関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

小樽と鉄工所-海から陸への変遷史-

橘 将吾

はじめに

 小樽は観光都市としての色を強く持ち、運河を中心としたノスタルジックな街並みを売り出しているが、古くから港町としての機能を持った都市でもあった。現在では太平洋岸貿易中心の流れにのみこまれてかつての勢いを失っている小樽港も江戸時代には北前船や鰊漁で栄え、またその後も北洋漁業の中心港として繁栄を極めていたのである。そして、そんな小樽港の影響を強く受け、北海道開拓とともに歴史を歩んできたのが小樽の鉄工所である。今回、私はその鉄工所を小樽で行ったフィールドワーク、鉄工組合の資料を基に時系列でくぎり、現代にいたるまでのその変遷をまとめていくことにする。

第一章  江戸・明治時代 −鰊漁と鉄道による小樽鉄工史の幕開け−

 小樽と鰊の関係は古い。小樽港は江戸時代から鰊の漁場として栄えており、その鰊からできた鰊粕は高級飼料として大きな需要があり、北前船で運ばれ日本中に出荷されていた。そのピークは明治30年頃だといわれている。そんな鰊漁の発展とともに、その需要を伸ばしていったのが鰊粕をしぼるための鰊釜を中心とする様々な鰊漁具である。このことが小樽において鉄工所が栄えるための最初の大きな一歩となったのである。当時、入植活動が積極的に行われていた影響もあり、鰊釜のような鋳物は富山県高岡市から、船釘は新潟県燕市からやってきた職人をはじめとして様々な背景をもった鍛冶職人よって盛んにつくられていたといわれている。明治時代から小樽で金物店を営んでいる新海金物店にお話を伺った際に、「昔はここでも鰊釜を扱っていたはず。」とのようにおっしゃられていたことからも、当時鰊釜というものが広く一般にまで普及していたのではないかと考えることができる。
また、それと時を同じくして明治28年に国産の蒸気機関車が小樽でつくられたことも、市内の鉄工所の繁栄に大きく影響を及ぼした。この機関車の部品の修理や整備などが必要とされたため手宮地区には当時、本州から集まった人々が創業した鉄工所がたくさん存在していたとされている。
時代としては少しずれることになるが、手宮にある牧野鉄工所の牧野さんによると彼が鉄工所を開いた昭和20年ころには手宮は「鉄工所の山」であったそうだ。

第二章 北洋漁業の興隆と鉄工所

 明治30年にピークを迎えた鰊漁がだんだんと下降傾向にむかっていったこと、また日露戦争の結果として南樺太が日本の領土になったことなどが影響して小樽では鰊漁に変わり、北洋漁業による蟹、さけ、マス漁が盛んになった。そして、そのための漁船が多く小樽港にも停泊することとなった。鉄工所もこの流れに強い影響を受け、漁に必要な籠や、船の金具、そしてとった蟹や鮭などを保存するための缶詰をつくる製罐業が盛んにおこなわれたのである。また、高島にある有限会社共栄鉄工所(これ以後は共栄鉄工所と記す)のように北洋漁業に出航する船のエンジン整備などをてがける鉄工所も当時は多くあったそうである。現在は、そのような鉄工所はほとんど姿を消しており、残っていても共栄鉄工所のようにエンジンの整備だけでなく、その他の業務にも着手している。
他にも現存する鉄工所の中には小樽製作所(現:オーエスマシナリー)のように元は製罐業の下請けであったが、のちに独立して今の鉄工所にいたるというケースが数多く見られる。
また、この辺りは鉄工所が多く株式会社光合金製作所(以後は光合金製作所と記す)もその一つである。(図1)


図1 光合金製作所
鉄工関連会社から独立した光合金製作所。現在は不凍給水栓の開発・製造・販売を行なっている。この辺りに鉄工所が多いのは、当時、製罐業の中心を担っていた北海製罐がこの一帯に大規模な工場を構えていたからである。

