立山に生きる村 ―宗教集落芦峅寺のくらし―
1143 諸井 秀弥
【目次】
はじめに
1. 立山信仰と芦峅寺
(1) 立山信仰とは
(2) 立山信仰の歴史とその特徴
(3) 宗教集落芦峅寺
2. 立山信仰を支える男たち
(1) 宿坊家
(2) 門前百姓
(3) 山に生きる男たち
(4) 宿坊再生の試み
3. ウラ方としての女たち
(1) 構造的差別
(2) 年中行事
(3) 準備を通した女たちの交流
4. 女たちによる創造
(1) 佐伯照代氏
(2) 芦峅ふるさと交流館での活動
(3) お釈迦の団子
まとめ
謝辞
はじめに
今回の調査は立山信仰をテーマに富山県中新川郡立山町芦峅寺をフィールドとして行った。古くから地獄と極楽浄土の存在する霊峰として信仰されてきた立山連峰の麓に位置する芦峅寺は、最盛期には立山登拝の拠点として多くの宿坊が立ち並んだ宗教集落である。芦峅寺には信仰の拠点としての役目を終え、一度は途絶えた立山信仰を様々な方法で発信し、現在にも残る伝統を通して新たな創造をする人々がいる。その人々へのインタビューをもとに過去から現在までの芦峅寺のくらしを記していく。
1.立山信仰と芦峅寺
まずコンテキストとなる立山信仰と芦峅寺について簡単に述べていく。
(1)立山信仰とは
立山信仰は修験道を中心とする神仏混淆の山岳信仰である。立山は地獄と極楽浄土のある山上他界に見立てられ、修験者は山に入って擬似的に死者となり、苦行をすることで自らの罪や穢れを清めることで新たに生まれ変わりを遂げ極楽往生できるというものである。また、女人禁制の山であった立山では女人救済の儀式として布橋灌頂会があり、穢れのため地獄に堕ちるとされていた女性たちが橋に敷かれた細い布の上を目隠しで渡ることで極楽往生が叶うという儀式であった。江戸時代には芦峅寺の33坊5社人の衆徒らにより全国への布教活動も行われた。
そして立山信仰におけるトピックとしてオンバサマが挙げられる。江戸時代には芦峅寺の集落と姥谷川を隔てた山側(いわゆるあの世とされていた)の姥堂で祀られていたが廃仏毀釈で打ち壊されたために現在は芦峅寺の閻魔堂に祀られている。66体あったオンバサマ像のうち閻魔堂に5体、立山博物館に8体しか残っていない。オンバサマ像は一見すると恐ろしげな老婆の像であるが、人びとの衣食を司る万物創造の母なる神や人びとの生死を司る冥府神として伝えられている。
(2)立山信仰の歴史とその特徴
立山の開山は古く、701年といわれている。立山曼荼羅の開山縁起によると、越中国司の佐伯有若の息子有頼が父有若の白鷹を勝手に持ち出し鷹狩りに出かけるが、有頼は誤って白鷹を逃してしまう。有頼は白鷹を追いかけ山中に入っていき、ようやく白鷹を捕らえようかというところで一頭の熊に襲われまたも白鷹を逃がしてしまう。有頼が反撃に矢を射ると熊の左胸に命中し、白鷹と同じ方向へ熊は逃げて行った。立山の山頂近くまで追いかけると熊も白鷹も崖に空いた岩穴へ入っていき、とうとう追い詰めたと岩穴へ踏み込むと、そこに熊と白鷹の姿はなく矢の突き刺さった阿弥陀如来と不動明王が立っていた。仰天し平伏した有頼に対し、阿弥陀如来は「立山を開いて国中の人々が登拝できるようにせよ」と話し、心を打たれた有頼は山を下り出家し慈光上人となって立山を整備した、というものである。慈光上人は現在も開山様として祀られている。
立山の特徴に立山地獄と極楽浄土がある。山中に地獄や極楽浄土があるのは立山だけに限らないが、立山の山中には地獄谷という有毒の火山ガスが噴出する場所があり、その荒涼とした光景から立山には実際に地獄が存在するとして奈良・平安時代から広く知られていた。そして生前罪を犯せば立山地獄に堕ちるのだと言われていたが、鎌倉時代になると浄土宗や浄土真宗という鎌倉新仏教による浄土思想が高まりを見せ、地獄からの救済として極楽浄土が同じ山中にあるはずだという考えが生まれると、地獄と極楽を併せ持つ霊山として信仰が高まっていった。
