関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

駅前闇市と食堂街

駅前闇市と食堂街

社会学部 23011548 野中麻未

【目次】

序章

1. 駅前闇市の系譜
(1) 敗戦と闇市
(2) 白倉市場
(3) 須田ビル
(4) CiC

2. 富劇食堂街
(1) 富劇食堂街の形勢
(2) 「初音」

3. シネマ食堂街
(1) シネマ食堂街の形勢
(2) 「桝天」

4. かつぎ屋

5 「朝日奈昆布舗」・「小島屋」・「エビタニ」
(1) 「朝日奈昆布舗」
(2) 「小島屋」
(3) 「エビタニ」

結び

謝辞

序章

本調査は富山市の駅前CiCビル周辺をフィールドとし実地調査を行う事によって、戦後から始まる闇市と食堂街の変化について明らかにしたものである。現在の富山駅南口正面前にあるCiCという複合商業施設の前身は戦後の闇市から発展した須田ビルというビルであった。CiC闇市(自由市場)→白倉市場→須田ビル、駅前百貨街→CiCと移り変わっている。JR富山駅を出ると南側に、「富劇食堂街」「シネマ食堂街」というかつては映画館と食堂街が一体となっていた食堂街が2つあり、今ではどちらも映画館は閉鎖され、食堂街のみ営業している。

1. 駅前闇市の系譜

(1) 敗戦と闇市

昭和20年8月2日未明に富山市アメリカ空軍の大空襲を受け、市街地の98パーセントを焼き尽くされた。富山駅も消失してしまいしばらくはバラック建ての駅舎であった。しかし、その後復興は急ピッチに進み、富山駅付近には闇市らしい闇市のブラックマーケットが出来、多くの人で賑わった。店は海産物屋が特に多く、八百屋も多かった。トタン屋根で簡易的な造りだったため、雨の日は地面が荒れていて大変だったそうだ。

写真1 戦後の假り駅舎全景       

写真2 ヤミ市場全景

(2) 白倉市場

白倉周市氏は高岡市から馬車一台と馬一頭で富山市にやってきた。白倉氏はもともと白倉車輪という会社で運送業をされていたという。また、白倉氏のリーダーシップは凄く、自然発生した駅前闇市をまとめ、昭和21、22年頃に白倉市場という準闇市を作った。白倉氏は富山市に定着し、その後借地権を少しずつ集め、テナント王となった。
富山と名古屋を結ぶ国道41号線を通すことが決まり、この出来事がきっかけで街は都市計画で整備され、昭和26、27年頃に工事は始まり、区画整理された。
白倉市場は解体されることになり、白倉市場の人々は店を移転したり、その後出来る須田ビル、駅前百貨街に店を移転させた。


写真3 白倉市場

(3) 須田ビル

都市計画が終わり、昭和28、29年頃に須田藤次郎氏が富山駅南口正面に須田ビルを作った。須田ビルの須田とは須田藤次郎氏の名前から来ており、須田氏は大地主で元々は砂糖屋であった。
国道41号線が通り、また須田氏は80坪の土地を北陸銀行(現在の北陸銀行駅前支店)に売ったため、以前の白倉市場のように店を広くすることは出来ず、店の間口は狭かったという。2、3坪の広さで、せいぜい広くても5坪ほどで狭かったため、皆が店の前に商品を出し、商店街の道幅も大変狭かったそうだ。
須田ビルは鉄筋コンクリートの二階建てで、その東側に駅前百貨街が出来た。食住一体で、1階で商売をし、2階に住まれていた方もいた。須田ビル、駅前百貨街には100軒以上の店があり、(八百屋、魚や、干物屋、珍味屋、果物屋、肉屋、お茶屋、寿司屋、ケーキ屋、食堂、おでん屋、喫茶店、花屋、本屋、電機屋靴屋、下駄屋、服屋など)大抵日常で必要なものは須田ビル、駅前百貨街で揃い、街の人びとにとって欠かせない場所だった。唯一アーケードになっているメイン通りは県庁、市役所へと続く一直線の道で、仕事帰りによく立ち寄って帰られていたそうだ。また、富山市内の方だけでなく、県外からの旅行客も多く来られていた。年末になると市場は人で溢れ、歩けないほどの賑わいだったという。バブルが弾ける前の時代だったため、景気がよく活気溢れていたそうだ。縦横無尽に店が並んでおり、提灯をつけたり、幟を上げたりと店も賑わっていた。当時ははだか電球を使用していたため漏電がひどかったため、火事がよく起こり、比較的遅い時間に5、6回は起こったそうだ。幸い死者の出る火事は起きなかったものの、昭和35年には電信柱までもが燃えてしまうほどの大火事が起き、よく始末書や誓約書を書かされていたそうだ。
駅前再開発をすることが決定したため、須田ビルは解体された。駅前再開発の計画は昭和30年代からあったが、店や土地の権利について納得されない方々との話が進まず、須田ビルを解体する頃には計画は古くなってしまった。店をその後出来るCiCに移転されたり、別の場所に新たに店を出される方もいれば、店の経営者は高齢の方も多く、店を辞められる方も多かったという。

