関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

活性化する地蔵信仰 −石倉町延命地蔵尊の事例―

活性化する地蔵信仰 −石倉町延命地蔵尊の事例―
社会学部 23011543 若原亜優
【目次】
序章
第1章 石倉町延命地蔵尊とは
第1節 由来
   第2節 外観
   第3節 地蔵祭り
   第4節 ご詠歌
   第5節 御守りと銀杏
   第6節 石倉町延命地蔵尊奉賛会
第2章 石倉町延命地蔵尊奉賛会会長 梶川之男氏
   第1節 ライフヒストリー
   第2節 梶川氏のパフォーマンス
   第3節 地蔵とのかかわり
第3章 「門前町」の形成
   第1節 高倉酒店
   第2節 たこ焼き屋
   第3節 奉賛会の人々
結び

序章
  富山県富山市常願寺川神通川という2つの大きな川に挟まれている。この2つの川を結ぶように街の中心を流れているのが、いたち川である。いたち川の名前の由来には諸説あり、常願寺川堤防にいたちが開けた穴が大きくなって川ができたためとも言われているが、農業用水を引くための「役(えだち)」(公の使役)によってできたため、えだち川からいたち川と呼ばれるようになったというのが通説である。これらの川は水害が多く、いたち川沿いには供養のための地蔵が多く立ち並んでいる。中でも特に有名なのが、石倉町の延命地蔵尊である。この地蔵のご利益は、健康祈願、学業成就、商売繁盛、交通安全、開運祈願、厄除けなど様々である。さらに、この地蔵尊では湧き水が湧いており、水を汲みにくる人々で毎日にぎわっている。他の周辺地蔵尊ではこのような賑わいは見られない。      本論では、なぜこの地蔵尊がこのような賑わいを見せているのかを調査した結果に基づいて述べる。

写真1 いたち川と地蔵の案内板

第1章 石倉町延命地蔵尊とは
第1節 由来
 石倉町延命地蔵尊には、150年以上前から語り継がれているいわれがある。昔、晒屋甚九郎という信心深く世話好きな青年が、いたち川の清流で布を洗うことを家業にして暮らしていた。しかし、安政5年2月に起こった大地震によって山が崩れ、その麓の常願寺川の流れが土砂によってふさがり大きな貯水池ができた。数日後、そこに溜まった濁流は溢れ、いたち川まで流れ、川沿いは泥沼となった。洪水によって悪い病気が流行し、多くの人々が死んでいくなど悲惨な状況の中で、甚九郎は哀れな人々を親身になって昼夜問わず看病し続けた。ある日、彼の枕元に地蔵菩薩が現れて「立山の麓から流されこの川底に沈みおる故拾い上げて供養せよ」と告げた。彼は直ぐいたち川に向かった。すると川底から光明がさしていたのでその場所をかきわけると尊像が現れ、我が家に安置し朝夕供養したところ、病に苦しむ人々が快方に向かったのである。町の人々はこの尊像のご加護に感謝し、地蔵堂を建てた。

写真2 晒屋甚九郎の物語

写真3 石倉町延命地蔵尊の由来

第2節 外観
 地蔵は御堂の中にある。現在の地蔵堂は、昭和30年に再建されたものである。もとの地蔵堂は昭和20年の富山大空襲で焼け落ちたが、地蔵は難を逃れ無事であった。御堂の横側には、再建に携わった人々の名前と共に、初代奉安者として晒屋甚九郎の名も刻まれている。

写真4 石倉町の地蔵堂

写真5 御堂に刻まれる甚九郎の名前

写真6 御堂内部

 この御堂は欅づくりで、井波彫刻の達人である南部白雲によって欄間に彫刻が施されている。ここに刻まれているのは、ベッドに腰掛けた女性が幼子を見ながら老婆にお乳を飲ませている様子である。これは、『唐の二十四考物語』がモデルとなっている。年老いて歯のない姑の老婆を心配した嫁の唐夫人が、毎朝身の回りの世話をしてお乳を与えていると、それに感謝した老婆は死ぬ前に一族の人たちを集め、「夫人から受けた御恩は代々子孫に伝え、手本にするように」と言い残したという。この地では、古くから母乳が出ないという悩みを地蔵が聞いてくれるという言い伝えがあり、この物語が慈悲深いお地蔵さんの御心に添った建物の象徴にふさわしいと考えられ、御堂再建にあたってこの彫刻が刻まれたのである。

