関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

「桜町」と「堺町」

「桜町」と「堺町」
渡邉 那奈

はじめに

 「小樽」と聞くと何を思い浮かべるであろう。運河、ルタオ、倉庫群。今や観光地と化した小樽であるが、昔はニシンの漁が盛んで、北前船の往来により栄えていた時代もあった。時代をさかのぼれば、小樽の歴史的背景が見えてくる。小樽の中においても、さらに細かく分析していけば、ある地域内だけで起っている事柄が隠されていることがわかる。このことを踏まえ、「人々の住む小樽」という視点と、「観光地としての小樽」という二つの視点から小樽を分析していきたい。
 第1部では、JR函館本線小樽築港駅周辺の桜地区のまちの姿をみていく。桜町にはロータリーが整備されているが、一体なぜなのか。この町がどのようにつくられていき、現在のまちの姿になったのかまでを探る。
 第2部では、現在観光地として栄える堺町、堺町通りについて詳しく掘り下げる。堺町には、小樽港として栄えた戦前と、戦後の衰退、運河保護運動に関連した堺町通りの再出発など、短い期間に多くの歴史が詰まっていた。これらを時代の流れに沿ってみていく。

第1部 「桜町」

1.野口喜一郎と東小樽土地区画整理組合

 まず、桜町がどのようにつくられたまちであるかを、桜町の創立と深く関連している野口喜一郎及び小樽土地区画整理組合の活躍に触れながら説明していきたい。
 桜町として発足する以前、付近一帯は朝里村大字熊唯村地内であった。


この地域は小樽市と札幌市の間という位置であり、札幌への連絡通路である国道が通っていた。しかし、国道と言っても当時は平磯岬を迂回して到達するといったものであった。地域一帯も山手は沢地、海岸付近は漁業関係に従事していた。
 そのような中、札幌国道の大改修工事が昭和6年に始まった。それを機に、平磯隧道の施工も約束され、小樽の発展においてこの地に目が向けられるようになったのである。
 ここでこの熊唯に関心を寄せたのが野口喜一郎であった。「北の誉酒造」2代目である野口喜一郎氏は、この熊唯に多大の関心を寄せた。知友の河村岩吉氏とこの地域の開発を企てたのである。彼は一台住宅地にしたいと考え、東小樽土地株式会社を設立し、土地の買収を始めた。しかし、この話を聞いた住民たちが、土地の値上がりを予想し次第に売らなくなったため、一度この計画は失敗に終わる。
 この計画の挫折した経緯が道庁に伝わり、道都市計画課長である清水武夫氏が、土地所有者たちの協力に基づく土地区画整理の理論を提案した。野口氏はこの計画に共鳴し、土地区画整理を推進することを約束した。
 清水氏はこの沢の属する朝里村地域の主な人達に区画整理について説明し、市街地としての開発をPRした。地域はこの計画に好意を寄せ、全面的協力を快諾した。朝里村村会は、予定準備期間4カ月の経費を援助する方向に決定された。それと同進行に、清水氏は地域全体の現況測量を実施し、自ら踏査しながら、公園・学校などの配置の検討も慎重に行った。最終的な計画案が出来上がったのは昭和8(1933)年の9月である。
 この計画によって、熊碓村一円約40万坪の土地区画整理事業を起こすこととなり、土地区画整理組合を発足することとなった。朝里村長の田中作平氏は、大地主である野口氏に相談した。もともと開発を企て会社組織で地域内の土地を買収している野口氏は土地区画整理組合の組合長となることに同意し、組合設立へのスタートを切った。
 田中氏は、さらに地域内の大地主に呼び掛け、いずれからも同意を得られると確信し、同都市計画地方委員会に対し、組合設立への援助を要請した。40万坪という当時としては大規模な整理事業は道内では初めてのケースであったため、この事業を盛んに実施していた岡山県と交渉し、組合設立までの準備を整えてもらうため、荒牧亀雄氏を招聘した。彼は組合設立に関する許可申請書を作成し、昭和9(1934)年3月、内務大臣あてに設立許可申請賞を提出した。同年7月に正式に許可が下りるという高速なスピードな結果は、清水氏、荒牧氏の功績の結果であるともいえる。