写真4〜写真11 1987年〜1990年の須田ビルの様子


写真4                  

写真5

写真6                  

写真7

写真8                  

写真9

写真10                 

写真11

写真12

(4)CiC

1992年3月19日に富山ステーションフロントCiCは須田ビル跡地に複合商業施設としてオープンし、地元の人からはシックという愛称で親しまれている。地上6階建て、地下1階建てであるが、富山エクセルホテル東急が入居している建物(地上15階建て)と一体化しており、エレベーター等を共用している。CiCは一時テナント減少による経営難に陥り、2002年に運営管理者の富山駅前開発が経営破綻、民事再生法の適用を受けて再生を進めている。富山市もこれを支援する姿勢を取っており、ワンフロアを借り切る形でとやま市民交流館を設置して市民にサービスを提供している。
須田ビル、駅前百貨街から移転されたお店は20軒ほどCiCの地下1階に店を出された。しかし、CiCが出来たころはバブルが弾けた後であったなど、様々な要因で店は減少し、須田ビルからのお店は現在7軒(海産物屋、海産珍味屋、鮮魚屋、昆布屋、和菓子屋、鱒ずし屋、笹巻寿司屋)にまで減少している。地下1階には新たな店も含めると16件のお店が軒を連ねている。

写真13 現在のCiC

2.富劇食堂街
 
(1)富劇食堂街の形勢

富山映画興業が昭和25年に木造1階建ての富山駅前で初の映画館として建設した。シネマ食堂街の真似をして昭和42年からは食堂街が出来た。2階に映画館は移り、1階と地下1階には約20軒の飲食店が軒を連ね、現在の富劇食堂街の形となった。戦後は娯楽施設がなく、映画全盛期の時代だったため映画館が出来たという。1つのスクリーンと約100席の客席があり、オープン当時の入館料は1作品につき大人30円、子ども15円だった。スピーカーから「今から○○が始まります」という音声が街に流れ、多くの人びとが足を運び賑わった。その後、成人向け映画を中心に上映してきたが、カラーテレビや家庭用ビデオデッキの普及により、映画館へ足を運ぶ人は減少し、平成4年に映画館の営業を終了した。2階のスクリーンと客席、券売機は今でも残っている。かつては地下にはキャバレーや麻雀壮などもあったが現在地下は閉鎖され、1階の居酒屋など5軒が現在も営業している。

写真14 富劇食堂街の看板         

写真15 昼の富劇食堂街

写真16 映画館の券売機    

写真17 夜の富劇食堂街

(2) 「初音」

1階の食堂街に店が4、5軒残っているが、その中の一つのお店が「初音」だ。「初音」は昭和42年に出来、当初は1年間のみ女性二人で営業されていた。その後現在の経営者である経明尚江さんが今日まで46年間営業されている。
「初音」という名前を変えなかった理由は手続きの問題もあったが、一生懸命頑張れば名前は関係ないという思いで同じ名前にされたそうだ。
お店の入り口には「初音」という看板の隣に同じ大きさほどの「京大山岳部有志」と書かれた提灯があった。この提灯は経明さんが店を始められた年に京大山岳部の方が5人来られ、学生割引をしてもらったお礼にと提灯と小さなノートを送ってこられたものだ。
小さなノートというのは京大山岳部の方々が京都の先斗町まで行って買ってきたものらしい。そのことがきっかけで尚江さん自身も富山の八尾に和紙を作っているお店に頼み、ノートを作ってもらうようになり、ノートには来店された方々に思い思いのことを書いてもらうようになったそうだ。
今でも京大山岳部のOBの方が来られるそうで、お店のお客さんは富山の方だけでなく、出張や、旅行に来られた方など県外の方も多く来られるそうだ。
贈り物と言えば、お店の奥の方にひょっとこが飾れていた。このひょっとこは、お店を始められた時のお祝いに頂いたものらしく、火吹き男をモチーフにされているものなので、火が燃えあがるように、この店が繁盛するようにという意味と、額にあるこぶは目の上のたんこぶを表し、人の邪魔になるような人間になるなという意味が込められている。
お店に飾られている写真などはすべてお客さんが撮られたもので、このお店はお客さんと一緒に作り上げてきたお店であると感じた。よくお客さんから、「違った世界に来たみたいだ」と言われることがあるそうだがまさにそうで、一歩店に入るとまさに「初音」ワールドが広がっており、何とも言えない世界観を作り出していた。

