関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

生き残った小樽の和菓子屋たち

村川美有

はじめに

「小樽」といえば、今ではチーズケーキやバタークッキーなど洋菓子のイメージが強い。しかし、洋菓子土産が有名になる前、小樽は和菓子で有名であった。昔に比べてずいぶんと和菓子屋の数は減ってしまったようだが、今もなお残る和菓子屋には土産商品の洋菓子には負けそうにない歴史のドラマがあった。ここでは、小樽が和菓子で栄えていた理由と現地に赴いて聞かせていただいた「生き残った小樽の和菓子屋たち」のドラマを紹介したいと思う。

1章 なぜ小樽で和菓子屋が発展したのか

理由の一つとして、原料の手に入りやすさが挙げられる。小樽はかつて小樽港として発展していた。そのため、ビート糖(十勝産)や水あめの元であるでんぷんがとれる馬鈴薯・豆(十勝、帯広産)など道内で取られたものが全て小樽に集められた。そのため、和菓子を作るには最適の場所であったと言える。
二つ目は、小樽の人々が甘いものを求めていたからである。求めていた人とは漁師と港湾荷役労働者である。漁師は海へ出る前の縁起物として和菓子を食べることが多く、また力仕事に糖分は必要であった。そして港湾荷役労働者は当時時間交代制で仕事をしていた。仕事時間が一般人とずれる時もあったため、飲酒できなかった。よって、『お酒の代わりに甘いものを取っていたのではないか』という意見を中ノ目製菓株式会社代表取締役・中ノ道孝道氏から頂いた。
三つ目は、『小樽港には関西系の和菓子が集まっていたから』と澤の露本舗代表・高久文夫氏に伺った。関西系の和菓子とは、お干菓子や和生などの飾り菓子のことである。なぜ飾り菓子なのかというと、大阪はかつて「天下の台所」と呼ばれるほど栄えていたため、朝廷に物を献上する機会が多く、見た目も豪華なものである必要があったからである。それに対して、せんべいなどのボリュームのあるお菓子は函館港に集まった。こうして、小樽と函館の港に集まったお菓子は人が集まる旭川へと届けられ、そこで商売が行なわれた。今でも、小樽に飾り菓子が多く出回った名残として小樽ではコンテストが開かれるほど飾り菓子が発展している。また「三笠山」や「中華まんじゅう」など関西発祥の和菓子も広く浸透している。コンビニでも売っているところをみると、今となっては関西以上に売れているように思う。


コンビニのレジ横で見つけた中華まんじゅう

2章 和菓子屋の系譜

 上記の理由で発展し数を増やした和菓子屋であるが、戦中の砂糖はどのようにして入手したのか。砂糖が入手できず、また疎開で商売を続けられる状態でなくなって廃業せざるをえなかった和菓子屋ももちろんあった。政府から砂糖が支給されたところもあれば、でんぷん工場に行って物々交換をしてでんぷんをもらったり、政府には内緒で農家や水飴屋にお金を払って作ってもらったりと、今だから公言できる「闇ルート」を使った和菓子屋もあったという。ここまでして砂糖を入手したのは、消費者からニーズがあり、売れたからである。戦中は貧しい生活を送り我慢が強いられる辛い時期であったが、だからこそ甘いものは人にとってつかの間の心の安らぎという意味で、必要不可欠なものであったのであろう。
時代に合わせて、和菓子屋は形を変えていった。調査を続けていくうちに一つのお菓子が大きなポイントとなることを発見した。それは「飴」である。飴(水飴)は、鍋とでんぷんと水さえあればできる。そのため、和菓子屋の前世が「飴屋」であるところが多い。また、戦中は「飴屋」であったという和菓子屋も多い。戦後の昭和20年頃の菓子屋はほとんど飴を売っていたという。そのため、競争率が高くなり飴の価格は安くなった。そして昭和25年政府による砂糖統制が撤廃されると、他の菓子業が急成長し飴屋の数はぐんと減った。それでも今もなお飴の専売をおこなっている飴屋があるが、その紹介は4章でおこなう。
はじめでも述べたが今は食の欧米化が進み、和菓子よりも洋菓子を好む人が増えた。そのため、和菓子屋専業では成り立たなくなり、和菓子・洋菓子両方ともを扱うお店も増えた。後継者が見つからず廃業した和菓子屋もあれば、飴屋または和菓子屋からパン屋となって長い歴史をもつ店もある。
今ある和菓子屋は時代に生き残るため、二つのタイプに分かれたと私は考える。その両方のタイプそれぞれの和菓子屋のドラマを3、4章で述べていこう。