2.『田園都市』計画と土地区画整理事業

 桜町竣工の計画において注目される場所が「桜町ロータリー」である。

現在ロータリー交差点は日本では数少ないものとなっているが、明治から大正にかけて都心の交差点に数多く設置されていた。桜町ロータリーの竣工計画もその中に入ると考えられる。
 ロータリーが設置される経緯として、「田園都市」を挙げる。「田園都市」とは、明治31(1898)年にイギリスのエベネザー・ハワードが提唱した新しい都市の形態である。明治40(1907)年に内務省地方局有志により翻訳された『田園都市』が刊行され、この都市計画の形態が紹介された。この形態を使い都市開発を行った例として、小林一三が経営する阪急電鉄が明治44(1911)年に箕面市の桜井駅、1930年代に吹田市千里山堺市の大美野田園都市初芝など沿線周辺の宅地分譲などを行い、ロータリーを設けた「田園都市」を開発した。最近ではニュータウンの形態に「田園都市」を組み入れる場合も少なくない。
 野口氏はこの計画に目を付け、東小樽地区の区画整理を「田園都市」の形態を使った開発を進めていった。それを示すものとして、『小樽市桜町由来書誌』において、次のように書かれている。「ロータリーの造園工事については、組合長野口氏の理想を端的に生かすべくロックガーデン式に設備し、その中央部には地区内から厳選した枝振りのよい栓の大木を移植し、その周辺には、張碓神工園付近産出の焼き石を配置した。」野口氏が、特にロータリー周辺の景観に力を入れていたことが分かる。
 さらに、銀鱗荘の存在も忘れてはならない。銀鱗荘は桜町ロータリーのできた昭和13年に建設着手された。もともと余市町の猪俣漁場の邸宅として建てられたが、ニシン不漁のため手放され、後に野口氏がこれを買い取ったのである。野口氏は、東小樽地域の発展と漁場建築の枠を後世に遺すという意味で、この建物の移築を計画した。もともとの予定ではロータリー付近に設置する予定であったが、海を望む眺望の地への移築計画へと変更し、また迎賓館風に建設することとなった。なお、移転復元は大林組が請け負っている。
 なお、「桜町」という名前は昭和18(1943)年に熊碓村から改名されて付けられた名前であるが、この町名も東小樽土地区画整理組合の中で決定されている。名前の通り桜が植えられた通りもあり、「弥生通り」「吉野通り」「八重通り」といった、桜にちなんだ名がつけられている道がある。
 さて、「田園都市」を背景に区画整理を行っていった桜町であるが、上で例をあげたような都市開発の一例と比較すると、「都市開発」と言える規模ではない。しかし、『小樽市桜町由来書誌』の事業着手の記述によれば、先進諸都市の区画整理事業を視察するため、岐阜市で行われた全国土地区画整理事業者大会に組合者が出席したり、当時先進都市であった東京市内、名古屋市、宇治山田市土地区画整理事業の視察へ直接赴くといったこともあり、「当組合今後の運営に資するところ多かった」とあるように、先進都市の視察を重視していた様子が見られる。この様子から、先進都市を目指す方向性がうかがえる。ではなぜ先進都市のような発展を見せなかったのであろうか。
 原因として主に第二次世界大戦の影響があげられる。『小樽市桜町由来小誌』によると、昭和11(1936)年には整備した国道筋に土地分譲の立て看板を掲げ、パンフレットを印刷して一般に配り、宣伝にも力を入れ始め、分譲の数も増大した。しかし、昭和13(1938)年になると支奈事変の影響により、組合職員が満州に召集されるといった事柄も含め、次第に人気が薄れていく。東小樽土地区画整理組合の事業は昭和15(1940)年に完結と至るが、多くの分譲の地が残っていた。この時の金融機関の業日決済の齟齬は、組合長である野口氏が各役員の分を含めた全額を肩代わりして返済している。
 終戦後は、公布された農地法により、地区内整理地の一部が農地の形態を残していた関係上、農地法の適用を受けることとなり、宅地化されるはずであった土地の大半が再び農地として還元されてしまった。これも地域発展を阻む原因の一つでもある。
 東小樽町会の方々にお話を伺うことができたのでそちらも参照していきたい。東小樽町会会長の宮田正幸氏、前副会長の阿部利男氏、小樽さくら保育会理事長の吹田友三郎氏にお話を伺った。戦時中頃のことを伺うと、桜町周辺には住宅はほぼなく、山側である桜町には農家が多く、海側である船浜町においては漁業を行っている家も少なくなかったようである。土地区画整理事業については、都市開発というよりは、道路整理といったイメージでしかなかったようである。しかし、この整理事業によって地域の交通の利便性は格段に上がったため、野口氏の功績は町会においても称えられている。