写真18 初音入り口(京大山岳部からの提灯)

写真19 京大山岳部からのノート     

写真20 経明さんオリジナルのノート

写真21 店の様子と経明尚江さん      
[:]
写真22 店に飾ってある写真の一部

3.シネマ食堂街

(1)シネマ食堂街の形勢
富山駅前の2つめの映画館として、食堂街が一体となったシネマ食堂街が出来た。富山シネマ劇場は各社のニュース映画や短編映画を中心に上映しており、当初は朝から客は絶え間なく、食堂街も夜遅くまで賑わったという。その後映画館は成人映画を上映する富山駅前シネマになったが、平成20年に閉館し、20軒ほどあった飲食店も今では10軒ほどまで減少している。当初は2飲食店の経営者も若かったため、お客の層も若かったが、いまではお客も年配の方や常連さんが多いという。

写真23 シネマ食堂街入り口       

写真24 シネマ食堂街の看板

写真25 シネマ食堂街の通り    

写真26 シネマ食堂街の店舗の一部

(2)「桝天」
シネマ食堂街に店を構える「桝天」の店主、桝谷外喜雄氏は昭和12年生まれの76歳である。外喜雄氏の両親は戦前、富山市中央卸売市場で魚屋をされており、戦後すぐに富山駅前で桝常食堂を始められた。桝常食堂では旅館もされており、着物を着た三味線を弾く「仲居さん」がいつも7、8人はいたという。外喜雄氏は4人兄弟の4男として育ち、母親の熱い思いで長男が桝常食堂の後を継ぎ、外喜雄氏は桝常食堂の天ぷら部として昭和40年に独立され、シネマ食堂街に店を構えた。外喜雄氏は山好き、歌好きで立山に登る登山家など県外の方からも親しまれている。外喜雄氏の子どもが所属していたボーイスカウトのお世話を奥さんがするようになり、「山はきれいだよ」と誘われ、一緒にもみじを見に立山の麓にある弥陀ヶ原を登ったことがきっかけで、山の美しさに感動し、山を好きになったという。外喜雄氏は「奥さんに私という人間が創られたと思っている」と語っている。ボーイスカウトの方や立山を登られる登山家の方など、桝天には県外のお客さんも多い。富山県山岳団体に入り、白馬岳に登った際に山の歌を歌うグループと出会ったことで歌を好きになり、歌うようになったという。外喜雄氏は店を訪れるお客さんにも歌を披露し、お客さんに愛され、シネマ食堂街の顔となっている。

写真27 桝天              

写真28 山歌を歌う桝谷外喜雄氏

4.かつぎ屋

「かつぎ屋さん」という行商人が戦後現われ、約20数年前まで存在していた。市場へ朝早くから行って仕入れをし、射水市、岩瀬、水橋などの海に近い地域の方が山岳部の方へ海産物などを売りにいかれていた。男性の方も少しはおられたが、お年寄り(50〜60代)の女性(漁師の奥さんなど)が多く、彼女たちは自分の持ち場をもって働いていたという。当時、家は開けっ放しで畑仕事などに行き、家主が留守の時は戸棚や冷蔵庫に入れて帰られていたそうだ。人と人のつながりが強く、信頼関係が築きあげられていたことがうかがえる。

5.「朝日奈昆布舗」・「小島屋」・「エビタニ」

(1)「朝日奈昆布舗」

朝日奈昆布舗はCiCの地下1階にある昆布屋である。戦後白倉市場の時代からあり、昆布のみを扱うお店だった。しかし、今のご主人が働き始めた頃(20歳前)昆布だけではだめだと考え、昆布以外の食べ物も売るようになった。食べ物が揃っているため、立山に登る人が行き帰りに食料を調達していっていた。(魚、干物、野菜、缶詰、漬物、カップラーメンなど)交通機関の発達やショッピングセンター、スーパーマーケットが出来たことにより、再び昆布のみを扱うお店として今でも営業している。朝日奈智恵子氏は「須田ビルの時代は本当に活気があり、本当に景気が良かった。常連さんも多く、年末やお正月は人でごった返して賑わっていた。」と語っていた。