江戸時代には芦峅寺の33坊5社人の衆徒たちは、冬の農閑期になると全国に広がる檀那場へ赴き諸国檀那場廻りという布教活動を行った。檀那場とは立山信仰の信者がある程度集中して存在する得意先のことで、行き先は各宿坊によって担当が異なり、青森から鹿児島に至るまで全国へ展開していた。衆徒たちは各村々の庄屋宅を間借りし、そこで立山曼荼羅を使用した絵解きをすることで立山信仰を布教した。立山曼荼羅には立山信仰に関わる要素が絵巻物風に描かれている。立山曼荼羅は信仰絵図であり、立山ツアーの宣伝ポスターでもあった。絵解きの内容は先に述べた立山開山縁起や、立山地獄と極楽浄土、女人救済の布橋灌頂会などで、檀那場で信者らが結成した講の立山登拝や布橋灌頂会への参詣を勧誘するものであった。つまり檀那場廻りは立山ツアーのPR活動であると言える。
【写真2.立山曼荼羅 教算坊展示】
布橋灌頂会とは江戸時代、女人禁制の立山で女性は山中で苦行をして自らの罪や穢れを清め新たに生まれ変わり極楽往生することができなかったため、女人救済として行われるようになった儀式である。布橋の下にはこの世とあの世の境界となる姥谷川が流れており、橋を渡ることで一度死者となり生前の罪を精算できると考えられた。白装束に身を包んだ女人たちは閻魔堂で行われる法要で前世を懺悔した後、白い布が敷かれた橋を目隠しで渡り、最後はあの世である姥堂に籠り暗闇の中で各々の宗派に応じたお経や念仏を唱え続け意識朦朧とした頃に立山が見えるように扉が開けられ、目の前に広がる神々しい山々を拝む。最後に血盆経の血脈が配られ、血脈を持っていると女性の血の穢れがあっても極楽往生が叶うとされた。
江戸時代に最盛期を迎えた立山参拝であったが、明治に入り神仏分離令が出ると、廃仏毀釈運動により立山信仰の仏教的要素が否定、弾圧されたことで壊滅的な打撃を受け、一気に衰退をした。またオンバサマの一部や姥堂など、仏教的要素を含むとみなされたものは破壊、村外へ持ち出し、売却された。廃仏毀釈の後、33坊あった宿坊は15坊へと半減し、太平洋戦争が始まるまで布教活動をしていたのは、日光坊、大仙坊、善道坊、泉蔵坊の4坊だけであった。しかし太平洋戦争によって布教活動が困難になり、宿坊は途絶えている。
(3)宗教集落芦峅寺
ここで立山信仰と密接な結びつきを持つ芦峅寺について触れておきたい。芦峅寺は富山市街から約30km南東の北アルプス立山連峰の山麓、常願寺川右岸段丘上に位置する。立山に入山する際の最後の村落であり、古くから信仰登山の拠点として開かれていた。立山へ伸びる立山路に面して宿坊が並び、村の入口付近や裏道に門前百姓という一般農家が建っていた。江戸時代には諸国檀那場廻りなどの活動により立山の参詣者は6000人にものぼったと記されている。明治に入り廃仏毀釈によって宗教集落としての役割は縮小するが、大正末期〜昭和の初め頃には高さ3000mに届こうかという立山の山々に挑む近代登山のガイドの村としての性質が強くなった。戦後観光化が進み、1971年に立山黒部アルペンルートが開通すると登山者が芦峅寺に留まることは少なくなったが、現在も山小屋経営や山岳ガイドなどを生業とする芦峅寺出身者は多い。
2.立山信仰を支える男たち
(1)宿坊家
宿坊とは基本的には衆徒の住居であるが、宗教施設でもあり、夏の立山登拝の時
期には登山者の宿泊施設にもなった。
坊家のモノは結婚してはならないという建て前があったため衆徒、小僧ら男性が
接待した。(実際は女性もいたが客人の前には出てはならなかった)
衆徒は檀那場廻りをしたところからやって来る道者衆に対して御膳を出し酒を注
ぐなどの接待をした。しかし檀那場以外のところから来た参連衆には接待はなくセ
ルフサービスであった。
そして立山登拝から下山してきた道者衆を飯とおかずを詰めた重箱を持った宿坊
