関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

天神様と愛児堂

天神様と愛児堂

1321 原 修也


[目次]
序章
第1章 愛児堂の来歴
1.愛児堂ができるまで
2.乳母車専門店として愛児堂を創業
3.1回目の移転
4.店の建て直し、市内有数の大型店へ
5.2回目の移転、現在の場所へ
第2章 天神様と愛児堂
1.初代武則氏の試み
2.3代目武英氏の試み
結び




序章
 富山県及び福井県では天神様の信仰が厚いことで知られている。この両県では、長男が生まれた際にお嫁さんの実家から天神様の人形や掛け軸、木彫などを贈り、それを12月25日から1月25日まで飾るという風習が今もなお色濃く残っている。
天神様の人形や掛け軸を飾るようになったのは諸説あるが、福井の16代目藩主松平春嶽の影響ではないかと言われている。幕末のころ、学問が重要視されるようになり、教育熱心であった春嶽公は領民に天神画像を飾るよう奨励したのである。そして、それをみた富山の薬売りが富山にも広めていったのではないかということである。
 しかし、なぜ富山と福井では今もなおこのような風習が残っているのだろうか。おそらく、そこには金沢への対抗意識というのがあるだろう。歴史的にみると、金沢は加賀藩の城下町として栄える一方で、富山や福井の人びとは少なからず苦しい思いを強いられていた。そこで金沢に負けたくない、追い越したいという強い思いから、天神様を信仰するようになり、今もなお、厚く信仰されているのである。
 次に天神商品について、いくつか紹介する。天神様の風習で贈られるものについては多少地域差があるものの、天神人形、掛け軸、木彫が中心である。掛け軸は安いもので5万円、高いものだと100万円近くするものもあり、価格帯が幅広いのが特徴である。
 また、最近では家に床の間がなく、掛け軸を飾る場所がないという人も多くいるため、リビングなどにも飾れるよう、額縁に入った天神様などを販売しているところもある。この他にも掛け軸に描かれる天神様の表情が変化しているなど、時代を経て、商品は少しずつ形を変えながら、天神様の風習は長く続いているのである。
 本論文では富山市内にある、人形の愛児堂3代目、馬渡武英氏へのインタビューをもとに、愛児堂で扱う商品の変化に注目し、富山と天神様の関係について述べる。

写真1:天神人形

写真2:天神様の掛け軸
 
第1章 愛児堂の来歴
1.愛児堂ができるまで
 現在、愛児堂は富山今泉西部町でひな人形や天神商品を中心に販売している。しかし、もともとこうした商品を扱っていたわけではなく、現在の愛児堂に至るまでには長い歴史がある。
昭和23年、後に愛児堂創業者となる馬渡武則氏が富山市内で米屋をはじめた。当時、お米を運ぶためにリヤカーを製作したところ、それを目撃したお客さんから「赤ちゃんを乗せる車を作ってほしい」と頼まれた。なんと、これがきっかけとなり、後に乳母車専門店として愛児堂が創業されるのである。

2.乳母車専門店として愛児堂を創業
 昭和28年、馬渡武則氏が富山市越前町に、愛する子供のための館として愛児堂を創業した。当時は乳母車専門店であり、鉄工所などに部品を作ってもらい、それを店で組立て、販売していた。また、当時市内にこのような乳母車を扱う店はなかったようである。それから数年後には乳母車だけでなく、赤ちゃん用の玩具などを扱うようになり、徐々に扱う商品を増やしていった。


写真3:愛児堂創業時

3.1回目の移転
 昭和32年富山市中心街に店を移転した。場所は現在の大和デパートの真ん前である。当時の店の看板には子供用品専門と書かれており、またウバ車、ひな人形という看板もあった。店を移転してからは乳母車のみならず、本格的にひな人形や天神人形、天神様の掛け軸などを扱うようになったそうだ。