3.住宅地化した桜町

 第二次世界大戦の影響で都市開発として一頓挫をした桜町であったが、戦後には大きく変化を遂げていく。
 昭和22(1947)年、札幌市と小樽市をつなぐ国道5号線の平磯トンネルの工事が完成する。昭和25(1950)年には市立桜小学校の新校舎が建築され、昭和26(1951)年中央バス朝里線が開通、30(1955)年に中央バス東小樽線が開通するといった公共・交通機関の整備が行われるようになる。
 急激な発展が見られたのが昭和30年代後半からである。理由としては、中央バスが桜町ロータリーまで開通したことによる。吹田氏に当時の様子を尋ねたところ、確かに昭和35(1960)年から桜に家を買う人が増え始め、昭和40年代になると急増したという。『小樽市東小樽町会 五十年のあゆみ』の中でも、元町会役員であった佐々木喜久雄氏が「昭和40年代の地域の急激な発展」を思い出として語っている。また、この住宅の急増に伴い、農家人口は激減していった。


現在の雰囲気としては、昭和後期や平成になって建てられた、同じような構造・外観を持つ家々が軒を連ねている場所が多い。

札幌市よりであるからなのか、その利便性を理由に小樽市内の住宅地として栄えているようだ。しかし、細い道路へ入っていくと昭和30〜40年代に建てられたと考えられる建物も数件あった。また、海岸地域の船浜町へ行くと、今でも船を持った家や木造建築の家が残っている。

銀鱗荘は今なお高級旅館として運営されている。


第2部 「堺町」 ―観光地化した背景―

1.堺町の成立

 小樽駅から通称「北のウォール街」を経たところに位置するのが堺町である。「堺町」という名前の由来は、オコバチ川(妙見川)が「高島場所」と「オタルナイ場所」の境界だったことからであるとされる。堺町通りは水際の道であり、明治中期に埋め立てられた。埋め立て後、堺町通りの海側に港の岸壁が設けられ、日露戦争以後、小樽経済の発展に大きく寄与した樺太航路の船が発着した。これに伴い堺町界隈には銀行や商屋が店を出し始めた。三井財閥は明治13(1880)年に三井銀行、明治16(1883)年に三井物産を小樽に進出させ、石炭の他・砂糖・綿花など様々分野で強力な支配力を持っていた。これにより、堺町通りの問屋街も大いに栄えることとなる。

2.問屋のまちから小売りのまちへ

 大正から昭和初期において繁栄を見せた堺町通りであったが、昭和に入ると今までの繁栄が札幌市へと移り変わっていった。この時代は「斜陽」とも表現される。三井物産を除いた大手商社は、昭和30年代までに出張所の機能をすべて札幌へと移行し、金融機能においても昭和45年までに同様の現象が起こった。また、札幌へ機能が移ったと同時に、小樽商人の多くも札幌へ移動し始めた。札幌へ経済の中心が移り変わったことにより、堺町界隈は衰退の道をたどることとなった。
 では、いつ頃から今のような「堺町通り」として観光地と化したのであろうか。


それは、現在堺町通りで多くの店舗を出店する「北一硝子」がカギを握っていた。

 堺町通りに位置する、「旗イトウ製作所」の代表取締役である伊藤一郎氏にお話を伺うことができた。伊藤氏は大阪で職人修行を終えた後、小樽で今の製作所を運営している。
 伊藤氏は、「北一硝子」の出店提案に協力した人物であった。その出店の仕方は、問屋街の倉庫を、テナントとして借りるというものであった。つまり、衰退した問屋街の空き倉庫を有効活用するという考えである。昭和58(1983)年、倉庫で初めての出店をした「北一硝子」であったが、この空き倉庫の転用利用は成功を収めた。要因の一つとして、昭和59(1984)年に行われた「小樽博覧会」がある。6月10日から8月26日までの78日間行われ、入場者数はのべ約168万人と、地方博としては大成功を収めた博覧会とされている。この博覧会の会場であった色内は、堺町に近く、また第2会場であった勝納町との間になるため、良好な立地から集客が見られたと思われる。
 ここで一つ注意したいのが、「北一硝子」の販売方法である。もともと問屋というものは卸売で商売を行ってきた。しかし、この「北一硝子」では小売業として営業を行う形をとった。この売り方の違いが現在の堺町通りの姿に影響を与えている。
 かつて問屋で働いていた人たちは、小売り手法を好まず、受け入れなかった。つまり、小樽商人の人々は「北一硝子」方式で新しい商店を出そうとしなかったのだ。しかし、小樽の人々も生計を立てなければならない。そこで彼らがとった策が、空き倉庫をテナントとして貸すという方法であった。
 この頃、小樽市では小樽運河の保存運動がますます盛んになり、保存運動の盛んさと「北一硝子」の成功を目にした他市、他県の人々はこれに着目するようになった。各地から小樽に商売に赴き、小樽の倉庫を借り経営するという例がうかがえる。伊藤氏の話によると、札幌、大阪、名古屋、京都といった大都市から商売に来る人も少なくなかったらしい。
 地方から小樽で商売を始めた例として興味深かったものを1つあげておきたい。それは「運河まんじゅう」である。運河まんじゅうは「運河まんじゅう本舗」の看板商品であり、店舗は入船1丁目と、堺町通りの近くに位置する。伊藤氏によると、この店舗は鳥取から商売に出向いた人が開業したとのことである。さらに、運河まんじゅうは、広島の菓子であるもみじまんじゅうの技術を使った、形を変えて作られたものであるとされる。なお、店舗の開業は昭和59(1984)年であり、運河保存運動や「北一硝子」の開業と関連するところがあるとみられる。
 小樽の有名ブランド菓子屋と発展した「ルタオ」もこの堺町通りの一角に本店を設けている。今では小樽の顔となった「ルタオ」だが、経営元の「株式会社ケイシイシイ」(本社は千歳市)の設立は平成8(1996)年と、その歴史は意外にも浅い。また、同社は「寿スピリッツ株式会社」のグループ会社であり、この会社は鳥取県に本社を構えている。堺町通りにある「可否茶館」も、小樽が本店であるものの、焙煎工場としての出発であった。初めに店舗開業が行われたのは札幌市内である。小樽の地に店舗として開設されたのは平成2年である。
 このような例から、小樽が観光地として発展した背景には、各地の商売人が深く絡んでいることが分かる。
伊藤氏によると、小樽の人々は、観光地と化す以前、まちづくりにさほど関心がなかったようである。特に問屋街で商売を営んでいた人々は、テナント貸しについて、生計を立てる手段として大家となるケースが多かった。小樽の観光地は、小樽市民だけでなく、各地の人々によってつくられたといってもよい。

