関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

ハマカセギの男たち ―小樽港と港湾荷役労働者―

渕 修平


はじめに
現在、レトロな街並みで北海道の有名観光地となっている小樽。中でも小樽運河(下写真)は観光地小樽のメインの一つとなっている。多くの観光客が歩く運河沿いは、かつて艀と倉庫の間で荷役が行われていた。今でも運河沿いに一部残っている石造りの倉庫は博物館や、おしゃれなレストランになっている当時の運河はつかえて通れないほどたくさんの艀があったが、今では運河の一番端に一隻だけ係留されているだけとなっている。
北海道の玄関口として賑わっていたかつての小樽港は石炭の輸出と樺太をはじめとする貿易で成長していった。小樽港の成長を支えていたのは港湾労働者、ハマカセギの男たちだった。今回はその男たちに注目し、時代の変化の中で消えていった艀荷役と、今でも技としてのこる倉庫荷役、そして、彼らの生活を実際に港湾労働をされていた方々のインタビューをもとに紹介したいと思う。


写真1 小樽運河と倉庫


第1章 艀と倉庫

▼艀(はしけ)
艀とは運搬船である。木製のものと鉄製のものがある。エンジンが付いているものとないものがある。沖合に停泊している貨物船などから積み荷を載せ、港、河川、運河岸壁の工場や倉庫に運ぶ。港に埠頭が整備され大型の貨物船を接岸できるようになる60−70年代までは全国で多くの艀が活躍していた。埠頭とコンテナ化、ガントリークレーンの登場により艀の役目は激減していくこととなる。しかし、艀が全くなくなったわけではない。陸上輸送できないもの(ex新幹線)など現代でも形を変えて使われている。

―小樽港の艀―
では、小樽港での艀はどのような艀だったのか。小樽には2種類の艀があったようだ。デッキ艀と達磨艀(だるまばしけ)である。デッキ艀とは写真2に見られるように甲板があり、荷物を平積みできるようになっており、おもにラワン材(木材)や袋詰めされた穀物など(この袋を布モッコと呼んだ)を杯付(はいづけ)と呼ばれる積み方を駆使しながら積んだ。一方達磨艀とは、デッキ艀の甲板がないもので船底までぽっかりと空間がある。ここに鉄道で小樽港まで運ばれてきた石炭を積む役割を担っていた。


写真2 小樽運河に残るデッキ艀


▼小樽の倉庫
小樽港に入荷された穀物などは艀で小樽運河まで運ばれそこから倉庫に入れられた。
この時どれぐらい量を運んだかを図るために「マン棒」という木製の札が使われた。番棒からマン棒へと名前が変わったとされている。艀から積み荷を降ろす際に早く仕事を終わらせるためだけでなく、力比べを目的に、一度にいくつのモッコ又はマタイ(麻袋)を担げるかを競ったそうだ。一つ60kgもある袋を2つか3つ担いでいたそうだ。
当時は写真1のように運河沿い石造りの倉庫が並んでいたが、現在は埠頭の中に写真3のように倉庫が並んでいる。
 貨物船から艀への荷役と艀から倉庫の中での積み上げる荷役のなかで屈強な男たちが熟練された職人技で働いていた。その倉庫の積み上げの技術は今でも受け継がれている。
2章と3章でその技術と生活を紹介する。


写真3冷蔵倉庫。


第2章 浜稼ぎの技と文化

▼常用とデメントリ
沖仲士、仲士と言われていた荷役労働は過酷な仕事だった。その中でも艀会社、倉庫会社に社員として雇われている者を常用。日雇の者をデメントリと呼んだ。ピーク時、荷役労働者の数はどちらも1500人いたそうだ。デメントリは仕事をもらいに倉庫に集まったそうだ。
▼ハマカセギの生活
過酷な肉体労働であった荷役、その生活には酒は欠かせないものであった。仕事が終わってから一杯、帰りの飲み屋で一杯、家に帰ってから一杯。帰る頃にはフラフラで、朝起きて仕事へいく。働いて飲んで寝るというのが生活のサイクルだったそうだ。

―酒と食べ物―
お酒のことを小樽では「もっきり」「ヤンカラ」「バクダン」と呼ばれていた。「もっきり」はコップいっぱいまで注がれていたことからこの名前になったそうだ。もっきりもヤンカラも焼酎だったそうだ。これに梅酒などの果実酒を混ぜたものを「バクダン」と呼んでいた。戦後、お酒が少なかった時期、戦争で余ったメチルアルコールなどから違法に造った酒が出回り、失明するものや心臓病を起こす者が多くいたという。戦後すぐの落下傘事件(落下傘で落とす為の大量の爆薬を艀で運んでいた時、海上で爆発し、4〜50人の死者を出した。)の弔いとこの時期の多くの違法酒の死者の弔いを兼ねた慰霊祭が行われたそうだ。
 食べ物にも荷役労働独特のものがあったようだ。「ネコマタギ」と呼ばれる塩焼きの魚だ。
重労働ゆえに、大量の汗をかく。どうしても塩っ辛いものが食べたくなったそうだ。そこで塩たっぷりの焼き魚を弁当として持っていったそうだ。この焼き魚の塩が多すぎて、猫が食べずにまたいで通り過ぎることから「ネコマタギ」と呼ばれる。
 ご飯の時間になると「ちゃぶだぞー」という声がかかって時間を知らせたそうだ。食事中、「かたりべ」と呼ばれる人がでてきて戦時中の話などを上手く話していたそうだ。
冬の間、デッキ艀の船内ではストーブを焚いていた。そのストーブの上でホッケを焼いて食べたりもしたそうだ。

