関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

盆踊りと口説き ―八幡浜市向灘地区の事例―

盆踊りと口説き

―八幡浜市向灘地区の事例―

 

社会学部3年生

岩野亜美

 

【目次】

 

はじめに

 

1章 盆踊りと口説き

1-1 盆踊り

1-2-1 盆踊りの起源

1-2-2 八幡浜の盆踊り

1-2 口説き

1-2-1 口説きの起源

1-2-2 八幡浜の口説き

 

2章 音頭取りたち

2-1  谷本廣一郎氏

2-2 上田耕筰氏

2-3 川本茂二氏

 

3章 盆踊りの昔と今

 

結び

 

謝辞

 

参考文献

 

はじめに

 

 今回の調査で訪れた愛媛県八幡浜市では、南予地方独特の民俗芸能が伝承されており、その中に盆踊りがある。毎年8月に行われる盆踊りは、少しずつ形を変えながらも地域の人々に愛され、代々受け継がれている。長い歴史を持つこの盆踊りにおいて、古くから変わらない伝統の1つに、口説きがある。口説きとは民謡の1つで、歌詞が一連の物語になっており、代表的なものに木遣り口説や越後口説きがあるが、盆踊りでは踊り口説きが用いられている。本調査では、八幡浜で行われる盆踊りと口説きを詳しく説明するとともに、盆踊りが行われる際、今もなおやぐらの上で口説く人々を紹介し、盆踊りと口説きが昔と今でどのように変化したのかを取り上げる。

 

1章 盆踊りと口説き

 

1-1 盆踊り

 

1-1-1 盆踊りの起源

 

 まず、盆踊りとは盆の時期に死者を供養するために踊る、民俗芸能である。盆踊りが文献に始めて登場するのは室町時代であるが、盆踊りの起源は平安時代中頃にまで遡る。僧侶の空也上人が始めた、念仏を唱えながら踊る踊念仏が、民間習俗と習合して念仏踊りとなり、盆会と結びついたのち、死者を供養する行事として人々に定着した。また、盆には死者が帰って来るという考え方が含まれており、初期の盆踊りは、新盆を迎える家に人々が赴き、家の前で輪を作って踊り、家主は踊り手をご馳走でもてなしたという。盆踊りは死者を供養するという目的以外にも、村落社会において娯楽的要素も含まれ、村の結束を強める機能的役割も果たした。

 

1-1-2 八幡浜の盆踊り

 

 八幡浜の盆踊りは、主に8月13日から14日の間に行われる。盆踊りが開催される日は地区によって違うが、本稿では海に近く主に漁業や海運業が盛んである、八幡浜市向灘地区を取り上げる。向灘は八幡浜市の北西部に位置し、勘定・杖之浦・大内浦・中浦・高城の5つの地区に分けられる。向灘で行われる盆踊りだが、現在は13日か14日のどちらか1日しか行われないものの、昔は8月13日から15日の3日間にかけて行われていた。3日に分けることにも意味があり、13日の盆踊りではそれぞれの地域で祀っている氏神様を祀り、14日にはご先祖様の供養、最終日である15日には娯楽的行事、例えばお祭りなどを行なっていた。3日間の中でも特に14日は特徴的であり、盆踊りの参加者は、地域に住むその年に亡くなった人々の家を歩いて周った後、位牌やろうそくを会場に並べ、供養として盆踊りを行なっていた。

 盆踊りの踊り方にも特徴があり、一般的な、手を使いながら音に合わせて踊る手踊りだけでなく、大きな色とりどりの日傘を使い、音頭に合わせて広げたり回したり、蕾めたりして踊る傘踊りや、大きなそろばんを使い音を鳴らしながら踊る、そろばん踊りなどがあった。盆踊りが開催される場所は地区によって様々で、例えば、5つの地区の中で最も海岸に近く、経済力が高かったといわれる勘定地区で行われる盆踊りは、勘定の中に位置するみかん倉庫の下で行われた。昔の勘定地区の盆踊りは、長い時は夜の12時頃まで行われていたため、みかん倉庫に集まる人々は勘定に住む人々だけでなく、他の地区での祭りを終えた人など、地区を超えて多くの人々が訪れた。地区によって盆踊りを行う会場は違うものの、その地区に住む人しか参加出来ないということはなく、参加したい人は誰でも盆踊りに参加することが出来たため、他の地区に住む人々と交流するきっかけとなり、地域の結束にも繋がったという。

