関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

新宗教の形成と現在―天照教の事例—

社会学部 3年 光田凌樹

 

 

【目次】

 

はじめに

 

1.天照教開教以前

 

2.天照教開教後

 

3.信者 今村清子氏

 

4.信者 寺下悦子氏

 

結び

 

謝辞

 

参考文献

 

 

はじめに

天照教は 1953 年(昭和 28 年)に北海道の室蘭市で、教祖を泉波希三子、管⻑を泉波秀雄と して開かれた新興宗教であり、天照大御神、大国大神、恵美須大神を祀る神仏習合の宗教で ある。

 

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1. 天照教開教以前 助産婦であった泉波希三子と教師であった泉波秀雄が稚内で出会い結婚するが、管⻑が結核を患い、教員保養所が唯一あった洞爺湖へ行く。教祖は兄の勝男が住んでいた室蘭へ移住 する。当時教祖は不治の病とされた結核に対して、医療の面だけでなく、宗教の面でも助け を求めるようになり各地で様々な宗教に出会った。ある時、洞爺湖温泉に素晴らしい神の先 生がいると聞き、管⻑の見舞いに行く途中に御嶽教照浜教会を訪ねた。教会⻑の浜口テリは 教祖が訪れると、「あなたがここへ来ることはわかっていた。あなたが来たとき赤十字の帽 子をかぶっているのが見えた。あなたは神様にお仕えしなければならない人だ。」と言い、 それを聞いた教祖は感動し、管⻑とともに浜口テリのもとへ訪れる。そして、管⻑は前世か ら神様に仕える人であるから、教師でいるべきではないと神様が伝えようとしているのだ と言われ、二人は悩んだ末に浜口テリのもとで修行を始める。そして修行を始めて 4 日目、 管⻑に天照大御神からの口開きがあった。

 

「吾は姫神じゃ、姫神じゃ。今日から汝の守護神として、汝を守ろうではないか。汝に 力と徳を与えようぞ。ゆめゆめ忘るまいぞ。戦争に負けてしまい、神も仏もないという人が 多い世の中となった。全く真っ暗な世の中となった。何千年前から伊勢の神宮の神としてお 祀りされ、多くの人がお伊勢様としてお詣りをしてくれてはいるが、今こそ、トビラを開い てお願いするのだ。神代時代、天照大御神の時代にしてくれ、これが神の願いであり頼みで ある。この願いを聞いてくれれば何でもしてやるぞ・・・。」(櫻井義秀ほか 2003:55)

 

この他管⻑を通じての神様と教祖のやり取りは数日間繰り返され、そのやり取りから二人 は信仰に身を捧げる決意をする。口開きにあった言葉は教祖がノートに書き留め、布教して 周る際のおみくじとしてまとめていた。そして二人は北海道内各地へと天照大御神の教え を布教して周る。しかしその途中で、神様から教祖へ初めてのお告げがあった。「死んだ病 人を生き返す力を授けよう。主人を北海道外へ『行』に出すこと。」(櫻井義秀ほか 2003:57) 稚内の天理教徒の町で育った管⻑は奈良の天理教本部へと 4 ヶ月間の修行に行くが、心の 拠り所をつかむことができず、照浜教会へと戻った。その後も教祖と管⻑は布教を続け、 1953 年の 5 月 1 日には大国大神、恵美須大神からもお告げがあり、自分たちが仕えるべき 神様を理解したことで修行と布教により専念するようになった。この日を立教宣言の日と

