関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

京都民俗学会卒業論文発表会

京都民俗学会卒業論文発表会

2019年3月16日、立命館大学

 

赤井詩織(関西学院大学社会学部)

「パフォーマンス化するススキ提灯―奈良県御所市鴨都波神社の事例―」

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川路瑞紀(関西学院大学社会学部)

「廃仏毀釈のゆくえ―鹿児島県日置市「妙円寺詣り」の事例―」

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京都民俗学会
kyoto-minzoku.jp

 

大学院集中講義 武田俊輔准教授(滋賀県立大学人間文化学部)

大学院集中講義 武田俊輔 滋賀県立大学人間文化学部准教授

社会学特殊講義Ⅰ・社会学特殊研究Ⅰ

2019年2月13-15日

【授業目的】

 この講義では現代日本の地域社会における文化資源と、それにともなう社会関係・社会構造について論じる。そうした文化資源の分析においては、農村社会学における地域資源、コモンズ論における自然資源とその管理の仕方をめぐる研究等について参照しつつも、それとは異なる視点から研究を行う必要がある。
 まずは担当者自身による、都市祭礼や農山漁村の民謡・民俗芸能、ローカルな放送メディアといった対象に関する社会学的研究を手がかりとして具体的に論じていく。その上でこの講義のテーマや対象と関連する研究テーマ(例えば地域社会・メディア・歴史的環境・民俗文化・文化遺産等)を持つ受講者による報告・討議をできるだけ取り入れたい。

【到達目標】

 地域社会や文化資源に関する研究のアプローチについて理解し、またそれを自身の研究に活かせるようになること。

【キーワード】

文化資源 都市祭礼 民俗芸能 放送メディア 民俗文化 文化遺産 地域社会 歴史的環境

研究者詳細 - 武田 俊輔

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宝くじの民俗学-布施ポッポアベニューチャンスセンターの事例-

山田 馨

【要旨】

本研究は、宝くじについて、大阪府東大阪市・布施をフィールドとして現地調査を行うことで、宝くじの現状と売り場から見た将来について明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

1, 宝くじは、地方自治体の財政資金を調達し、収益金を公共事業などの資金に充てることを目的として売り出されており、販売総額のうち、約 47%が当選金として当選者に支払われる。約 14%は印刷経費や売りさばく際の手数料、1.5%ほどが社会貢献広報費、約40%が収益金として利用されている。

2, 布施は現東大阪市の旧地名で、近鉄布施駅周辺のことを指す。布施戎神社があることから「えべっさんの町」として親しまれている。

3,布施ポッポアベニューチャンスセンターは、縁起のいい名字の販売員が多くいることでメディアに取り上げられたこと、近くに布施戎神社があることから、幸運の売り場として有名店となった。

4,宝くじの売り上げは減少傾向にあり、売り上げ回復には若年層を取り込むことが重要とされている。売り上げ低迷の理由として考えられることは、還元率が低すぎることと、主な購入層であった中高年層が年金受給者となっていることである。

5,2018年、宝くじのネット販売が開始された。売り場の販売員にとって、お客さんとコミュニケーションをとりながら販売することが仕事の楽しみややりがいのひとつである。しかし、ネット上ですべて完結することが新しい層に宝くじを購入してもらうためには重要な政策である。

【目次】

序章 問題と方法

第1章 宝くじ

第1節 宝くじとは

第2節 収益金の使途

第3節 歴史

第2章 「えべっさんの街」布施

第1節 東大阪 布施

第2節 商店街の形成

第3節 布施戎神社

第3章 布施ポッポアベニューチャンスセンター

第1節 布施ポッポアベニューチャンスセンター 

第2節 従業員 恵美須屋理代子氏の語り

第3節 来店客 N氏の語り

第4章 現場から見た宝くじの現状と将来

第1節 宝くじの現状

第2節 ネット販売

結び

謝辞

文献一覧

【本文写真から】

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写真1 布施ポッポアベニューチャンスセンター看板

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写真2 布施ポッポアベニューチャンスセンター

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写真3 布施戎神社 戎像

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写真4 布施戎神社

【謝辞】

本論文執筆にあたり、お忙しい中お話を聞かせてくださった布施の商店街の皆さま、お忙しい中お時間をいただきお話をしてくださった布施ポッポアベニューチャンスセンターの恵美須屋様、客として来店しているにもかかわらずお時間をとってお話をしてくださった方、ご協力いただきありがとうございました。

皆様のご協力なしには本論文を完成させることはできませんでした。心よりお礼申し上げます。

盆踊りと口説き ―八幡浜市向灘地区の事例―

盆踊りと口説き

―八幡浜市向灘地区の事例―

 

社会学部3年生

岩野亜美

 

【目次】

 

はじめに

 

1章 盆踊りと口説き

1-1 盆踊り

1-2-1 盆踊りの起源

1-2-2 八幡浜の盆踊り

1-2 口説き

1-2-1 口説きの起源

1-2-2 八幡浜の口説き

 

2章 音頭取りたち

2-1  谷本廣一郎氏

2-2 上田耕筰氏

2-3 川本茂二氏

 

3章 盆踊りの昔と今

 

結び

 

謝辞

 

参考文献

 

はじめに

 

 今回の調査で訪れた愛媛県八幡浜市では、南予地方独特の民俗芸能が伝承されており、その中に盆踊りがある。毎年8月に行われる盆踊りは、少しずつ形を変えながらも地域の人々に愛され、代々受け継がれている。長い歴史を持つこの盆踊りにおいて、古くから変わらない伝統の1つに、口説きがある。口説きとは民謡の1つで、歌詞が一連の物語になっており、代表的なものに木遣り口説や越後口説きがあるが、盆踊りでは踊り口説きが用いられている。本調査では、八幡浜で行われる盆踊りと口説きを詳しく説明するとともに、盆踊りが行われる際、今もなおやぐらの上で口説く人々を紹介し、盆踊りと口説きが昔と今でどのように変化したのかを取り上げる。

 

1章 盆踊りと口説き

 

1-1 盆踊り

 

1-1-1 盆踊りの起源

 

 まず、盆踊りとは盆の時期に死者を供養するために踊る、民俗芸能である。盆踊りが文献に始めて登場するのは室町時代であるが、盆踊りの起源は平安時代中頃にまで遡る。僧侶の空也上人が始めた、念仏を唱えながら踊る踊念仏が、民間習俗と習合して念仏踊りとなり、盆会と結びついたのち、死者を供養する行事として人々に定着した。また、盆には死者が帰って来るという考え方が含まれており、初期の盆踊りは、新盆を迎える家に人々が赴き、家の前で輪を作って踊り、家主は踊り手をご馳走でもてなしたという。盆踊りは死者を供養するという目的以外にも、村落社会において娯楽的要素も含まれ、村の結束を強める機能的役割も果たした。

 

1-1-2 八幡浜の盆踊り

 

 八幡浜の盆踊りは、主に8月13日から14日の間に行われる。盆踊りが開催される日は地区によって違うが、本稿では海に近く主に漁業や海運業が盛んである、八幡浜市向灘地区を取り上げる。向灘は八幡浜市の北西部に位置し、勘定・杖之浦・大内浦・中浦・高城の5つの地区に分けられる。向灘で行われる盆踊りだが、現在は13日か14日のどちらか1日しか行われないものの、昔は8月13日から15日の3日間にかけて行われていた。3日に分けることにも意味があり、13日の盆踊りではそれぞれの地域で祀っている氏神様を祀り、14日にはご先祖様の供養、最終日である15日には娯楽的行事、例えばお祭りなどを行なっていた。3日間の中でも特に14日は特徴的であり、盆踊りの参加者は、地域に住むその年に亡くなった人々の家を歩いて周った後、位牌やろうそくを会場に並べ、供養として盆踊りを行なっていた。

