関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

鱒ずしとかまぼこ

鱒ずしとかまぼこ      大河内麻未
【目次】
はじめに
第1部 鱒ずし
第1章 神通川と鱒ずし
第1節 船橋
第2節 七軒町の下級武士たち
第2章 郷土料理としての鱒ずし
第3章 職人のわざや工夫
第4章 駅弁
第2部 かまぼこ
第5章 かまぼこの町
第1節 富山とかまぼこ
第2節 八人町
第6章 女傳
結び

はじめに
 
 本調査は、富山県富山市をフィールドとし実地調査を行う事によって、富山市の郷土料理である鱒ずしとかまぼこ、そしてそれらに関わる人々、そして鱒ずしとかまぼこの存在意義を明らかにしたものである。
 
 ます寿しは、立山の雪どけ水がはぐくんだ良質な富山米と富山市内を流れる神通川へ遡上するマスの取り合わせから生れた押し寿しの一種である。その歴史は古く、享保二年、料理の事に精通していた富山藩士吉村新八が三代富山藩主前田利興に献上したところ、絶賛し、さらに八代将軍徳川吉宗に献上したところ、これも好評であり、ここからます寿司の歴史が始まった。
 
 富山市におけるかまぼこは赤巻や昆布巻など他県とは違う特有のかまぼこがある。そのほかに富山県のかまぼこというと細工かまぼこがある。細工かまぼこの生産は、全国でも限られた地域のみであり、その形や色鮮やかな色彩が目を引く。
 
この調査で訪れた町は富山市七軒町、富山市八人町であり、どちらも川と深く関わっていることが明らかになってきた。以下、鱒ずしとかまぼこを空間的に検証していく。

第1部 鱒ずし

第1章 神通川と鱒ずし
第1節 船橋
 
 神通川は、岐阜県富山県を流れる一級河川である。富山市のほぼ中央を貫流日本海へ流れる。(国土交通省参考)現在の神通川は、昭和30年代に行われた馳越工事によって生まれた川であり、もとの神通川は現在の松川である。この現在の松川と密接に関わるのが富山の鱒ずしである。舟橋は、川などに船を並べて、その上に板を渡して人などが渡れるようにした橋であり、1609年、加賀百万石の分藩として富山十万石が建設され、富山城下町は活気あふれていた。富山初代の藩主利次が現在の船橋という地点に64隻の舟を鎖で繋いだ船橋を架けた。船橋は城下町に入る人々、北陸道を渡る人々にとって、とても重要な架け橋であった。
 
 私が訪れた鱒ずし店には同じよう船橋の絵や版画が掛けられていた。版画には船橋のたもてで売られていた茶店がある。この鮎ずしが現在の鱒ずしの原型である。江戸時代、船橋のたもとにあった茶店は2店舗のみであったと言われている。この茶店は、北陸街道を歩いてきた旅人の休憩場所とされ、1階では鮎ずしを販売し、2階では料亭や宿屋を行っていた。明治34年(1901年)に馳越工事で、神通川は河道を変えて、まっすぐに流され、曲流していた旧河道は埋め立てられた。旧河道がわずかに残っているのが松川である。現在、旧河道の両岸には、常夜灯が建っている。

図1旧神通川の常夜灯

図2 神通川跡地の石碑

図3 船橋の版画



第2節 七軒町の下級武士たち

 私が訪れた鱒ずし店は七軒町という町とその周辺に密集していた。また、その町には、富山漁業協同組合があり、私はその参事の方、東秀一さんからお話を伺った。東さんの話では、もともとこの付近は富山城の城下町であったため、江戸時代には下級武士たちがこの辺りに存在し、下級武士たちが旧神通川で漁業をしていたという。そこで獲れた鱒や鮎は、茶店で販売されており、その販売手数料で下級武士たちは収入を得ていた。また下級武士たちは、4月から6月にかけて鱒や鮎を獲り、その他の時期は、鱒や鮎が採れないため砂利採集を行い、漁業と砂利採集の兼業を行っていたのだ。