 

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写真 勘定地区の盆踊り

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写真 みかん倉庫の下で行われる盆踊り

 

1-2 口説き

 

1-2-1 口説きの起源

 

 口説きとは、くどくどと「繰り返し説く」という動詞が名詞化したものであり、元来は、単調な旋律をもつ朗唱的曲節の名称である平曲や、慕情や傷心を述べる詠嘆的な内容の小段をさす謡曲で、登場人物の悲しみを歌う演出であったが、近世以降、口承文芸の演出が加わり多様化した。盆踊りでは、多様化した口説きの中の1つである、長編の叙事詩を同じ旋律にのせて歌う、踊り口説きが用いられている。

 

1-2-2 八幡浜の口説き

 

 盆踊りは、やぐらの上で口説く音頭取りと、大きな太鼓を叩き音頭に合わせる太鼓打ち、そして音頭に合わせて踊るはやし手に分かれて行われる。盆踊りはそれぞれの地区で行われる為、盆踊りの内容に違いはあるものの、多くの地区では始めに地域の人々がよく知る民謡に合わせて踊り、一服挟んだ後に、口説きに合わせて踊る。向灘だけでなく、八幡浜市全体でよく使用される民謡の例として、昭和期を代表する国民的作曲家として有名な、古賀政男作曲の「かまぼこ娘」「八幡浜漁港の歌」が挙げられる。多くの作品が、「古賀メロディー」として親しまれている古賀政男であるが、この2つの作品は、古賀氏が八幡浜の人々の為に手掛けたものであるという。盆踊りの中で使用されるだけでなく、例えば、「八幡浜漁港の歌」に関しては、朝6時に鳴るミュージックサイレンとしても使用されており、多くの人々に親しまれている。馴染み深い民謡に合わせて踊った後、八幡浜の盆踊りは、音頭取りによる口説きで締められる。向灘の盆踊りには創作口説きがあり、口説き手によって口説く歌に違いがみられる。自分で歌を創作して口説く者もいれば、口説き手から受け継いだ歌を口説く者など様々である。また、口説き手により歌い方にも特徴があるなど、地域によって興味深い違いが見られる。そこで、2章では、向灘で盆踊りの音頭取りを務める人々を紹介すると共に、地域によってどのような違いが見られるかを述べる。

 

 

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写真 勘定地区での口説きの様子

2章 音頭取りたち

 

2-1 谷本廣一郎氏

 

 まず始めに、向灘の勘定地区に住む、谷本廣一郎氏にお話を伺った。谷本氏は、生まれも育ちも八幡浜であり、八幡浜の伝統を受け継ぎ、後世に伝え、地域の発展に尽力してきた1人である。谷本氏は幼少期、盆踊りに参加している際、やぐらの上で汗を流しながら音頭を取る口説き手に対し、強い憧れを持ったと話している。「私もあの場所に立ちたい」という思いや、子供の頃から口説き手を近くで見ていたことから、谷本氏が口説き手になった際、独特なリズムを理解することや、口説き歌を覚えることは難しくなかったそうだ。

 1章より、口説き手によって口説く歌が違うと紹介したが、谷本氏は自身で創作した口説き歌を用いて、はやし手に合わせて口説いている。この口説き歌は、明治27年に九州の福岡より、みかん・夏みかん・ネーブルを約3000本導入し、八幡浜の危機をみかん栽培で救った、大家百治郎を讃える歌である。大家百治郎は、当時、生活が厳しく貧しかった八幡浜で、何か新しいことを行い今の現状を打開したいと考え、みかんの苗木を植えた後に、多くの人々にみかんの育て方を教え続けた結果、みかんは八幡浜を代表する果物として、広く有名となった。