 盆踊りの踊り方にも特徴があり、一般的な、手を使いながら音に合わせて踊る手踊りだけでなく、大きな色とりどりの日傘を使い、音頭に合わせて広げたり回したり、蕾めたりして踊る傘踊りや、大きなそろばんを使い音を鳴らしながら踊る、そろばん踊りなどがあった。盆踊りが開催される場所は地区によって様々で、例えば、5つの地区の中で最も海岸に近く、経済力が高かったといわれる勘定地区で行われる盆踊りは、勘定の中に位置するみかん倉庫の下で行われた。昔の勘定地区の盆踊りは、長い時は夜の12時頃まで行われていたため、みかん倉庫に集まる人々は勘定に住む人々だけでなく、他の地区での祭りを終えた人など、地区を超えて多くの人々が訪れた。地区によって盆踊りを行う会場は違うものの、その地区に住む人しか参加出来ないということはなく、参加したい人は誰でも盆踊りに参加することが出来たため、他の地区に住む人々と交流するきっかけとなり、地域の結束にも繋がったという。

 

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写真 勘定地区の盆踊り

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写真 みかん倉庫の下で行われる盆踊り

 

1-2 口説き

 

1-2-1 口説きの起源

 

 口説きとは、くどくどと「繰り返し説く」という動詞が名詞化したものであり、元来は、単調な旋律をもつ朗唱的曲節の名称である平曲や、慕情や傷心を述べる詠嘆的な内容の小段をさす謡曲で、登場人物の悲しみを歌う演出であったが、近世以降、口承文芸の演出が加わり多様化した。盆踊りでは、多様化した口説きの中の1つである、長編の叙事詩を同じ旋律にのせて歌う、踊り口説きが用いられている。

 

1-2-2 八幡浜の口説き

 

 盆踊りは、やぐらの上で口説く音頭取りと、大きな太鼓を叩き音頭に合わせる太鼓打ち、そして音頭に合わせて踊るはやし手に分かれて行われる。盆踊りはそれぞれの地区で行われる為、盆踊りの内容に違いはあるものの、多くの地区では始めに地域の人々がよく知る民謡に合わせて踊り、一服挟んだ後に、口説きに合わせて踊る。向灘だけでなく、八幡浜市全体でよく使用される民謡の例として、昭和期を代表する国民的作曲家として有名な、古賀政男作曲の「かまぼこ娘」「八幡浜漁港の歌」が挙げられる。多くの作品が、「古賀メロディー」として親しまれている古賀政男であるが、この2つの作品は、古賀氏が八幡浜の人々の為に手掛けたものであるという。盆踊りの中で使用されるだけでなく、例えば、「八幡浜漁港の歌」に関しては、朝6時に鳴るミュージックサイレンとしても使用されており、多くの人々に親しまれている。馴染み深い民謡に合わせて踊った後、八幡浜の盆踊りは、音頭取りによる口説きで締められる。向灘の盆踊りには創作口説きがあり、口説き手によって口説く歌に違いがみられる。自分で歌を創作して口説く者もいれば、口説き手から受け継いだ歌を口説く者など様々である。また、口説き手により歌い方にも特徴があるなど、地域によって興味深い違いが見られる。そこで、2章では、向灘で盆踊りの音頭取りを務める人々を紹介すると共に、地域によってどのような違いが見られるかを述べる。

 

 

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写真 勘定地区での口説きの様子

2章 音頭取りたち

 

2-1 谷本廣一郎氏

 

 まず始めに、向灘の勘定地区に住む、谷本廣一郎氏にお話を伺った。谷本氏は、生まれも育ちも八幡浜であり、八幡浜の伝統を受け継ぎ、後世に伝え、地域の発展に尽力してきた1人である。谷本氏は幼少期、盆踊りに参加している際、やぐらの上で汗を流しながら音頭を取る口説き手に対し、強い憧れを持ったと話している。「私もあの場所に立ちたい」という思いや、子供の頃から口説き手を近くで見ていたことから、谷本氏が口説き手になった際、独特なリズムを理解することや、口説き歌を覚えることは難しくなかったそうだ。

 1章より、口説き手によって口説く歌が違うと紹介したが、谷本氏は自身で創作した口説き歌を用いて、はやし手に合わせて口説いている。この口説き歌は、明治27年に九州の福岡より、みかん・夏みかん・ネーブルを約3000本導入し、八幡浜の危機をみかん栽培で救った、大家百治郎を讃える歌である。大家百治郎は、当時、生活が厳しく貧しかった八幡浜で、何か新しいことを行い今の現状を打開したいと考え、みかんの苗木を植えた後に、多くの人々にみかんの育て方を教え続けた結果、みかんは八幡浜を代表する果物として、広く有名となった。

 盆踊りの際、口説き歌は、口説き手から口説き手へと繋がれて続いていく。谷本氏は、役を引き継ぐ際に、決まった口説き文句があるという。

 

「もろた もろとや 音頭をもろた  アヨイヨイ

もろた音頭なら 広めにゃならぬ  ソレモヤー、ハートセー、ヤーハートセ

  宵の音頭さんよ近寄りなされ アヨイヨイ

  口説けよれば 踊り子もはずむ  ソレモヤー、ハートセー、ヤーハートセ」

(谷本,1996)

 

 この口説き文句から始まり、大家百治郎の伝記へと歌詞は変わっていく。

 

「時は明治の 中頃すぎて  アヨイヨイ

  村は貧乏な 漁師のたつき  ソレモヤー、ハートセー、ヤーハートセ

  こんなことでは 皆んなが食えぬ  アヨイヨイ

  何かよいこと 考え出そうお  ソレモヤー、ハートセー、ヤーハートセ」

(谷本,1996)

 

 終盤に差し掛かると、口説き歌を次の口説き手へと引き継ぎ、谷本氏の口説きは終わりを向かえる。

 

「やっとうれしゅや 世継ぎができた  ソレモヤー、ハートセー、ヤーハートセ

  わしの文句も この声限り  アヨイヨイ

  右のおん手の この唐傘も  ソレモヤー、ハートセー、ヤーハートセ

  いちをそろえて お渡しします  アヨイヨイ」

 

 この「向灘盆踊り口説き」はおよそ20分に渡って行われる。実際に、著者である私も冒頭部分の口説き歌を拝聴したが、少し低く遠くまで響く谷本氏の声は非常に聴きやすく、口説き手として住民の人々に支持されるその魅力を強く感じた。

 

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写真 谷本ご夫妻

2-2 上田耕筰氏

 

 次に、谷本氏と共に八幡浜の口説きを受け継ぎ、支えている上田耕筰氏にお話を伺った。上田氏は、八幡浜で美容院を経営する傍ら、地域に代々伝わるてやてや踊り競演大会へチームで出場し、団長を務め優勝。また、高松音頭マイスターとして町の発展に貢献するなど、取り組む内容は多岐にわたる。上田氏は18歳~20歳の頃に口説き手を継いだが、その背景には2-1で紹介した谷本氏への憧れがあったと話している。今もなお尊敬していると話す谷本氏と、上田氏自身の口説きの違いを尋ねると、声の音程にそれぞれ違いがあり、特徴が表れているという。谷本氏の声色が低いのに対し、上田氏は少し高めである。理由として、上田氏は元々高音が出しやすく歌いやすいという点と、女性の口説き手から口説きを受け継いだため、自然と高い声色で口説きを行っていたという2点を挙げていた。上田氏へインタビューを行う中で、口説きは歌や役割をただ受け継ぐのではなく、口説き手の想いや特徴も理解し、自分の想いと共に口説き手へと繋いでいく。その過程が口説きの魅力の1つであると強く実感した。

 上田氏は、谷本氏と同じく創作口説き歌を用いて口説きを行うが、谷本氏と違い、その口説き歌は自身で作詞したものではないという。上田氏が口説きの際に用いる、創作口説き歌「二宮忠八翁賛歌」は、以前から交流のあった菊池啓秦氏が作詞した歌であり、菊池氏が上田氏に是非この歌を口説いてほしいと希望を伝えたことが始まりとなり、その想いを胸に上田氏は今もこの歌を口説いている。この歌は、八幡浜市矢野町出身で、明治時代の航空機研究者である、二宮忠八を讃える歌である。二宮忠八は、陸軍従軍中の1889年に「飛行器」を考案し、その翌年には、ゴム動力による「模型飛行器」を製作している。また、独自に人間が乗れる実機の 開発を目指し、完成には至らなかったものの、その先見性や独創性から「日本の航空機の父」と評価された。また、「飛行器」は忠八本人の命名によるものであり、忠八の死から18年後の1954年、英国王立航空協会が自国の展示場へ忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示した際は、彼のことを「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介するなど、偉大な功績を残している。二宮忠八の偉大さを後世に伝え続けるため、口説き歌として上田氏は歌い続けるのである。