して、天照教としての第一歩を踏み出した。

2. 天照教開教後 立教してまもなく、五月十日に神からのお告げで三週間の「行」が、十月には第二回の「行」 として 21 日間、翌年の八月には第三回の「行」が終わり、それぞれの「行」で、剣、お鏡、 曲玉の三種の神器を神様から心の中へと授けられた。それ以後も二人はおみくじをもって 道内各地で本格的な布教活動を始めた。当時はお金が無く、駅のホームで寝泊まりすること もあった。そして神様のお告げを受けて、信仰の拠点を室蘭に置くことにした。神様から室 蘭を拠点にと言われた際、教祖は管⻑の身を案じて神様に、「室蘭は工業都市で空気が悪い から管⻑の体のことも考えて、室蘭はおやめください。」とお願いをしたところ、「室蘭にい ても管⻑の病気が悪くならないようにしよう。」と言われ、実際に結核が悪くなることは無 かったという。室蘭にある教祖の兄の家の六畳一間と押入れを仮神殿とし、その当時の信徒 の数は 5 人だった。開教の翌年の 2 月 1 日には天照教初の月次祭が行われた。その後 1955 年 4 月 6 日に宗教法人「天照教会」と認証され、「おしえどころ」と呼ばれる集会所や布教 所はこの頃から開設され始めた。同月の 20 日には本輪⻄に新たな本部神殿が建立され、こ の頃から天照教の教えを伝える信徒が布教師として養成され、各地に分教会が建てられる ようになった。1971 年には現在の本部が柏木町に移された。1982 年には、泉寿園という名 前の軽費老人ホームが開園し、始めの頃は教祖の親戚などが住んでいた。そして立教 35 年 の年である 1988 年には北島三郎に同行し、ブラジル日本移⺠ 80 周年記念式典に出席し、 困窮する人々を見た教祖はブラジル布教を開始した。三日間の講演が大盛況に終わり、ブラ ジルサンパウロ支部が開設され、1997 年にはブラジルサンベルナルド分教会も設立された。 ブラジル布教開始から 3 年目の 1991 年にブラジル政府から文化功労賞、ブラジル国侯爵 章、ブラジル国王冠章を受章した。そして同年の 11 月 15 日に初代管⻑である泉波秀雄が 逝去した。教祖の娘の泉波希久子の夫、泉波孝幸が 2 代目管⻑に就任し、立教 40 周年の 1993 年の 5 月 1 日に泉波希久子が教主に就任した。45 周年の年に、教団五十年史の編纂へ と取り掛かり、50 周年の年に教団史を作り上げた。その後、平成20年 1 月 1 日に教祖である泉 波希三子が逝去した。そして現在に至る。

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3. 信者 今村清子氏

1950 年生まれの二世信者である今村氏は、幌別町で生まれ育ち、現在は学童保育の預かり 所で働いている。親の入信時期は不明だが、病気関係ではなく子供への心配からの入信であ る可能性が高いと語った。今村氏の天照教への入信経緯は、何となく信じるようになったの が 15 歳のころだと語った。その当時、兼業教会⻑がよく自宅へ訪問していて、8 人兄弟が 教会⻑を囲って話を聞いていた。今村氏は神様を信じておらず、当時は吃音症だったために、 教会⻑に話しかけられるのも嫌だったという。そんな今村氏を見た教会⻑は不信心を見抜 き、「神様を分かるようにしてあげる。君は学校に行く時足を痛めるから 1 週間塩払いしな さい。」と言われた。今村氏は気味が悪いと感じたがそれを実践することなく本当に足を痛 めてしまい、そこから母親と一緒に教会へ通うようになった。当時はまだ何となく信じるだけで、家にいても拝むほどでは無かったが、高校受験の時偏差値の高い学校に受かるために、 朝 6 時半の電車で教会へ通い無事に合格することができた。また就職においても、当時家 が裕福でないにも関わらず、銀行に就職が決まった。今村氏は「自分と一緒に面接を受けた 美人は落ちたのに自分は受かったから、神様のおかげだと思えた。」と語った。今村氏は何年か時間をかけて、神様という存在を信じるようになった。また今村氏は自分が体験した息 子との不思議な経験も語ってくれた。ある時今村氏がいつものように拝んでいると、上にか けてある丸い鏡に逆三角形のような⻲裂が入っているように見えた。しばらくすると鏡は 丸い形に戻ったが、不吉な何かを感じた。そして息子が仕事をしている時に工場で事故があ り、レンズのガラスのほぼ全てが目に刺さってしまった。事故をした日は、仕事がいつもよ り早く終わり、いつも自分の仕事を手伝ってくれている人の仕事を手伝っていたら事故が 起こったという。すぐに日鋼病院に連れて行かれ、今村氏は本部へ向かいご祈祷をした。教 主に慌てておみくじを見てもらうと、「心配ない。本人が一週間本部に通ってお祈りすれば失明はしない。」と言われた。今村氏は教主の言葉通り、息子に一週間通わせた。代々目が 見えにくい家系であったが、今村氏と今村氏の親の信仰心で息子が失明することは逃れら れた。今村氏は宗教について、「宗教は常識の最高。不思議な力もあると信じていて、その 有無は信じるか信じないかで変わる。」と語った。