の者が藤橋まで出迎える近迎えというものを行っていた。日光坊の次男であった佐
伯泰正氏は小学校高学年の頃には実際に近迎えをしており、食事が終わったあとに
もらえる五十銭銀貨が何よりも楽しみだったという。
(2)門前百姓
芦峅寺の住人の大部分は佐伯、志鷹姓で占められており、宿坊を営んでいたのは開山伝説の佐伯有頼の子孫とされる佐伯氏であった。
坊家の佐伯氏に対して農業や炭焼、木挽などを生業とする佐伯氏、先住民といわれる志鷹氏は門前百姓といわれ、彼らは宿坊の雑用を勤めたり、衆徒の檀那場廻りにも同行し、夏期には中語として信者に山を案内した。
坊家の次男や三男は本家から分家して門前百姓となり農業の傍ら本家の専属中語として本家を支えた。
(3)山に生きる男たち
・中語
仲語ともいう。立山登拝の際の山の案内人であるが、単なるガイドというわけでなく中語の言葉通り神と人の仲介となり神の言葉や仏教の教えなどを登拝者に伝えるというものであった。先に述べた通り本家から分家した佐伯家の者が勤めた。大正末期ごろになると近代登山のガイドも増え、芦峅寺は山のガイドの村へと姿を変えていった。
・立山ガイド
大正末期から昭和初期にかけて慶大、早大、京大、北大といった学生登山が盛んになっていった。彼らのガイドとして芦峅寺の案内人も活躍し、佐伯平蔵、佐伯宗作、佐伯文蔵といった名ガイドを輩出した。戦後には佐伯富男を代表とした5人のガイドが南極観測隊に同行している。
・山の神の祭
3月9日には山の神の祭りが執り行われる。山に関わる仕事をする者たちが集まり、その年の山仕事の安全を祈る。かつて各家庭の収入は男性の山仕事によるものであったため男性中心の祭事となっている。
・男たちに合わせた行事
男性が山仕事に行くため冠婚葬祭などの行事は、男性が村にいる時間・時期に行っていた。佐伯照代氏によると、法事は夜に行うことが多く、結婚式なども山に入れない冬の時期に行なわれることが多いという。
(4)宿坊再生の試み
・佐伯史麿氏の宿坊・修験道復活記
この節では芦峅寺の雄山神社の神職で立山信仰の復興を試みている佐伯史麿氏(以後史麿氏と表記)に伺った話をもとに、彼がどのように過去と繋がり現在に表現しているのかをライフヒストリーに沿いながら述べていく。
昭和43年芦峅寺の旧坊家大仙坊の次男として生まれた史麿氏は、同志社大学を卒業後一度は放送局に5年間勤めるも、そこでの仕事は幼い頃からの「自分は生きている間に何をすべきか」という問いとは異なると感じ退職を決意した。
放送局を退職後、何か民宿のようなものができないかと考え調理師学校に行こうとするが両親の反対にあい國學院大學神道学専攻科に入学した。そこで修験や密教など自分の知る神社の世界とは違う世界に興味を持つと、叔父や大学のクラスメイトの紹介で古峯神社や戸隠に宿泊し、その経験から宿坊を開きたいと考えるようになった。
しかし大仙坊を名乗るわけにも行かず、現代の中でどのような要素があれば宿坊と名乗れるかを考え、熊野や出羽三山、吉野などの宿坊巡りを行っていた。そして実際に出羽や大峰山などで修行を始めると、立山の素晴らしさを再発見し、同じように立山も修験道の山に戻せないかと考えるようになった。衰退してしまった立山信仰の立て直しに力を尽くすことこそが自らの「すべきこと」だと感じるようになった。
それまで身近過ぎて知るよしもなかった立山信仰の研究にのめり込むようになり、史麿氏の祖父幸長氏の著書が重要であることを知る。「祖父のことは生前毛嫌いしていた」と文麿氏は語っているが、その理由は明治の神仏分離以降の祖父幸長氏と父令麿氏の間の信仰観の亀裂があったためである。祖父は神仏混淆的な修験に戻したかったが、父は神社的な思想を持っており仏教を受け入れなかったため仲が悪く、また兄が祖父派である一方史麿氏は父派であったことから祖父との関係は良くなかった。立山を研究することで改めて祖父のすごさを知ったという。