 

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写真 白いはっぴを着て、てやてや音頭を踊る上田氏

2-3 川本茂二氏

 

 最後にお話を伺ったのは、盆踊りの際、口説き手と共に太鼓を叩いて音頭を取る、太鼓打ちの川本茂二氏である。川本氏にはインタビューの際、太鼓打ちとして何か心掛けていることはないかと尋ねたが、その際、意識していることが2点あると話していた。1つ目は、口説き手によって口説きの始め方が違うため、先に叩いてリズムを生み出すのか、それとも、先に口説き始める口説き手に合わせて太鼓を打つのか、相手の出方に合わせて音頭を取るということ。2つ目に、口説きのその場でのノリを大切にするということを述べていた。盆踊り自体は競技ではなく、堅苦しいちゃんとした決まりはない。その為、例え中学生でも太鼓を叩きたいと希望があれば、リズムの取り方から教えることも可能であり、実際、祭りの合いの手は中学生数名にお願いすることがあるという。祭りに向けて練習をすることはあるものの、ルールなどには縛られず、その時その場で生まれる空気を大切にし、即興に近い形で音頭を取ると話していた。川本氏には太鼓打ちの師匠はおらず、こうしなければならないという見本がないからこそ、川本氏自己流の唯一無二の太鼓打ちが生まれるのである。

 

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写真 川本茂二氏

3章 盆踊りの昔と今

 

 盆踊りと口説きの歴史や、口説きを受け継ぐ音頭取りについて詳しく述べてきたが、ここでは八幡浜の盆踊りの現状について述べる。盆踊りは、開催日数の縮小や開催時間の短縮に伴い、昔のように何日もかけ盛大に行事を行うことが難しくなっているように感じた。実際に、現在の向灘の盆踊りもそれぞれの地区で1日かけて行われており、何日も時間をかけて行うことは無いという。しかし、娯楽的要素を含みながら、地域の交流の一環としての役目をしっかりと担っており、盆踊りが本来持つ特徴はそのままに、地域の変化に合わせて少しずつ変化を遂げているのではないだろうか。

 しかし、今回の調査で気になった点は、口説き手の減少である。今も勘定で口説きが行われている一方で、向灘の杖之浦では口説き手がおらず、口説きを録音したレコードを流して盆踊りを行うという。地区によって口説き手は決まっているが、ほかの地区で口説いてはいけないなどのルールはないため、地区を超えて口説きを行うことはあるものの、人数が少なくその負担も大きい。その為、谷本氏は口説き手育成の場を自ら設け、口説き手を後世に残すための取り組みを行っているという。

 

結び

 

 八幡浜での調査において、盆踊りや口説きの文化を学ぶ一方で、文化を受け継ぎその役目を担う方々へインタビューを行った。1人1人のライフヒストリーや八幡浜に対する愛情を、会話を通して実感するとともに、彼らの文化の担い手としての責任を強く感じた。盆踊りや口説きを自身の思い出として完結させるのではなく、その経験を後世に残すためにどうすればいいのかを考える。それは、彼ら自身が盆踊りや口説きを通して得た経験から、伝統を受け継ぎ守り続けることが、八幡浜と共に生きてきた自身への責任だと感じているからではないだろうか。

 

謝辞

 

 本論文作成にあたりご協力頂いた谷本廣一郎様、上田耕筰様、川本茂二様、突然の訪問にも関わらず温かく迎え入れて頂き、本当にありがとうございました。皆様の協力失くして本論文を完成させることは出来ませんでした。また、協力して頂いた多くの八幡浜の方々へもこの場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 

参考文献

 

・谷本廣一郎,1996『俚諺と俚謠と人の風景』八幡浜新聞社

・大本敬久,2005『民族の知恵 愛媛八幡浜民族誌』創風社

社会学一級学科下における民俗学の教育体系 ―その問題・学科の位置づけ・学科の編制について-

国際会議

社会学一級学科下における民俗学の教育体系

―その問題・学科の位置づけ・学科の編制について-

 

主题:社会学一级学科下的民俗学教学体系

时间:北京时间2019年1月21日(星期一)14:50-18:20

地点:北京师范大学后主楼2232 会場:北京師範大学

主办方:北京师范大学社会学院人类学与民俗学系

主催者: 北京師範大学社会学学院人類学と民俗学学系

        华东师范大学社会发展学院民俗学研究所

        華東師範大学社会発展学院民俗学研究所

 

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(以下、中村貴氏(華東師範大学民俗学研究所専任講師)訳)

中国民俗学の父と称された鐘敬文氏は、1979年に正式に「民俗学科」の設立について提起し、翌1980年には北京師範大学民俗学学科において全国初の民俗学の博士課程が設置された。また、1991年に鐘敬文氏が発表した『关于民俗学结构体系的设想(民俗学の学科体系についての構想)』は、民俗学の学科体系とカリキュラムの編成が成熟段階へ入ったことを意味する。1997年には、国務院学位委員会が学科目録を発布し、民俗学は(一級学科)社会学の下の二級学科となり、鐘氏の当初の構想は、新たな問題・挑戦に直面することとなった。

その後、20年の発展期(1998年―2018年)を経て、中国国内ではますます多くの民俗学専攻が社会学院へと編入され、(それに伴って)新たな問題(意識)への転換が求められ、学生募集の対象も以前の文学関連から、社会学関連(の学生)を主としたものとなった。このような新たな状況において、民俗学の教育理念や民俗学専攻の学生に対する効果的な人材育成、各大学の民俗学科における自身の(学科としての)位置づけなどは、我々の眼前にある切迫した問題となっている。

鐘敬文氏ら前代の民俗学教育者が残した民俗学教育の遺産を継承、再考するため、(一級学科)社会学下の民俗学における教育目標・教育体系・カリキュラムの特色について議論し、民俗学の人材育成における質的向上を推進するため、北京師範大学中国社会管理研究院/社会学院人類学与民俗学系、華東師範大学社会発展学院民俗学研究所は、2019年1月21日(月)午後15:00より、「社会学一級学科下における民俗学教育体系:その問題・学科の位置づけ・学科の編制について」と題する会議を開催する。

今回の円卓会議は、会場討論とwebをリンクさせる形式を採る。北京師範大学の会場への臨席を乞うと同時に、会場へ来られない場合は、微信(WeChat)のテレビ電話形式で会場とつなぐ。「社会学一級学科下における民俗学の教育体系:その問題・学科の位置づけ・学科の編制について」という議題に関し、各自10-15分のコメントを行う。具体的なテーマは以下の三点である。

 

1.民俗学の教育体系が直面している状況と役割

2.民俗学の教育体系に存在する主な問題

3.民俗学の教育体系における今後の学科編成の方向性と大まかな構想

 

以上が中心議題だが、参加者は以下の問題について議論を行っても構わない。

1.民俗学と隣接学科との関係について。社会学の枠組における民俗学教育体系に関する新たな提起。

2.民俗学の学科編成の伝統・プロセス・経験

 

 参加者名簿(敬称略)

蕭放、鞠熙、賀少雅(北京師範大学)

田兆元、徐贛麗(華東師範大学)

高丙中(北京大学)

林継富(中央民族大学)

張士閃、劉宗迪(山東大学)

陳志勤(上海大学)

季中揚(南京農業大学)

島村恭則(日本関西学院大学)

周星(日本愛知大学)

張挙文(米ウィラメット大学)

 

议程安排 

 

15:00-15:20

萧放教授宣布会议开始并做主题发言 萧教授による基調講演

15:20-15:35

徐赣丽教授介绍会议缘起 徐教授による会議開催に至るまでの経緯についての紹介

15:35-17:50

会议主旨发言(每人15分钟)個人発表(1人15分)

张 举 文教授15:35-15:50

周    星教授15:50-16:05

岛村恭则教授16:05-16:20

高 丙 中教授16:20-16:35

张 士 闪教授16:35-16:50

田 兆 元教授16:50-17:05

林 继 富教授17:05-17:20

刘 宗 迪教授17:20-17:35

季 中 扬教授17:35-17:50

17:50-18:20

会议自由讨论 自由討論

萧放教授总结 萧教授によるまとめ

18:20 散会 閉会

 

 

