関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

職人としての鉄道員−富山地方鉄道の事例−

職人としての鉄道員富山地方鉄道の事例−

社会学部 弘津遊



目次

第1章 兼業農家鉄道員

第1節 鉄道員を目指す農家の人々
 
(1) 鉄道員の勤務体系

(2) 国鉄に勤めなかった理由

第2節 農家へのムコ入り

(1) 富山の農家事情

(2) 「地鉄のムコは貰い得!?」−鉄道員の結婚事情−

第3節 減りゆく農家と兼業運転士−赤川大氏のライフヒストリーを事例として−

(1) 変わりゆく農業形態

(2) 赤川大氏のライフヒストリー

第2章 磨かれた技術の伝統

第1節 地鉄を支えた技術職「鉄道員

(1) 運転士の技 「電車は動かすものではなく停めるもの」

(2) 技術は運転のみにあらず−車掌業務−

(3) 雪との闘い

第2節 業務にかかせない「道具」

第3節 変わりゆく技術−温井幸夫氏のライフヒストリーを事例として−

謝辞

結び

参考文献



富山地方鉄道富山県内に総延長100.5kmの路線を保有する、北陸地方を代表する私鉄である。1943年に富山電気鉄道を母体として設立され、現在まで富山の人々の生活を支えてきた鉄道だ。「地鉄」の愛称で富山の人々に親しまれている。

図1 車両基地のある稲荷町駅で撮影 

富山地方鉄道を語る上で不可欠な存在が創業者である佐伯宗義だ。立山のふもとにある芦峅寺の神官の家系に佐伯は生まれた。

 全国の私鉄の中で「地方鉄道」と名乗ったのは宗義の富山地方鉄道ただ一社であった。「地方は中央に隷属せず」「本然の地方は中央と対等」「中央と等しく主体性を持つのが地方」というのが宗義の口癖で――中略――「地方鉄道」の社名はその佐伯哲学の自負と自覚を込めた標名であった。
(『地方交通と山岳交通の開削に偉業 佐伯宗義』 廣瀬誠 2007年)

図2 佐伯宗義




































図3 佐伯宗義 注1

富山地方鉄道は上に述べたような佐伯宗義の哲学と戦前、戦後の富山の発展という文脈の中で創り出されたのである。今回、富山ではその「地鉄」日々の営業、つまり運転に携わってきた「鉄道員」たちに焦点をあて調査を行った。その中で判明してきたことは、鉄道業務と農業を同時にこなす「兼業運転士」の存在であった。
本論はその「兼業運転士」をトピックとして「鉄道員」という職業について展開する。



第1章 兼業農家鉄道員

第1節 鉄道員を目指す農家の人々

 戦後、全国的に食糧難と「農地改革」の影響で自作農が増えた中、戦前から米の単作が主体であった富山県では兼業農家の比率が大幅に上昇した。しかし、兼業農家といっても単純にサラリーマンのような日勤を続けながら行うことは容易ではない。そのような中で農家の人々の目にとまった職業が鉄道員だった。

 (1)鉄道員の勤務体系

 鉄道員の勤務体系は交代制であり、例えば「1日目の夕方に出勤してその日は宿直所に泊まり、翌日(2日目)の昼前に退勤。次は翌々日(3日目)の朝に出勤しその日の夕方に退勤。そして4日目はまた夕方から出勤。」といったような勤務体系である。この日勤と泊まり勤務を交代で行っていく。つまり、日中に農作業を行う時間帯が確保しやすかったのである。このうち休日は一週間に二日与えられる。


図4 上市駅交番表(この交番表は駅員交番表 1=日勤、2=泊まり勤務である)

図5 上市駅交番表 (こちらが運転士のもの 駅員よりずっと複雑なシフト)
 