おわりに

 小樽市内の全く性質の違う2つの「町」について調べた。まず、桜町の土地区画整理であるが、「田園都市」計画と知り、同計画で発展した阪急沿線のような性質を持っている町なのではないかと仮定して調べていた。しかし、実際は第2次世界大戦の影響を受けて思うように発展しなかったことがわかった。また、単なる道路整理であったという人々の声も忘れてはならない。だが、道内で初の大規模な土地区画整理として行われたという証拠が、今なお桜町ロータリーや銀鱗荘という形として残されている。堺町は今や観光地として栄えているが、倉庫が利用されている背景に、大家となった問屋街の商人と、それを借りる各地の人々の関係が隠されていた。小樽のまちを再生したまちづくりの背景として、運河保存活動と並んでこの事例が挙げられてもよいだろう。
 小樽がまちづくりをするにあたって「人々の住む小樽」と「観光地としての小樽」、どちらもが共存して成り立っていかなければならない。小樽市はこれからも「共存」にむけて様々な活動を行い続けるであろう。


謝辞

この研究をこのような形にすることが出来たのは、担当して頂いた島村恭則教授のご指導や、調査に協力していただいた東小樽町会の関係者である阿部利男さん、宮田正幸さん、吹田友三郎さん、旗イトウ製作所の伊藤一郎さんのおかげです。協力していただいた皆様へ心から感謝の気持ちと御礼を申し上げたく、謝辞にかえさせていただきます。


文献一覧

青木 由直
 2007 『小樽・石狩 秘境100選』 共同出版
朝日新聞小樽通信局編
 1989 『小樽 坂と歴史の港町』 北海道教育社
荒巻孚
 1984 『北の港町 小樽』 古今書院
小樽観光大学校
 2006 『おたる案内人』 小樽観光大学校運営委員会
小樽市東小樽町会編
 2001 『小樽市東小樽町会 五十年のあゆみ』 記念誌編集委員会
小野洋一郎
 1999 『小樽歴史探訪』 共同出版
清水武夫 
1967 『小樽市桜町由来書誌 東小樽土地区画整理組合経緯』 郷土文庫


朝日新聞社 阪急千里線」
http://www.asahi.com/kansai/travel/ensen/OSK200808300016.html
「小樽可否茶館」 http://www.kahisakan.jp/index.html
「小樽観光協会HP」 (運河まんじゅう本舗)
         http://www.otaru.gr.jp/otarudb/node/708
「小樽経済史」  http://www.mmjp.or.jp/OTARU/kyoyou/jkeiz.html
小樽市ホームページ」 (おたる坂まち散歩 長昌寺の坂と銀鱗荘)
http://www.city.otaru.hokkaido.jp/simin/koho/sakamati/1408.html
北一硝子」   http://www.kitaichiglass.co.jp/
「寿スピリッツ」 http://www.okashinet.co.jp/info/
「北海観光節」  (特別付録―北海道・博覧会の時代)
         http://www.onitoge.org/ryokou/2005banpaku/index.htm

(参考サイトはいずれも2010年1月12日アクセス)