 明治40年から終戦までは神通川漁業販売組合という場所で川魚は販売されていた。終戦後、神通川漁業販売組合はなくなり、その場所に現在の富山漁業協同組合ができた。この時代、船を管理していた舟運組合という組合があり、漁師などに船を貸し出していた。鱒ずし店が集まるこの七軒町というのは、下級武士が7人いたことが由来である。城下町であったからこそ、人々に親しまれる鱒ずし店が今も変わらず存在するのではないだろうか。

第2章 郷土料理としての鱒ずし

 鱒ずしは早ずしと言われ、お米と酢でしめた魚を握ったものであり、早ずしは魚を発酵した馴れずしやなまなれから生まれたものである。これらは富山の郷土料理であり、家庭料理へ溶け込んでいった。そのため、それぞれの家庭で独自の味をもっている。ます寿司は日常で食べられるものではなく、山王祭のような祭りや法事、お盆、正月などのハレの日に食べられることが多いという。
 
 ハレの日(特に山王祭りのとき)に食べられる理由として、鱒や鮭、鮎などは4月から6月にかけて獲れるため、その収穫時、6月1日2日に行われる山王祭りで食べられることが多い。また、ある鱒ずし職人の方のお話によると鱒ずしが「ますます盛んに」という言葉にかけられているという。現在はハレの日に鱒ずしを食べることは少なくなり、贈答品としての鱒ずしが多いという。昭和初期まで鱒ずしは家庭でつくられていたが、今では家庭で作られることは少ない。
 
 ここで簡単に鱒ずしの作り方を記しておく。まず、塩でしめた鱒を酢につける。そして炊きたてのご飯に酢、砂糖、塩作った酢を合わせる。曲げ物の器に笹の葉を敷き、鱒を敷き詰め、その上から酢飯を入れ、笹の葉を閉じる。青石と呼ばれる重石で充分押しをする。これで鱒ずしができる。鱒ずしの味は各家庭、各専門店で違うため、富山の人々は自分好みの味のお店を選ぶそうだ。

図4 鱒ずし

図5 青石

第3章 職人の技や工夫
 
 鱒ずしは各店で製法にほとんど違いはないが、お店ごとに味などにこだわりを持っている。私は5店舗の鱒ずし店でそれぞれの職人の技や工夫、こだわりを聴いてみた。

 まず、鱒ずし職人の方の一日の始まりは早朝である。午前4時から塩と酢でつけた鱒と酢飯をわっぱと呼ばれる入れ物に詰めていく。手作業でつめていくため、鱒の並べ方は充分こだわりを持っているという。この鱒を並べていく作業は器用に並べることができるということから女性が行うことが多いそうだ。一方、男性は鱒を裁く役割を担うことが多いという。鱒を裁くにも職人の磨かれた技がある。骨切りを細かく行い、鱒の身から骨まで使用していた。しかし、これは子供などの配慮を考え、現在は行っていないそうだ。この他にも各店にこだわりを持っている。こだわりは味から店内の雰囲気まで至るところだ。
 
 昭和23年創業、現在65年目の青山総本舗。3代目の方が店主である。お店の外装は2代目店主の案で、なまこ壁であり、お城をイメージしているようだ。鱒ずしは城下町で生まれたものであり、お城のようにすることにより、お客様がそれを感じとってもらえたらという。また、青山総本舗の看板は、象形文字で書かれており、富山県の書家に書いてもらったそうだ。富山という地域らしさが表れていた。

図6 青山総本舗外装

 3代目の店主が営む前留。このお店は注文が入った分だけ鱒ずしを作る。この理由としてこの店を好んで下さるお客様を大事にしたいという想いがあるそうだ。店の入り口には何かを引掛けるような鎖があった。以前この鎖に鱒や鮭を掛け、干していたそうだ。その名残が現在も残っている。店内には、鱒ずしにまつわる版画や絵がたくさん飾られていた。お客様にもよくこの絵や版画を見て興味を持たれるそうだ。