なお、このシフトを作成していくのは「運行管理」という業務である。
特に田植え、稲刈りの時期となると数多くの鉄道員が休みを取りたがるために調整が大変であったようだ。たいていの場合は先輩の鉄道員が優先して希望休日を提出することになっていたが、運悪く休日が雨天になってしまい、後から提出した後輩の方が得をするということもあったようだ。


 (2)国鉄に勤めなかった理由

 富山で鉄道員をするならば、国鉄(現JR)に勤める道もあった。しかし、国鉄は北陸全体で一管轄であり、就職するとな]ると金沢がその窓口となっていた。そしてそこから配属先を決められたため、富山で働くことができるとは限らなかった。また国鉄鉄道員は一度乗務すると北陸全体を移動し続けることになり、交代制による休みがあっても田んぼのある自宅に帰ることはできなかった。ほとんどの鉄道員国鉄アパートといった寮生活を送っていた。そこで、兼業を行いたい農家の人々は富山県内で働くことができる「地鉄」を選んだのである。中には国鉄に一旦入ったものの国鉄を辞めて地鉄に来た鉄道員もいたようだ。


第2節 農家への婿入り

 当初は農家が兼業のために鉄道員を目指すという形だけしか見えなかった。しかし、それだけでなく新たに農業に手をつける鉄道員がいたこともわかった。その理由は生活事情と関わるものであった。

(1) 富山の農家事情

 農家にとって田んぼは代々継がれる何よりの財産である。それに同じ集落でみなが同じように田んぼで米を作ることは農家からすれば当然のことで、周りと同じことをしないというのは一種の集落的感覚から許されにくいことでもあった。

さらに戦後はどうしても食糧供給が安定しない。その点田んぼを持っていれば米だけでもまだ安定して手に入れることができる。もっとも農家だけで生活を維持するにはあまりに心もとないためほとんどの農家が兼業でできる職を求めていた。その中で先ほど説明したように条件の合う「地鉄」はまさに適職だった。

しかし、誰もが田んぼを継ぐわけではない。戦前から続くイエ制度においては、当然のように長男が継ぎ、対して男手のいない家は跡取りが必要となってくる。




 (2)「地鉄のムコは貰い得!?」−鉄道員の結婚事情−

 地鉄鉄道員でもう一つ多数を占めていたのが農家出身の女性たちであった。彼女らは特に車掌職に就くことが多かったようだ。今は地鉄では「ワンマン化」が進み、一つの運行列車に運転士のみという形がほとんどである。現在はそもそも車掌が乗務するのは特急電車ぐらいだ。彼女らもまた、勤務と休日には農作業とを繰り返していたようだが、実は結婚相手を職場で見つけるということもどうやら目的になっていたようだ。(どちらかといえば彼女らというよりは彼女らの家の親たちにとってであるが)

調査を始める前は鉄道員の結婚は、勤務の拘束時間の関係から難しいものだと考えていた。実際、現役で運行管理を務めている方からお話を聞いたときは会う時間が少なくなかなか難しいとおっしゃっていた。しかし、それより上の世代の方にお話を聞くと少しもそんなことはなかったようだ。

地鉄のムコは貰い得」−川口立美氏(73)の語りから−

元運転士の川口立美氏は「安月給であろうと結婚相手に困ることはなかった」と語る。
「特に地鉄鉄道員は農家の親から人気のある職業だった。」
鉄道員という仕事柄、真面目で規則正しく、時間に正確な地鉄の男は農家から催促を受けることが多かった。」
「当時は『地鉄のムコは貰い得』なんという言葉があったぐらい。」

当然、婿入りした場合は今度は農作業を覚えていくことになるわけであるが、戦後はまだまだ食料不足の時代であり、むしろ米が作れるようになることで食べ物に困ることが少なくなるため、声を大きくして不満を漏らす人は少なかったようだ。

