関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

高島の伝統行事とアイデンティティ

高島の伝統行事とアイデンティティ

はじめに
 このレポートは社会調査実習の一環として、北海道小樽市で行った調査をまとめたものである。私は小樽市の一地区、高島地区にて主に聞き取り調査を行った。その上で、高島地区における七夕行事、高島越後盆踊りといった伝統行事を通して、高島という町について調査をした。

 第1章 高島という町

 (1)高島地区の成り立ち

 高島地区は石狩湾に面した小樽市の西北部、北防波堤からカヤシマ岬の間の海岸沿いにある集落で、赤岩山へと連なる丘陵地帯に住宅地が広がっている(写真1:高島の町並み。丘陵地帯に住宅が広がる)


 今では小樽市に合併してしまったが、かつては高島郡高島村が存在した(写真2:旧高島町役場庁舎。現在は小樽高島診療所)

  高島にはかつてアイヌの人が暮らしていた。江戸時代、場所請負制によって高島場所を受け持った西川伝右衛門によって、高島場所が開かれた。高島はニシン漁で栄え、アイヌの人に和人がニシンの漁法やホタテ、サケの塩蔵などを教えていた。出稼ぎの漁民もたくさん本州から渡ってきて、高島は漁業が大変栄えていた。ニシン漁の時期には、古着屋、煮売り屋、髪結所なども開店していた。しかし、ニシン漁の時期を除いて高島に残る和人はいなかった。和人は春に来て秋に帰ってしまい、冬季はわずかな人数の番人を残すだけであった。アイヌの人たちは数箇所にまとまり、ずっと暮らしていた。
 その後、場所請負制の廃止、明治維新によって人の流れが自由になると、高島にも移民がやってきた。高島村としては明治二年に十三戸、四十四人が移住してきた。高島への移住者は、越中、越後、佐渡、庄内、出羽、津軽など北陸や東北地方の人がほとんどである。聞き取りによれば、今でも年配の住民の方は、自分たちのことをご先祖様の出身地である土地をつけて「〜衆」と呼ぶそうである。高島がひとつの行政としての町でなくなってしまった今でも、彼らは自分たちのルーツを強く意識しているのである。小樽市ではあるが小樽ではない雰囲気をそこに感じた(写真3:高島の町並み)


(2)移住者が伝えたもの

 さて、高島に移住してきた人たちはそれぞれの土地の文化もそこに伝えた。北海道の小京都、松前町に京風の文化が今でも残るように、北前舟はモノ、人だけではなく、土地の風習や行事も一緒に運んできたのである。その中でも高島には興味深い伝統行事が今でも残る。
 まず、七夕行事というものがある。これは青森、秋田のねぶた、ねぷたというものが移住者とともに伝わったものである。これについては後で詳しく述べる。
 次に越後盆踊りというものがある。これは名前のとおり、越後衆によってもたらされたものである。これも後ほど詳しく述べる。さらに、越中から伝わったといわれる山車をぶつけ合うお祭りが、昭和のはじめまで残っていた。行事を主催するのはそれぞれの土地出身者である。自分たちの先祖の土地より運んできた行事を主催し、それを町の人全員で楽しむ、これが高島のスタイルである。

第2章 高島にともる七夕の灯

(1)七夕行事の概要

 高島に伝わる七夕行事は、上でも述べたように東北地方から伝えられた。毎年の八月六日、七日に青森・津軽地方の「ねぶた」さながらの人形ねぶたや、扇の形をしたねぶたが町内をねり歩くのである(写真4:青森の特徴を持ったねぶた、5:町内を練り歩く「やま」高島郷土館ホームページより)

ねぶたの形によって、青森のどこのねぶたに似ているというものがある。津軽五所川原などの特徴を持った形のねぶたが存在する。この行事はやはり、いまでも青森の津軽出身者の子孫の方たちによって主催されている。
 高島の人たちはこのねぶたのことを「やま」と呼んでいる。この「やま」を夏休みになると、地元の子供から大人まで、みんなで協力して作るのである。昔は細い木などで作った角形の城や塔など、そしてねぶたに描かれるようなデザインが多かったそうであるが、最近ではテレビや漫画の主人公をくみ上げたものが多い(写真6:ピカチュウカレーパンマン