図7  前留店主の前川さん

 明治11年創業、せきの屋。5代目店主前川雅美さんは音楽が好きということで、船橋、松川の風景、七軒町の様子を歌った歌を作っている。その歌を聴くと、当時の風景が浮かんでくる。

図8 せきの屋店主前川雅美さん


 大正12年創業、川上鱒寿し店。現在3代目の店主である川上弥さんは新しい試みをした。それは、若い人たちにも好んで食べてもらえるように鱒ずしの食感を先代のころと比べ、柔らかくした。食感を柔らかくするには今までの押しを弱くしなければならない。そのため、川上さんは独学を重ね、押しに使うゴムの強度を開発した。川上さんは「同じことだけをやっていってはいけない。新しいことにどんどんチャレンジしていく」と現在、鱒ずしを広めるイベントに積極的に参加している。

図9 押しのためのゴムをまく川上さん

 鱒寿し元祖関野屋。この石碑には「文政10年(1827年) 関埜屋(「埜」=「野」の元字)昌右衛門、同 善五良 同 辰之助」と記されている。現在の関野屋の創始者は明治初期の関野庄右衛門だが、「関野屋」という屋号は文政時代(1817〜1829年)から存在したようだ。現在の店主は庄右衛門から数えること6代目の関野宏之さん。 関野屋として130年以上、関埜屋から200年弱の伝統を頑なに守っているお店である。関野屋では、店の外からも魚を裁いている様子が見えるようになっている。新鮮な魚を実際に裁いている様子をお客さまにも見てもらいたいという。鱒がたくさん獲れていた
時代はどのお店もこのように皆が見えるようなところで裁いていたそうだが、鱒が貴重な魚になってからはこのようにするお店は少なくなったようだ。関野さんはプライドを持って鱒ずしを作っており、先代から受け継いだ職人の技、味は全く変えてない。関野さんは「プライドを持たないといい鱒ずしは作れない」職人の熱い想いを語りながら、鱒を裁いてくださった。

図10 鱒を裁く関野屋店主

図11 酢飯や鱒の切り身を並べる関野屋奥さん

 職人の方は様々であり、時代の変化に応じて工夫をしている。しかし、職人の方の強いこだわりや先代から受け継いだ鱒ずしの味は変っていくものではないとどの職人の方もおっている。それの先代から受け継いだ味がそれぞれ特有の鱒ずしの味なのだ。

第4章 駅弁
 
 富山県の鱒ずしが全国に知られるようになったのは、鱒ずしが登場してからだ。そもそも駅弁とは、駅弁とは鉄道駅や列車内で販売されている鉄道旅客向け弁当のことで、明治18年に栃木県の宇都宮駅でおにぎりが販売されたのが始まりである。

 富山県で駅弁が販売されるようになったのは1912年のことで源というお店だ。源というお店は明治時代桜木町にあった天人楼・日新楼という料亭が起源である。その初代店主が源金一郎、源松山でありその父、源梅山は江戸時代に旅篭町で旅館と紙屋を営んでいた。旅館の主人で風流人であった源梅山は生業を料理業中心として吉川屋を営みまた茶人として富山の文化交流と発展に寄与した。

 1900年明治33年、梅山の子、源金一郎が料理旅館・富山ホテルを桜木町で開く。その後富山でトップクラスの旅館となった。1908年には富山旅館・富山ホテル支店が、富山市に鉄道開通 と共に国鉄富山駅構内営業人として、弁当や菓子の製造販売業を始め、その頃に源初太郎が富山ホテルの駅前支店を開き、駅と交渉し駅弁が販売されるようになった。それが現在の『源』のはじまりである。(ますのすし源HPより)
 