同じく元運転士である温井幸夫氏は「兼業することの苦労よりも、まず生活のことを考える。それが当たり前だという精神があった。」と語る。

「家を手に入れる」−温井幸夫氏(73)の語りから−

温井氏からこんな話を聞くこともできた。
「職場内をいいことに会員制披露宴などをおこなっていた。1人あたり3000円程度で参加できるものであり、時には2組の披露宴をまとめておこなうこともあった。」
「昔は披露宴にお金をかけるよりは安く済ますことのできる方法が流行っていた。」
「結婚式自体にまでお金をかけるようになったのは最近のこと。」
「富山は持ち家率が高いというが、実際そんなに土地をすぐに手放す人はおらず、家が簡単に手に入るわけでもない。その点、婿入りであっても確実に家を持つことができる方法の一つではあった。」

このように農家側が求める「跡継ぎ」に対して、鉄道員側が得られる「土地」「米」という条件は決して悪いものではなかった。実際、婿入り後も農業をする前提で勤務する農家の二男三男も地鉄には多かったという。


第3節 減りゆく農家と兼業運転士

 兼業農家の運転士の数は戦後が最高で、以降は減少し続け、現在は数えるほどしか存在しない。そもそも農業就業者の数も減っている。しかし、ただそれだけが理由となっているわけではないようだ。

 (1)変わりゆく農業形態

 戦後、当たり前のように「田んぼは代々継いでいくもの」と思われ、米作りは「家族」で行うものとされていた。しかし、昭和末期頃からそのような「常識」はだんだんと消えていった。それが「兼業」というスタンスにも打撃を与えた。

まず、田舎の農村部の過疎化が始まる。若い人々はどんどんと街に出て行った。すると村の設備も人が足りず回らなくなっていく。結果、「同じ税金なのに不便な田舎に住むなんて」という声が上がり、ますます人が減っていく。当然、農家を営みたいと思う人も減り、空田が増えていく。以前なら使わない田んぼがあることは恥と感じていた人々も、引き取り手がいないためやむなく田んぼを放置するに至った。

次に農業の機械化が進行した。確かにそれは農業の重労働を軽減した。しかしながら、それまでの一家ごとの小さな田んぼでは大きな機械を動かすことは簡単ではなかった。加えてそんな小規模の農家の人々が購入するには値段が高い。

以上のような状況によって、農村部では「営農組合」を設立し農業の集約化が行われた。簡潔に述べると、組合に入った全農家で全ての田んぼを管理する。そのために全ての田んぼをつなげて面積の広い一つの田んぼにする。そして組合で購入した機械をそこで動かす。といった具合だ。ただし、労働量が減った結果、人々は農業を辞めるか専業農家になるに分かれていった。

(2) 地鉄のワンマン化

富山郊外における過疎化の影響で地鉄の利用者もだんだんと減少していった。人員も削減されていき駅員の数は減っていった。さらに平成に入ると富山地方鉄道では鉄道線のワンマン化が進む。この結果、鉄道に乗務するのは運転士だけとなり地鉄では車掌の数が激減する。また、一人あたりの仕事量も増え、残業も多くなったという。こうして、鉄道員は減り、兼業するだけの余裕も少なくなった。これまで述べてきたような農家の人々が勤めやすい環境はすっかりと形を変えてしまった。

(3) 赤川大氏のライフヒストリー

富山地方鉄道総務課の赤川大氏(42)は父親が鉄道でこそないが、地鉄のバス運転士であり、また家は農家であった。入善町出身である赤川氏は現在は農業を行っていない。赤川氏の父親は亡くなられたが、営農組合に入っていたため以前の農業を行っていた土地は組合で使われている。赤川氏は自分が最も過度期の人間ではないかと語る。

物心ついた時から家の農作業を手伝っており、周りの人はほとんどが兼業農家であったという。鉄道、バスの運転士などの職業以外にも交代制で働ける工場に勤める人もいた。

赤川氏自身はその後東京の大学に進学する。ちょうど平成に入り、営農組合が富山で広まりだした頃のこと。ただし、就職は地元の富山ですると決めていた。父親は過度期の農業を鑑みて、赤川氏が農家を継ぐ必要はないと感じていたようだ。なおかつ赤川氏の父親自身、実は農業をやりたいと思っていなかったらしい。しかし、集落の人間は誰もが農業をしている。田んぼの貸し借りをしてでも米作りをすることが当たり前である集落的感覚がある上で、近所づきあいをするとなると農業をせざるをえなかったとのこと。

