関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

ベネツィア化する小樽!?

那須くらら

はじめに
ノスタルジックな街並みが自慢の小樽。修学旅行などで訪れた方も多いのではないだろうか。今回は小樽市にある表象について取り上げる。外国のシンボルがよく見受けられる堺町通り。小樽運河の歴史からさかのぼり、現在の小樽の姿を追った。
第1章 
ウォール街からベネツィアへ!?

第1節 異文化の集合体・堺町通り 

本レポートのフィールドは、北海道小樽市の観光スポットである堺町通り周辺である。観光パンフレットではノスタルジックな風景が魅力的だと宣伝されている。たしかに小樽運河や歴史的建築物など情緒あふれる場所が多い。しかし実際に歩いてみると、いろいろな文化の集まった街のように思えてきた。その一例を紹介しよう。
写真1 小樽市 堺町通

上の写真は堺町通りを上から撮影したものである。かつて堺町通りは銀行や商店が並ぶ商業の町として栄えていた。現在は残された建築物のなかに土産屋が入り観光客相手に商売をしている。
写真2 北一硝子






写真3〜8 堺町に並ぶ土産屋達

特徴的なことは堺町に並ぶ土産物屋の四分の一が小樽市以外から来た人々によって営まれていることである。話を聞いていくと、全国チェーン化している土産屋が小樽に出店しているというケースも多かった。観光客はそれを知っているのだろうか。
本店が大分県のコロッケ屋に意気揚々と走っていく修学旅行生。堺町通りには京都からきた人力車が観光客を待っている。
そしてなにより驚いたことがある。周りの店に対し無関心な店員が多かったことだ。周囲でどんな人が商売しているか、何を売っているかということをあまり知らない店員もいた。どうやら堺町通りには組合が存在していないらしい。本当にそれでいいのだろうか。
またこの通り周辺には複数の外国をモチーフにした表象がある。


写真9ベネツィア美術館 写真10カナダの時計台 写真11 旧日本銀行(北のウォール街

ここは小樽の街だが外国の表象がやたらと多い。特にベネツィア美術館。中に入ると館内がイタリア一色に染まっており、小樽の面影が見当たらない。小樽とベネツィアは港町・ガラス工芸が盛んという共通点で結ばれているから、この美術館ができたようだ。中から出てきた観光客からの「次はイタリアに行かなくちゃ。」という言葉が印象的だった。

写真12 ベネツィアカフェテリア


第2節 北のウォール街

写真11北のウォール街について説明しよう。小樽は北海道の貿易海運拠点として明治以降に急速に発展した。ニシン漁が盛んだったことや北海道開拓の物資が小樽港から陸揚げされたことが理由に挙げられる。小樽が札幌に近いので小樽港は「海官所」の指定を受けたのである。
そして小樽の繁栄を決定づけたのが鉄道と日露戦争であった。多くの物資が小樽に集まり、朝鮮・中国・南樺太と交流が盛んになった。明治45年色内地区に日本銀行の小樽支店ができた。その一帯に三菱・三井・第一・安田などの大銀行が軒を並べていった。写真は旧日本銀行である。
小樽は経済的に活気づいた街であった。ロンドンの雑穀市場を左右するようなこともあった。
 観光パンフレットには堺町につながる色内町が戦前から北のウォール街と呼ばれていたと書かれている。しかし、これは間違いだ。戦前、ニューヨークのウォール街になぞらえて小樽の銀行街を「北のウォール街」と呼ぶようになった。これが公式の説明である。しかし実際そう呼ばれるようになったのは戦後のようだ。
蕎麦屋「藪半」の小川原さんによると、小樽運河論争のときに何か町をPRできるものはないかと使い始めたものらしい。ある新聞記者が小樽を取材して書いたキャッチコピーを見て参考にしたとのことだった。
とはいえ、北のウォール街とよばれるほど経済・商業で猛威を奮っていた小樽。なぜベネツィアなど海外の表象や全国からの土産物屋が目立つ観光の町になったのか。そこに「小樽らしさ」はあるのか。これからその答えを探っていく。


