仏壇・造花・法衣−真宗信仰を支える商店の諸相−
1079 初谷ひとみ
【もくじ】
はじめに
第1章 仏具店
第1節 浄土真宗における仏壇
第2節 富山仏壇
第3節 市内の仏具店
第4節 木本仏具店
第5節 広田仏壇仏具店
第6節 山木仏具店
第2章 造花店
第1節 造花
第2節 千田造花店
第3章 千田法衣店
第1節 法衣
第2節 千田法衣店
結び
はじめに
鎌倉時代の僧・親鸞を宗祖とする浄土真宗は、宗派を合わせると日本で最も信者が多いとされている日本の仏教である。その中でも北陸地方は「真宗王国」と呼ばれ、その要因のひとつには室町時代の僧・蓮如による熱心な布教活動が挙げられるだろう。今日でも北陸の人々の生活の中には浄土真宗が深く根付いている。
今回調査を行った富山県富山市もその例外ではない。富山市の中央には「真宗大谷派 富山別院(東別院)」と「本願寺派 富山別院(西別院)」が並んでおり、市内の浄土真宗の中心地となっている。また、寺の数も多く、市内だけでも本願寺派と真宗大谷派を合わせて300以上の寺が点在している。
今回はその富山市を調査フィールドとして、市内の浄土真宗について商店の視点から調査を行っていった。
写真1.真宗大谷派 富山別院(東別院)
写真2.本願寺派 富山別院(西別院)
第1章 仏具店
調査に当たり、まず仏具店の方々からお話を伺った。仏壇は各家に設けられた、仏教と深くかかわりのある存在である。それぞれの宗旨、あるいは地域によってとらえ方などが多様なため、富山市という土地の浄土真宗を知る上で大きな手掛かりとなるだろう。
第1節 浄土真宗における仏壇
仏具店の話に入る前に、浄土真宗における仏壇の考え方について少しだけ触れておきたい。
木本仏具店の木本隆久氏によると、仏壇とは「極楽浄土」そのものであるという。順を追って説明すると、極楽浄土を目に見える形で現したのが本山であり、それを少しだけ小さくしたものが寺の本堂、そしてそれをさらに小さくしたものが仏壇である。つまり、仏壇の中には阿弥陀経に書かれた「極楽浄土」が表現されているのだ。浄土真宗信者の家々には、それぞれ極楽浄土が存在しているということである。
仏壇という限られた空間の中にどう極楽浄土をつくるのか。阿弥陀経をその時代に合わせて解釈することが仏具店の仕事であると隆久氏は語る。
また、山木仏具店の山木信二氏は、仏壇を「寺と人を繋ぐもの」であるという。仏壇があることで寺は各家にお参りに行くことができる。逆に言えば、仏壇がなければ寺は檀家にお参りすることがなくなってしまうのだ。仏壇は、寺と人との関係を保つ役割も担っているのである。
浄土真宗にとって、仏壇とは先祖供養の他にも重要な意味を持つ存在なのである。
第2節 富山仏壇
富山県は全国的にも有名な仏壇の産地である。富山仏壇なる独特な型の仏壇は、大きく高岡仏壇と魚津仏壇の二種類に分けられる。高岡仏壇は富山市に隣接する高岡市で製造されている仏壇で、高岡市の名産である高岡銅器によってつくられた仏具なども存在している。魚津仏壇は富山県東岸部に位置する魚津市で製造されている仏壇で、こちらは魚津漆器が有名な土地である。魚津市は新川地方が漆の産地であること、他県から木地師が流入してきたことなどが要因となって次第に漆器の名産地となっていった。
富山型の仏壇について、その最たる特徴は眩しいほどの金箔であると広田仏壇仏具店の廣田勉氏は語る。不浄を除くと言われる金箔は細部にまで施され、縦横に1.5メートルを超える富山仏壇ならではの巨大さも相まって、非常に壮大という印象を受ける。また、本願寺富山別院が発行している月刊誌『ともしび』において、木本隆久氏によって示された富山型仏壇の特徴は次のようにまとめられている。
仏壇の外側の角が直角になっていて、割れなどを防ぐために金具が打ってあります。次に内側に目を向けると、高欄が奥と手前に二対あり、須弥壇が薄くなった分だけ前に出てきています。<出須弥壇>というそうですが、そのぶん宮殿が縦に長くなり、大きな掛け軸がかけられるようになっているのです。(編集・御同朋の社会を目指す運動(実践運動)富山教区委員会(2013)『ともしび6月号』本願寺富山別院)
加えて、富山県の持ち家率は全国でもトップクラスである。多くの家には仏間があり、その点からも仏壇がどれほど人々の生活に根付いてきたものなのかをうかがうことができる。