 源は駅弁を中心に鱒ずしを製造している。鱒ずしには表派と裏派がある。駅弁は表派であり、ふたを開けると鱒の身がある。その一方で七軒町にある店の鱒ずしは裏派であり、ふたを開けると酢飯がででくる。前者は駅弁としての鱒ずしであり、全国の人に食べ方が分かるような構造になっている。後者は鱒の身を下におくことで魚の汁が酢飯に混じらないようになっている。食べるときには逆さにし、ふたを開けるそうだ。源は開業100周年の時に鱒ずしミュージアムを創設した。私が訪れた鱒ずし職人の話によると源のような大量生産型のお店について批判的な意見もあるが、全国に鱒ずしを広めてくれたのは源のお店である、その点ではありがたいと主張する。


第2部 かまぼこ

第1章 かまぼこの町
第1節 富山とかまぼこ
 
 富山の蒲鉾は、形態的に昆布蒲鉾、色つき蒲鉾、すり蒲鉾、細工蒲鉾と数々あり、坐りを入れない製法でソフトな弾力と風味が特徴である。蒲鉾の食文化が生れたのは、魚種、質量ともに豊かな富山湾の恵みがあったからである。
  
 富山県で生産される練り製品の生産量は全国の中でも10位以内に位置しており、富山県は蒲鉾生産県であるといえる。富山県の名産蒲鉾である昆布巻は魚のすり身を昆布で巻いた蒲鉾である。また富山では昆布の代わりに着色したすり身を使った赤巻と青巻と呼ばれる色巻きも名産である。その他にも代表的な蒲鉾は、鯛の形をした細工蒲鉾である。これは婚礼などの祝い事に使用していた鯛が不足したときに代用品と品とされ、祝い事のときには欠かせないものである。鯛の形の他にも、鶴や亀、富士山、結びなどがある。それぞれの形には意味合いがあり、鯛はめでたい、鶴と亀は鶴は千年亀は万年と言われるように長寿を祈り、結びはご縁、富士山は一番という祈りを込めたものである。蒲鉾のもとのになるすり身に使われる魚はニギス、イワシ、アジ、トビウオ、イカなどであり、昆布を含めて、北前船で運ばれてきたものである。

 鯛や鶴などの形は木型の道具を使って輪郭を作り、模様はすべて手作業で描かれているのだ。富山の蒲鉾は他県のもののように強い弾力を持たず、ソフトであることが一つの特徴であると言える。他県の蒲鉾は弾力を高めるために成形の後に坐り工程を入れるが、富山ではこの工程を行わないためである。
また、富山では婚礼蒲鉾などで用いられる蒲鉾は親戚などに切り分けておすそわけする文化がある。鯛を切り分けておすそ分けすることで、お福分けするという。また、切り分けた鯛の蒲鉾の大きさでもともとの大きさを想像するそうだ。

図12 婚礼かまぼこ


第2節 八人町
 
 現在、富山県に34店舗の蒲鉾店がある。私が訪れた蒲鉾店は富山市八人町という地域であった。昭和初期までは八人町にはたくさんの蒲鉾店が集まっていったそうだ。現在は看板だけが残っており、商売をしていないお店がほとんである。以前、この八人町に蒲鉾店が集まっていたのはなぜだろう。もともと北前船が止まる港が八人町付近にあったからである。その場所はいまぎ浜と呼ばれ、松川といたち川の合流地点である。北前船で運ばれてきた魚や昆布は近くにある中央市場で販売された。このため、蒲鉾店が八人町に集まったのだ。八人町は蒲鉾の町といってもよいのではないだろうか。

図13 松川といたち川の合流地点(いまぎ浜)

第2章 女傳
 
 私は富山で一番歴史のある蒲鉾店、女傳を訪れた。嘉永3年(1850年)創業で現在6代目店主が務めている。1850年、初代女川傳右エ門が11代富山城主、前田利友公に献上し、これが女傳の始まりである。その後、富山で有名な昆布巻蒲鉾の創作をした。明治時代には、慶事用の細工蒲鉾が全盛期をむかえた。そして、大正から昭和初期にかけて県内に蒲鉾店が増加し、蒲鉾の産地として定着し始めたのはこの頃である。第二次世界大戦時には、配給制となり、なかなか原料を集めることができず、蒲鉾店が増えていたこの時期には商売が成り立たなかった。そこで4代目女川傳一郎はいくつかの蒲鉾店を集め、組合を作った。これが現在の梅かまという蒲鉾店であるという。女傳ではそれぞれの蒲鉾の名前が万葉集の歌からとったものや富山城主に献上したことから献上巻など、女傳の歴史を表している。また。包装袋は、大名家の着物の柄である鮫小紋の模様をしている。