3章 時代に沿い行く和菓子屋

(1) 花月
花月堂は小樽の商店街に入ると必ずと言っていいほど宣伝歌が聞こえてくる、道内に何店舗もある有名な和菓子屋である。そして、題にある通り、時代に沿い世の中のニーズに合わせて洋菓子も売っている。スーパーではショートケーキを売っているのを見かけたし、ドラ焼きの中にプリンが入っているというまさに和洋折衷のものも数多く発売している。8代目社長の古川昭男氏にお話を伺った。
花月堂は、1851年に越後国(新潟)新発田藩の杉本次郎吉氏がはじめた。1904年3代目社長のときに、港が盛んで景気も良かったため北廻船で小樽にやってきて、1975年に杉本花月堂から花月堂となり今に至る。戦中は、政府から砂糖を支給されていたそうだ。さすが、大手の和菓子屋である。北海道はでんぷん工場が多いため、本州に比べ有利だったはずと古川氏はおっしゃっていた。今は、上白糖は外国から、和三盆は四国から、黒砂糖は沖縄から調達している。和菓子が北海道で安いのは材料が手に入りやすいからであり、温暖化の今でも北海道では比較的寒いため、材料は品質的にも北海道産が良いのだそうだ。
関西発祥の和菓子についても詳しく教えていただいた。発祥が京都ではないかと言われている「中華(花)まんじゅう」。これは三日月のような形をしていて、小樽のコンビニのレジ付近に当たり前のように置いてあり、私が驚かされたものである。この形には2つの説があり、1つは亡くなった屯田兵に何かしてあげるために、畑で使う桑の上に小麦粉を乗せて焼くと、このような形になったという説。そしてもう1つは、はすの花びらの形という説である。名前の由来に関しては、道内に“ちよか”という女の人がいて、それがなまって、“ちゅうか”になったという説がある。しかし、それだと関西から伝わってきたときには違う名前だった可能性が強いが、詳しいことは分からないとのことだった。
次にほとんどの和菓子屋で売っているどらやき。小樽で見るどらやきは関西で見るものよりかなり大きいものが多く、それを多くの和菓子屋が「三笠」や「三笠山」という名前で出していた。三笠山とは奈良にある山の名前である。どらやきの形が三笠山に似ているというところからきているらしい。では、逆にどらやきという名前はどこからやってきたのか。出航のときの合図に使うゴングのようなものを銅鑼(どら)といい、そのことと関係がありそうであるが、それについても様々な説があり詳細は分からないのだそうだ。


町の和菓子屋で見つけたどらやき
私の手のひらほどの大きさだった。一個でお腹いっぱいになりそうである。

(2)松月堂
松月堂は、今の取締役会長である奥村泰吉氏のお父様が花月堂に10年弟子入りし、花月堂の花を「松」に変えて、創業した。3代目からは、和菓子だけでなく洋菓子も売るお店となり、戦後は一時期なんと洋菓子6:和菓子4にまでなったという。今は、5:5で売っている。戦中の砂糖は政府からの支給と闇市で入手し、何軒かの和菓子屋を合併してお菓子を作っていたようだ。
 また(1)でも述べた中華(花)まんじゅうであるが、ここでは「中花」とははすの花が開く前の状態のことを言い、それに関係があるということを聞いた。また、小樽ではお葬式の後に「お世話になりました」という気持ちを込めて、集まった人に配る習慣があるのだそうだ。中華まんじゅうは手がこんでなく、家紋などを入れなくてよく早くできるため、多く利用される。その特性を利用して、最近では米寿の祝いや結婚式で出したいという要望もあるのだそうだ。
 松月堂では、沢山の「和生」という生菓子があった。あんを練って切ってつくるため、別名ねりきりという。布巾で包んだり、竹のすだれで模様をつけたりする。季節ごとで作るものが違い、春は梅や桜の花、夏は寒天をのせて涼しげな水菓子であやめやてっせんの花を、秋はかきやもみじ、冬は鶴や松などその季節を表現するものを作る。どれも繊細で美しい作りでショーウインドウを見ているだけで楽しい気分になる。