このことに関して赤川氏は浄土真宗の寺区分(檀家区分)で作られた集落ごとの共同意識が凄く強く、「周りががんばっているのだから自分も頑張る」というのが富山人の気質にあるのではないかと感じていたと語る。

富山に帰ってきてから父親と同じ地鉄に入社するも、農業を継がなかったため事務職に勤める。赤川氏も地鉄兼業農家をされていた方がいるのは知っている。しかし、赤川氏が地鉄に入社するころにはもう兼業農家を目指す鉄道員は見られなくなったという。もし、営農組合が設立されなかったら、自分も家の土地については判断を迫られていただろうと語った。

図7 富山地方鉄道上滝線 大庄駅近くで撮影

富山市内だが、市街地を少し外れるとこのような周り一面が水田といった景色が現れる。
特に市内西部、常願寺川を挟んだ地鉄沿線には数多くの兼業運転士が暮らしていた。
奥の方に見える木立の向こうに常願寺川が流れている。

図8 富山地方鉄道上滝線 月岡駅で撮影

今は使われていない反対側ホームにある駅名看板の名残。
誰が始めたのかホームの上に土が盛られ、花と野菜をつくる小さな畑になっている。
上滝線ではこのように沿線一面が田んぼといった風景が続く。

図9 富山地方鉄道本線 上市駅駅舎内

現在は駅員1人で回しているが、かつての上市駅は駅員だけでも8人程が常在していた。奥のガラスでしきられた部屋(現在は旅行代理店の一室)とさらに向こうの部屋も駅舎に含まれていた。
図の右端の灰色の機械と白盤はCTC(第二章で説明)という機械でこれを担当するだけでも1人の駅員がついていた。他にも駅改札業務、到着発車アナウンス、切符販売など多数の仕事をそれぞれの駅員で担当していた。
右側の通路からは鉄道員の利用する宿舎に通じており、最盛期は上市駅に勤務、休憩など含めて多くの鉄道員でにぎわっていた。



第2章 磨かれた技術の伝統

第1節 地鉄を支えた技術職「鉄道員

調査で様々な方からかつての鉄道員としての仕事を聞かせていただいたが、現職を離れて数十年たっても、その仕事の中身は彼らの口から鮮明に語りだされる。

(1) 運転士の技 
 
 「二段掛けの三段排気」
 
鉄道を運転する上で難しいことは止めることであると温井氏は語る。停車駅が近づくとまずはブレーキを掛ける。そして、そのブレーキを「排気」によって緩める注2ことで快適な停車が可能となるのである。基本的には3回の排気でホームの停車位置に列車が停まるように運転しなければならない。二段掛け三段排気なら。

・駅のホームが近くなってきて、まず減速のために弱いブレーキを掛ける(一段掛け)
・次に停車のための強いブレーキを掛ける(二段掛け)
・そしてブレーキを段階的に緩めていく(排気)
 この時、一回目の緩めなら一段排気、二回目なら二段排気となる。

最初から強いブレーキが掛かると車内には大きな衝撃が生まれるため、ブレーキは弱いものから強いものにする。また、二段目の強いブレーキがかかり続けると今度は停車時に強い衝撃が生まれてしまう。そこで停車する瞬間にブレーキが弱まった状態を作るために「排気」を行う。これらを左手側の「ノッチ」(車で言うアクセルに相当)と右手側の「ブレーキ」をあわせて巧みにこなしていく。

なお、温井氏によれば効率から考えた理想は「一段掛け三段排気」であるとのことだ。単純に言えば、最初のブレーキを掛けた時の衝撃が生まれる前に排気を行ってしまうだけのことだが、これは速度、線路状態、乗車率など全てを考慮した上で、感覚にも頼る必要があり、相当な技術であるようだ。