 盆踊りの際、口説き歌は、口説き手から口説き手へと繋がれて続いていく。谷本氏は、役を引き継ぐ際に、決まった口説き文句があるという。

 

「もろた もろとや 音頭をもろた  アヨイヨイ

もろた音頭なら 広めにゃならぬ  ソレモヤー、ハートセー、ヤーハートセ

  宵の音頭さんよ近寄りなされ アヨイヨイ

  口説けよれば 踊り子もはずむ  ソレモヤー、ハートセー、ヤーハートセ」

(谷本,1996)

 

 この口説き文句から始まり、大家百治郎の伝記へと歌詞は変わっていく。

 

「時は明治の 中頃すぎて  アヨイヨイ

  村は貧乏な 漁師のたつき  ソレモヤー、ハートセー、ヤーハートセ

  こんなことでは 皆んなが食えぬ  アヨイヨイ

  何かよいこと 考え出そうお  ソレモヤー、ハートセー、ヤーハートセ」

(谷本,1996)

 

 終盤に差し掛かると、口説き歌を次の口説き手へと引き継ぎ、谷本氏の口説きは終わりを向かえる。

 

「やっとうれしゅや 世継ぎができた  ソレモヤー、ハートセー、ヤーハートセ

  わしの文句も この声限り  アヨイヨイ

  右のおん手の この唐傘も  ソレモヤー、ハートセー、ヤーハートセ

  いちをそろえて お渡しします  アヨイヨイ」

 

 この「向灘盆踊り口説き」はおよそ20分に渡って行われる。実際に、著者である私も冒頭部分の口説き歌を拝聴したが、少し低く遠くまで響く谷本氏の声は非常に聴きやすく、口説き手として住民の人々に支持されるその魅力を強く感じた。

 

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写真 谷本ご夫妻

2-2 上田耕筰氏

 

 次に、谷本氏と共に八幡浜の口説きを受け継ぎ、支えている上田耕筰氏にお話を伺った。上田氏は、八幡浜で美容院を経営する傍ら、地域に代々伝わるてやてや踊り競演大会へチームで出場し、団長を務め優勝。また、高松音頭マイスターとして町の発展に貢献するなど、取り組む内容は多岐にわたる。上田氏は18歳~20歳の頃に口説き手を継いだが、その背景には2-1で紹介した谷本氏への憧れがあったと話している。今もなお尊敬していると話す谷本氏と、上田氏自身の口説きの違いを尋ねると、声の音程にそれぞれ違いがあり、特徴が表れているという。谷本氏の声色が低いのに対し、上田氏は少し高めである。理由として、上田氏は元々高音が出しやすく歌いやすいという点と、女性の口説き手から口説きを受け継いだため、自然と高い声色で口説きを行っていたという2点を挙げていた。上田氏へインタビューを行う中で、口説きは歌や役割をただ受け継ぐのではなく、口説き手の想いや特徴も理解し、自分の想いと共に口説き手へと繋いでいく。その過程が口説きの魅力の1つであると強く実感した。

 上田氏は、谷本氏と同じく創作口説き歌を用いて口説きを行うが、谷本氏と違い、その口説き歌は自身で作詞したものではないという。上田氏が口説きの際に用いる、創作口説き歌「二宮忠八翁賛歌」は、以前から交流のあった菊池啓秦氏が作詞した歌であり、菊池氏が上田氏に是非この歌を口説いてほしいと希望を伝えたことが始まりとなり、その想いを胸に上田氏は今もこの歌を口説いている。この歌は、八幡浜市矢野町出身で、明治時代の航空機研究者である、二宮忠八を讃える歌である。二宮忠八は、陸軍従軍中の1889年に「飛行器」を考案し、その翌年には、ゴム動力による「模型飛行器」を製作している。また、独自に人間が乗れる実機の 開発を目指し、完成には至らなかったものの、その先見性や独創性から「日本の航空機の父」と評価された。また、「飛行器」は忠八本人の命名によるものであり、忠八の死から18年後の1954年、英国王立航空協会が自国の展示場へ忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示した際は、彼のことを「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介するなど、偉大な功績を残している。二宮忠八の偉大さを後世に伝え続けるため、口説き歌として上田氏は歌い続けるのである。