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1979年,钟敬文先生提出了正式建立“民俗学科”的想法,1980年,北师大民俗学学科成为全国第一个民俗学博士点。1991年,钟敬文先生发表了《关于民俗学结构体系的设想》一文,标志着民俗学的学科体系与课程建设进入成熟阶段。1997年,国务院学位办发布了学科调整目录,民俗学成为社会学下的二级学科,钟先生的原有设想开始面临新的问题与挑战。经过20年的发展(1998-2018),国内越来越多的民俗学专业转入社会学院,在转向新的问题意识的同时,招生对象也从过去的文学类本科生为主转为社会学类本科生为主。在新的形势下,如何思考民俗学的教育理念、如何更有针对性的培养民俗学人才、如何明确各高校民俗学科的自身定位,都成为摆在我们面前的迫切问题。

为了继承并反思钟敬文先生等老一辈民俗学教育工作者的教育遗产,探讨民俗学在社会学一级学科下的教育目标、教学体系与课程特色,推动民俗学人才培养的质量提升,北京师范大学中国社会管理研究院/社会学院人类学与民俗学系与华东师范大学社会发展学院民俗学研究所拟于2019年1月21日(周一)下午15:00,召开“社会学一级学科下的民俗学教学体系:问题、定位与建设”圆桌会议。

此次圆桌会议采取现场研讨与网络连线相结合的方式,欢迎与会者莅临北师大会议现场,无法到场者,将以微信视频的方式进行远程连线。每位与会者围绕“社会学一级学科下的民俗学教学体系:问题、定位与建设”议题,发表10-15分钟的现场发言,包括如下三方面:

  1. 当下民俗学教学体系面临的任务与机遇。
  2. 目前民俗学教学体系存在的主要问题。
  3. 民俗学教学体系今后建设的方向定位及大致设想

为服务于上述核心议题,与会者可再任选以下一个方面的问题展开说明:

  1. 民俗学与相邻学科的关系。社会学框架对民俗学教学体系提出的新要求。
  2. 民俗学学科体系建设的传统、历程与经验。

 

「世界」と「血統」 ―戦後日本競馬における神話の消長―

和田康太郎

 

【要旨】

 本論文は、日本競馬界における「世界挑戦・血統の神話」について、主に雑誌や新聞、テレビ中継などの競馬メディアを用いて時代を追って紹介しつつ、その生成や発展にどのような背景があったかを考察し、その消長の歴史、そして今後の展望を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、以下のとおりである。

1.1954年のJRA発足から70年代までは、世界に対する意識は「学習の対象」というようなものであった。血統の面においても様々な種牡馬、繁殖牝馬の流入で混沌としており、発展途上の時代である。しかしハクチカラの海外重賞初制覇や後に種牡馬として成功したシンザンの登場など、世界挑戦・血統の両面で競馬神話の萌芽を感じさせる時代であった。

2.80年代になると、ジャパンカップの創設などで競馬関係者やファンは「世界」という存在を強く意識するようになり、「世界のシンボリルドルフ」との対比でシンザン産駒が「日本」の象徴として語られた。また血統の面では、国内馬産保護の政策により不利を被った持込馬マルゼンスキーの仔が「父内国産」という看板を背負って走っており、「制度の壁に阻まれた父の無念を仔が晴らす」という神話のもと語られた。どちらの神話にも「世界」「血統」という側面が同時に存在しており、2つの神話が交差した時代といえる。

3.90年代は最も神話が盛り上がりを見せた時代である。海外G1初制覇により日本馬の世界挑戦の神話は一つの節目を迎え、国内でも親子での同一G1制覇という神話が語られた。反面、血統の神話においては後の競馬界全体に影響を及ぼす種牡馬サンデーサイレンスが登場し、神話の生まれる土壌は奪われていくことになった。

4.21世紀に入ると、日本馬による世界挑戦は頻繁に行われるようになり、神話性は薄れた。また血統の面においても、国内の競走馬はサンデーサイレンス系で飽和状態となり、血統神話も次第に語られなくなった。代わりに「傍流」が神話の対象となり、また「前後のつながり」の神話が退潮し「個」の神話が残るなど、神話のありかたに変容が見られた時代でもある。しかし完全に神話が語られなくなったということはなく、これからの競馬界でも世界挑戦・血統の神話が生まれるであろう場面は残されている。

 一つ一つの時代や神話について語った研究や著作はあるが、これを歴史上の連続したものとして扱い、神話の消長をまとめることができた点において、意義があったように思う。競馬界のさらなる発展のためにも、また神話の生成が盛り上がる時代が到来することを願う。

 

【目次】

序章 1

 第 1 節 問題設定:「競馬神話」から競馬人気の栄枯盛衰を辿る 2

 第 2 節 「神話」の定義 2

 第 3 節 「世界」「血統」の二本柱 4

第 1 章 JRA 発足から 70 年代まで ―競馬神話の萌芽 7

 第 1 節 世界挑戦 ―ハクチカラと海外遠征 8

 第 2 節 血統 ―種牡馬としてのシンザン 9

第 2 章 80 年代 ―交差する世界と血統 12

 第 1 節 世界挑戦 ―ジャパンカップと 2 頭の三冠馬 13

 第 2 節 血統 ―マルゼンスキーと「内国産縛り」の功罪 15

第 3 章 90 年代 ―神話の最盛期 18

 第 1 節 世界挑戦 ―日本競馬の「マイル」ストーン 19

 第 2 節 血統 ―盛り上がる国内血統と“SS”時代の到来 21

第 4 章 21 世紀 ―「世界挑戦」・「血統」神話の衰退 25

 第 1 節 世界挑戦 ―「騒がれない時代」 26

 第 2 節 血統 ―「傍流」と「個」の神話 27

結語 31

文献一覧 33

 

【本文写真から】

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写真1 「シンザンを超えろ」の合言葉と共に、シンボリルドルフ登場まで日本競馬の目標とされた5冠馬・シンザン。「優駿」2011 年 9 月号より

 

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写真2 1984年ジャパンカップの報道。勝ち馬カツラギエースは日本馬初のジャパンカップ制覇だったが、ファンの焦点は「日本の夢」として神話化されたシンボリルドルフの敗北に当てられた。「優駿」1985 年 1 月号より

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図1 2015 年時点でのサンデーサイレンス系種牡馬の勢力図。赤が当時供用されていた 国、青が供用歴のあった国。「サンデーサイレンスの時代」より

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写真3 アーモンドアイのジャパンカップ制覇時の報道。21世紀は日本競馬の目標が「世界」から「世界の頂点(≒凱旋門賞制覇)」へと変容した時代である。大阪スポーツ 2018 年 11 月 27 日号より

 

伸線の水車と薬種の水車―生駒山西麓の事例―

松本瑚夏

 

【要旨】

 本論文では、生駒山西麓で発展していた水車業について、豊浦谷の伸線水車、辻子谷の薬種水車2つの事例を中心に取り上げ、文献調査・聞き取り調査を行い両者の差について明らかにしたものである。本論文で明らかになったのは以下の点である。

 

  1. かつて生駒山西麓では、善根寺谷、日下谷、辻子谷、額田谷、豊浦谷、客坊谷、鳴川谷が「河内七谷」とよばれ、谷筋で水車業が盛んに行われていた。それぞれの谷によって行われた水車業が違い、それぞれに特色がある。
  1. そのうちの一つ、豊浦谷では伸線業(針金加工)が盛んになった。当初は人力で行われていたが、水車を利用することで大量生産が可能になり、豊浦谷のある枚岡地域は「線屋のメッカ」と呼ばれるほどであった。戦争需要や昭和の不況の中で、伸線業は発達・変化を繰り返し、大正初期の電力供給をきっかけに、水車から電力への切り替えが急速に行われた。水車は次第に使用されなくなり、昭和初期にいち早くその姿を消した。
  1. また、辻子谷ではかつてより胡粉製造が栄えていた。やがて胡粉製造から薬種粉末加工に転換し、最盛期には43両の水車が架けられていた。「薬の町」で知られる大阪道修町の製粉過程を一手に引き受けていた。電力化の波にはあらがえず昭和57年に最後の水車が停止したが、現在もその製法は伝統産業として大切にされている。
  1. 豊浦谷と辻子谷の水車は、全体的な停止時期に大きな差がある。この差は水車業の差、ひいては水車をどういう用途で使用したかの差である。これについては、立地環境や時代・需要の変化など様々な要因が複合している。

