関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

小樽遊廓史

小樽遊廓史

永田 拓也

第1章 遊廓の誕生

(1)遊廓が生まれるまで

 17世紀末から、幕府を中心とした農業の振興政策によって、農業の肥料であるに鰊粕の需要が急激に伸び、北海道各地には、鰊の漁場として人々が集まるようになった。
出稼ぎ人が多く集まるところ、漁場には、自らの性を売る女が現れだし、その流れで遊廓が生まれるのは一般的である。特に小樽は北海道屈指の漁場であって、出稼ぎ人も多く集まっていたので、そういった地理的要因からも遊廓が出現していてもおかしくなかった。しかし、当時の神威岬には「女人渡海禁制」という掟があったのである。「神威岬より北を「神地」」と呼び、「神地は女人の通行を絶対に許さず、妻子を伴った移民も漁夫も、これより北方へは移動することはできなかった」のである。また、「松前藩はその通行を許さなかったのは、奥地の資源を知られることを恐れ、こうした渡海禁止の政策をとった」のだ(小寺1974:124−125)。そのため、小樽には出稼ぎ人や滞在者が増えても、なかなか遊女が出現しなかったのである。いや、できなかったと言ったほうが正しい。この神威岬以北渡海禁止の掟は、安政3年(1856)に解かれ、次第に小樽にも女が入ってくるようになる。「浜千鳥」(小寺1974)と呼ばれる賎妓が現れだしたのもこの頃である。 
 「安政四年(1857)二月、蝦夷地奥への道路の開鑿が急速に進められた。開かれた道路付近では、開墾希望者や旅人宿等の営業を希望する者には出願を許し、入 稼者に課してきた入役銭を免除し、旅客の通行を自由とするなどの優遇処置を講じ」(「小樽の女性史」編集委員会編1999:33)ることで、海岸一帯はすぐに土着する人々の数を増やしていき、漁場を中心に大きな集落が形成されていって、居酒屋、旅篭屋なども見られるようになっていった。また、万延2年(1861)、海岸での荷揚げを簡単にするために、場所請負人である岡田家などを中心とした裕福な商人たちによって、 入船川河口辺りから現在の信香町方面へ埋立、道路を開削(2007 小樽観光大学校運営委員会編:73)することによって、その地一帯は市街地化していった。
 このように、安定した漁場としての実績があったことは、小樽に遊女を発生させる起因となったことは言うまでもないが、他の土地に比べその発生が遅れたのは、安政三年まで存在した神威岬以北の女性渡海禁止の掟に由来する。

(2)官営遊廓の誕生

 先に述べたように、急速に人口が増加した当時の小樽には、続々と居酒屋、旅篭が開かれていった。当時の旅篭の多くには、酌取、飯盛りなどと呼ばれる娼婦が置かれているのが常で、人口の増加に相まって、遊女屋として開業する店が目立ち始め、やがて町を形成するほどまで栄えるようになった。これが、小樽における官営遊廓発祥の地「金曇町」である。神威岬以北の女人渡海禁制が解かれてからは、金曇通りがまず遊女街になった。遊女屋や居酒屋などは、15、6戸もあったそうだ。金曇通りとは、臨港線から信香会館までの道路のことである(写真1)。
金曇町となったのは明治になってからのことであるが、この金曇町は勝内川河口付近(現 信香町)に存在した。当時、北前船は勝内川河口に船を休め、乗客や積荷を下ろしていくというのが常であった。
一方、明治2年(1869)に「北海道」と名づけられ、それと同時に発足した開拓史は、北海道の開拓を進め、労働力の確保のためには遊女屋も必要との思惑から、明治4年(1871)に金曇町を遊廓として公認したのである。町としての発展とともに、遊廓も発展していった。北海道新聞社が編集した『小樽のアルバムから』で、昭和56年8月21日付の北海道新聞の記事中には、このような記述もある。

   青楼「南部屋」は、住ノ江町時代まで北海道随一のにぎわいをみせていた。抱えの女性約七十人、ニシンの盛漁中、一日の収入は約三千円(今の金額で約五千万円)。女性の収入は、筆頭者が月七百円(同約千百万円)であったといわれている。
   (市立小樽図書館1991:「7.旅館兼業の遊廓」)