 しかし、そんな歴史ある女傳では、5代目店主である女川弘さんが新しい試みを始めているそうだ。それは和菓子のような蒲鉾である。和菓子蒲鉾を創るきっかけになったのが、石川県の有名な和菓子屋の社長との出会いだったそうだ。女川弘さんが5代目店主についた当時、女川さんは今の蒲鉾は伝統を守っているだけで攻めがない。新しい風をふかせたいという想いだった。そして、石川県の和菓子屋社長と出会い、その方から、富山の蒲鉾には季節感がなく、また食べきれない蒲鉾が多いという言葉を受けた。また、仙台の笹かまぼこが人気である理由はたくさん食べても飽きないし、食べたい時に食べることができるからであるという和菓子屋社長からの助言によって、そこから、和菓子蒲鉾がうまれた。
 
 和菓子蒲鉾にも大きなこだわりがあり、蒲鉾の形は梅鉢の家紋から梅の形をしている。その和菓子蒲鉾の梅型をとる道具は、日本の梵鐘が作られている、高岡の鋳物屋で作ってもらったものを使用している。この和菓子蒲鉾は季節感を出すため、ぎんなんや栗、桜の葉など季節に合わせたものを使用している。現在は、和菓子蒲鉾の他にも、子供がおやつのときに食べることができるようなスナック蒲鉾、そして、お酒にあうようなおつまみ蒲鉾を創っている。

 このように5代目店主は、時代の変化に応じて、蒲鉾に工夫を加えている。しかし、味は先代から受け継いできたものを守っている。そのため、すり身に使う材料は富山湾日本海側で獲れた魚を使用し、職人の手作業で作られている。これからも先代の味を守りつつも、新しいことにチャレンジしていきたいと意気込んでいる。

図14  鯛に色づけする職人

図15 和菓子蒲鉾

図16 細工蒲鉾

図17 女傳5代目店主 女川弘さん


結び

 本調査では、富山市をフィールドとし実地調査を行う事によって、富山の名産である鱒ずしとかまぼことそれに関わる職人について川をヒントにし、その存在意義を明らかにした。調査によって分かったことは以下の2点である。1点目は、鱒ずしとかまぼこは富山の川と深く関連しており、鱒ずしの町(七軒町付近)とかまぼこの町(八人町)があることである。2点目は時代の変化に応じて、職人の方はそれぞれ工夫をし、新しいものを作っていくが、職人の技やこだわり、その店特有の味は変わらないということである。

謝辞

 本論文を執筆するにあたり、多くの方々に協力していただきました。お忙しいなか、鱒ずしの歴史や職人の方のこだわりについてお話し下さった、青山総本舗の皆様。鱒の早寿し前留の前川氏、川上鱒寿し店の川上弥氏、せきの屋の前川雅美氏、鱒寿し元祖関野屋の関野宏之氏。また、戦前の七軒町についてお話してくださった富山漁業協同組合の東秀一氏。そして、細工蒲鉾についてお話してくださった、女傳の女川弘氏。皆様のおかげで富山の鱒ずし、蒲鉾について充実した調査を行うことができました。この場を借りてご協力してくださった皆様に心よりお礼申しあげます。本当にありがとうございました。
 

参考文献
ふるさと開発研究所1992『万華鏡6号 鱒のすし』
ふるさと開発研究所1994『万華鏡39号 婚礼蒲鉾』 
ますのすし本舗 源  http://www.minamoto.co.jp/