 

【目次】

序章 

 第1節 問題の所在

 第2節 東大阪の地場産業

  (1)河内木綿

  (2)河内木綿の衰退がもたらしたもの

第1章 水車

 第1節 水車

  (1)水車の型式

  (2)全国の水車

 第2節 河内七谷

  (1)善根寺谷(車谷)

  (2)日下谷

  (3)辻子谷

  (4)額田谷

  (5)豊浦谷

  (6)客坊谷

  (7)鳴川谷

  (8)河内七谷のまとめ

第2章 豊浦谷の水車

 第1節 伸線業

  (1)伸線業の起こり

  (2)枚岡にもたらされた伸線

  (3)人力から水車へ

  (4)伸線業の発展

  (5)伸線職人の回顧録

  (6)水車の馬力

 第2節 電動機の普及

  (1)電力供給の始まり

  (2)第一次世界大戦による好景気と反動恐慌

第3章 辻子谷の水車 

 第1節 薬種粉末加工

  (1)漢方の発展

  (2)粉末加工

 第2節 小西製薬株式会社

  (1)辻子谷での水車稼ぎ

  (2)水車の思い出

  (3)水車と薬種加工の相性

  (4)辻子谷水車の衰退

第4章 2つの谷と水車

 第1節 立地環境

  (1)水車業の変遷

  (2)立地環境

 第2節 水車に何を見出すか

 

結語

謝辞

参考文献  

  

【本文写真から】

 

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写真1 現在の音川



写真1 現在の音川

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現在の音川

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写真2 辻子谷水車郷 看板

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写真3 辻子谷水車郷 復元水車



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写真4 辻子谷水車郷 復元水車横の水路

 

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写真5 辻子谷 坂の上から

【謝辞】

 本論文を執筆するにあたって、突然のアポイントメントにも関わらず、快くお話していただいた小西秀和様、小西秀治様、ならびに小西製薬株式会社の皆様に、心より御礼申し上げます。ご多忙にもかかわらず、私のために時間を割いて下さり、わかりやすく説明していただいたおかげで、東大阪の伝統産業について深い知識を得ることができました。また、非常に貴重な資料やお土産までいただくなど、たくさんのご厚意に深く感謝いたします。皆様のご協力なしにこの論文を完成させることはできませんでした。

 

 今回の調査にご協力いただいたすべての方に、改めて御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 

おちょぼさん―岐阜県海津市千代保稲荷神社の信仰をめぐって―

信田実希

 

【要旨】 

本研究は、岐阜県海津市平田町に位置する千代保稲荷神社をフィールドに、神社が定める「公式儀礼」と門前町に住む人々や参拝に訪れる人々によって生み出された「信仰習俗」について実地調査を行い、その実態を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は以下のとおりである。

 

1.千代保稲荷神社は、人々から「おちょぼさん」の愛称で親しまれ、商売繁盛や家内安全にご利益があるといわれている。約1000年前に、八幡太郎源義家の六男義隆が分家する際、森の姓を授かり、祖先の霊璽、宝剣、義家の肖像などを「千代、代々に保っていけ」と賜ったのが始まりである。神社の名称もこの言葉に由来している。約500年前の源氏が滅びた後の文明年間に、義隆の子孫である森八海が現在の須脇の里を開き、義家に由来する霊璽を祀ったのが神社としての始まりである。代々森家で宮司を継承しており、現在は森康氏が21代目を務めている。

 

2.千代保稲荷神社では、お札やお守りの授与、朱印帳の記帳を行っていない。それは「千代に保て」の言葉通り、ただ神社を守っていくことが目的であり、分霊などは古伝に反するという理由からである。

 

3.千代保稲荷神社唯一の分社として1952年(昭和27年)に名古屋支所が創建された。名古屋支所創建に至った主な理由は、信者の増加と教化育成、交通網の不便さである。戦後すぐは講が発達した時期でもあり、千代保稲荷神社の信仰圏は岐阜県内にとどまらず、三重県や愛知県にまで広がっていた。八事や金山を含む名古屋は商売人が多かったこともあり、最も信者が多かった。しかし当時は交通網が発達していなかったため、名古屋に住む信者が千代保稲荷神社へ行くことは容易いことではなく、これに対応するため、名古屋支所が設けられたのである。

 

4.千代保稲荷神社の門前町は約700メートルで、そこには120を超える店が並んでいる。「須脇」と「大尻」の2つの地域に分けることができ、境に中鳥居が立っている。須脇に並ぶ店の歴史は比較的古く、土地柄を生かした川魚料理屋などが多い。それに対して大尻に並ぶ店は新しく、テナントショップとして物販をしている店が多い。かつてのおちょぼさんの門前町の三大名物といえば「漬物・みたらし・草餅」であったが、現在は「串カツ」も参拝後のゲン担ぎとして、若者を中心に人気を集めている。

 

5.千代保稲荷神社が公式に定めている儀式は、祭事とご祈祷である。年間祭事は、歳旦祭(元旦)・初午祭(旧暦2月、初午の日)・秋季大祭(体育の日)・月例祭(毎月1日、15日、22日)である。ご祈祷に訪れる人の願意は明らかではないものの、自営業をする人など商売に関係している人が多い。

 

6.千代保稲荷神社では神社が定める公式儀礼に対し、門前町に住む人々や参拝に訪れる人々によって生み出された民俗信仰が多く存在する。たとえば、参拝方法でいえば、油揚げをお供えすることや名刺を霊殿の御簾などにさして帰ること、精霊殿で賽銭箱が置いてあるにもかかわらず、お社の屋根に向かって賽銭を投げることなどである。また、月末から1日にかけて大勢の人で賑わう「月越参り」も参拝者によって生み出されたものである。家出した人が戻ってくる「足留め稲荷」や向かい合うキツネの像から「縁結びの神様」といわれることもあるが、それらの神様を神社として祀っているということはない。これらの俗信や風習がいつ生み出されたかについては、はっきりと分かっていないが、変化をしながらも現在も生き続けている。

 

【目次】

序章  

第1章 千代保稲荷神社

 第1節 千代保稲荷神社

 第2節 森家の伝承

 第3節 信仰圏と名古屋支所

 第4節 門前町

第2章 公式儀礼

 第1節 年間祭事

 第2節 祈祷儀礼

第3章 民俗信仰

 第1節 月越参り

 第2節 お供えの油揚げ

 第3節 霊殿の名刺

 第4節 足留め稲荷

 第5節 屋根に投げられる賽銭

 第6節 榊の葉

 第7節 向かい合うキツネ

結語

文献一覧

謝辞

 

【本文写真から】f:id:shimamukwansei:20190120144909p:plain

図1 千代保稲荷神社

*「おちょぼさん」(海津市観光協会)をもとに作成。

 

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図2 現在の門前町

*「おちょぼさん参道散策MAP」(海津市)より。

(東口大鳥居から中鳥居までが「須脇」、中鳥居から南口大鳥居までが「大尻」)

 

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写真1 門前町の様子(写真は須脇の地域)

 

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写真2 月越参り当日(2018年8月31日)の拝殿前の様子

 

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写真3 お供えされた油揚げ

 

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写真4 霊殿の名刺

 

 【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、多くの方々の協力をいただきました。

 お忙しい中、千代保稲荷神社に関するお話を聞かせてくださった、宮司の森康氏、禰宜の中野泰宏氏、ほていやの吉田家の皆様をはじめとする門前町の方々、参拝に訪れていた方々。これらの方々の協力なしには、本論文の完成に至りませんでした。今回の調査にご協力いただいた全ての方々に、心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 

消失する花街の風景ー大阪府住吉・住之江区「住吉新地」の事例ー

山田美玖

 