(2) 技術は運転のみにあらず−車掌業務−

 地鉄鉄道線がワンマン化されるまでは数多く働いていた車掌業務では、運転とは別の技術を要した。特に放送関連を扱うものが多かった。アナウンスは駅員も駅で行うが、アナウンスの際は標準語を使うように注意しなければならない。また、乗客と実際に喋り、案内するのは車掌であるため、客のことをとにかく気にかけて乗務するのだという。ベテランとなってくると客と二言三言喋るだけで、どこからきてどこへ行くのかが分かるようになったという。アナウンスとは別に列車無線で運行状況の確認を行うことも車掌の仕事であった。

駅ではドアを開け閉めし、冬季はドアが雪で詰まらないように随時確認する。また、無人駅では乗車する客に売札を行い、下車する客から集札する。この行程をスムーズに行い、また安全を確保するためにも客を正確に把握し、管理する必要があった。

(3) 雪との闘い

日本海側に面する富山の雪の性質は「湿っていて重い」と言われる。「重くて湿った」雪は線路や車体に付着しやすく交通機関の大敵である。雪害対策は当然のことだが、数々の鉄道員の支えあってのものである。

地鉄では運行状況を確保するために11月下旬〜12月上旬の内に鉄道、軌道、バスなどで一斉に設備交換を行う。また鉄道、軌道ともに一年を通して竹ぼうきとスコップが常設されている。目の粗い竹ぼうきは付着しやすい雪を掻き出すのに最適であるためだ。冬季になると駅員の仕事は駅と線路の除雪から始まる。転轍機の雪を取り除き、分岐レールの周りを散水して溶かすという仕事がある。

また除雪用のディーゼル車が存在する。ディーゼル車の免許は鉄道、軌道とは別種のため、運転士ではなく主に保線作業の人が運転することになるが、国鉄から転職した運転士の中にはディーゼル免許を持っていて運転することもできたという。

その他、地鉄では設計や車両改造の段階で乗務員用ドアを全て引き戸にしておくなどという細かい工夫も存在する。

 「三八豪雪

昭和38年に日本全国を襲った「三八豪雪」で富山県も甚大な被害を受ける。しかし、国鉄が3日〜7日、東京上野−富山間では16日も全面運休となる中、地鉄は部分運転でこそあるが、1日も全面運休とならないなど、雪害対策の能力の高さを示していた。鉄道員たちと、緊急で雇われた除雪作業員たちが日夜を通して除雪をおこなったようだ。除雪用ディーゼル車だけでは間に合わなくなり、運転士たちが通常車両に除雪ブレードをとりつけ走らせることすらあったようだ。

元運転士の温井氏は当時、軌道の運転士であったが、市内中心部の市街でも1メートルを越す積雪があり、脱線して商店街のアーケードに突っ込んでしまいそうになったこともあったようだ。トラックで線路上に引っ張ってもらい、やっとのことで立て直したという。




































図10 三八豪雪の被害をあらわす資料(富山市立図書館で複写)

図11 市内軌道で運転と並行しながらの除雪作業

図12 上市駅ホームから撮影

右側の黄色い車両が除雪用ディーゼル
分岐レールにはスプリンクラーがあり現在はそれで散水を行う


第2節 業務にかかせない「道具」




































図13 第一節で述べた竹ぼうきとスコップ

 「CTC(列車集中制御装置)」

各駅に連動装置を設置し、中央制御所でコントロールすることで各駅のレール分岐器、信号等を操作することができる。地鉄では稲荷町駅に中央制御所がある。また駅においてある連動装置を操作することも可能で、普段は「自動扱い」になっているが、非常時には鍵が「現場扱い」に回され、駅員が中央制御とは独立して操作を行う。
地鉄の利用者が多かった頃は常時「現場扱い」でCTC担当駅員が操作していた。
電車が駅に近づくと音が鳴るが、上り電車と下り電車が来る時で音の高さに違いがあり、駅員が電車の確認をするための方法の一つになっている。
線路上の列車運行管理に不可欠で、除雪作業時にディーゼル車が動く際にも使用される。