第2章 斜陽化した小樽の再生の歴史

 戦前に経済的に栄えていた小樽。戦後になり、斜陽の時代を迎えることになる。昭和30年ごろからインフラ整備が進むようになり札幌が経済の中心地となった。ニシン漁も以前ほどの収穫を望めなくなった。銀行が小樽から札幌に移転していく中で建物だけが残ることになった。そんな中昭和48年ごろから小樽運河論争が勃発した。

 小樽運河論争とは!?
行政側:商業地域と臨港地域を分かつように並行する幅40メートルの運河を全面埋め立てて道路にする。
市民有志:運河を全面保存により後世に残すべきだ
互いの主張がぶつかり約10年に及び両者は対立していた。当時小樽運河にはヘドロの問題もあり、行政側は運河を埋め立てることを望んでいた。運河を利用したまちづくりという発想がまだなかったのである。しかし、小樽運河保存の意見を聞いて北海道大学の飯田勝幸助教授が「飯田構想」という運河を含めた都市設計を発表した。現在の小樽運河の光景はこのデザインが活かされたものである。
 市民側は大都市に一時期住んでいた事のある20〜30代の若者がほとんどだった。「小樽運河は小樽人のパスポート」というキャッチコピーで運河保存活動を始めた。マスコミもこぞって報道をはじめた。広告代理店の計算で約40億円分の宣伝になったそうだ。
 政治や行政、マスコミに西武グループを中心とした財界、そして若者達を巻き込んだ大きな論争にまでなった。
そんな中、北一硝子が突然堺町通りに出店を始めた。倉庫の跡を利用して硝子製品を売り出すようになる。カニ族と呼ばれる若い旅人達が肩に浮き玉を吊るして歩いた。人を引き付けるのに成功した堺町通り。全国から土産物屋がそこに集まった。大人気の北一硝子の周辺で商売を始めたのである。
 昭和63年に少し幅を狭くした新しい小樽運河が完成した。バブル時代とレトロブームが重なり観光客が多く訪れるようになった。小樽の観光を観光入込客からみてみよう。昭和60年度に272万人であった観光入込客数は小樽運河整備終了後から増加し始めた。平成4年に537万人、11年度には937万人まで増加した。小樽運河論争の立役者でもある小川原さんはこれを「観光爆発」と呼んでいる。この頃から小樽はノスタルジックな街というイメージがつくようになった。


写真13 昔の面影残る運河  写真14 観光客で賑わう運河

第3章 「ノスタルジックな町」を作りあげ維持する人々
 
☆「北一硝子
 北一硝子の堺町進出により、小樽はガラスの町というイメージが定着した。北一硝子の人々は多数の表象あふれる堺町をどう見ているのか。


(左から)写真15北一硝子三号館、写真16北一硝子アウトレット

 北一硝子の前身、浅原硝子が生まれたのは明治34年のことである。初代社長の浅原久吉が小樽で石油ランプの製造を始めた。電気がまだ普及していない時期だったのでランプは飛ぶように売れた。明治43年には漁業用の浮き玉の製造を始めていった。
 そして久吉の孫である浅原健蔵が昭和58年に北一硝子三号館をオープンした。これは漁業用倉庫だった木村倉庫を改装したものである。観光客の土産用にガラスを売り出した。北一硝子の作るガラス製品は小樽のノスタルジックな世界を演出するのに一役買っているといえるだろう。
 広報の佐藤さんに話を伺った。JR小樽駅に飾られている333個のランプも北一硝子の製品だ。北一硝子は小樽の顔になっているともいえる。
 ベネツィア美術館を作ったのは浅原健蔵社長がガラス文化で栄えたベネツィアをとても気にいったからだそうだ。豊かな文化を紹介するための美術館として1988年に開館した。館内はイタリア一色だ。貴族の衣装を着るコーナーもある。
 地元以外の土産屋やベネツィア・カナダ等の表象が堺町に集結していることについてどう思っているのか。「元々北海道はいろいろな県から人が移り住んできた開拓の地だ。いろいろな文化が入り混じっていて良い。この風習が今の堺町にもつながって町が栄えるならば良いことだ。」これが北一硝子の答えのようだ。