【写真4.史麿氏の祖父幸長氏の著書】
平成10年に芦峅寺に戻り、雄山神社に奉仕しながら立山での修行を開始する。そして平成13年には宿坊のあるじという立場を求め立山に60年ぶりとなる宿坊「静寂庵」を開業した。しかし史麿氏はどのように修験や宿坊など、一度は断絶した過去を繋いだのか。彼は信仰の断絶は仕方がないと割り切り、自分が調べた範囲の「佐伯史麿」という人間が行うものとしてやろうと考え、伝承そのままの表現だけでなく自然と人との一体化を図るという修験道の考えを基本に、オリジナルの立山信仰を創造していった。活動は多岐にわたり書籍の出版やウェブサイトなど様々な方法で立山信仰を発信した。当初は変わり者という扱いだったが、熊野が世界遺産に登録されると取材が増え、芳しくなかった周囲の反応も変わり、修行がしやすくなっていった。また静寂庵を訪れる客も増えていった。
しかし問題が発生する。それは修験を行うにあたっての山における知識・技術が乏しいということであった。身体的な要素の強い山の技術は伝承という形で残っておらず完全に断絶していた。登山の方法で修験道のルートを新たに作ろうとしたとき、山の征服を目的とする登山と自然との一体化を目的とする修験道との考え方が相容れず、挫折することとなった。
また、神道的な考えを持つ兄との宗教観の違いから当主である兄が神仏混淆的な考えを受け入れないならば、という思いから修験などは控えるようになった。そして兄が晩婚だったことから後継問題が起こり、兄の結婚までは波風を立たせないようにしようと、平成20年に静寂庵を閉めることを決めた。
現在も史麿氏は立山を題材にした小説を執筆し、電子書籍の形で出版するなど神職のかたわらで活動を続けている。
3.ウラ方としての女たち
(1)構造的差別
・女性の穢れ
芦峅寺は立山信仰の宗教的背景もあってか穢れという考えが強かった。「オトコサマ」「メロクソ」という言葉があるように何事も男性中心で女性は一歩下がるという男尊女卑的な風潮があったようだ。
・オモテには出てこない女たち
インタビュー中に「男はオモテ」「女はウラ方」といった言葉が何度か聞かれた。社会人類学者村武精一『家の中の女性原理』には家空間分類の共通的特性として例えばナンドは「暗・私・裏・隔離・女性」、表座敷は「明・公・表・統合・男性」というように述べられており、これらは芦峅寺の男女の考え方に沿うものだろう。
女性はウラという例として、日光坊では道者衆の来るときは女性の下駄は玄関から裏口へ回し、母や姉が食事の支度をしたが家の者でなく手伝いの者と呼ばれるなど道者衆の目にふれないようにしていた。また坊家では夫婦別の墓に入るなど、やはり男女が同等というわけではなかった。
・女性に課せられた仕事
男性は山に働きに行くが女性は家にいるという理由で火の用心の夜回りを女性が一晩中していた。女性が外に働きに出るようになると自然と無くなっていったという。またほとんどの年中行事の準備は女性たちの仕事である。
(2)年中行事
・村内での組分け
9組に分かれて当番制を敷いている。1年に一度の行事では9年毎に、1月に一度の法会などでは9ヶ月毎に当番が回る。現在は各組に正副2人の組頭がおり、家の主人が1月に一度ある村の会合に出席し、その奥さんが行事の準備などを仕切る。
・数珠繰り
芦峅寺ではズズクリと呼ばれている。毎年3月21日に閻魔堂で行われほとんどの参加者は女性である。参加者は円になって座り大きな数珠を念仏を唱えながら繰っていく。白い房の部分が回ってくると身体の具合の悪いところに押し当てると苦痛から解放されると信じられている。
【写真6.数珠繰りの様子】
・お召替え
この行事も女性だけのもので毎年3月13日に閻魔堂で行われる。木綿の布と裁縫道具が用意され参加者全員がひと針ずつ縫って回し、縫い終わった着物をお召替えする。佐伯照代氏はオンバサマが衣食を与えてくれることへの感謝や一年の祈願などひと針でも思いを込めて縫っていると語っている。