実際に、信香町を歩いてみると、現存する遊廓に関連した建造物は残っておらず、全体的に閑散としているといった印象を受けたが、町は碁盤の目上に整備されていて、通りはかなり広く(写真1)、当時この辺り一帯が栄えていたことを十分に示している。信香町にあり、明治14年開業「小町湯」の女将さんに話を聞く機会があったのだが、小町湯はその当時蕎麦屋であり、1日に500杯もの蕎麦を遊廓に届けていたのだそうだ。その数の多さを聞いても、金曇町の遊廓が栄えていたことがうかがえる。

第2章 住ノ江遊廓

 明治14年(1877)「札幌小樽貸座敷並ニ芸娼妓営業規則」が発布され、貸座敷は旅篭と分離されるようになり、その地域も金曇町と新地町に限定された。しかし、実際には入舟町などには「あいまいな女」を置いている料理屋が存在するというのが実状であったそうだ(「小樽の女性史」編集委員会編1999:37)。さらに、貸座敷が商家と軒を連ねているのは、風紀上や取締上にかなり問題があるということで、市民の間からは移転陳情も強まっていくことになる。ここで、明治14年(1881)5月21日に、現在の信香町一帯で旧11カ町が焼失するほどの大火が発生し、金曇町の遊廓も丸焼けとなった。当時の俗謡では、「かわい金曇町何にして焼けた 寝てて金取った其の罪で 三十三軒ばらっと焼けた」(小寺1974:132)と歌われた。この明治14年の大火を契機として、遊廓は住ノ江町に移転し、明治16年(1883)に移転は完了し、以前にも優る歓楽街ができあがった。当時の住ノ江町は畑地であり、中央通り22メートル、小路14メートルの区画を整備し、移転を渋る業者に公金を貸し付けて奨励を図った。また、小樽における中心街も金曇町があった勝内方面より西側で、山手方面の入舟方面に移っていった。
 ここで、重要になるのが、以前は中心地に存在した遊廓が、当時畑地であった住ノ江町に移されたという点である。これは、「旧小樽の十一ヶ町五百六十有余戸を稀有に帰した」(小寺1974:132)明治14年の大火を教訓にした、風紀・取締りを強化しようという開拓史の考えが読み取れる。そのため、遊廓の市街地からの隔離ともとれる、住ノ江町への移転を断行したのである。
 以下は、『北海道遊里史考』で、その頃名のあった貸座敷について記された文章である。
  
   「貸座敷南部屋
    明治十四年の大火のあと、住吉裏の遊廓営業指定地に、移転したのは南部屋であるが、    当時ここには南部屋が二軒あった。一つを大南部、一つのを小南部と呼んでいたとい     う。札幌県から三万円の貸付を受け、四層楼であった。この頃は三菱と共同運輸との海    運競争時代で、官吏の往復が繁く、南部屋は旅館としても隆盛を極めたものであった。
    四層の楼は洋風館であり、異彩を放ち楼上には「南部」と書いた額を掲げ、また岩村長    官等の「呑海楼」の扁額もあったと伝えられている。楼主の南部てつは医師中井杏庵の    女で、南部屋の養女となり、当時の有名な芸妓の一人であった。
   (小寺1974:132−133)

   「丸立」
    顕官もしくは府県から来遊する人々は、海路窮屈な旅を終えると、蘇生の思いで小樽に    上陸した。そして上陸早々に豪遊したことは上下尊卑の別がなかったが、特に顕官紳商    などが、遊興ふけったのは、丸立であったとされる。(小寺1974:133)