写真3(左).一般的な仏壇の角(木本仏具店) 写真4(右).富山型仏壇の角(山木仏具店)
写真5.①手前と奥に二対ある高欄 ②前に突き出ている出須弥壇(山木仏具店)
第3節 市内の仏具店
富山市内には20以上の仏具店が点在している。今回の調査ではうち3店に聞き取りを行った。次節からそれぞれの店について述べていきたい。
第4節 木本仏具店
富山城前、国道沿いにある4階建てのビルが木本仏具店である。調査に当たっては四代目社長・木本隆久氏にお話を伺った。
現在、木本仏具店の従業員は12名で、隆久氏の家族、仏壇職人、営業等の方々によって営まれている。店内は、1階には金仏壇が置かれているほか、数珠やろうそくなどの小物がショーケースに展示されている。隆久氏は「1階は店の顔」と語っており、ガラス張りの入口からは店内が奥まで見渡せるようになっている。2階にはマンションなどに適した少し小さめの仏壇、そして3階には神棚や大きな金仏壇が展示されている。4階は茶室で、隆久氏の家族によって月に数度お茶の稽古がつけられている。お茶の稽古は祖父の時代(大正)から行われているという。
木本仏具店が開業したのは明治17(1884)年のことである。
もともと、現在店舗のある場所は富山城の内堀と外堀の間であった。堀を埋めて再開発を行うと同時に西別院と東別院が建立され、一帯は門前町となった。その際、隆久氏の曾祖父が富山藩の家老屋敷跡に開業したのが現在の木本仏具店である。以来4回の立て替えを経て、同じ場所で営業を続けている。1度目は空襲による立て直し、2度目は国道の整備、3度目(昭和46年)と4度目(昭和59年)は店舗拡大のために建て替えが行われた。
また、店舗の裏手にはもうひとつ建物がある。昭和30年代に建てられたこの建物では営業や商品管理が行われているほか、仏壇の「塗り場」としても機能している。仕入れた白木に漆・金箔を塗り、組み立てるまでの一連の作業を今でも職人が行っているという。職人によってつくられた仏壇は店舗で販売を行っている。
現在、毎日塗り場に通っている職人は一人だが、かつてはもっと多く存在していたと隆久氏は語る。それは木本仏具店に限った話ではない。戦前、魚津や高岡、富山、上浜などは仏壇の産地として栄え、人々の間では先述したような富山型の仏壇が主流とされていた。しかし戦争が終わってのち、他地域との交流やニーズの増加によって仏壇は多様化した。先の戦争による空襲後に仏壇を新調するお客さんが多かったのはもちろん、特に昭和40年代の高度経済成長期には仏壇の需要が膨れ上がり、富山県内では製造が間に合わないという事態が発生した。この時期に他地域との交流が盛んになり、至る現在では秋田、鹿児島、徳島、静岡などからも仏壇の仕入れを行っているという。中でも多いのは秋田県湯沢市の川連で生産された仏壇である。もともと漆など塗り物の産地だった川連では、昭和30年代後半から仏壇がつくられるようになり、現在では全国有数の仏壇の産地となっている。
また、店の様子が変わっていくと同時に、お客さんとの関係も徐々に変化している。特に大きな変化はお客さんの滞店時間である。かつて人々は半日以上の時間をかけて仏壇を選び、午前から午後にまたがるときなどは店側が昼食に蕎麦を出すこともあった。それほどまでに仏壇を選ぶ行為は人々にとって一大事であり、農家などは一年分の米代を仏壇にかけることもあったのである。しかし現在では、店内で考えるというよりも既に購入する仏壇を決めてから来店するお客さんが増えてきているという。
加えて、戦後、お客さんの数は徐々に減ってきており、各家に仏間がなくなってきているのもその原因のひとつではないかと隆久氏は語る。かつては仏壇業界のPR活動によって盆や正月、彼岸などにお客さんが多かったが、現在では一年の中で際立った繁忙期はない。
また、木本仏具店は寺院との関わりもあり、県内を含め遠くは飛騨高山のあたりにまで赴き、本堂の白木に金箔を貼る、仏具を納める、釣り鐘をつるす等の作業も行っているという。
他の仏具店との関わりは現在ではほとんどない。隆久氏の祖父の時代には仏具店同士の組合があったそうだが、戦後は一時期展示会を行ったほかに交流はない。しかしその一方で他業種との関わりは増えてきているという。仏具を買いにくるお客さんから「お墓もいっしょにできないか」などの要望が出てきたため、現在では市内に多く存在する石屋とのネットワークも構築されているようだ。