写真7 御堂に刻まれる物語

 御堂の他にここには、いちょうの木や水汲み場がある。いちょうの木は、御堂再建の際に持ち寄られた苗木が成長し、現在も秋の訪れを知らせている。そして、ここでは水が湧き出ており、万病に効くとされている。平成の名水百選にも選定されている(いたち川の水辺と清水)。水は龍のモニュメントの口から勢いよく湧き出ている。この水はそのご利益だけでなくごはんがふっくら炊きあがる、活けていた花が長く持ったなど生活の中でも使われている。そのためここは毎日近所から全国各地まで、様々な所から水を汲みに来る人々で絶え間なくにぎわっている。

写真8 湧水の出る龍のモニュメント

第3節 地蔵祭り
 毎年7月23・24日にいたち川沿いでは地蔵祭りが行われる。石倉町延命地蔵尊も、大変な盛り上がりを見せる。地蔵尊付近にはテントが張られ、様々な飾り付けがなされ普段とは違った景色となる。このときテントの天井からは人形がたくさん吊るし飾られるのだが、これは供養のために手作りし持ち寄られたもので、それもつ意味合いはまるで地蔵のようである。
 石倉町延命地蔵尊では、23日に御堂再建を祝ってつくられた石倉町地蔵音頭が披露されたり、町内有志によってご詠歌が詠われたりする。地蔵音頭は、昭和30年以降に音楽教師で石倉町に兄がいた平野昌三氏の作詞作曲、東町の花柳香寿野氏による振付で作られた。24日にはご詠歌、地蔵くじ抽選会、そしていたち川の灯篭流しが行われる。いたち川の灯篭流しは、16年前にいたち川沿いの興国寺住職の呼びかけによって、川沿いの8つの町が始めた。この興国寺住職による読経も行われる。

写真9、10 地蔵祭りの様子

第4節 ご詠歌
 御堂では、いつもご詠歌が流れている。このご詠歌は、高野山金剛流のものである。流れているご詠歌は、20年以上前に石倉町の人々がみんなでテープに録音したもので、現在はCDで流している。
第5節 御守りと銀杏
 この地蔵尊の前にある酒店では、御守りと銀杏を販売している。御守りは、ずっと昔からあったもので、以前は地元の仏具店で作られていた。現在は日枝神社仲介の長崎県の会社で作られている。銀杏は、地蔵尊のいちょうの木からとれるものである。レンジで温めてはじけると、厄もはじけとぶと言われている。年配者だけでなく若い人にも人気で、これを持っていた受験生が合格したなど口コミによって広まった。秋から個数限定で販売されるが、予約したり複数購入したりする人もいる。御守りも銀杏も、地蔵に奉納され、ご利益を受けている。これらの売上は、地蔵尊の維持費に含まれる。

写真11 販売される御守りと銀杏

第6節 石倉町延命地蔵尊奉賛会
 地蔵尊には奉賛会という管理をする会がある。理由は不明だが昔から13人と決まっており、現在も13人で活動している。最近では増やしてもよいのではないか、という声も上がっているようだ。
 入会する理由は人によって様々で、親が入っていたので引き継いだ、会員に誘われた、自ら希望したなどが挙げられた。調査のひと月前(10月中ごろ)に事務所が移転し、現在は石倉町内にある『たかよし麺類食堂』が事務所となっている。事務所の主な役割は、地蔵尊への寄付金を受け取り帳簿につけることである。祭りの2か月前からは役割を分担して、準備を始める。昔は御守りも販売していたが、現在はおこなっていない。
 石倉町延命地蔵尊奉賛会の現会長は、石倉町に住む梶川之男氏である。石倉町延命地蔵尊が現在のように盛り上がりを見せている背景には、梶川氏が大きな役割を果たしている。次からは、梶川氏と彼の働きについて述べる。

