は無く思い思いの場所に正座をして座る。ひかりの子ども会の現指導者である楠達也師が「合掌」と言いそのあと南無阿弥陀仏と3回唱える。そのあと十二礼拝の歌を歌う。
 十二礼とはインドの高僧龍樹菩薩が作ったものである。それを子どもでも分かるように簡易にして歌にしたものが十二礼拝の歌である。
そのあと誓いの言葉を子どもたちと一緒に読む。誓いの言葉は以下の通りである。一、仏の子は素直に教えをききます。一、仏の子は、かならず約束を守ります。一、仏の子はいつも本当のことをいいます。一、仏の子は、にこにこ仕事をいたします。 一、仏の子は、やさしい心を忘れません。
 誓いの言葉が終わった後に達也師の遊び要素も含まれた法話が始まった。まず片手を出して、その手を横に振る。当然音は出ない。次に両手を出して手を横に振ると両手が重なり初めて音が鳴る。ここで言いたいのは、友達、父親、母親、親戚の人、周りの人がいるから音が出るということである。つまり相手を思いやって日々の生活をおくろうということである。法話が終わった後は、紙芝居が始まる。この日は、「おまんじゅうの好きなおとのさま」という紙芝居であった。紙芝居は大人が読むのではなく中学生の子が読む。そのあとリクリエーションを行う。保護者の方も一緒に参加していた。リクリエーションが終了した後は参加者にお菓子を配り、12月、1月の予定表を配り終了。


写真3−5 ひかり子ども会の現在の様子 リクリエーションの様子。保護者子どもたちも一緒に参加。

結び
 今回の調査では光源寺と子どもたちの関係性に焦点をあてて調査を行うことで以下のことが明らかになった。
 
①光源時のある伊良林の子どもたちにとって光源時の日曜学校・子ども会というのは学ぶ場所であったと同時に重要な楽しみ・娯楽の一つであったということ。

②時代の流れによって子どもたちに対する教育のあり方・子ども会の運営も代わっていったということ。

③子どもの少子化・娯楽の変化,進学率の上昇等様々な要因が子ども会の参加人数に関わっていたということ.

謝辞
 本論文の執筆に当たり、多くの方々から大変あたたかいご協力をいただきました。
突然の訪問にも関わらず、光源寺、ひかり子ども会について様々なお話を聞かせてくださった楠達也師、越中哲也氏。お忙しい中様々なお話、資料を提供していただいた泉屋郁夫氏。様々お話を聞かせてくださった光源寺に関わる方々。
本論文が完成に至ったのはみなさまのご協力のお陰です。今回の調査にお力を貸していただいたみなさまに、心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
ひかり子ども会OB会1982年「伊良林のこどもたち―光り子供会の80年―」
角川日本地名大辞典」編纂委員会1967『角川日本地名大辞典』、650 角川書店