第5節 広田仏壇仏具店
木本仏具店前の国道を東にまっすぐ進んだところにある、3階建ての建物が広田仏壇仏具店である。入り口はガラス張りで、外側に向けられたショーウィンドウには仏壇や阿弥陀像が展示されている。調査に当たっては三代目社長・廣田勉氏にお話を伺った。
現在、従業員は仏壇職人の方を除いて勉氏の家族3名である。開業後は市内を転々とし、40年ほど前に現在の場所に落ち着いた。店舗は2階までで、3階は倉庫として使用されている。展示されている仏壇の多くが富山型の金仏壇であり、2階には唐木仏壇も置いてある。
お客さんのほとんどは浄土真宗の人々である。また、勉氏の苗字は「廣田」であるが、店名には「広田」という漢字が使われている。お客さんにわかりやすいようにという理由で創業当時からこの名前は変わっていない。
広田仏壇仏具店が開業したのは明治25(1892)年のことである。勉氏の祖父が仏具店兼古物商として営業を開始した。当時は仏壇の卸売専門だったが、後述するように勉氏の父の代から店舗でも仏壇の製造を始めることとなる。現在古物は取り扱っておらず、販売をやめたのは50年ほど前であるという。祖父による開業の後、勉氏の父と二人の兄弟が店を継ぎ、うち一人が丁稚奉公という形で仏壇の修行に出たことで、店でも仏壇をつくるようになった。勉氏が店を継いだ現在では店舗での仏壇製造は行っておらず、寺町と呼ばれる市内の梅沢町で、職人が白木に漆・金箔を塗り、組み立てまでの一連の作業を行っている。広田仏壇仏具店の職人の手による仏壇のほか、店内のほとんどが秋田から仕入れた仏壇であるという。また、仏壇の販売以外に、寺院用仏具の修繕や本堂に金箔を塗る作業など、寺院の仕事も行っている。
空襲直後に高まった仏具の需要は今では徐々に減ってきていると勉氏は語る。かつては家に仏間をつくるのが一般的であったが現在ではそれも少なくなり、また、仏壇自体も場所を取らないように小型化してきているようだ。
最近の傾向としては比較的春と秋の彼岸にお客さんが多いということだが、昔は盆の前が最も忙しい時期であった。新調した仏壇で盆を迎えようと考える人々が多かったのである。そして現在でこそ彼岸に仏具を求める人々が多いが、もともと富山では彼岸に墓参りをするという習慣はメジャーなものではなかった。これはあくまでも最近の傾向であると勉氏は語る。
また、仏具の販売に加えて、広田仏壇仏具店では石倉町の延命地蔵奉賛会にお守りを納めているという。市内を流れるいたち川沿いには複数の地蔵が存在しており、中でも石倉町の延命地蔵はすぐそばの湧き水と共に全国的に有名な地蔵である。健康祈願のほか厄除けや学業成就、商売繁盛など様々な利益があると言われている。お守りの他に地蔵の修繕なども行っており、地域の信仰とも深く関わっているのである。
第6節 山木仏具店
富山駅前通りを南へまっすぐ進んだ場所、大和デパートの前にある4階建ての建物が山木仏具店である。入り口はガラス張りで、こちらの店舗もまた外から奥までが見渡せるようになっている。調査に当たっては三代目社長・山木信二氏にお話を伺った。
現在、従業員は職人を除き信二氏の親族4名である。ビルは4階建てであるが店舗は2階までで、3階4階は倉庫として使用されている。1階は主に金仏壇が置かれており、2階には唐木仏壇が多い。かつては商品のほとんどが金仏壇だったが、現在では唐木仏壇も徐々に増えてきているようだ。
また、店の前の国道から砂埃が入ってくることがあるため、掃除はこまめに行っているようである。仏壇の掃除は鶏の胸の毛でできた「毛ばたき」が一般的だが、最近では市販のハンディモップなども使用しているという。
山木仏具店は、信二氏の祖父によって大正7(1918)年に開業された。もともと、信二氏の祖父は富山市の隣・高岡市の「大場屋」という、漆の卸売りを行っていた店の番頭であった。高岡の仏壇職人の多くはこの大場屋の仕事を行っていたと、信二氏は父から聞いているという。その大場屋から支店を出すという話になった際に、信二氏の祖父が富山市内に店を構えることとなった。しばらく「大場屋 山木仏具店」という名前で大場屋の支店としての営業を行っていたが、大正七年に「山木仏具店」として独立した。店舗は40年前に一度建て替えが行われている。建て替えを行う以前は2階建てであり、1階が店舗、2階は仏壇の「塗り場」であった。漆風呂(またの名を漆室)と呼ばれる、塗った漆を乾燥させる部屋などがあり、実際にその場で仏壇の製造を行っていた。現在の店舗に建て替えて以降もしばらくはビルの後ろにある建物の漆場で、塗師屋である信二氏の大叔父が毎日仏壇に漆を塗っていたという。そこで信二氏の父が金箔を貼り、組み立てをしていた。漆場を撤去したのは十数年前で、平成の頭あたりまで店での仏壇製造を行っていたと信二氏は語る。今でこそ店舗に漆場はないが、現在でも高岡には山木仏具店の職人がおり、店内で「やまき特製」の札が置いてある仏壇はその職人によってつくられた仏壇であるという。