第2章 石倉町延命地蔵尊奉賛会会長 梶川之男氏
第1節 ライフヒストリー
 梶川氏は、昭和8年富山市生まれである。幼いころから石倉町で育ち、地蔵やいたち川の自然は大変身近なものであった。父は新愛知新聞(現・中日新聞)の記者だが、先代は石倉町で晒屋をしていたそうだ。もしかすると、梶川氏は晒屋甚九郎の子孫かもしれない。
 現在の自宅の場所にずっと住んでおり、20歳頃からお菓子の製造、卸問屋として30年間ほど働き、焼き菓子や生菓子などに井戸水を使って作っていたそうだ。店を閉めた後は、その少し前に建て替えた自宅で喫茶店『石小路』を始めた。この名前は「石倉町の小さな路地」にあることに由来する。当時は喫茶店ブームでインベーダーゲームなどをしに来る人も多く、たくさんの客で店はにぎわっていた。その客の中に、切り絵の講師をしているという人がいた。この人物との出会いが、梶川氏が切り絵を始めるきっかけとなった。その人が切り絵教室を開き、梶川氏や他の人も切り絵を習っていたそうだ。しかし、みな辞めていき最後残ったのは梶川氏だけだったという。約10年間喫茶店を開いた後は、切り絵作家として活動した。年1回東京で出展するために切り絵の作品づくりをおこなった。寺や橋など身の回りの風景をシリーズとして作品にしていた。切り絵について梶川氏は「白黒のインパクトに魅せられ、各地に出品し入選することでのめりこんでいきました」と語った。
 ある日、いたち川沿いを孫娘と一緒に散歩していたときだった。川沿いに並ぶ地蔵たちに心惹かれていた彼に、「切り絵にしてみたら?」とヒントを与えたのは孫娘だった。この一言をきっかけに夢中で作品を完成させたがそれだけで終わらせたくないと思っていたところ、周りの人たちから勧められ10年ほど前に『いたち川地蔵尊めぐり』というマップを発行することとなった。その頃から奉賛会の活動を始め、彼は現在奉賛会会長を務めて3年目となる(2013年11月時点)。

写真12 梶川夫妻。
第2節 梶川氏のパフォーマンス
 まず、ここでの「パフォーマンス」の意味について述べたい。近年アメリ民俗学において「パフォーマンス」という名のもとにコミュニケーションを中心とした分析について追及された結果、民俗学におけるパフォーマンスの意味は3つあると考えられた。第一に特定の場における民俗使用の総称としてのパフォーマンス、第二にコミュニケーションの方法としてのパフォーマンス、第三に文化的パフォーマンスあるいは体現することをその枠組みとするアプローチとしてのパフォーマンスである。これから述べることは、これらに当てはまるため学術的な意味で「パフォーマンス」という言葉を用いる。
 梶川氏は、いたち川地蔵尊めぐりマップを始め、石倉町延命地蔵尊の由来や地蔵そのものについての解説、延命水についてなど、切り絵を用いて多種多様なパンフレットを作っている。石倉町延命地蔵尊だけでなくいたち川沿いの地蔵たち、川にかかる橋や川沿いの町の由来についても詳しく解説している。また、小学生も見に来るためより分かりやすく伝えようと、晒屋甚九郎の物語の紙芝居も作った。もちろん切り絵で作ったのである。パンフレットは地蔵尊の御堂の中に置かれている。パンフレットができる以前は現在ほど延命水の存在を知らせるものもなく口コミで訪れる人が多かったようだが、パンフレットを求めて足をとめる人も増え、次第に訪れる人も増えていった。これをきっかけにして、地元テレビ局や新聞社から取材の依頼が来るようになった。現在も月に何度か取材を受け、私の調査中にも取材依頼が舞い込んでいた。

写真13 数々のパンフレットと出演した番組の録画DVD

写真14 切り絵で描かれた地蔵

写真15 梶川氏手作りの紙芝居
 そして、多くの取材を受ける中で梶川氏はいつの間にか新たな物語の創造も行っていた。例えば、「富山市出身でノーベル賞受賞者田中耕一氏も石倉町延命地蔵尊の水を飲んだ」ということにまつわる学業成就のご利益は、梶川氏が取材のときに「ここの水を飲んだのかもしれませんね」と語ったことから広まったのだという。また、石倉町の湧水の口が龍で対岸の泉町は鯉であることの意味について聞かれたときには「石倉町は無病息災、泉町は“こい”だから恋愛に効果があるのだ」と話したそうだが、実際には、龍は水神様だからそうで鯉については不明だという。 また、先述の銀杏を御守りとして販売することを提案したのも梶川氏である。10年ほど前、当時奉賛会副会長だった梶川氏は、地蔵尊のシンボルであるいちょうの木から落ちる銀杏を何かにできないかと考え、ひらめいたのだった。そして前会長の賛成を得て、地蔵尊前の高倉酒店に委託して販売することになったのだ。
第3節 地蔵とのかかわり
 梶川氏は、幼いころはいたち川で遊んでおりその自然が好きで、環境保全活動もおこなっている。以前いちょうの木を切ると言い出した人がいたときも猛反発をした。環境のことはもちろん、いちょうは地蔵尊のシンボルだからだ。奉賛会には父も入っており、特にこれという理由は無いが地蔵が好きだから活動をしているのだそうだ。毎朝5時半に地蔵尊の掃除に行くことが日課である。明け方に挨拶を交わすことが一日の始まりだ。地蔵尊の管理については、子どもの火遊びや柄杓の盗難など不安が多かったため、防犯カメラを設置し管理を強化した。
 パンフレットや紙芝居について、元々は有名にしようとしたつもりはなく、分かりやすいと思ってひらめいたことを実行したのだという。「切り絵がなかったら、パンフレットを作る気にもならなかったかもしれません。」と語った。また、地蔵祭りのときに販売される地蔵くじは、以前は数字を書いた紙を貼った鳥の人形を販売していたが、より実用的なものをという梶川氏のアイデアで石鹸に変更された。彼の様々なアイデアによって、地蔵尊はより良く改善されていったのであった。
 最近では地蔵に関する相談も受けるようになった。また、お参りした後に失くしていたものがでてきたり、地蔵の近くで事故に巻き込まれた人の怪我が少なくて済んだり、地蔵にまつわる不思議な出来事もあるそうだ。