小樽市役所まちづくり推進課・小樽商工会議所
小樽運河論争により小樽の重要な個性である小樽運河を中心とした歴史的建造物や街並みの価値が再認識されるようになった。昔ながらの街並みは市民の手で守っていかなくてはならない。その思いが新しい制度を作っていった。
 昭和58年「小樽市歴史的建造物及び景観地区保全条例」が制定された。これにより「北のウォール街」の中心である日本銀行旧小樽支店などが文化財指定を受けた。またマンション建設による景観の問題が出てきたので、平成4年に「小樽の歴史と自然を生かしたまちづくり景観条例」ができた。平成16年には国から「景観法」が公布され。景観を無視した建築の規制に強制力をもたせることができるようになった。
重要建築物の中におしゃれなレストランや土産物屋が入りレトロな空気を醸し出しているのはこれらの法律・制度が支えているからでもある。建築物を補修するときには市から三分の一ほど助成金が出る。しかしそれでも「建物の維持・管理は大変なので『指定文化財』を外してくれないか」と店側から言われる事もあったそうだ。
 小樽商工会議所の山崎さんによると、旧商工会議所も現在テナントを募集しているとのことだった。インタビューの帰りに堺町を案内してもらった。いくつかの建物にもテナント募集の看板が貼られているのを発見した。


写真17 テナント募集の看板

最近は2〜3年で店をたたむ事業者も多いようだ。確かに、小樽の魅力は小樽に住んでいない人の方がよく分かっているかもしれない。しかし、だからといって地元民不在の観光都市のままでいいのだろうか。ビジネスだけで出店する業者が多いのを目の当たりにし、本当の観光とは何なのだろうかという思いでいっぱいになる。
第4章 市民不在の観光都市 −乱立する表象の秘密―

 北一硝子堺町通り進出により多数の土産物屋が周辺に並ぶようになった。そして小樽は戦前とは違う形でにぎわいを取り戻すことができた。しかし、堺町通りにはビジネス目的で出店している店が多く小樽のことをあまり知らない人も多い。店の出入りが激しく空き店舗が増えつつあるのも問題である。
 この状況について小樽に住む人はどう思うのか。小川原さんに話を伺った。「小樽は高度経済成長の波に乗れなかった。けれども、小樽運河を守り観光に活かす事で再び町が盛況になるのではないかと考えた。そして運河保存運動を始めた。まだそのモデルはまだ日本には存在しなかった。」ノスタルジックな街並みはマスコミに取り上げられるようになり、小樽に観光ブームが起きた。小川原さん達の主張は当たったのだ。
 しかし、小川原さんからは「この観光ブームは私達が思っていた『観光』ではなかった。」という言葉が続く。
「まるで爆発したかのように急に到来した観光ブーム。昔ながらの経済人は観光産業に乗り気でなかったため、他地域から多くの人が堺町に商売をしにきた。しかし、ブームが去れば店も去る。今までビジネスだけのために店を出した人が多かった。 風景・自然・建物を活用し、どのように市民が参加するかが観光にとって大事なことだ。現在、小樽の観光は変化してきている。観光のライバルも増え、滞在時間も減った。これから堺町も変わらないといけない。」
 小樽市産業港湾部観光推進室の資料によると、平成20年度の観光入込客数は約714万人であるが21年度には687万人に減少している。こうした観光客の減少は年々問題になっている。また21年度の687万人のうち61万人しか宿泊客はいない。大多数が日帰り客なのだ。
 このようなときにこそ、堺町全体でよそに負けないオリジナルの観光を作っていかなくてはならない。しかし、各店舗により小樽に対するイメージがバラバラなのが問題だ。北一硝子ベネツィアメルヘン交差点のあたりはカナダのバンクーバー。土産物屋は観光まちづくりというより、ビジネスのためだけで店を出している。そのため組合が存在せず、店同士の交流がないのが表象乱立を生み出している。各自よかれと思って様々な表象を打ち出しているのだ。
 人はただ歩いて観光するだけではそのうち飽きてしまう生き物だ。この場所を訪れてよかったと思える観光とは何だろうか。小樽オリジナルの観光を創る取り組みを調べてみた。