【要旨】
 本研究は、大阪府住之江・住吉区において存在した「住吉新地」について、文献調査及び実地調査によって、江戸時代から現代に至るまでの変遷を記述したものである。本研究で明らかになったのは以下の点である。
1、住吉新地は元々、住吉大社の参道そして紀州街道にも面する住吉新家がその前身となっている。住吉新家は料理屋街として名を馳せ、その付近には茶屋も軒を連ねることとなる。その茶屋の女中が着飾って参拝客をもてなしていたことが住吉新家に花街的要素を与え、後に住吉新地がおこるきっかけであろう。
2、明治18(1885)年、阪堺鉄道の開通、馬車鉄道上町線の延伸により、駅となる住吉大社側に商売の中心が移ったことにより、住吉新家で商売していた店も場所を移転していくこととなる。その結果、住吉大社に隣接する住吉公園内に料亭や茶屋、旅館が林立し、茶屋では雇仲居が横行するようになる。
3、大正11(1922)年、現在の浜口東2、3丁の一部に「芸妓居住指定地」の認可が下り、ここにおいて、正式に芸妓の存在が認められ、住吉新地が囲い込まれることとなる。堂々と芸妓を扱う店が許可されたことにより、住吉新地は花街として益々発展していった。
4、昭和9(1934)年、国道16号線(現在の国道26号線)、及び都市計画路線の開通をりゆうとして、住吉新地は新名月の菖蒲園(現在の御崎町1丁付近)への移転を命じられる。この頃に住吉新地は最盛期を迎えることとなる。
5、太平洋戦争による人手不足から、花街としての機能が失われ、住吉新地は一度営業を停止する。その後、終戦の年の昭和20(1945)年に起きた大阪大空襲により、被害を受けた他の花街から芸妓のみならず娼妓も流入し、住吉新地が営業を再開した時には芸娼入り混じった花街となっていた。
6、昭和33(1958)年の売春防止法の施行により、住吉新地は花街としての機能を失うが、住吉新地に存在した茶屋は旅館、あるいは貸し間として営業を続ける。料理屋は風紀的な問題を持たない為営業を続けることも多かったが、次第に客足が遠のく中、そのほとんどが営業をやめ現在は民家として存在している。今でも、町のところどころに花街の遺構が残ってはいるが、花街としての要素は皆無に等し。現在は、住宅地としての住吉区、住之江区が存在している。

 


【目次】
序章 問題の所在-------------------2
はじめに---------------3
第1章 住吉大社と住吉新地---------------------4
第2章 花街としての住吉新地---------------------9
 第1節 芸妓・娼妓・雇仲居---------------10
 第2節 茶屋の世界-------------12
第3節 花街を支えたさまざまな仕事-------------18
第3章 住吉新地のゆくえ-----------------22
結語-------------------------------25
謝辞-------------------------------27
文献一覧---------------------------28

【本文写真から】

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写真1 大正~昭和初年頃の住吉公園内茶屋料亭図
*れすとらん 源ちゃん 子田憲一氏 私物

 

 

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写真2 江戸時代~昭和9年(菖蒲園への移転)までの住吉新地の大まかな変遷(黄色/江戸時代、桃色/明治時代~大正時代、赤色/大正時代~昭和時代、青色/昭和時代)
*『google map』(https://www.google.co.jp/maps,2019年1月8日現在)に加筆。

 

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写真3 前列左から2番目が廣田家2代目大木戸福蔵氏、周囲の女性は雇仲居、芸妓
*廣田家 大木戸豊氏 私物

 

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写真4 松栄亭前でポーズをとる当時の芸妓
*松栄亭経営者子孫 小室由起子氏 私物

 

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写真5 現在も残る住吉新地の遺構(2019年1月4日撮影)

 

【謝辞】
本研究を進めるにあたり、沢山の方にご協力を賜りました。
お忙しい中聞き取り調査にご協力頂きました、れすとらん 源ちゃんの子田憲一様、松栄亭の小室由起子様、向久美子様、廣田家の大木戸豊様、その他、現地でインタビューさせて頂きました多くの方に、そして、論文執筆が一向に進まない中、温かくご指導いただきました島村恭則教授に感謝を申し上げます。

造花百年史―ニューホンコン造花と東京大西造花装飾―

造花百年史―ニューホンコン造花と東京大西造花装飾―
松岡 有紀

 

【要旨】
本論文では現代生活で欠かすことのできない「造花」を扱う人々が、100年間の中でどのように造花を造り、売り出してきたのか、その変遷の歴史や現状を、大阪をフィールドに実施調査を行うことで明らかにしたものである。本研究でわかったのは次のとおりである。

1. ニューホンコン造花は、造花卸のみならず副業も行っていた。
2. ニューホンコン造花がクリスマスオーナメントを製造することになったきっかけは海外からの打診である。
3. ニューホンコン造花が現在主に扱っている造花は仏花造花であり、仏花造花の需要が高い理由として、「野焼き禁止」「品質向上」「高齢化」が挙げられる。
4. 東京大西造花装飾は、通信販売やクリスマスへの参入など、時代に合った新しいものをどんどん取り入れる社風を持つ。
5. 東京大西造花装飾は、ホンコンフラワーをいち早く取り入れた。
6. 東京大西造花装飾は、造花のみならず、東京オリンピックにおける万国旗や、大阪万博の際も万博に沿った商品を発売しているように、イベントごとにも力を入れている。
7. かつて大阪には造花を扱う企業が100以上存在したが、時代の流れや造花の変遷により店をたたむところが増えた。
8. 経緯は違えど、造花問屋が共通してクリスマスオーナメントの制作・販売を行っていた。また、現在も行っている企業も存在する。
9. 戦前・戦後時代から日本の手工業の技術の評価は高く、海外からの造花の需要も高かった。
10. 以前はメーカー業と流通業を兼任している企業が多かったが、造花の変遷により現在は流通業のみの問屋に転向している企業が多い。
11. 1960年に国内販売を開始したプラスチック製の造花ホンコンフラワーは、日本の造花業界に革新をもたらすものであった。
12. プラスチック製やシルク製、ビニール製など時代の変化や社会問題への取り組みとともに取り扱う造花が変化していった。

 

【目次】

序章--------------------------------------------------------------5
 はじめに--------------------------------------------------------------6

第1章 ニューホンコン造花--------------------------------------------------------------7
 第1節 丸山商店--------------------------------------------------------------8
  (1)創業のきっかけ---------------------------------------------------------------------- 8
  (2)造花メーカーとして---------------------------------------------------------------- 8
  (3)戦前の海外貿易---------------------------------------------------------------------- 9
 第2節 岡田好生堂--------------------------------------------------------------9
  (1)丸山商店との別れ------------------------------------------------------------------- 9
  (2)副業としての新事業---------------------------------------------------------------- 9
 第3節 トモエ商会--------------------------------------------------------------10
  (1)造花メーカーとしての戦後--------------------------------------------------------------10
  (2)福岡への移転--------------------------------------------------------------11
 第4節 ニューホンコン造花-------------------------------------------------------------- 11
  (1)輸出から輸入への転換------------------------------------------------------------- 11
  (2)ホンコンフラワーとの出会い---------------------------------------------------- 11
  (3)現在のニューホンコン造花------------------------------------------------------- 12

第2章 東京大西造花装飾--------------------------------------------------------------14
 第1節 創業期--------------------------------------------------------------15
  (1)造花メーカーとして---------------------------------------------------------------- 15
  (2)通信販売------------------------------------------------------------------------------- 15
  (3)海外との貿易------------------------------------------------------------------------- 16
  (4)クリスマスオーナメント---------------------------------------------------------- 17
  (5)イベントと造花---------------------------------------------------------------------- 19
 第2節 ホンコンフラワー--------------------------------------------------------------19
  (1)戦後の造花--------------------------------------------------------------19
  (2)ホンコンフラワー--------------------------------------------------------------20
  (3)造花の変遷--------------------------------------------------------------21
 第3節 万国旗--------------------------------------------------------------22
  (1)東京五輪--------------------------------------------------------------22


 結語------------------------------------------------------------------------------------------------ 24
 謝辞------------------------------------------------------------------------------------------------ 26
 参考文献------------------------------------------------------------------------------------------ 27

 

【本文写真から】

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ニューホンコン造花外観

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東京大西造花装飾大阪支店外観

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現在ニューホンコン造花で取り扱っている仏花造花

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1960年代の大西造花装飾のカタログ

 

 

【謝辞】
 本論文の執筆にあたり、大変多くの方々にご協力をいただきました。会社の経営でお忙しい中ご自宅にお招きいただき、たくさんのお話を聞かせてくださり貴重な資料を見せてくださったニューホンコン造花の岡田光司氏、お父様の圭市氏、並びに関係者の皆様。また、お忙しい中会社にお招きいただき、たくさんのお話を聞かせてくださり貴重な資料を見せてくださったり資料を提供してくださった大西克彦氏、並びに関係者の皆様。皆様方の協力なしには、本論文を完成することはできませんでした。
 皆様との出会いに感謝し、お力添えいただいたすべての方々にこの場を借りて心よりお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