図14 上市駅のCTC

右側の水色の部分は駅のホームを表す。上市駅では全列車のスイッチバックを管理。
線路が細かく区分され、各分岐や信号に対応する番号が振り分けられている。
右上の方に鍵穴があり、そこに鍵を差し込み「自動」「現場」扱いを変更する。

図15 電鉄黒部駅のCTC

図16 CTC拡大(電車が走っている区間が点灯し、進行方向が示される)

図17 転轍機の鍵

図15の右下側の白い路線が、ちょうど612~614の転轍機が設置されている場所

「代用閉塞の道具」

「閉塞」とはある一定の路線区間には進行方向ごとに一台の電車しか運行させないようにすることで安全を確保させる方法である。この一定区間ごとで一つの「閉塞区間」とする。現在は日本全国ほとんどの路線で信号制御を機械で行い、閉塞を成立させている。

ところが、機械の不良や何らかの原因で通常運行が不可能になった場合は、人手を使う「閉塞」を実施することになる。これを「代用閉塞」と言う。
かつて、地鉄の場合は雪が原因で行われることが多かった。現在は除雪設備も進展しているため、「代用閉塞」がおこなわれることは滅多にないと思われる。

代用閉塞に派遣されるのは主に「駅員」。また、代用閉塞に従事する際は「指導者」と呼ばれる。




































図18 指導者用の道具が入っている箱の鍵 いわゆる金属板型




































図19 以下に示す様々な備品がこの箱に入っている 南京錠も別途でつけられている




































図20 腕章は比較的新しいもの




































図21 線路閉鎖の際に使う看板






















図22 手旗(信号機の代わりに使うこともある そのため紅白ではなく赤と緑)




































図23 手持ちの合図灯(夜間や悪天時に使用)

タブレット

各停車駅に個別のタブレット(通票)が設置してあり、代用閉塞の際には

① 出発駅のタブレットを取り出し、発車する
② 次の停車駅に到着した際に出発駅のタブレットを停車駅に引き渡す
③ 今度はその停車駅のタブレットを取り出し、次の駅に向けて出発する

これで一つの閉塞区間で、閉塞が完了する。
タブレットを持った電車しか区間を走ることはできないため閉塞が成立する。
お話を聞かせていただいた鉄道員の方々は「代用閉塞」の時に使用していたが、信号制御が自動化するまでは、全国的にもこの方法が一つの閉塞方法として使われていた。

もっとも、「代用閉塞」が行われる場合は運行環境が良くない時だが、線路閉鎖になってしまった場合はその区間を前述の「指導者」が自力でタブレット運搬することになる。これが非常に難儀だったという。




































図24 電鉄黒部駅タブレット

中に見える木製の板がタブレット本体で、この本体の形が駅ごとで異なっている

図25 その他標識看板(石田駅は隣の駅、電鉄黒部駅は1989年以前は桜井駅であった)

 「地鉄の貨物列車」

かつては地鉄にも貨物列車があり、黒部の西瓜や不二越で作られた機械類を集積し、出荷
していた。貨物は国鉄地鉄間で引き継ぎ、引き渡しもあったようだ。
特別に貨物専用運転士がいたわけではないが、配属されると一か月ほど専属で貨物列車を運転していたとのこと。

また小荷物の運送などもしており、その際は貨物列車の二両目だけを座席を取り外した客車にして、運行していた。

図26 地鉄の貨物列車 1973年撮影の資料より







































































図27・28 未使用のまま残っていた荷物整理券




































図29 残念ながら名称がわからなかった 

上部は一日分の列車の発着時刻が書いてある整理券が束ねてある。
発着を終えた時刻分の整理券は左から右に回していく
下部はアナウンス用の機械で左側にマイクがかけられている。