特に人気があるのはポケモンアンパンマンといったキャラクターである。この「やま」昔は垂木で組んだ櫓の上に乗せて四人で担ぎ、やぐらの中の一人は歩きながら太鼓をたたいた。後の子供たちは、絵や文字が描かれ、ろうそくを灯された灯籠を持って、「やま」の前を歩く。そして、太鼓の音に合わせて掛け声を出し、ほかの「やま」とすれ違うときにはやし立てるのである。しかし、時代の流れとともに行事も変わっていった。近年は担いで歩くこともなく、リヤカーや軽自動車にのせ、ローソクも電球に変わってしまった。
 かつて、「やま」に使うローソクは子供たちが集めていた。家々を回って、ろうそくを自分たちで集めるのである。高島の人たちも、夕方から家の前で子供たちを待ち、「やま」の出来栄えを褒め、ローソクを用意して、お金やお菓子とともに渡すことが習慣になっていた。そのときに、かつては子供たちがローソクもらいの歌を歌っていたそうだ。「ローソク出せ、出せよ、出さねば、かっちゃくぞ」といった具合に。しかし、このローソクもらいというものは今ではもうその形を変えてしまった。かつては高島の地区だけではなく、手宮から小樽の市外まで「やま」を引っ下げて出かけていたものの、ローソクをもらって歩くことが、物乞い、物貰いのようであるといった声を受けて、高島地区から町外へ「やま」が出て行くことはなくなってしまった。博物館の清掃員の方に伺った話では、十年から二十年ぐらい前になくなったとのことであった。
 そのかわりに、高島町会の青少年部が中心となって、町内パレードと「やま」コンクールが実施されるようになった。コンクールでは立派な「やま」に対して、賞が授与されていた。パレードだけではつまらないから、コンクールをするということになったということであった。
 高島でも少子化が進み、かつては五十基以上の「やま」が集まる、住民にとっての一大イベントであった七夕祭りも、だんだんとその存在意義が問われることになってきた。そして平成十年、祭りの中止とともに、七夕の灯は消えてしまった。
 しかし、五年後の平成十五年夏、高島小学校創立百二十周年記念にあわせて、保護者たちが七夕祭りを再現して校区内をパレードしたことがきっかけとなり、祭りが復活することとなった。山作りの技術を子供たちに伝えようと、七夕の前に講習会が行われることになった。子供も大人も競うように「やま」を作り、高島の町をパレードしたのである。かつての賑やかさには及ばないが、高島の町に再び灯がともったのである。
 
(2)大黒さんと高島

 上で述べた話は高島町会会長の大黒昭さんに伺ったものである
大黒さんは元小学校教諭で、ご先祖様は青森の津軽出身。高島に来て、四代目の方である。生まれは東京だが、二歳のときに高島に移り住んだ。それ以来、ずっと高島に暮らしている高島っ子である。ではその大黒さんと高島のかかわりについて見ていきたい。
 大黒さんのご先祖様は廻船問屋の仕事に従事していた。明治二年に船が難破、遭難し、新天地を求めて蝦夷地に渡ってきた。なるほど、大黒屋といえば廻船問屋の響きを感じる。私だけであろうか。
 大黒さんは教師として教壇に立つ傍ら、郷土の伝統を守るための活動をしてこられた人である。具体的にはたこ作りがあげられる。大黒さんは小さいころから祖父にたこ作りを教わったそうだ。そのたこというものは津軽の伝統工芸品である。ご先祖様が高島に伝えたものを、今でも大黒さんは地域の子供たちに指導している。たこ作りの名人で小樽職人の会の一人にも数えられる。
 私は大黒さんに、かつて高島に暮らしたアイヌの人たちはどこへ行ってしまったのですかと聞いた。アイヌの伝説が残るなど、アイヌの人たちの存在が高島にもたらしたものは多い。高島大黒さんの話では、かつて氏の同級生にもアイヌの人はいたそうだ。肌が透き通るように白く、髪は大変黒く、長い。それはもう大変な美人だったそうだ。そんなアイヌの人たちも、時代の流れとともに同化してしまって、今では区別がつかなくなってしまったとのことだった。ただ、アイヌにルーツを持つ人はいるということだった。
 さて、そんな大黒さんであるが、彼はずっと七夕祭りを見守り続けてきた。七夕祭りがなくなったときは大変悲しかったそうだ。しかし、大黒さんの高島に対する思いは熱いものであった。高島町会会長として、七夕祭りの復活に向け奔走した。そのかいあって、七夕祭りは復活した。高島の七夕祭りを復活できたのは、大黒さんの役割が大きかったのである。
 大黒さんは今でも高島のために活動している。高島町会会長として、七夕祭りはもとより、盆踊りや十月に開催される町民文化祭にも関わっている。私が彼を訪ねたときは、大変多忙な日程の合間を縫って、私に対して詳しく、そして熱く高島について語ってくれた。大変気さくな方で、私の質問に対して熱心に答えてくれた。本当に感謝したい。