第3章 「門前町」の形成
 「門前町」とは通常寺院の周辺に、参拝客を相手として商売をする人々によって形成される町のことを言う。石倉町延命地蔵尊周辺においても、商店街のようなアーチがあったり店を構えたり、地蔵尊を中心とする「門前町」の形成がうかがえる。
写真16 石倉町のアーチ。くぐると様々な店が並んでいる。

第1節 高倉酒店 高倉悦子氏
 高倉酒店は、地蔵尊の道路を挟んだ斜め前に位置している。話を聞いたのは現在店主の高倉悦子氏である。店は亡くなったご主人の実家で、ご主人が3代目なので高倉氏は実質4代目になる。店は昭和8年に滑川からでてきたそうだが、それはご主人も生まれる前のことだという。
 富山市内出身で、地蔵尊のことは嫁ぐときに子宝や母乳についてのご利益があることを母から聞いて知ったそうだ。昔は地蔵祭りにも参加し、子どもが音頭を踊る前で提灯を持っていた。心配事など何かあったら地蔵尊に足を運び、頼んでいたそうだ。以前は地蔵のところに座って水を汲みに来る人々に「お賽銭入れとかれー(入れなさいよー)」と声をかけるおばあさんがいたそうだが、その人も102歳で亡くなってしまいお賽銭を入れなさいと言う人もいなくなったためか、水を汲む人も増えた気がするとも語っていた。
 店内には、お酒やおつまみ類はもちろん置いてあるのだが、この店ならではの商品があった。まず、店の外からも見えるように置かれていたのは地蔵尊の御守りと銀杏である。これらは奉賛会から委託をうけて販売している。銀杏は、奉賛会の人々と共に秋になると拾って手洗いし乾燥させて地蔵に奉納してから販売している。この銀杏は一袋8つ入りだが、これは高倉氏が末広がりだから8つにしたそうだ。この銀杏は「受験に合格した」などの口コミによって広まり、老若男女問わず毎年500袋以上売れるのだという。銀杏の収穫数によって販売数も変わるため、予約する人もいるのだそうだ。「お地蔵様の目線の先にあって見守られていて、そして名水で育ったいちょうの木の銀杏にはご利益があるのです」と高倉氏は語る。また、これらの近くには大きな2ℓの空ペットボトルが置いてある。これは、延命水を汲むためのもので、1本300円で販売している。水を汲みに来る人々はほとんどが使用済みペットボトルを何本も持ってきて水を入れており、衛生面への配慮と何本も運ぶことを考え、この店では空の大きなペットボトルを販売しているのだ。

写真17 ペットボトル

写真18 店の外から見えるところに地蔵関連商品が置いてある
 そしてもう一つ高倉酒店ならではの商品がある。それは、延命水を使った日本酒である。1998年から富美菊酒造が毎年2月に汲む寒の水で日本酒を作っているのだ。これを考案したのは当時の富美菊酒造の専務(社長の長男)だったそうだが、亡くなってしまったという。彼はこれに熱心に取り組んでいたそうだ。