また、純粋な富山型の仏壇を除き店内にある金仏壇はその多くが秋田産である。
戦争直後、仏壇を求める人々が増え、物資不足の中で富山内では製造が追いつかないという状況に陥った。その際に他地域の仏壇が県内に入ってくるようになった。当時唐木仏壇は静岡から名古屋経由で仕入れ、金仏壇は新潟県の白根や長野県から仕入れていたという。また、昭和30年代になると仕入れ先は九州にまで及び、高度経済成長期の昭和40年代からは秋田産の金仏壇がそのほとんどを占めるようになった。先述もしたとおり、秋田産の金仏壇とは湯沢市川連で生産されたもののことを指す。昭和30年代後半から仏壇製造がなされるようになった土地であり、その要因のひとつには富山や石川の需要が高まったことが挙げられるのではないかと信二氏は語る。
秋田仏壇が入ってくるようになった高度経済成長期は爆発的に仏壇が売れた時代で、信二氏の父は当時を「仏壇ブーム」と呼んでいたという。多い時では一日に何本もの仏壇が売れた。その後のバブル期も同様に需要が高まった。しかし現在ではその需要も落ち着き、戦前のように職人が仏壇をひとつずつゆっくりつくる時代になってきているという。また、山木仏具店では4年前までネットでの仏具販売を行っていたが、手が回らなくなったこともあり現在では休止しているようだ。
お客さんは日蓮宗や臨済宗、浄土真宗など様々な宗旨の寺院関係者がいる一方で、一般の人々は浄土真宗の方が多いという。昔は仏具や仏壇に詳しいお客さんが多かったが、今ではそのような人もごくわずかになっているようだ。
また、近頃では葬式から仏壇、墓石までをも扱っている葬儀屋などが増加しており、仏具店も仏壇だけを扱うというのが徐々に難しくなってきている。要望があった場合には、石屋などに連絡をつける機会もあるようだ。
その一方で、市内の仏具店同士のつながりは現在ではほとんどない。しかし信二氏の父の時代には黒部市の北山仏具店、先述した広田仏壇仏具店、そして山木仏具店の3店舗で「三友会」という名の団体をつくり、年一回ほどのペースで仏壇の展示会を行っていたという。当時、黒部市の北山仏具店には仏壇職人が多くいたが、これは信二氏の父と北山仏具店の社長が協力して職人を育てていたためである。北山仏具店から独立していった職人が山木仏具店での仕事を行うこともあった。
また仏具の販売に加えて、山木仏具店では広田仏壇仏具店でも述べた石倉町の延命地蔵奉賛会に提灯を納めているという。こちらも富山市という土地ならではの「地蔵」と関わりのある仏具店である。
第2章 造花店
第1節 造花
造花とは、その名の通り人の手によって造られた花である。素材は様々で、プラスチックで作られたものもあれば新聞やティッシュ、ろうそくなど身近なものでつくられた造花も存在している。葬式の際の花輪なども取り扱うことから、造花店は寺院との関わりも深い商店である。
第2節 千田造花店
山木仏具店から西に少し移動した場所に千石町通り商店街がある。その一角に位置するのが千田造花店だ。調査に当たっては千田幸子氏にお話を伺った。
現在、従業員は幸子氏とその息子夫婦の3人である。建物は3階建てとなっており、1階は店舗としての作業場や生花のショーケースが置かれている。2階は作業場や物置場、そして3階はフラワーアートの教室としてテーブルや椅子、製作された作品などが所狭しと並べられている。
千田造花店は、大正時代に幸子氏の義父が始めた造花店である。もともと、千田家は太郎丸村(現在の富山市内)の侍の家系であったが、後に幸子氏の義父の代で造花の問屋と関わりを持ち、製造・販売を行うようになった。