第3章 南廓

 先にも述べたように、明治16年(1883)に遊廓は住ノ江町に移り、その後小樽の市街地も信香方面から、入舟、色内と北に移動し、明治30年ごろには遊廓があった住ノ江町近辺も市街地化されていった。そのため、遊廓と一般の民家が隣接する形となり、またもや風紀上の問題が浮上してきた。それと同時に、明治29年(1896)4月27日夜、住ノ江遊廓からの出火が原因で、旧小樽の7ヶ町を全焼させてしまうほどの大火が発生したのを機に、13年間もの間栄華を極めた住ノ江遊廓は、天狗山山麓の、人里離れた山奥の入舟町の奥、松ヶ枝町へと移されることになる。明治40年に誕生した梅ヶ枝町の遊廓と存在した時期が重なるため、この松ヶ枝町の遊廓が「南廓」、対して梅ヶ枝町の遊廓は「北廓」とも呼ばれる。
 写真3、写真4を見てもわかるように、大火の教訓があってか、松ヶ枝町の通りは広すぎるほどの道幅を持ち、町並みは整然とした印象を受ける。大門を抜けると、手前から順に、柳町、京町、仲町、弁天町、羽衣町と名付けられる町が存在し、これは江戸・吉原にも京町、仲町の名があるので、吉原になぞらえたものだといわれる。この南廓には計18軒の廓があったという(木村2007:38)。花街にふさわしい彩りを添えようという考えから、遊廓の移転と同じ頃に入舟川に沿って植樹された桜並木は、閑静な住宅街となったこの辺りではちょっとした桜名所となっていた(小樽なつかし写真帖編集委員会編2009:第58号)そうだが、私が調査を行った2009年9月頃には見確認することはできず、無くなったものと思われる。
 また、松ヶ枝町という地域は、前述したように、タクシーが無いとたどり着けないような、坂を上ったところ、天狗山の山麓にあり、当時は人里離れた地域であった。バスもタクシーも無い時代にそのような辺鄙な場所に移転した理由としては、風紀上の問題が挙げられるのだが、その当時の遊廓の名残を感じさせるものに、「洗心橋」という橋がある(写真5)。
南廓に向かうには、今の南小樽駅辺りから入船町を通っていくルートと、手宮方面から今の緑山手線を通っていくルートの2通りがあったが、洗心橋は後者の場合に、当時の男衆たちが通ったものと考えられる。「当時遊廓で心置きなく遊んだ男衆たちが、せめて心だけでもきれいに洗って帰ろう」、ということから洗心橋という名がついたという説がある。同様に、遊廓に入る前にしばし考え、思案するということから名付けられたとされる、長崎県は丸山遊廓の入り口にある「思案橋」も有名な話である。
 風紀上の問題のため、天狗山の麓に移された遊廓であったが、交通の便の悪さから客足が減少し、業者らは明治39年(1906)、色内川上への再移転を陳情するが、一般市民の反対に合い、結局、再移転は許可されなかった(北海道新聞社編1984)。戦後まもなく遊廓が廃止され、松ヶ枝町一帯は現在の閑静な住宅街へと次第に姿を変えていった。

第4章 北廓

 これまでに述べてきた、小樽における遊廓の移り変わりの理由には、一定の原則が読み取れる。それは、「小樽が発展していく中で各遊廓での風紀・取締上の問題が浮上し、大火が起きたのを契機として、移転されていく」という流れであり、金曇町に誕生した遊廓からの住ノ江町遊廓への移転、また住ノ江遊廓からの松ヶ枝町遊廓(南廓)への移転のいずれにも該当するのである。しかし、この第4章で触れる梅ヶ枝町の遊廓の誕生理由は、他と一線を画しているのである。
 
(1)北廓誕生の要因

住ノ江町から松ヶ枝町へと遊廓が移転した一方で、明治40年(1907)3月、手宮
・現梅ヶ枝町の一部に遊廓が設けられた。これが北廓である。この北廓の誕生は、明治13年(1880)に開通した小樽―札幌間の鉄道に大きく起因する。その始発駅となった手宮は、以後鉄道とともに大きく発展していった。当時小さな漁村が存在するだけであった町が鉄道敷設によって、界隈の様子を一変させることになったのである。鉄道開通とともに、小樽の経済機能は一気に北に傾き、内外の船舶は手宮方面に集中し、人の動きも活発化、それに伴って飲食店が続々と開かれ、密娼の数も増加をたどり、風紀上の問題が浮上し、こうした問題の対応策として遊郭が誕生するに至ったのである。その名も梅ヶ枝町と命名され、これが「北廓」である(写真6)。
誕生の翌年には、16戸もの楼が立ち並び、各楼の抱え娼妓の数は130人にも及び、別世界を現出した。やがて廓内には「駆黴院(性病対策医院)」が設けられた。(「小樽の女性史」編集委員会編1999:39)
 また、鉄道開通によって、当時まだ未開の沢地であった手宮の地には、急激に経済発展する。それによって、多大な労働人口を必要としたはずだ。そのため、労働者をつなぎとめておくためにも、やはり遊廓やそれに近いあいまい屋が必要であったと考えられなくもない。実際に、最盛期の手宮タヌキ小路(写真9)には、40〜50軒もの店が軒を連ねていたそうだ。
戦後にこの遊廓は、現在の梅ヶ枝町はマンションや住宅が立ち並び、閑静な住宅街へと様変わりしている。