 「改鋏器」

改札鋏のことで地鉄では改鋏器(カイキョウキ)と呼ばれていた。
一見何の変哲もない改札鋏だが、フィルムケースがついている。これは元駅員の千石宣昭氏が独自に編み出したもので、切符に鋏を入れる度に落ちる紙屑がこぼれないようにするため。千石氏は立山ケーブルにも勤めていたが、元々は立山ケーブルで金属製の似たような機械が改札鋏に取り付けられていたのを見て考案した。この発明が地鉄全体に広まり、賞与を与えられたと千石氏は語ってくれた。

図30 改鋏器(現在、地鉄でこのタイプのものは使われていない)

図31 切符を切るとこのような穴が開く この穴の形も駅ごとで異なる

図32 現在はこのようなハンコ型のものを使用している。

 第3節 変わりゆく技術

第一章で兼業鉄道員の生活が変遷していったことを述べたが、時がたてば当たり前のように技術そのものが変わっていく。鉄道の車両が変わるだけで必要な技術は変化する。もっとも単純に便利になるというわけではないようだ。

富山地方鉄道の元運転士である温井幸夫氏(73)は富山市東富山の出身、中学卒業後地鉄に就職し、市内軌道の車掌をした後、運転見習いを経てから、教習所で免許を取って運転士になった。その後は軌道を12~3年、鉄道を含めると約30年間運転を続け、53歳の時に運転席を降り、駅員、そして駅助役注3を務めた後に退職される。現在はOBの再雇用という形で、地鉄の各駅で駅員を務めている。

今でこそ鉄道員は電車が好きな人間が多く就職したがるが、かつてはそのような理由は少なく、「地鉄に入ればなんとか飯が食っていける」そういうもので、皆が就職するものであった。温井氏が就職した当時は農家出身の人間は多かったし、何より中卒でも雇ってくれたというのも大きいと言う。温井氏は農家出身というわけでもないがあまり勉強は好きではなく親からは「薬売りにでもなるか」と言われていた。

地鉄は自社車両以外にも様々な他社車両を導入したり、軌道と鉄道両方を運転、さらには国鉄名古屋鉄道の乗り入れ注4もあり、運転する車両は非常に多岐にわたっていた。温井氏は名鉄を運転するために後からディーゼル免許を取得したという。
新型車両が導入される時には必ずベテラン運転士が試運転をおこなっていた。

鉄道軌道に限らず、新人はいわゆる「先生」と呼ばれるベテラン運転士について回り、体で運転を覚えさせられることになる。新人は大体が速度計を見て運転しようとするが、ベテラン運転士は「場所」と「力加減」で運転をするため、それを三ヶ月程叩きこまれる。結果として新人は教えてもらった先生と同じ「格好」になっていき、技術継承されていく。

温井氏のお話を聞いた時に、ちょうど交代時間で同席されていた元運転士の川口氏はようやく運転できるようになっても「さらに車両のクセを見抜き、人数の違いで運転が変わることを覚えなくてはならない」と語っていた。一つとして同じ車両はなく、列車が走行する音を聞くとどの系統の車両かがわかったという。

また、乗車人数が明らかに違っていたようだ。現在は基本1両で運行する市内軌道線だが、かつてはラッシュ時に3両編成で運行することもあったようだ。また現在の車両とも形が違い、かつての3530系などは夏場になると運転席は炎天下のアスファルトから来る熱風を直撃するようなもので停車するたびに汗が止まらなかったそうだ。

なお、温井氏が運転士であったのはちょうどワンマン化の直前ぐらいまでだったが、今では運転の仕方もかなり変化しているようだ。例えば、ハンドルが1ハンドル式(一つのハンドルで加速もブレーキも可能)になっているため片手でも運転ができる。旅客線は乗り入れがなくなり運転車両の種類は減った。両手で懸命に運転していた頃から比べるとずいぶんと楽になっているかのように見える。