第3章 高島と越後の調べ

(1)越後から高島へ

 高島には津軽出身者とともに、越後出身者が多い。どこから来た人が多いというところまではっきりしている。移住してきた人の出身地は、新潟県北蒲原郡紫雲寺町からの人が多い。現在の新潟県北蒲原郡紫雲寺町市町村合併によって、新発田市になっている。この地域は日本海側の海岸線に沿って半農半漁の村々が点在していた。これらの村々では、明治の初期のころから高島に少しずつ移住が行われていた。特に明治十年頃、藤塚浜で村の三分の二が消失するという大火があり、これを契機に大量の移住者が出たとのことである。現在、高島には「須貝、本間、小林」といったせいが大変多いそうであるが、これらの方々の先祖は、この藤塚浜からの移住者であるという。
 私はこの北海道から帰った翌月、実際に新潟県北蒲原郡紫雲寺町を訪れた(写真8:新潟県北蒲原郡紫雲寺町藤塚浜地区)

現在は新発田市になっていたが、藤塚浜の地名は残っていた。そこで集落を注意しながら歩いていると、確かに「須貝、本間」といった性が多かった(写真9:藤塚浜の町並み。須貝、本間の姓が多い)


とても静かな集落であった。しかし、どこか高島に似たような雰囲気を私は感じた。集落から宿泊している民宿に帰り、民宿の御主人に事の次第を話した。すると御主人は戦前から戦後すぐの紫雲寺町と北海道とのつながりについて話してくれた。
 新潟県北部北蒲原郡は当時としては大変人口が多いところであった。この町だけに限らず、新潟県は人口が多かった。戦前から戦後の食糧難の時代に、この土地の人たちは北海道に出稼ぎに出かけて言った。家族を養うために。御主人の親戚の方も北海道に出稼ぎに向かい、帰還した際には塩鮭、塩カレイなどの塩魚をお土産にもらったという。これらの出稼ぎに向かった人は、かつて彼らに先駆けて北海道に向かった人たちの後を追いかけていったのである。藤塚浜の人たちは、生きるために北海道に向かったのである(写真:新発田市に現在も残る、戦後の名残を残す公設露天市場。出稼ぎに行った人たちはこういったところで商いをしていたのであろうか。)


(2)高島越後盆踊り

 故郷を遠くはなれ、北の果ての漁村高島での生活を始めた移住者たちは、お盆になると先祖たちが眠る藤塚浜に思いをはせながら、故郷の盆踊りを踊った。それが現在の高島越後盆踊りである。つまり、移住者たちの故郷、藤塚浜は高島越後盆踊り発祥の地である。
 高島盆踊りとはどのようなものなのであろうか。詳しく見ていきたい。越後でこの盆踊りが始まったのはいつごろか定かではないが、おおよそ江戸時代初期ということらしい。当初は笛だけで踊っていたが、後に囃子唄を伴った踊りが加わり、今日のような笛と太鼓だけで踊る「高台寺踊り」と呼ばれるものと、太鼓の囃子と盆唄で踊るゆっくりとした踊りの二種類が高島に移住者とともに伝えられたということである(写真10、11:高島にある高島越後盆踊り記念碑)

 高島越後盆踊りの歌詞を実際に見た(写真12:越後高島盆踊りの歌詞)

その内容は故郷への思いや、若者の恋の歌、漁の安全を祈る歌まで様々なものがあった。七夕祭りの話を聞いた大黒さんによれば、盆踊りの場は男女の出会いの場であったそうだ。普段はなかなか声をかけることができない、気に入った娘と懇ろになるチャンスであり、大変盛り上がったという話である。娘と話がまとまれば盆踊りを抜け出して、浜に降りていって一夜を共にすることもあった。このようなこともあり、その娯楽性の強さから、第二次世界大戦中は盆踊りが中止の憂き目に会った。戦後はいち早く復活したが、もはや昔のものとは変わってしまったという。
 平成十三年、高島越後盆踊りが小樽市の無形民俗文化財に指定され、同十六年、北海道文化財保護功労賞を受賞した。近年では都市を追うごとに行事も活発になってきており、高島地区以外の人たちも参加し、大変な盛り上がりを見せている(写真13:盆踊りの様子。高島郷土館ホームページより)