(2)当時の様子

 今回の調査にあたり、遊廓が存在する時期に梅ヶ枝町周辺で生活していた方に話を聞くことができたので、その情報を基にしながら、北廓を中心に当時の様子について述べる。しかし、注意点として、以下に述べる記述は、すべて当時のことを知る者からの聞き取りによるものだが、それを証明するものがないため、すべてが正確な情報であるとは断定できない、ということは先に記しておく必要がおる。

 当時、そこには高さ10メートルほどでレンガ造りの大門があり、数多くの妓楼が立ち並んでいたのだという。火事が頻繁に起こり、その原因のほとんどが「寝タバコ」による布団への引火によるものだったという。午前3、4時ごろ、火事が起きると、男女問わず、真っ裸の人々が、逃れようと楼の2階から飛び出してくるさまはとても印象に残っているという。
妓楼の配置としては、現在手宮川通線となっている道路の真ん中には手宮川が通っていて、現在の済生会小樽病院が位置する場所(写真8)
には「越治楼」、坂を少し上り、現在の梅ヶ枝郵便局のあたりに「日の出楼」、その向かい(写真7)
には「勢州楼」があり、「日の出楼」の隣には「音羽楼」、その向かいには「第二越治楼」があったという。
 また、当時の遊廓には、比較的安価なものから、高級なものがあったという。北廓があった梅ヶ枝町を例にすれば、先に記した大門の周辺や手宮の辺りに比較的安価な店が置かれていて、大門を抜けて坂を上がれば上がるほど、店も高級になっていたそうだ。
手宮タヌキ小路の中には、人身売買や出稼ぎに来た朝鮮、中国人しか抱えていない店も存在していたそうだ。よって、当時開拓に従事していた男衆たちは手宮、大門周辺辺りに通い、高官などは高級な店に通っていたものと思われる。楼の中は、まず入り口にその店で抱えの遊女の写真がかけられていて、女を選ぶと、2階に通されるという流れであり、遊女は、15〜16ほどの若いものから、さまざまだったそうだ。
 当時手宮や梅ヶ枝町に隣接する豊川町あたりは、ほとんどが長屋であったらしく、それは労働者が多く住む手宮という地域性を感じさせるものである。長屋に住む労働者たちの中には、生活苦のためか「長男だけいればいい」という風潮があったらしく、娘が生まれると、金を得るために実の娘を売る者もいたそうだ。
聞き取りに協力して頂いた方々の中には、戦後の赤線時代に、そういった店に客を呼び込むというアルバイトをしたことがあるという方がいた。内容としては、町角に立って客に女を紹介し、客がその紹介した女で遊べば、報酬が与えられるというものである。もし、泊まりの客を捕まえることができれば約50円(現在の2、3000円ほど)、泊まりでないならば3〜5円の報酬があったそうだ。
さらに、当時このような店は「立ちんぼ」や「パンパン(屋)」「線香」と呼ばれていたらしく、当時の平均月給が3000円の時代に、1000〜1500円もする店もあったのだという。