しかし、ワンマン運転は発車するたびに次駅アナウンスボタン、そして駅が近づいたら到着アナウンスボタンを押して停車させ、駅では運転席から降りてお客さんが乗車下車するのを見届けてから発車しなくてはならない。これを一時間半繰り返して運転するのはたまったものではないだろうと温井氏は語る

また、いくら仕事が効率化しても、そもそも鉄道員の数が減っていて業務は相対的に増えている。地鉄の存在は大きいが、今や富山は1人あたり一台以上車を持って当然ともいえるぐらい車社会になってきていて、鉄道がどこまで動いていられるのかはわからない。2014年には富山に北陸新幹線が開通し、地鉄とは富山駅新黒部駅で連絡できるが、鉄道にとってこの先の展望は決して楽観視できないと語られた。


図33 電鉄富山駅 現在も車両の種類は豊富

1番線は元東急、2番線が地鉄車両、3番線、4番線はともに元京阪の車両

結び

本調査では鉄道員の生活を富山県富山地方鉄道を事例として調査することで以下の事柄が判明した。

富山地方鉄道では、かつて鉄道員と農家を兼業して働く人々が数多くいた。戦後、そのような鉄道員の数は最も多く、以降は現在に至るまで減少し続けている。

鉄道員と農業が結びつく要因には

① 戦後の食糧事情と不安定な生活
鉄道員という特殊な労働時間と富山県内で働く場所を確保できた地鉄の存在
③ 家業としての農業と土地の継承に対する意識

この3点が大きく、そこに結婚などが関わっていた。

・農業、鉄道どちらも少しづつそのあり方が変わっていったが、結果として兼業運転士の数は減っていった。

富山地方鉄道の運行を支える技術、これも変化を続けている。ただし、技術が発展したからと言って一概に業務が楽になるとは限らない。

謝辞

本調査にあたって様々な方からのご支援をいただきました。
富山地方鉄道総務課赤川大氏、南富山駅駅員大沢稔氏、上市駅駅員温井幸夫氏、川口立美氏、嶋作順子氏、電鉄黒部駅駅員千石宣昭氏、宇奈月温泉駅駅員廣島幸雄氏、JROB会金沢支部渡辺義信支部長、富山大学教授中井精一先生、島村恭則先生など多くの方にご協力いただきました。お忙しい中、学生一人の為にお時間を作っていただき本当にありがとうございました。おかげでとても貴重な体験をすることができました。
ここでお礼を申し上げます。

1:佐伯宗義…本論を外れるのでここに記載。地鉄の会長でありながらこのように駅に繰り出しては現場社員と交流する一面を持っていた。鉄道員の中には彼を「親方様」と呼ぶ人もいた。

2:「排気」によって緩める…一般には「○段制動○緩め」という言い方をする。二段掛け三段排気なら二段制動三段緩めとなる。「排気」は蒸気機関車時代の名残。

3:駅助役…駅長の補佐役職で言わば副駅長。

4:乗り入れ…線路を他社系統鉄道が運行すること

参考文献

富山地方鉄道株式会社(1979)『写真でつづる富山地方鉄道50年の歩み』富山地方鉄道
富山地方鉄道株式会社(1983)『富山地方鉄道五十年史』富山地方鉄道
富山地方鉄道株式会社(2000)『富山地方鉄道七十年史:この20年のあゆみ』富山地方鉄道
廣瀬誠『越中人譚』(2007)より『地方交通と山岳交通の開削に偉業 佐伯宗義』チューリップテレビ
佐伯宗義記念誌刊行委員会(1983)『佐伯宗義』佐伯宗義記念誌刊行委員会
富山地方鉄道公式HP  http://www.chitetsu.co.jp/
思いで鉄道探検団 ある日の富山地鉄 http://omotetsu.art.coocan.jp/toyamacitetu1.htm