市電を動かした人々ー京都市交通局の事例ー

社会学部 菊井大希

 

 

【要旨】

本研究はかつて京都市の主要な交通機関であった市電に、運転士・車掌として乗務された方々の語りを通じて、京都市電における乗務員の市電を動かす技を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、以下の通りである。

 

1.市電の車両を運転する上で、運転士が最も神経を使った動作は制動であった。当時、京都市電の車両には、現代の車両のように荷重に応じてコンピューターが自動で減速度を調整するといった制御システムは搭載されておらず、ブレーキハンドルを操作する運転士の手元の感覚が車両の制動の全てを左右した。運転士は、定時運行と快適な乗り心地を両立させる運転が求められた。

2.市電のブレーキ操作は、運転士の教習において交通局から基本となる動作が示される。しかし、路面軌道の環境、車内の混雑率、車両性能の個体差など、様々な条件に対応するため、それぞれの運転士が乗務の経験を重ねる中で、自分なりのブレーキ操作を身につけていった。 

3.市電が走っていた時代は、現在のようにコンピューター制御や列車無線のような通信手段が発達していなかったことから、トラブルやアクシデントへの対応は現場で柔軟に取られた。

4.接近表示誘導信号の情報を頼りに操車係は電車の運行管理を行っていた。しかし、接近表示誘導信号を通過するという重要な部分は運転士の電車を動かすタイミングに委ねられているため、しばしば誤った系統番号情報が操車係に送信されることもあった。

5.京都市電では、1960年代からコストカットを目的としてワンマン化が実施された。 ワンマン化に対応した車両では車掌の乗務が無くなり、これまで車掌が行っていた運賃の回収、電停の案内などは全て機械化された。 

6.乗務員は、運賃の一部を着服しないように定められた厳しい監視システムのもとで運賃の管理を行っていた。

7.車内により多くの乗客を詰め込むためには、車掌が乗客に対してより分かりやすく具体的な案内をし、誘導することが重要であった。 

8.朝ラッシュ時に烏丸線などで運行された 2両編成の電車では、前後それぞれに車掌が乗務し、各車両の車掌業務を行っていた。前後どちらか一方の車両の乗り降りに時間がかかってしまうと電車の運行が遅れてしまうので、連結運転の乗務は車掌にとってプレッシャーのかかる乗務であった。 

9.シフト制勤務であった京都市電は、ツーマン運転の場合、毎日ペアとなる運転士・車掌が異なる。誰とペアを組んでも互いの息を合わせた連携を取ることが定時運行への鍵となった。 

 

【目次】

 

序章 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 5

第1節 問題の所在  -------------------------------------------------------------- 6

第2節 京都市電 ---------------------------------------------------------------- 6

第1章 上田新一氏――――――――――――――――――――――――――――――――13

第1節 技と感覚 -----------------------------------------------------------------14

(1)制動 ----------------------------------------------------------------------14

(2)車両の個体差 --------------------------------------------------------------15

(3)運転士による制動の違い-----------------------------------------------------17

第2節 自然との戦い--------------------------------------------------------------18

(1)銀杏並木-------------------------------------------------------------------18

(2)雨と土砂-------------------------------------------------------------------20

第3節 自動車との戦い------------------------------------------------------------25

第4節 車両の運用----------------------------------------------------------------26

(1)入庫-----------------------------------------------------------------------26

(2)番号間違い-----------------------------------------------------------------30

第2章 麻田忠夫氏 ――――――――――――――――――――――――――――――― 31

 第1節 ワンマンとツーマン-------------------------------------------------------32

(1)業務の違い-----------------------------------------------------------------32

(2)ツーマン時代を知らない乗務員-----------------------------------------------34

 第2節 運転士-------------------------------------------------------------------35

(1)加速と減速-----------------------------------------------------------------35

(2)銀杏並木-------------------------------------------------------------------36

(3)自動車との戦い-------------------------------------------------------------37

  第3節 車掌--------------------------------------------------------------------38

(1)運賃の管理-----------------------------------------------------------------38

(2)戸締め---------------------------------------------------------------------39

(3)朝ラッシュ-----------------------------------------------------------------40

(4)車掌と運転士---------------------------------------------------------------41

結語 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――  42

文献一覧 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――  44

 

【本文写真から】

 

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【写真1】上田氏による運転操作解説

 

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【写真2】市電1600形の運転席

 

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【写真3】ブレーキハンドル

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【写真4】昭和45年4月の路線図

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【写真5】市電2000形

 

 

【謝辞】

本論文を執筆するにあたり、市交通局OBである上田新一さんと麻田忠夫さんには、数多くの貴重なお話をお聞かせ頂きました。また、御二方をはじめ、京都市内在住の様々な方が調査にご協力くださいました。本論文の執筆にご協力いただいたすべての方々に心から感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

山の管絃祭ー広島県中山間地域における厳島系祭礼をめぐってー

社会学部 鈴木祐花

 

【要旨】

本研究は広島の中山間地域において行われている管絃祭について、可部、千代田、吉田をフィールドに実地調査を行うことで、海上祭礼である厳島の管絃祭に対して山の管絃祭とはどのようなものであるか歴史的背景などを交えながら明らかにするものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

 

  1. 厳島は厳島神社だけではなく島全体が信仰の対象であり神が宿る島として人びとの信仰を受けながらも、鎌倉時代以降は商業や交通の要所としての側面も持ち合わせるようになり、神と人々の生活が共存している島といえる。
  2. 厳島神社は市杵嶋姫命を祭神とし、平清盛や毛利元就などの名高い名将たちの信仰を受け、これが各地での厳島信仰の広がりに繋がった。厳島信仰の拡大により、海上交通の安全祈願だけでなく、五穀豊穣や災害忌避などの祭祀も行われるようになった。
  3. 管絃祭とは旧暦6月17日に行われる厳島神社の夏の祭礼行事であり、管絃船と呼ばれる船の上で様々な管絃を演奏しながら、対岸の地御前神社などいくつかの場所を巡り神事を行う祭りである。浄土信仰が盛んだった時代に清盛によって始められた法華経読誦の中で管絃の演奏が行われていたことを由来とし、室町時代に「管絃経」、江戸時代に「管絃講」と名前を変え現在の管絃祭になったとされている。
  4. 可部の明神祭は厳島神社と同じ市杵嶋姫命を祭神とする明神社の夏の大祭である。かつて川船交通の要衝として栄えていた時代は、神社前にあった船着き場に船を浮かべ神事が行われていた。現在は公園となったその場所で奉納神楽が行われている。山陰地方で栄える神楽を海の祭りである管絃祭に取り入れている点が、中山間地域である可部ならではの特徴である。
  5. 千代田の管絃祭の大きな特徴が陸船である。かつて千代田は厳島荘園であったという歴史的背景から管絃祭が行われるようになったと考えられる。周りに海がないため道路を海と見立て、陸船を揺らしながら動かすことで海の上を進んでいるように見せるという点など、まさに山の管絃祭といった千代田独自の文化が存在している。
  6. 吉田はかつて毛利元就が治めていた地であり、菅絃祭にも元就との関係の深さが表 れている。神事が毛利公武者絵巻のストーリーの一部として組み込まれており、吉田の歴史を感じる祭りとなっている。また、厳島神社を治めていた佐伯氏の領地であったことも関係していると考えられる。さらに、奉納神楽も行われ、水上交通の安全を願う海の祭りと五穀豊穣を願う山の祭りが融合した形になっている。
  7. この3地区の祭りを山の管絃祭と一言で言っても、行われている内容や祭りの歴史的背景は全く異なるものであり、三者三様である。川や船といった厳島神社を模している部分もそれぞれの祭りに存在してはいるものの、その地域の歴史や文化などを大きく反映した独自の祭りが行われている実態がある。

 

 