松月堂の夏の和生
食べるのがもったいないくらい綺麗である。

(3)野島製菓株式会社
 野島製菓は、元々飴屋であったが途中から様々な和菓子や飲料を扱う店になった。取締役社長である野島弘氏にお話を伺った。一旗あげようと愛媛の東予市から富良野、そして小樽へやってきた雑穀商人の野島藤平氏によって、1925年に創業された。そして、飴屋を買収して事業を継承し、社名を野島製菓に変更した。1968年までは「コハク飴」という琥珀色の道産醤油の飴や「熊シャケ飴」を中心に売っていたが、1972年からは菓子業界の競争に生き残るため団子を中心に売り始めた。飴と団子は、材料も機械も違うため平行して販売はできなかったそうだ。とはいっても、団子屋もライバル店が沢山ある。野島製菓は直売をしていなかったため、他の団子屋への対策として真空パックで日持ちし、卸売りできる状態にして売上げをカバーした。賞味期限も2,3日から2週間まで延ばせるようになった。道内だけでなく、東北にも販売している。
 野島製菓の面白い商品と言えば、ラムネである。廃業するオホーツクキング食品(ラムネ・シャンパンなどの飲料メーカー)を買収して、1991年から販売している。元は、小樽メロンラムネという名前だったが、他の道内地域では売り辛いということで北海道メロンラムネに変更した。
他には、ねりごまやねりくるみという岩手・宮城の家庭の味をヒントにした東北特有の食べ物やぶどう糖を販売している。戦中の砂糖は、政府からの支給と闇ルートでもらい、戦後も政府からの優先枠で有利だったそうだ。


北海道メロンラムネ 
様々な種類があるため、お土産にも喜ばれそうである。

4章 時代にあらがう和菓子屋

(1) 中ノ目製菓株式会社
小樽には時代には合わせず、1つの和菓子にこだわりを持つ和菓子屋もある。
甘納豆のみを販売する中ノ目製菓もそれを代表する和菓子屋である。現在3代目代表取締役である中ノ目孝道氏にお話を伺った。中ノ目製菓の始まりは、1932年から始めた豆腐屋であった。そして、戦中の1945年になるとここでも「飴」を作った。なぜなら、豆腐屋の時に使っていた鍋を水飴作りにそのまま使うことができたからである。1950年砂糖統制が撤廃されると、飴屋はほとんどなくなった。中ノ目製菓も十勝と帯広産の豆が渡ってきており、甘納豆を作る職人がいたため、甘納豆屋となった。戦前は青えんどう(フライビーンズ)や煮豆も作っていたが販売ルートの違いや機械が増えてしまうため、次第に甘納豆だけを販売するようになった。洋菓子が売れるようになってきた時代だが甘納豆専売として他は気にせず、豆の種類を増やすことはあっても、今後他の商品を増やすことは無いときっぱりとおっしゃっていた。その潔さに小樽に古くからある和菓子屋としての誇りを感じた。


中ノ目製菓の甘納豆
白豆、金時、小豆の3種類がある。

さて、小樽には面白い甘納豆の食べ方がある。それは、「甘納豆入り赤飯」である。1952年、料理研究家の南部明子氏がラジオの料理番組で金時甘納豆入り赤飯を紹介した。南部氏が発案した料理ではないということは分かっているが、南部氏のラジオ放送により広く普及したようである。このラジオ後、甘納豆の受容が爆発的に増え、中ノ目製菓でも前年の3倍売れたそうだ。神社の祭(春・秋)のときに、家でお赤飯を炊く風習は戦前からあり、今でも甘納豆入り赤飯は道内のコンビニでおにぎりとして売られるほどポピュラーである。味は甘納豆の甘みとごま塩のしょっぱさがうまく調和し、見た目は関西で見るものよりピンク色である。食べてみると、最初は初めての甘いご飯に驚いたが、まるでおやつのようでおいしく食べることが出来た。