【写真7.お召替え 布の裁断】
【写真8.村の女性たちで着物を縫う様子】
・釈迦の団子撒き
3月15日には閻魔堂で涅槃の法要が行われる。女性たちが米を村中から集め紅・白・黄・緑の団子を作る。この団子は釈迦の骨に見立てた「お釈迦団子」と呼ばれるもので、これらを撒くと参拝者はこぞって拾うそうだ。
(3)準備を通した女たちの交流
先に述べたものだけでなく多くの行事があり、食事会などの機会も多い芦峅寺では行事や食事の準備などで女性同士の交流があった。
4.女たちによる創造
(1)佐伯照代氏
・ライフヒストリー
インタビュー時66歳、芦峅寺生まれで結婚前は山小屋で働いていた。芦峅寺で嫁いでからは村の保育所に勤め、さらに平成元年からは社会福祉協議会のシルバー人材センターで体の元気な年配の方に仕事を紹介する仕事を約10年勤めた。社会福祉協議会の仕事により役場とのパイプができ、芦峅寺のことをよく知っているということから婦人会(現在は女性の会)の会長に就いた。会長職は15〜16年目。平成24年9月からは芦峅ふるさと交流館で活動している。
(2)芦峅ふるさと交流館での活動
芦峅ふるさと交流館ではつぼ、やきつけ、かっつるなどの芦峅寺に伝わる郷土料理を出している。特につぼは宿坊でも出された特別な料理であった。佐伯照代氏は下の世代に伝えるためにオリジナルのレシピを作成している。
【写真11.芦峅ふるさと交流館で出されるつぼ】
【写真12.佐伯照代氏が作成した郷土料理のレシピ】
【写真13.芦峅ふるさと交流館内部】
(3)お釈迦の団子
・お釈迦の団子とは
先に述べたお釈迦団子はたくさん拾うとご利益が多くなる。他の地域では団子を食べることで釈迦の徳を体に入れるというところもあるが、芦峅寺ではそれに加えてお守りにして身につけている。山に入る際にマムシに噛まれないという由来から転じて交通安全のお守りとなり現在は車のキーに付けたりランドセルなどに付けている。一般的には毛糸で編んだ袋に入れる。
【写真14.団子のお守り】
・照代氏による創造
オンバサマのお召替が済みいらなくなった古い着物は、お焚き上げをしたり昔は茶袋にしたりしていた。しかし佐伯照代氏は婦人会の会長として行事の世話役をしていることから、以前からそのままお焚き上げするのはもったいないと感じており、数年前から団子のお守りの袋に使用している。二つの信仰を組み合わせたものでよりご利益があるという考えから病気の姉に贈りたいという人もいたそうである。
【写真16.閻魔堂横阿弥陀像にかかるオンバサマの着物で作ったお守り】
まとめ
今回の調査を通じて分かったことは一度廃れた立山信仰であったが今もなお信仰を発信している人々がいるということである。
そして男性が中心となって栄えた立山信仰であったが、それはウラにいる女性たちの力があってこそのものであった。
女性たちによって続けられているオンバサマの御召替え行事の伝統とお釈迦の団子でお守りを作る風習などのコンテキストから新たな創造が発見できた。
謝辞
今回充実した調査が出来たのは大変多くの方々のご厚意によるものと深く感謝しております。急なお願いにもかかわらず快く話者の方々を紹介してくださった立山博物館の加藤基樹先生、またご多忙の中貴重なお話をして下さった佐伯照代氏、佐伯泰正氏、佐伯史麿氏、そして上記以外に調査に関してご協力していただいた全ての方々、本当にありがとうございました。
参考文献
『立山信仰曼荼羅の里史跡を訪ねる』(2001) 発行 立山風土記の丘
『立山地区民俗資料緊急調査報告書』(1959) 編集 富山県教育委員会
『芦峅寺ものがたり 近代登山を支えた立山ガイドたち』(2001)山と渓谷社 鷹沢のり子
『日本民俗文化大系第十巻 家と女性=暮しの文化史=』(1985)小学館
『立山修験 発心門【巻二】』(2005)北日本新聞社 佐伯史麿