写真19 延命水で作られた日本酒

第2節 たこ焼き屋 吉田隆盛氏
 地蔵尊の目の前にはたこ焼きの屋台がある。店主の吉田氏は昭和23年生まれの65歳で、富山市の田舎出身だそうだ。11時から21時まで店を開けており、作り置きはせず、注文を受けてお客さんが水を汲んでいる間に作るそうだ。中にマヨネーズの入ったふっくらとしたたこ焼きである。
 彼は35年間タイル業をしていた。5年間修業したのち、独立をして富山を拠点に働いていたが、金沢からも依頼があったそうだ。元々いとこが露店商でたこ焼きを焼いており、時々手伝っていた。タイル業退職後はたこ焼き屋をしようと考え、50歳からいとこの下でたこ焼き屋の修業をし、60歳でタイル業を引退した。そして1年かけて店を開く場所探しをした。富山市内4か所をまわって、車の交通量はもちろん車から降りてくる人数なども調べ、石倉町延命地蔵尊前に店を開くことにした。ここは元々荷物置きの倉庫で、持ち主は石倉町の住人で場所代もその人に支払っているのだそうだ。吉田氏以前にもこの倉庫を使ってコロッケ屋をしたいと言っていた人もいたそうだ。こうして吉田氏が店を開いて4年半になる。たこ焼きの調理には、延命水を使用している。
 4年半の間、目の前にいる地蔵尊について話を聞いた。水を汲みに来る人々は時間帯にもよるが、やはり特に土日が多いようだ。決まった時間に来る人もいるそうだ。また、店を始めた当初と比べると、水を汲みに来る人は確実に増えていると言う。延命水は月に2回はメディアで見るとも話していた。
 やはり梶川氏の作成したパンフレット、そしてそれによるメディアへの出演が大きく影響していることが分かる。

写真20 地蔵尊の前に位置するたこ焼き屋

第3節 奉賛会の人々
 梶川氏以外の奉賛会会員の人々にも話を聞くことができた。
 まず、「たかよし麺類食堂」店主の笠間滋氏である。それまで奉賛会事務所を構えていた人が入院したため、代わって現在奉賛会事務所を構えている。彼は63歳と奉賛会の中でも比較的若年であり、父が亡くなってから奉賛会を引き継いだ。
 次に笠間氏からの紹介で、奉賛会副会長を務める太田行雄氏の話を聞くことができた。なんとなく60歳のときから活動はしていたそうだが、入会して3年になるそうだ。
 そして、「ヘアーサロンてらしま」にて寺嶌正一氏の話を伺った。奉賛会の活動は30歳くらいからしていたそうで、現在77歳である。地蔵尊で流すご詠歌の録音に参加したと話していた。石倉町の男性はご詠歌、女性はおどりを習うのだそうだ。
 たかよし麺類食堂でもヘアーサロンてらしまでも、延命水が使用されたりパンフレットが置かれたりしていた。そして、地蔵について尋ねると皆口を揃えて「梶川さんに聞いたら全部わかるよ」と話すのであった。

写真21 たかよし麺類食堂。現在奉賛会の事務所も務めている。

結び
対岸の泉町二丁目延命地蔵尊では、同じく湧水がある。地元の人に言わせれば、水はどちらも同じであり、強いて言うなら泉町のほうが美味しいという意見もある。泉町二丁目延命地蔵尊のほうが立地も良く駐車スペースも十分にある。しかし石倉町延命地蔵尊のように、たくさん取材が訪れるわけでもなく、門前町が広がっているわけでもなく、その水が商品化されているわけでもない。梶川氏のパフォーマンスによって、石倉町延命地蔵尊は今まで以上に、そして他の地蔵尊とは全く違う盛り上がりを見せている。梶川氏のパフォーマンスは、紙芝居を用いた彼の語りとしての対面的かつ地域コミュニティにおける社会的かつメディアに媒介されたものというコミュニケーションの場において大きな影響を与えおり、民俗学における「パフォーマンス」の考え方にあてはまっている。梶川氏はただ伝統を継承するだけでなく、新たに創造しつつ伝承するクリエイターであり体現するパフォーマーであり、彼によって石倉町延命地蔵尊は類を見ない盛り上がりを見せていたことがわかった。そして地蔵信仰の活性化に並行して、「門前町」の形成がなされていることもうかがえた。

【謝辞】
本論文を執筆するにあたって、多くの方々にご協力いただきました。調査中、毎日お話を聞かせてくださり、貴重な資料もたくさん提供してくださった梶川之男さん、梶川英子さん。石倉町延命地蔵尊のこと、延命水のことだけでなく、お店のことそして自然についてもたくさん教えていただきました。
 御守りや日本酒が商品になるまでの貴重なお話を聞かせてくださった高倉酒店の高倉悦子さん。地蔵尊の日々の様子を教えてくださり、おいしいたこ焼きもくださったたこ焼き屋の吉田隆盛さん。突然の訪問にもかかわらず快く迎えてくださり、地蔵にまつわる話や奉賛会について聞かせてくださった、笠間滋さん、太田行雄さん、寺嶌正一さん。石倉町のみなさんは、毎日調査に訪れる私に「お疲れ様」「頑張ってくださいね」とあたたかく声をかけてくださいました。
 私の拙い調査に関わってくださった皆様のご協力なしでは、本論文は完成に至りませんでした。この場を借りて心より御礼を申し上げます。お忙しい中、本当にありがとうございました。

参考文献
島原義三郎・中川達編,2004,『鼬川の記憶』桂書房