町の商店街で売っていた甘納豆入り赤飯。年中売っているようである。

(2)飴谷製菓株式会社
かわいい飴の出店の後ろに飴谷製菓はあった。そこで、代表取締役の飴谷佳一氏にお話を伺った。富山に飴屋六兵衛という人がいて、水飴の計り売りをしていた。富山は米飴だったため「新境地で全く違うものをしたい」と樺太へ渡った。その後、1918年にビート糖とでんぷんが豊富である小樽にやってきたのが4代目のときだそうだ。それまではらくがんやべこ餅なども扱っていたが、6代目の時には飴の卸しと製造のみになった。そして、今の7代目佳一氏の時に人力車に乗った観光客からニーズがあり屋台を出したそうだ。
バター飴やきなこ飴、雪たん飴などを試食させていただいた。初めての味や食感に手作業ならではのあたたかさと飴専売のこだわりを感じた。戦中は沢山あった飴屋も専門的に今も売っているのは、この飴谷製菓と(3)で紹介する澤の露だけだそうだ。生キャラメルやチーズケーキなど様々なブームが起きた今もなお、飴だけを売るのは、「飴谷」という名前のブランドがあり、それは使命であると感じているからと佳一氏はおっしゃった。
『流行は追いかけたら、追いかけ続けなければいけない。そして、流行が廃れたら何も残らない。お年寄りはキャラメルを食べられない。製菓業界で長く生きるためには、残るものを作らなければならない。』
飴のお話を聞かせていただいたが、これは飴に限った話ではないと感じた。深くこの言葉が心に残った。


雪たん飴
石炭の上に雪がつまっているよう見えるのが名前の由来


観光客のニーズに応えて誕生した飴谷製菓の出店
無人であることに小樽の人の穏やかさが垣間見える。

(3)澤の露本舗
1911年、旧名「水晶飴玉」の澤の露本舗代表である高久文夫氏にお話を伺った。福井県出身の澤崎浅次郎氏が長崎でカステラなどの洋菓子を勉強した後、飴にたどり着き、水晶飴玉を作った。しかし、飴の原材料は一般的に水飴であるが、澤の露の水晶飴玉の原材料はサトウキビからとれる砂糖だけである。これを飴と呼べるのかという議論になり、水晶飴玉は専売特許をとった。他の飴屋に比べ、サトウキビでしか作れない水晶飴玉は戦中に作ることは不可能であった。そのため、戦中は疎開し、1951年に再開した。そのときに、支援したのが鈴木商店の松川嘉太郎氏である。松川氏は、小樽の中央バスを創立者であり、澤崎氏と同じ福井県出身だったため、知り合いだった。松川氏の銅像は小樽の住吉大社にあり、小樽の経済を救った人物として讃えられている。

澤の露店舗が販売している商品は、水晶飴玉一つである。それだけで大丈夫なのか?と思われるかもしれないが、この一つの商品がすごく有名で全国にファンが多い。高久氏は、この世の中には2種類の店があるとおっしゃっていた。「どこどこの何々が欲しい」というブランド商品を持った都会型の店。そして何でも一通り置いている田舎型の店。確かに今ヒットしているお土産商品は全て「そのお店のその商品だから価値がある」という印象を受ける。『ヒット商品が何か一つ無いと生き残れない』と高久氏は言う。競争が激しい製菓業界では、他店と同じことをしていては生き残れない。和菓子屋が消えつつある、小樽の現状を表した一言である。
しかし、都会型と田舎型、どちらが良いというものでも無いと私は考える。両方あるから、両方の良さが際立つのであろう。今回私は小樽の歴史がつまった沢山の和菓子屋に伺わせていただき、どらやきや中華まんじゅう、和生など同じ和菓子を沢山見た。しかし、同じ和菓子でも名前や大きさなどが少しずつ違い、どの店の方も自分の店の商品を愛しているのが分かった。私はお話を聞かせ