第5章 まとめ 真似できない小樽独自のシンボルとは
―歴史と市民参画観光―
第一節 歴史からのアプローチ
堺町に店を構えながら、今後の小樽観光について思いを馳せる人達がいる。みのや本店の専務取締役である蓑谷さんに話を伺った。


写真18小樽出世前広場 写真19 利尻屋みのや 写真20 小樽歴史館

利尻屋みのや」は利尻島出身の社長が平成3年にオープンさせた昆布専門店である。ただ昆布を売るだけではなく、「七日食べたら鏡をみてごらん」「お父さん預かります」などのキャッチコピーで客を惹きつけている。単に観光客を待つだけでなく、いかに彼らを楽しませるかということを考えているそうだ。
さて、みのやが中心となり堺町に小樽出世前広場というものを作った。この中の小樽歴史館では小樽の古くからの写真や小樽の発展に貢献してきた人々をパネルで展示している。
最近、ガラスやオルゴールを扱う観光地は増えてきている。あちこちで小樽の成功例が参考にされている。しかし、小樽も観光地である以上、どこに行っても同じと思われてしまってはいけない。歴史は誰にも真似される事のない財産である。歴史こそ小樽オリジナルの見どころなのだ。堺町の表象についてどう思うのか聞いた。「今は各店舗によって小樽・堺町のイメージが異なる。組合をつくれば統一できるのではないだろうか。」とのことだった。
  店の中に「まちなみは産業・まちなみは文化」とあった。堺町の文化を形成するのは店の人が見せる心意気だ。小樽の過去や未来まで思いをはせる店がここにあった。

第2節 市民参画観光

平成11年をピークに小樽観光客は減少しており、観光地の質の向上が求められるようになった。「このままではいけない。市民と観光客が一体となって『小樽の観光』をつくらねば」小樽運河論争を引っ張ってきた小川原さんがここで再び立ち上がった。
小川原さんが提案するのは「時間消費型観光」だ。背伸びをせずに身の丈にあった小樽の良さをアピールする観光スタイルである。例えば、11月のおたる産しゃこまつりを開催した。小樽沿岸で捕れる「秋しゃこ」の知名度を上げるためだ。結果、2日間で4万匹売れたそうだ。
2月の小樽雪あかりの路では約10日間小樽の街並みをキャンドルで照らす。ろうそくを15万本使う大掛かりなものだ。1997年に始めたときはボランティアが3名だったのがいまでは2800人もの人が集まるという。韓国からも海外ボランティアとして参加する人がいるそうだ。韓国から来た人が札幌からの客をお出迎えする。観光客が観光客を呼ぶサイクルが生まれるのだ。お年寄りの方も雪いじりが得意なので楽しんでいるという。
 また小川原さんが働きかけて堺町の人達と任意団体「堺町にぎわい作り協議会」を作った。目標はこの団体を堺町通りの組合に発展させることだ。2010年8月には第一回堺町ゆかた提灯祭りが開催された。小川原さん達は地元の人との交流をテーマに観光のイベントを作っている。よその町が出来ない小樽オンリーワンのことをする。元々小樽に住んでいた人も、新しく来た人も誇りをもてる町に。
平成18年度4月にスタートした小樽市観光基本計画では「いいふりこき」という言葉が取り上げられている。いいかっこをするというのが本来の意味だそうだが、小樽のまちをつい自慢したくなるような町の実現を願ってのものらしい。
 近い将来、堺町に組合ができれば町にあふれるバラバラのシンボル達が統一されるかもしれない。何かの真似やどこにでもあるものでなく、小樽オリジナルのものに。いまその取り組みは始まったばかりである。

謝辞
本調査にあたって、藪半の小川原格様、みのや本店の蓑谷和臣様、小樽商工会議所の山崎久様、北一硝子佐藤誠様、小樽市総合博物館の石川直章先生、佐々木美香先生、その他堺町通りの土産店の皆さまにお話を伺いました。お忙しいなかご協力頂き、心から感謝申し上げます。

参考文献
田村喜子(2009) 『小樽運河ものがたり』鹿島出版会

参考資料
小樽市産業港湾部観光振興室 「平成22年度版小樽市の観光」