―声は大きく、言葉は短く。生まれた「ハマコトバ」―
 声が届きにくく、常に怪我をする危険がある沖荷役(本船から艀への積み込み)では大きな声で早く内容を伝える必要があった。なので、荷役をする者は皆声が大きかったそうだ。そして、荷役独自の言葉があった。それが「ハマコトバ」である。ここでいくつか紹介する。
「れっこせい」→なげれえ、すてれえ
「ゴウヘイ」→まきあげれえ
「スライスライ」→下げれえ
「コロ」→あて木
「アラケレ」→波に向かう。船との間に空間をつくる。
「タレマク」→布と網。
「タマカゼ」→北西の風。
「シキカゼ」→西の風。小樽では西からの風は沖に流される。
「チャブだぞー」→飯の合図。
「おもて」→船首。
「とも」→船尾。
「カッパ」→デッキ艀の船内にはいるためのハッチ。
艀の上だけの言葉だけでなく道具の呼び名であったり、荷の積み方の名前もあるが、それは後々紹介することとする。

―艀での生活―
東京、大阪、神戸では艀に住み、水上生活をする艀の船頭と家族がいたが、小樽では定住するものはいなかったそうだ。しかし先ほども記述したように船内でストーブを焚きそこでホッケを焼いて食べる他に、畳をストーブの周りに敷いて休憩に寝ていたようだ。
荷物を積んだままの場合、見張りのために船内で寝泊まりする者がいた。その他に宿代を浮かす為、酔っぱらって艀で寝る者もいたそうだ。

―港湾労務者―
港湾労務者という言葉は差別用語である。当時、港湾労働者は屈強な身体と大きい声、そして酒と賭博があったことでよくケンカや暴れる者がいたりで、危ない存在と見られることが多かったようだ。のたれ死んでいる者がいると、新聞には「一見港湾労務者風の男性が…」と決めつけるように書かれていたそうだ。

―ケガと弁当は自分持ち―
労働環境が悪く、危険で怪我をしやすかったこと、怪我をしてもしっかりとした手当がなかったこと。福利厚生が悪く残業時に弁当もろくに出なかったことからこう言われていた。

―でめんを殺すに刃物はいらぬ、雨の三日も降ればよい―
日雇の港湾労働者は給料を酒や賭博の娯楽に使ってしまい、その日暮らしが多かった。雨が降ると荷役の仕事がないことからこう言われた。

メーデーでの綱引き―
メーデーの日にせっかく色々な業種が集まるのだから行進以外にも何かしようとなり、綱引きが毎回行われていたようだが、決まって優勝するのは屈強な男集団である、ハマの男たちだったそうだ。


第3章 技と文化の伝承

▼ノンコとハイヅケ
 ノンコと呼ばれるカギ爪を使ってモッコやマタイを持ち上げた。写真4の左がノンコで右が長柄と呼ばれるものである。


写真4 ノンコと長柄

これらを使い袋を積み上げるのだが、揺れる艀の上では積んだ荷物が崩れて海に落ちないように、高い技術が要求された。積み上げることを杯を組む、ハイヅケと言い、種類や重さ合わせて変えていたそうだ。この時崩れぬように微妙にずらすことを「メブセ」と言った。艀でのハイヅケ作業は熟練の仲士でないとできなかったそうだ。
ハイヅケ作業は同じく倉庫でも行われていた。倉庫になるべく多く収納する為にここでも色々なハイヅケがあったようだ。基本は五本バイといって正方形になるように一段に5袋ずつの積み方。柱の近くでは、柱を囲むように一段4袋ずつ、これを四本バイと呼んだ。
現在、パレットに積まれたものをパレットごとフォークリフトで積み上げるのが普通になっているが、小樽の大同倉庫さんでは今でも昔からのハイヅケ作業を行っているとのことだったので、倉庫での作業を見学させて頂いた。


写真5 上にいくにつれ絶妙に内側に傾いているのだ。5mほどあるが、これを手作業でやっているから驚きだ。



写真6 すばらしいチームワークで次から次に流れてくる袋を積んでいく。


この様にノンコを使いながら徐々に積み上げていく。全体が中心に向かって少し傾くようにずらしてゆくのだが、これを4人でどんどん積んでゆく。一時間もしないうちに積み上げる職人技は感動だった。倉庫でのハイヅケの技は若い世代にも受け継がれている。

事が終わると風呂に入る文化も残っている。というのも、仕事で大量の汗をかくし、穀物を扱うので身体についてしまう。それを洗い流す為だ。会社の事務所には風呂があるらしく、どこの倉庫会社にも立派な風呂があるようだ。


写真7大同倉庫さんの浴室


おわりに
今回のフィールドワークは小樽の人々とインタビューを受けてくださった人々の優しさなくしては不可能だった。小樽の歴史と港湾労働の話を聞いていくなかで、かつての小樽の発展と現在の小樽があるのは、ハマカセギの男たちの気持ちのよい人間性と職人技をもってした血と汗の積み重ねだと確信した。


謝辞 
石川さんをはじめ、坂間さん、赤川さん、山下さん、手鹿さん、住友さん、そして何度もお世話になった渡辺さんに感謝を申し上げたいと思います。ありがとうございました。


参考文献
平井正治(2010) 『無縁声声―日本資本主義残酷史―』 藤原書店


関西学院大学 社会学部 3年
          渕 修平