 先ほど述べたように、私は実際に藤塚浜を含む新潟県中部から北部を訪れた。民宿のご主人は私が宿を出る朝、興味深いものを持ってきてくれた。それは約十年前、藤塚浜の老人ホームで行われた敬老会における、盆踊り大会の音声を録音したものであった。カセットテープから流れてくる越後の調べは、私が高島で聞いたもの、また大黒さんに資料としていただいた、CDROMに収録されていた高島における盆踊りの調べとまったく同じものだったのである。私は正直なところ、多少は新潟と高島で音の響きというものが違うであろうと思っていた。しかし、メロディーからお囃子の調子まで、まったく同じだったのである。確かに後日、新高島町史を読み直したところ、平成十六年に藤塚浜の住民が高島を訪れて、一緒に盆踊りを踊ったところ、一度もあわせたことがないのに、笛や太鼓のリズムも、踊りの振りもまったく同じであったということが記述してあった。大黒さんもそう述べていた。
 はるか故郷を離れても、盆踊りを踊るたびに故郷のことを思い出したと高島のある人は言っていた。そのつながりを示すがもうひとつある。それはかつて、いや未だに高島の越後出身者の中には越後に本籍を残している人が多いということである。かつて、大黒さんが教壇に立っていたとき、クラスの生徒の本籍地はほとんどが新潟県北蒲原郡、すなわち彼らのご先祖様の出身地であったそうだ。これはいまでも移住者が故郷とのつながりを持っている証拠である。やはり故郷との縁は切っても切れないものなのであろうか。

第4章 伝統行事の再生

(1)変化する伝統行事

 今までに述べてきた七夕祭り、高島越後盆踊りといった伝統行事というものは、今でも形の上では伝統行事として残っているが、もうかつての姿ではない。少子化による祭りの担い手の減少や、時代の流れとともに祭りの姿は大きく変わってしまった。かつて住民たちは自分たちの故郷のことを思い、伝統行事にも精を出していた。しかし、だんだんと自分たちのアイデンティティーを意識する人たちが少なくなってきたことによって、このような行事も規模が小さくなり、新しいものに生まれ変わってきている。そして、今では観光客もこれらの行事に参加している。つまり、これらの祭りのあり方が、地区内の人たちのアイデンティティーを保つ、忘れないようにするという本来の目的から、伝統行事によって、希薄になった人のつながりや子供とのふれあいというものを再構築しようというものに変化してきているのである。さらにこれに観光客を呼び込むなどの外向きの要素が加わっている。七夕祭り、越後盆踊りはその本質を変えながらも、現在に引き継がれているのである。

まとめ

 高島の伝統行事は、その本来の目的、姿というものは変わってしまったが、現在でもしっかりと住民の人たちによって執り行われている。大黒さんをはじめとした、地元の方の高島に対する思いはとても熱い。誰よりも自分たちの郷土を愛している。大黒さんは私にこう言った。
「たとえ伝統行事本来の意義を失っていたとしても、伝統行事が地域の人の心をつなぐものであり、また、若い人たちに伝統を伝えていくきっかけになればいい」と。
 私は高島において、彼をはじめとした伝統を守ろうと奔走する人を見た。「消えそうになった灯」をみて、自分たちのアイデンティティーを再認識し、それを次世代につなごうとする人を。
「自分は高島の人間です。」
高島に誇りを持って生きる彼らの姿を見て私は郷土を思うということはこういうことなのかと実感した。それと同時に、自分が生まれ育った町に誇りを持てるということは、すばらしいことだなと思った。
高島の公民館(写真14:高島の公民館、高島会館)

を私が訪れたとき、小学校くらいのお子さんであろうか、地元のお子さんが私に挨拶をしてくれた。大黒さんの目は、高島の伝統の灯は消えないこの子達がいつの日か、きっと伝統を受け継いでくれる、そんな目をしているように思えた。
 またいつの日か、高島を訪れたい。七夕に町中を「やま」が行きかい、夏の夜に越後の調べが鳴り響く、そんな高島を。

最後に

今回の調査では、小樽市立総合博物館の学芸員の先生方、高島町会会長の大黒さんをはめとした高島のみなさんのご好意によって、お話をうかがわせていただき、様々な面で協力していただいた。私のために時間を割いていただき、大変貴重なお話をしてくださったことに、最後になってしまったが、この場を借りて感謝を申し上げたい。

文献一覧

天野 武
 1996 『子供の歳時記−祭りと儀礼』岩田書店
大黒 昭
 2009 『自分史 日々是好日(定年後の日々)大黒 昭 
 2005 『新高島町史 改訂増補版』大黒 昭
小田嶋 政子
 1996 『北海道の年中行事』北海道新聞
新人物往来社
 2008 「歴史読本2009年1月号」新人物往来社
新谷 尚紀
 1999 『読む・知る・楽しむ 民俗学がわかる辞典』日本実業出版社

 インターネット資料

高島郷土館
http://www17.tok2.com/home2/takashimakyodokan/index.html

お話を伺った人

高島町会会長 大黒 昭さん
高島の住民のみなさん
小樽市総合博物館の学芸員の先生方