しかし、盛んに行われていた北洋漁業も太平洋戦争が激化するにつれて国策のもと様々な統制がひかれるようになり物資の供給が不安定になるにつれその勢いを失うこととなる。そんな中、大きな鉄工所などではその機能を軍や国に従事し軍需工場化するようになる。

第三章 太平洋戦争と鉄工所

 太平洋戦争が開戦し、あらゆる原料の輸入が閉ざされると日本は資源不足に見舞われ鉄などの物資は配給制が敷かれることとなった。また、太平洋戦争が激化すると軍の物資に対する統制はますます厳しくなった。その結果として市場に安定的に物資を提供されることは困難になったのである。そのような状況の中で清水商事株式会社(現・清水鋼機株式会社)のような大きな企業では国策のもと国から委託された業務を遂行する会社もあらわれた。清水鋼機株式会社は、その社史によると
この月、重要産業団体令に基づいて設立された石炭統制会が、当社を指名して同会傘下の鉄工指定取引店としたために、当社は法廷根拠に基づく配給組織の傘下に直結されることになり、北海道における全炭鉱向け鉄鋼材の配給をつかさどることとなったのである。
(中略)
 このようにしてわが社は、名実ともに国策遂行機関の一環たる地位を確保したのである。この年の商金高は、一一五九万円余を計上した。
                (清水鋼機株式会社創業100年史 p51より)
と書かれており、当時から有力であった鉄工所の中には国策のなかで一層の成長をとげたものもある。しかし、そのように戦中に利益をあげた鉄工所も含め、小樽の鉄工所は戦争がもたらした影響も伴って、戦後苦しい時代を迎えることになる。
また、戦時中も牧野鉄工所のような個人経営の小さな鉄工所では、戦争の影響をほとんど受けることなく依然として北洋漁業におもむく船の金具などを作製していたという事実は非常に興味深いものである。

第四章 現在の鉄工所−海から陸への変遷−

 戦後、鉄工所は大きな被害を受けることとなる。その要因としては以下の4つの事象があげられる。 
樺太がロシア領になったことに伴い北洋漁業が徐々にその姿を消していったこと
② 戦時中の国策により小樽にあった船が戦時利用され、その多くが姿を消したため船の修理などを行っていた鉄工所への受注が減少したこと。
③ 太平洋ルートの台頭により戦前から続いていた日本海ルートがその機能を失い、小樽港を出入りする船が急激に減少したこと。
④ 道内の炭鉱が徐々に閉鎖され炭鉱機械も減少していったこと。(小樽港はかつては石炭を送り出す窓口港でもあった。)
これら4つの事象により小樽に数多く存在していた鉄工所の多くはその姿を消し、残った鉄工所も元来のような営業形態では仕事の存続が厳しい状況に追い込まれた。そんな中で各々の鉄工所がそれぞれ培ってきた技術を基に港や漁船を中心とする海の業務から建築資材などを中心とする陸の業務に移行していったのである。たとえば、上記でも一度述べた手宮にある牧野鉄工所ではもともとは船具や船の錨などをつくっていたのだが現在は主に建築資材の作製をおこなっている。(図2)


図2 牧野鉄工所の様子
上の写真のように牧野鉄工所の作業所の隅では、かつて作製された船具が散らばっており、元は漁船やはしけの船具を中心に業務を行っていた面影を見ることができる。

また、前章でも述べた高島にある共栄鉄工所(以後は共栄鉄工所と記す)ではもともとは船のエンジンの整備などをおこなっていたのだが、小樽が港としての役割を失うにつれて、その技術を活かしてビルなどの非常用発電機の整備なども行っている。共栄鉄工所の鈴木氏によると現在では、船舶の仕事より陸の発電機の仕事の割合のほうが舶用エンジン整備の仕事の割合よりも大きいそうだ。(図3)


図3 共栄鉄工所

畑中機工株式会社のように活躍の場を小樽だけではなく海外に向けることで商圏を広げている鉄工所も見られた。(図4)