 

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写真 白いはっぴを着て、てやてや音頭を踊る上田氏

2-3 川本茂二氏

 

 最後にお話を伺ったのは、盆踊りの際、口説き手と共に太鼓を叩いて音頭を取る、太鼓打ちの川本茂二氏である。川本氏にはインタビューの際、太鼓打ちとして何か心掛けていることはないかと尋ねたが、その際、意識していることが2点あると話していた。1つ目は、口説き手によって口説きの始め方が違うため、先に叩いてリズムを生み出すのか、それとも、先に口説き始める口説き手に合わせて太鼓を打つのか、相手の出方に合わせて音頭を取るということ。2つ目に、口説きのその場でのノリを大切にするということを述べていた。盆踊り自体は競技ではなく、堅苦しいちゃんとした決まりはない。その為、例え中学生でも太鼓を叩きたいと希望があれば、リズムの取り方から教えることも可能であり、実際、祭りの合いの手は中学生数名にお願いすることがあるという。祭りに向けて練習をすることはあるものの、ルールなどには縛られず、その時その場で生まれる空気を大切にし、即興に近い形で音頭を取ると話していた。川本氏には太鼓打ちの師匠はおらず、こうしなければならないという見本がないからこそ、川本氏自己流の唯一無二の太鼓打ちが生まれるのである。

 

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写真 川本茂二氏

3章 盆踊りの昔と今

 

 盆踊りと口説きの歴史や、口説きを受け継ぐ音頭取りについて詳しく述べてきたが、ここでは八幡浜の盆踊りの現状について述べる。盆踊りは、開催日数の縮小や開催時間の短縮に伴い、昔のように何日もかけ盛大に行事を行うことが難しくなっているように感じた。実際に、現在の向灘の盆踊りもそれぞれの地区で1日かけて行われており、何日も時間をかけて行うことは無いという。しかし、娯楽的要素を含みながら、地域の交流の一環としての役目をしっかりと担っており、盆踊りが本来持つ特徴はそのままに、地域の変化に合わせて少しずつ変化を遂げているのではないだろうか。

 しかし、今回の調査で気になった点は、口説き手の減少である。今も勘定で口説きが行われている一方で、向灘の杖之浦では口説き手がおらず、口説きを録音したレコードを流して盆踊りを行うという。地区によって口説き手は決まっているが、ほかの地区で口説いてはいけないなどのルールはないため、地区を超えて口説きを行うことはあるものの、人数が少なくその負担も大きい。その為、谷本氏は口説き手育成の場を自ら設け、口説き手を後世に残すための取り組みを行っているという。

 

結び

 

 八幡浜での調査において、盆踊りや口説きの文化を学ぶ一方で、文化を受け継ぎその役目を担う方々へインタビューを行った。1人1人のライフヒストリーや八幡浜に対する愛情を、会話を通して実感するとともに、彼らの文化の担い手としての責任を強く感じた。盆踊りや口説きを自身の思い出として完結させるのではなく、その経験を後世に残すためにどうすればいいのかを考える。それは、彼ら自身が盆踊りや口説きを通して得た経験から、伝統を受け継ぎ守り続けることが、八幡浜と共に生きてきた自身への責任だと感じているからではないだろうか。

 

謝辞

 

 本論文作成にあたりご協力頂いた谷本廣一郎様、上田耕筰様、川本茂二様、突然の訪問にも関わらず温かく迎え入れて頂き、本当にありがとうございました。皆様の協力失くして本論文を完成させることは出来ませんでした。また、協力して頂いた多くの八幡浜の方々へもこの場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 

参考文献

 

・谷本廣一郎,1996『俚諺と俚謠と人の風景』八幡浜新聞社

・大本敬久,2005『民族の知恵 愛媛八幡浜民族誌』創風社