写真4:昭和38年ごろの愛児堂

4.店の建て直し、市内有数の大型店へ
 富山市中心街に店を移した愛児堂は昭和44年、同じ地に6階建てのビルを完成させた。そして、そのころには乳母車や人形のみならず、ゲームやプラモデルなど多数のおもちゃを扱うようになった。ビルの1、2階でゲームやプラモデルなどおもちゃを販売し、3、4階でひな人形、天神人形などの販売を行っていた。
 また、当時、市内で初めてエスカレーターとエレベーターが設置された建物ということもあり、それらを目当てにくる人も多数存在してようで、休日には多くの人で賑わっていたようだ。このように、乳母車専門店としてはじまった愛児堂は市内でも有数の大型店へと変わっていったのである。
 しかし、店の建て直しから約15年後、愛児堂は3つの問題を抱えることになる。
 1つ目の問題は消防法によるスプリンクラー設置義務である。1961年、消防法によりスプリンクラーの設置が義務付けられた。当時は設備が高額ということもあり、日本国内においてなかなか普及していなかったが、国内の病院やホテルの度重なる火災により大量の死者が出たため、設置義務範囲が徐々に拡大していき、愛児堂もスプリンクラーを設置するよう要請された。
 しかし、スプリンクラー設置には莫大な費用がかかるため、設置することは困難であり、店を続けることが難しい状況になったのである。
 2つ目の問題は愛児堂に駐車場がなかったということである。というのも、移転当時はお客さんの多くが鉄道を利用しており、駐車場がないことになんら問題はなかった。しかし、日本国内においてどんどん自動車が普及していき、一家に一台という時代になっていった。特に富山のような地方都市では車が主な交通手段となり、店に駐車場がないということは大きな痛手となった。だが、店舗が市の中心街にあるということもあり、駐車場を設置するには場所の確保などを含め多額の費用がかかるため、新たに駐車場をつくることは困難であった。
 3つ目の問題はファミリーコンピューターの大ブームにともなう、玩具の変化である。
1983年に任天堂からファミリーコンピューター(以下ファミコン)が発売された。当初
は愛児堂でも販売していたが、全く人気が出ず、大量の在庫を抱えていた。そんな中雑誌
などの影響もあり、急激にファミコンの人気が高まっていき、愛児堂でも飛ぶよう
に売れたのである。
 しかし、ファミコンの大ブームが起きると、大量販売をするトイザらスや大型の電器店にしかファミコンが卸されなくなり、愛児堂のようなおもちゃ屋には商品が入ってこなくなった。
 また、ファミコンが流行してからは子供のおもちゃが大きく変化していった。それまでは超合金やプラモデルが子供のおもちゃの中心であったが、ファミコンが流行してからはみなファミコンで遊ぶようになり、こうしたおもちゃは売れなくなっていったのである。このように子供のおもちゃが変化していく中、テレビゲームを販売できず、また他のおもちゃは売れなくなるというおもちゃ屋にとっては非常に厳しい時代となり、愛児堂もまた、苦しい状況にあり店の存続が危ぶまれた。


写真5:昭和45年ごろの愛児堂 


写真6:昭和47年の愛児堂のチラシ

5.2回目の移転、現在の場所へ
 これらの理由により、平成2年に愛児堂は、現在店舗がある富山市今泉西部町に移転した。そして同時に、人形をメインに扱うようにしたのである。なぜならば、大量生産の時代になり、そういった商品を扱っていては大型店に太刀打ちできないからである。そこで、大量生産ではなく独自につくるもの、そして何より地域に合ったものを販売するという意志のもと、店を変えていき、現在に至るのである。
 また、移転当時は人形を中心に販売する一方でベビー用品などの販売は続けていた。10月から5月までは天神人形やひな人形、五月人形を扱い、それ以外の月はベビーカーや赤ちゃん用の玩具を扱うというように時期によって扱う商品を変えていた。
しかし、平成7、8年ごろに問屋が次々と潰れていき、ベビー用品などは販売できなくなり、ひな人形や天神様関係の商品のみを扱うようになったのである。武英氏は全国を回り、人形や掛け軸を仕入れ、それを愛児堂で販売していた。
 このように愛児堂は時代が大きく変化していく中、日本の伝統、特に富山では天神様の風習を大切にされていることから、地域に根差したものを扱うことにした。その結果として現在でも、市内で有数の人形店として営業を続けているのである。