写真29 朝日奈昆布舗(CiC地下1階)

(2)「小島屋」

小島屋は「海産物・海産珍味の小島商店」として、戦後間もなくから店を構え、板の上に干物を置いて売るところから始まったという。かつぎ屋の中には小島屋で仕入れて売りにいかれる方も多かった。掛尾市場という市場にいつも仕入れに行き、年末は本当に忙しく夜も眠れないほどだったという。駅前商店街からは婦人会が出来、小島さち子氏は役員もされ、年に1回は毎年旅行に行くなど、地域の結びつきが強かったそうだ。現在は富山市内に本店、CiCの地下1階にCiC店を運営している。現在もお客さんの中には当時を懐かしむ方々も多く、また、県外で生活をされている方、富山に滞在されていた方々など、富山湾の海の幸が忘れられないと、いまなお小島屋を愛されている方が多くいらっしゃるそうだ。

写真30 小島屋本店          

写真31 小島屋本店店内

写真32 小島屋本店の方々(右:小島さち子氏) 

写真33 小島屋CiC

(3)「エビタニ」

エビタニはCiCの地下1階にある海産珍味のお店である。エビタニの奥さんの蛯谷道子氏はエビタニに勤める以前は事務職をされていたが、結婚後エビタニに勤められた。家と店は離れたところにあったため、年末の忙しい時期は百貨街の屋根裏で寝泊まりして、子どもを預けて働き、営業時間の決まりはなかったため朝6時前から夜22ごろまで営業することもあったという。当時は今では考えられないが、冬は練炭を使いストーブ代わりにして温めることもあったそうだ。「須田ビルでは日常のものがすべてそろった。ショッピングセンターがそのままあったようなものだった。」と語っている。

写真34 エビタニ (CiC地下1階)

結び

本調査は富山市の駅前CICビル周辺をフィールドとし実地調査を行う事によって、戦後から始まる闇市と食堂街の変化について明らかにした。
駅前の闇市は白倉周市氏の登場により白倉市場となり、国道41号線の開通と都市計画により須田ビル、駅前百貨街が出来、再開発により富山ステーションフロントCiCと移り変わっていった。
また、「かつぎ屋さん」という行商人が戦後現れ、約20数年前まで存在していた。
駅前には富劇食堂街とシネマ食堂街という、食堂街が一体となったシネマ食堂街が出来、戦後の富山を賑わせた。しかし、カラーテレビや家庭用ビデオデッキの普及により、映画館へ足を運ぶ人は減少し、映画館は閉鎖された。
富劇食堂街は2015年に解体されることが決定しており、経明尚絵氏は2015年4月まで営業し、その後は店をたたむつもりだそうだ。ビルの解体後の土地利用については明確な方針は固まっていないようだ。シネマ食堂街についても解体が決定している。

【謝辞】

本論文の執筆にあたり、多くの方々に調査へのご協力をいただきました。お忙しい中、戦後の闇市から須田ビルについて、また戦後の富山について惜しみなくお話して下さり、貴重な資料も見せて下さった日本料理松屋の河口清隆氏、青山総本舗の青山茂敏氏、株式会社クロワッサンの本多正人氏、有限会社ふじもとの藤本清氏、有限会社新富不動産の児玉憲治氏、シネマ食堂街、富劇食堂街について貴重なお話をして下さった富山映画興業株式会社の有澤宏之氏、ライフヒストリーや素敵な歌と料理を出して下さった割烹桝天の桝谷外喜雄氏、突然の訪問であったにも関わらず、あたたかく迎えて下さり、ライフヒストリーを話して下さった初音の経明尚絵氏、戦後の暮らしやかつぎ屋について教えて下さった朝比奈昆布舗の朝比奈智恵子氏、小島やの小島さちこ氏、渡辺久子氏、エビタニの蛯谷道子氏以上の皆様の協力なしには、本論文を完成することはできませんでした。皆様との出会いに感謝し、お力添えいただいたすべて方々に、この場を借りて心よりお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
勝山敏一,1996,『美しい富山』桂書房
「小島屋」
http://www.kojima-ya.co.jp/