 「聞き取りに協力して頂いた方々」
・ 梅ヶ枝町在住、男性、66歳
・ 梅ヶ枝町在住、男性、年齢不明
・ 豊川町、男性、82歳 

第5章 遊廓の終焉

(1)遊廓消滅までの流れ
 これまで述べてきたように、風紀上の問題と大火を契機として、小樽において遊廓は誕生、消滅を繰り返して、最終的に松ヶ枝町の南廓と梅ヶ枝町周辺の北廓とに至ったのであるが、戦後昭和21年(1946)にはGHQによって公娼制度が廃止され、この南・北廓も消滅することになる。しかし、公娼制度が廃止されたが、全国的に「赤線」といわれる私娼地域が発生するようになった。小樽も例外ではない。「赤線」についてさらに詳しく述べると、「集団的な管理売春(組織売春)を黙認するかたちで、戦前の遊郭や私娼街の業者を風俗営業として許可し、営業場所を指定した地区。地域によっては店舗の商業統計上の分類が「特殊飲食店」(「特飲店」と略される)や「特殊喫茶店」とされたことから、特殊飲食店街(「特飲街」と略される)と呼ばれることもあった。特に旧遊廓の貸座敷の一階部分に喫茶室やダンスホールを設えるなどの部分的な改善をほどこし、特殊飲食店として使用される例が多かった。」(加藤2009:17)というもので、赤線が設置された背景には、占領軍のための「性的慰安施設」など、国策が関っていたそうである(加藤2009:22−38)。
 小樽の赤線時代については、『全国女性街・ガイド』(渡辺1955)において、次のような記述があるため、昭和30年代の小樽のようすを知ることができる。

    情熱のプロ作家小林多喜二が色内町の私娼婦田口滝子を十年にわたって愛し
   たことはあまりにも有名な話。最近は北方輸出不振で小樽の色街は火の消えた
よう。
 市内の都通り裏や勝内川沿いの新地にも赤線はあるが、小樽で圧倒的に有名な
のは、町端れの手宮手宮川を渡った右側に曖昧屋が百軒ほど密集している。田口滝子ではないが色白で丸顔の、おとなしい女が多い。部屋は汚いが北海道では湯ノ川の芸者とここの酌婦が一番いい。
 青線が最近発展し、駅前右側の西六丁目あたりから花園町の裏側、ずつとはずれて南小樽駅附近の「もつきり屋」(一ぱいのみ屋)で女に当りをつけるか、かく巻ばば(婆)が町角に立つているからそれに当ればよい。泊り千円からである。
(渡辺1955)
   
 しかし、この赤線時代も昭和31年(1956)の「売春防止法」に伴って廃止された。
売春防止法施行後も、小樽では10年ほど尾を引いていたそうだが、その後はあまり見られなくなった。

(2)小樽歓楽街
 赤線時代に見られた手宮周辺、新地、南小樽駅付近の特殊飲食店は完全に無くなり、小樽経済の衰退とともに、現在の小樽の歓楽街は、花園町に限られているが、その花園町自体も衰退の一途をたどっている。写真11を見てもわかるように、花園にはスナック、飲み屋などが狭い地域に密集していた。実際に調査として歩いたのだが、昼からカラオケがあちこちの店から聞こえ、何とも哀愁を感じさせる町であった。風俗店もあまり発見することができず、一軒発見するのがやっとであった。

さいごに
 全国の遊廓と比較しても、小樽のように、これほどまで遊廓が移転をくりかえすという地域はあまりない。1〜5章までで述べてきたように、小樽遊廓の移転には、経済発展による市街地化にともなって浮上してきた風紀上の問題点と、頻繁に起こる大火が影響している。それが、小樽遊廓史の特徴なのである。(写真15)
 
文献一覧

小樽観光大学校運営委員会編
 2007 『おたる案内人−小樽観光大学校認定 検定試験公式テキストブック−』、
      小樽観光大学校。
小樽なつかし写真帖編集委員会
 2009 『小樽なつかし写真帖』、どうしん小樽販売所会。
「小樽の女性史」編集委員会
 1999 『小樽の女性史』、小樽市男女共同参画プラン推進協議会。
加藤政洋
 2009 『敗戦と赤線―国策売春の時代―』、光文社。 
木村聡
 2007 『赤線跡を歩く 完結編』、自由国民社
小寺平吉
 1974 『北海道遊里史考』、北書房。
渡辺寛
 1955 『全国女性街・ガイド』、季節風書店。
北海道新聞社編
 1984 『おたる再発見』、北海道新聞社。
1991 『小樽のアルバムから』、市立小樽図書館。