【目次】

序章 研究の趣旨⋯⋯⋯1

 はじめに⋯⋯⋯2

第1章 厳島神社と管絃祭⋯⋯⋯3

 第1節 厳島⋯⋯⋯4

 第2節 厳島神社⋯⋯⋯6

 第3節 管絃祭⋯⋯⋯9

第2章 可部の明神祭⋯⋯⋯14

 第1節 可部のまち⋯⋯⋯15

 第2節 祭りの流れ⋯⋯⋯16

 第3節 厳島との関わり⋯⋯⋯18

第3章 八重管絃祭⋯⋯⋯19

 第1節 千代田のまち(現・北広島町)⋯⋯⋯20

 第2節 祭りの流れ⋯⋯⋯20

 第3節 陸船⋯⋯⋯23

 第4節 厳島との関わり⋯⋯⋯23

第4章 吉田の管絃祭⋯⋯⋯25

 第1節 吉田のまち⋯⋯⋯26

 第2節 祭りの流れ⋯⋯⋯26

 第3節 武者絵巻⋯⋯⋯28

 第4節 厳島との関わり⋯⋯⋯32

結語 まとめ⋯⋯⋯33

 おわりに⋯⋯⋯34

文献一覧⋯⋯⋯36

 

 

【本文写真から】

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写真1 明神社での明神祭

 

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写真2 明神祭での神事の様子

 

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写真3 河本明神

 

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写真4 今田八幡神社

 

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写真5 吉田の管絃祭での奉納神楽の様子

*広西章史氏提供

 

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写真6 武者絵巻の様子

*広西章史氏提供

 

 

【謝辞】

 本論文の執筆にあたって、多くの方々のご協力をいただきました。八重管絃祭について貴重なお話を聞かせてくださった北広島町観光協会会長の山口様、平田様をはじめとする観光協会の方々、また、吉田の管絃祭についてお話を聞かせてくださった管絃祭実行委員長の広西様、皆様お忙しい中大変真摯に取材にお応えいただき、心より感謝申し上げます。文献や資料が少ないなかでこの論文を完成させることができたのは、取材に関わってくださった全ての皆様のおかげです。本当にありがとうございました。

 

パフォーマンス化するススキ提灯ー奈良県御所市鴨都波神社の事例ー

赤井詩織

【要旨】
 本論文では、奈良県御所市宮前町に位置する鴨都波神社をフィールドし、鴨都波神社の「ススキ提灯」について調査したものである。ススキ提灯は、御所市に分布する奈良県指定無形民俗文化財であり、毎年、秋に行われるススキ提灯献灯行事の際、五穀豊穣や家内安全、無病息災を祈願し、神社に奉納される。ススキ提灯は御所市の27の神社に分布しており、御所市全体で160本余り存在する。
 その中で唯一、鴨都波神社はススキ提灯を用い、「パフォーマンス」「演舞」を行っている。本来、ススキ提灯は静かに奉納するものであるが、鴨都波神社は、ススキ提灯献灯行事の際、ライブのようにパフォーマンスを行う。なぜ、鴨都波神社のススキ提灯献灯行事にパフォーマンスが生まれ、また、どのように突出したのかを現地調査によって明らかにした。今回の調査で明らかになった点は、以下の5点である。


1.ススキ提灯献灯行事は、江戸時代中期、百姓が神に豊作を祈願したことが始まりと考えられている。鴨都波神社を除き、祭り当日は各神社に氏子たちが提灯を持って集まり、静かに提灯を奉納している。しかし、近年、少子化や金銭的な理由でススキ提灯献灯行事を行っていない神社も多数みられる。


2.鴨都波神社では、年間を通して様々な行事が行われているが、その行事の中心となっている組織のことを「若衆会」と呼ぶ。若衆会結成のきっかけとなったのは、30年以上神社に眠っていた、重さおよそ800㎏の神輿である。およそ25年前、この奈良県最重量級と言われている神輿の存在を知った御所出身の男性5,6名は、御所のまちを活性化したい思いを持ち、神輿を担いだ。その際、氏子の人々が神輿に向かって拝んだため、正式に鴨都波神社の祭りで神輿を担ぐことになり、平成5年に若衆会を結成する。さらに、御所のまちを盛り上げるため、太鼓のお囃子やススキ提灯のパフォーマンス化が始められた。そして、平成10年、若衆会の中に提灯衆を結成する。この提灯衆が、現在ススキ提灯でパフォーマンスを行う役割を担っている。


3.若衆会や提灯衆の結成以来、毎年、夏季大祭と秋季大祭の宵宮の際、ススキ提灯のパフォーマンスが行われるようになった。そして、現在、鴨都波神社のススキ提灯パフォーマンス時には、数百人の観客が境内に集まり、ライブ形式になっている。本来は静かであった行事が、まち全体で盛り上がる祭りに変化し、御所の中で鴨都波神社のススキ提灯が突出する現象が起きた。


4.ススキ提灯のパフォーマンスとは、ススキ提灯を振り回したり、投げたりする「技」を行うことである。技はおよそ20個あり、すべて提灯衆が試行錯誤を繰り返して考えたものである。大車輪、ジャイアントスイング、片手投げ、連続投げ、交差投げ、横投げ、片手回し、高速回転、縦回転、静止技である肩乗せ、おでこ乗せ、腕乗せ等、技に名称を付けたものもある。祭りの2ヶ月前からは週に2回、境内でパフォーマンスの稽古が行われる。祭りでススキ提灯のパフォーマンスを行うことについては、神事は厳粛なものであるとする観点から、これを疑問視する声もあるが、「神は賑やかな祭りが好きで、こうしたパフォーマンスを喜ぶはずだ」とする神社側の理解もあって、パフォーマンスを行うことが正式に認められている。


5.近年、鴨都波神社のススキ提灯は全国様々なイベントに登場している。平成22年に平城宮跡で行われた平城遷都1300年記念事業、平成23年10月あべのキューズモールで行われた御所市の観光PR事業、平成25年2月東京NHKホールで行われた第13回地域伝統芸能まつり、平成27年5月JR大阪駅時空の広場で行われた第2回地域伝統芸能フェスティバル、平成28年1月29日から31日、平城宮跡の大極殿前ステージで行われた第1回「なら大立山まつり」に登場した。
また、平成28年は、ススキ提灯のデザインが秋の近畿宝くじに採用される、映画「天使のいる図書館」に登場する、奈良県知事より「あしたの奈良」の表彰を受ける等、多くの場面でススキ提灯が見受けられた。鴨都波神社のススキ提灯は、奈良県御所市の中で突出し、さらに、全国に拡大する現象が起きたと考えられる。

 

 

【目次】
序章------------------------------------------------------------10

 

第1章 ススキ提灯と御所の祭り----------------------------------17
第1節 ススキ提灯----------------------------------------------18
第2節 神社と祭り----------------------------------------------20

 

第2章 鴨都波神社とススキ提灯----------------------------------23
第1節 鴨都波神社----------------------------------------------24
第2節 鴨都波神社のススキ提灯----------------------------------27

 

第3章 若衆会結成と祭りの変化----------------------------------29
第1節 結成の経緯----------------------------------------------30
第2節 祭りの変化----------------------------------------------33
第3節 拡大するススキ提灯--------------------------------------36

 

第4章 夏季大祭と秋季大祭--------------------------------------43
第1節 夏季大祭のススキ提灯------------------------------------44
第2節 秋季大祭のススキ提灯------------------------------------57
第3節 秋季大祭の本宮祭----------------------------------------59

 

結語------------------------------------------------------------67
文献一覧--------------------------------------------------------70
謝辞------------------------------------------------------------71

 

 

【本文写真から】

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写真1 鴨都波神社の境内

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写真2 1742年の検知絵図から見る御所まち(御所市役所提供資料)

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写真3 ススキ提灯が葛城公園に集合する様子

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写真4 ススキ提灯巡行の様子

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写真5 若衆会によるススキ提灯のパフォーマンス

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写真6 本宮祭の大神輿



【謝辞】
本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただきました。
 お忙しい中、ススキ提灯や鴨都波神社についてのお話を聞かせて下さった、三井秀樹氏、東川裕氏、ほかに調査にご協力いただいた御所まちの氏子の皆さん、若衆会の皆さん。鴨都波神社や鴨都波神社の祭り、ススキ提灯についての資料を提供して下さった三井秀樹氏、御所についての資料を提供して下さった御所市役所の皆さん。夏季大祭や秋季大祭当日、私を温かく迎え入れて下さった皆さん。これらの方々の協力なしには、本論文は完成に至りませんでした。今回の調査にご協力いただいた全ての方々に、心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。