写真7:現在の愛児堂外観

写真8:愛児堂店内の様子

第2章 天神様と愛児堂
1.初代武則氏の試み
 愛児堂で天神様の商品を扱うようになったのは1度目の移転をしてからである。当時は武則氏自ら県内にいる画家のところへ行き、掛け軸を描いてもらい、天神人形などは問屋から卸していた。また、外部へ委託し、天神様の掛け軸等の修理も行っていた。こうしたことからも、愛児堂は天神様を大切にするのはもちろんのこと、お客さんのことを第一に考えるという思いがうかがえる。

2.3代目武英氏の試み
 平成8年ごろに問屋が次々と潰れたため、人形を卸すことができなくなった。そこで武則氏は自ら全国を回り、人形や掛け軸を仕入れるようになった。人形は特に埼玉や東京などが多く、掛け軸は岐阜や愛知、静岡など中部地方に画家が多いようだ。また、富山県内にも数人の画家がいるようで、現在でも依頼しているそうだ。このように全国各地の画家に直接依頼をしに行くことで、お客さんのニーズに合わせた商品を販売することができるのである。
 平成12年ごろからはこれまで外部に委託していた天神商品の修理を、武英氏自らが行うようになった。具体的には天神飾りに使う前飾りやぼんぼりの紙の張り替え、天神人形のしみ抜きや掛け軸の表装の張り替えなど多岐にわたる。しかし、このような修理は難しく、また武英氏の専門ではなかったため、大変苦労されそうだ。毎晩、自分で試行錯誤しながら、その技術を身につけていったのである。また、現在では武英氏オリジナルのぼんぼりを販売しており、こうしたことからも武英氏の天神様への思いというものを感じることができる。
このように苦労を重ねながらも、武英氏はお客さんのためにという強い思いから、自らの手でこのような仕事を行っているのである。

結び
 現在、富山市内有数の人形店である愛児堂はもともと小さな米屋であった。そして、当時、米を運ぶために利用していたリヤカーを目撃したお客さんの「赤ちゃんを乗せる車を作ってほしい」という一言がきっかけとなり、馬渡武則氏が乳母車専門店として愛児堂を創業した。乳母車専門店としてはじまった愛児堂であったが、ベビー用品そしてひな人形や天神人形、さらにはおもちゃなど、扱う商品を徐々に増やし、また店の移転や建て直しを行い、市内随一の大型店へと成長していった。
しかしながら、消防法によるスプリンクラー設置義務、自動車の普及、ファミコンの流行にともなう玩具の変化という3つの大きな時代の変化により、愛児堂は大きな決断をすることになった。それは郊外移転、そして大量生産されるおもちゃを扱うのではなく、富山に深く根付いている天神様の商品を中心に扱うということである。結果として、一時は店の存続が危ぶまれた愛児堂であったが、3代目武英氏の様々な努力の結果、現在でも富山市内有数の人形店として多くの人びとに愛されているのである。

[謝辞]
 本論文の執筆にあたり、愛児堂3代目馬渡武英氏には大変お世話になりました。本調査の趣旨を理解し快く協力していただき、お忙しいなか、天神様や愛児堂の歴史についてお話をしてくださいました。また、吉村唐木店4代目、吉村崇氏には天神様の商品について詳しく説明していただき、また、天神商品の撮影を許可していただきました。本調査にご協力いただいたすべての方々に心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

馬渡武英氏から特別に許可をいただき、写真の一部は愛児堂ホームページより転載させていただきました。(http://www.aijido.co.jp/kaisha.html)