店では造花の他に葬式用の花輪も制作している。お話を伺った当時、入り口左手には花輪の軸となるのであろう一メートル以上の円形の針金がいくつも立てかけられていた。かつては花輪につけられる文字はすべて手書きでなされていたが、今は機械によって印刷することができるという。現在では生花の販売も行っており、慶弔関係の花や文化会館のステージ上の花なども取り扱っている。また、寺院の仕事も請け負っており、幸子氏が実際に花を生けに行くこともたびたびあるようだ。
幸子氏は現在、造花の講師としても働いている。先述したように千田造花店の3階を教室として、幸子氏がこれまで学んできた生け花やフラワーアートなどを活かした独自の造花技術を、日々生徒に伝えているという。
第3章 千田法衣店
第1節 法衣
法衣とは僧尼が身につける衣服のことである。そのため法衣店のお客さんは寺院関係者のみであり、寺院の多い地域ならではの商店である。
第2節 千田法衣店
千田造花店のすぐ斜め向かいに位置する、駐車場付きの建物が千田法衣店である。調査に当たっては千田美樹子氏にお話を伺った。
現在、法衣職人を含め従業員は5人で、うち2人が千田夫婦である。入口には四畳ほどの広い土間があり、その向こうに作業場である座敷が続いている。土間と作業場には膝ほどの段差があるため、訪れたお客さんはそこに腰かけるなどして職人たちと目線を合わせて会話ができるようになっている。
写真21.千田法衣店入口 http://www.gankomon.com/index/senda-h.htm
(千石通り商店街HP 2014.1.3アクセス)
千田法衣店はその名の通り先述した「千田造花店」と関わりのある店である。美樹子氏の義父の兄が千田造花店を継いだその後、弟である美樹子氏の義父が千田法衣店を開業した。昭和45(1970)年のことである。義父は京都の法衣店で修業を重ね、しばらく富山の法衣店で働いたのち、千田法衣店の店主として独立したのである。
現在の店舗の真向かいにはシャッターの閉まった建物があり、以前はそこが千田法衣店の店舗であった。開業当初から平成13年までそちら店舗で営業を行っていたが、手狭になったことや老朽化などが原因で、12年前に現在の場所へと建て替えが行われたという。
お客さんはそのほとんどが浄土真宗の寺院であり、一般のお客さんはいない。法衣は京都の西陣から反物を仕入れ、寺院の人々と布やそのつくりまでをすべて相談したのちに、店で職人がひとつずつ手作りを行っている。僧侶が身につけているもの(法衣や数珠等)から本堂内のもの(打敷や椅子等)まで、寺院で使用するものはほとんどを取り扱っているという。寺院の多い富山市ならではの商店である。
結び
以上、本論で述べてきた内容を、相関的にまとめると以下のような図になる。
千田造花店は一般の人々への営業を行っているほか、寺院のための造花や生花を取り扱い、千田法衣店では寺院を対象に、僧尼のための法衣や本堂内の仏具などを幅広く取り扱っている。また、市内の多くの仏具店はいまだ仏壇の製造から販売までを行っており、同時に寺院での仕事も請け負っている。県内では富山型仏壇が製造されているが、空襲後は他県からの仕入れがなされるようになり、現在は秋田産の仏壇がその多くを占めている。加えて、高度経済成長期やバブル期など、経済の変化における需要の増加も確認されている。
以上に述べてきたように、富山市は西別院と東別院を中心に仏具店・造花店・法衣店など、人々と浄土真宗をつなげる役割を持った商店が多数存在しているのである。
【謝辞】
調査にあたり、様々な方にご協力をいただきました。
浄土真宗の基本的な考え方から富山における仏壇のとらえ方、その歴史や仕入れの変遷など、仏具に関わる様々なお話を聞かせてくださった木本仏具店の木本隆久様と社員の皆様、広田仏壇仏具店の廣田勉様、山木仏具店の山木信二様と社員の皆様、和田仏具店の和田様。ライフヒストリーや造花の製造過程を、様々な資料を用いて教えてくださった千田造花店の千田幸子様。法衣の基本的な概念から店の歴史、商店街とのかかわりなどのお話を聞かせてくださった千田法衣店の千田美樹子様。長時間にわたる調査にも関わらず、快く迎え入れてくださった皆様にお礼申し上げます。また、上記以外の方々にも、調査にお力添えをいただいたすべての方々にお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
参考文献
編集・御同朋の社会を目指す運動(実践運動)富山教区委員会(2013)『ともしび6月号』本願寺富山別院