図4 畑中機工株式会社
北洋漁業が栄えていたころには、圧力容器の殺菌釜などを作製して利益をあげていた。現在では、食品加工用の高圧殺菌装置の製造・販売を行っており中国などにも輸出を行っている。

清水鋼機株式会社は上記のような工夫とは少し異なるが、H12年に元々倉庫と してあった土地に新社屋を建てる際、折よく他会社からの申し出があったので2階部分をテナントとして貸し出し収入を得ている。(図5)


図5 清水鋼機株式会社
会社の事務所は右側の半分ほどで、左側のスペースはテナントとして提供を行っている。
上記に挙げた4つの理由などから小樽港を中心とした船具や船のエンジンなどの作製だけでは収益をあげることが困難な現代において、それぞれの鉄工所がその生き残りをかけて行った様々な工夫がそこにはあるといえる。

第五章 まとめ

私が調査前に仮説として抱いていた同郷者集団のつながりはあまり見られることはなかった。鉄工所の経営者の家族は石川や新潟などもともと金属加工の職人が住んでいた地方の出身者が多く、私が調査を行った鉄工所もほとんどが石川と新潟の出身者であった。しかし、そこに同郷者という強いつながりは特に見受けることはできなかった。また、共栄鉄工所のように仙台出身であったり、ジャンルは異なるが新海金物店や吉田金物店のような金物店になると山梨や愛知の出身であったりと様々な出身地を見ることができる。(図6)これは政府が積極的に移民政策を推し進めていた明治期に移民として小樽に来た人々が生計を立てるために手に職をつける必要があったからではないかと考えられる。

会社名         出身地
清水鋼機株式会社 新潟
株式会社光合金製作所 新潟
株式会社大川鉄工所 新潟
牧野鉄工所     石川
畑中機工株式会社 石川
有限会社共栄鉄工所 仙台
新海金物店     山梨
吉田金物店     名古屋
図6 会社と出身地

鉄工所における同郷者意識というものは見受けることができなかったが、ここで展開したように時系列で分けて鉄工所の変遷をまとめることで、小樽の歴史を新たな視点を通して再認識することができた。今も小樽運河を少し海側に向かって行くだけで、観光という華やかなイメージとはかけはなれた寂しげな一帯が広がっている。(図7)そして、その中に今も数多くの鉄工所がのこっており、かつてここが港を中心として栄えた町であったということをみることができる。私が訪れた鉄工所の作業員のかたがた皆は「昔はもっとたくさんの鉄工所があった。」とおっしゃっていた。今となっては港としての機能のほとんどを失ってしまった小樽の街において、かつてのように海を中心とする仕事を続けるだけで生計をたてることは厳しくなってしまった。それにともない鉄工所の数も減ってしまったのだという。それでも陸を中心とする作業に転換していった鉄工所の生き残りをかけた工夫や闘いの姿を私は今回のフィールドワークを通して見出すことができた。


図7 観光地化された小樽運河
この倉庫の裏をもう少し海側に行くと観光のイメージから離れた一帯が姿をあらわす。

謝辞

今回の調査にあたり、小樽市総合博物館の小川直章先生、佐々木美香先生、株式会社光合金製作所の井上晃氏、株式会社大川鉄工所の大川紘司氏、有限会社共栄鉄工所の鈴木晴夫氏、清水鋼機株式会社の大場康弘氏、畑中機工株式会社の畑中敏良氏、牧野鉄工所の牧野氏、新海金物店の新海氏、またそのほかにも小樽で出会った鉄工所で働くたくさんの方々に貴重なお時間を割いて協力をいただきました。ここに深くお礼を申し上げます。

参考文献

小樽鉄工組合(2010年)「創立50周年記念誌」小樽鉄工組合
清水鋼機株式会社(1990)「清水鋼機株式会社創業100年史」清水鋼機株式会社