4.信者 寺下悦子氏

1951 年生まれの二世信者である寺下氏は、室蘭で生まれ育ち小学校低学年の時に天照教に 入信した。入信経緯は五人兄弟で育った寺下氏の姉が病気であり、親が心配して色んな教会 をまわっているうちに天照教へたどり着いたからであった。教祖は寺下氏の姉を見て、教会 で住み込みで働かせた。そして病気が良くなり教祖と管⻑と各地を歩いて回るうちに姉は 教会⻑にまでなったという。他にも、寺下氏は夫が腰を病気で悪くした時や、子供の病気を 助けてもらうなど、他にも天照教に救われていると語った。夫が腰を悪くした時、病院では 手術を勧められたが、教祖は手術をすることを否定した。結果、教会に通う選択をした寺下 氏の夫は腰が良くなり、同じ病気で手術をした人は働けなくなったと語った。また、寺下氏 が天照教を信仰してきた中で経験した不思議な出来事を1つ語ってくれた。それは寺下氏 が夢を見た話であった。夢の中で、現実で亡くなった寺下氏の姉の夫が、「自分の母恋の教 会を〇〇してくれ」、という夢だった。寺下氏は〇〇の部分をよく覚えておらず、本人も結 婚して東京に行くつもりであったため悩んでいた。そして教祖にそれを伝えたところ、「そ ういうことだからそうしたほうがいい」と言われ、夫に相談したところ、何故かは分からな いが返事一つで承諾してくれたという。当時横浜に家を買って借金もあったが、教祖が伊勢 の帰りに寺下氏の姉と教主の三人でその家に訪れたところ教祖が、「この家は売れるから大 丈夫」と一言言うと、本当に売れたという。そして寺下氏は夫と北海道に家を建て、教会で 働いていた。しばらくすると教祖から「その土地に居続けるのは良くないから引っ越しな」 と言われた。しかし家も買っていたので教祖からの言葉を聞かず、そこで生活していると、 夫が母恋の教会をやめてサラリーマンに戻ると言い始めた。一度そう言ってしまうとどうにもならないので、寺下氏はその当時、「やっぱり教祖にしたがって別の所に行けばよかったと思った」と語った。

 

5.結び

天照教は 2019 年で立教 66 周年を迎える。66 年間の歴史で様々なことがあったが、それで も地域に根付き、全国各地に信者を増やしてこれたのは、教祖と初代管⻑の働きによるもの が大きいと考えた。

 

謝辞

本論文の作成にあたって、塚越様、成田様をはじめとする天照教に関わる全ての方々、室蘭市民の皆さま、大変貴重なお話を聞かせて頂きました。室蘭で天照教について学び、レポートの作成を終えることが無事に出来たのも、皆様のおかげです。この場を借りてお礼を申し上げます。

 

参考文献

櫻井義秀・本野里志・佐藤寿晃,2003,,『天照教五十年史』山藤印刷株式会社.