目次
はじめに
1.北海道岩木山神社について
2.神霊感師 仁和美枝氏
2-1.生い立ちと能力の取得
2-2.室蘭に至る
2-3.北海道岩木山神社との出会い
2-4.神社との繋がり
簡易年表
3.巫儀の現場
結び
謝辞
参考文献
はじめに
春学期に実施された北海道室蘭市での調査実習において、私は室蘭市内の神社について調べた。特にその中でも今回は、北海道岩木山神社及びそこの民間宗教者である仁和美枝氏についての調査を行った。
1.北海道岩木山神社について
北海道岩木山神社は北海道室蘭市にある岩木山神社の摂末社の一つである。岩木山神社とは青森県弘前市にそびえ立つ岩木山の麓に位置する神社で、主に青森の人々による信仰が盛んである。
写真1:弘前市(右下)と岩木山(左上)。Google mapより
室蘭市には現在二つの岩木山神社の摂末社が存在している。室蘭市は新日本製鐵室蘭製鉄所(新日鉄)のお膝元であり、鉄鋼業で発展した工業都市である。かつてそこには「津軽衆」と呼ばれる青森から室蘭市へ出稼ぎに来た労働者が数多くおり、一時期は室蘭市の人口の実に約三分の一を占めていた。しかし当時は出稼ぎで故郷を離れた寂しさ故か、津軽衆同士の間で喧嘩や争いごとが絶えなかったという。そこで津軽衆達の心の拠り所として、青森の人間にとって馴染み深い神社である岩木山神社を室蘭市内に建てたのが室蘭市の岩木山神社の始まりである。
こうして津軽衆らの手によって、室蘭八幡宮の裏手にある室蘭岩木山神社、輪西地区にある北海道岩木山神社、本輪西八幡神社内にある岩木山神社の計三つの神社が建てられ、津軽衆らによる管理や祭祀が盛んに行われた。しかし戦後の不況で鉄鋼業が衰退するにつれ、津軽衆の中にも地元へ帰る人間が出始め、津軽衆自体の数が減り始めた。その結果津軽衆間の繋がりが弱くなり、津軽衆減少による岩木山神社自体への意識の低下などから祭祀や神社の管理自体も難しくなっていった。その結果2013年には室蘭岩木山神社が廃社となり、現在は二社が残存している状況にある。(金子,2016,258頁)
写真2:室蘭市内にある岩木山神社三社の位置関係。Google mapより
しかし室蘭市の岩木山神社が衰退している中、昭和26年に建てられた北海道岩木山神社(写真2:右側)は例外的で、現在でも比較的盛んに活動が行われている。これには昭和38年から神社と関わりを持っている民間宗教者である仁和美枝氏の存在が強く影響していると考えられる。
写真3:北海道岩木山神社社殿
写真4:鳥居の裏側 仁和美枝氏の名前が記されている
2.神霊感師 仁和美枝氏
仁和美枝氏は北海道岩木山神社の婦人部長であると同時に特異な力を持つ民間宗教者で、周囲からは「カミサマ」と呼ばれている。「カミサマ」とは青森県の津軽地方における、「神仏と直接的に関わる能力によって祈祷や占いなどを行う人」(村上,2017,4頁)のことを指す。
2-1.生い立ちと能力の取得
仁和氏は如何にしてカミサマとしての能力を持つに至ったのだろうか。彼女は1940(昭和15)年に青森県十和田市で生まれた。彼女は生まれつき目が見えなくなる病を患っており、この病を治すために彼女の母はまだ幼い彼女を連れて日本各地の病院や神社仏閣を訪ねて回っていた。この時点で既に彼女には神に呼ばれるような感覚があり、寝ている間に枕元に白い着物を着て髭を生やした老人が枕元に現れて金縛りに遭うようなこともあった。金縛りは父と一緒に寝ると起きなかったので、彼女は父とばかり寝ていた。彼女自身、自分の目が見えないのは神が仕組んだことで、神が自分を呼びに来ていたのではないかと感じているという。
そんな旅の最中、仁和氏が4歳の頃のことである。彼女の母が電車の中に居合わせた老婆に病のことを話したところ、板柳にある高増神社と呼ばれる神社に行くといいと言われた。その老婆もまたカミサマであった。その高増神社でお参りを行うと、仁和氏は人を助けるために生まれてきた存在であるから修行をするようにということを告げられた。そうして彼女は八戸にある下沢という場所で修行をすることになった。
修行を行ううちに一時的ではあるが目が見えるようになったが、まだ完全に見えるようになったという訳ではなく、見える時期と見えない時期とを繰り返すようになった。目が見えるようになって以降は学校にも通うようになったが、当時はいつまた目が見えなくなるのかと内心不安だった。その不安から自殺未遂もするようになり、線路の上に寝そべっていたところを駅員に見られ怒られ叩かれるようなこともあった。
転機が訪れたのは仁和氏が17歳の夏休みのことであった。当時出会ったセンセイと呼ばれる老婆に岩木山の側にある赤倉山という場所で修行を行うと目が見えるようになると言われ、彼女はそこで修行をすることになった*1。行きは彼女の母とセンセイに連れられて修行場に向かったが、着いた先で21日経つまで帰ってくるな、帰りは一人で帰ってこいと言われ、彼女はそれからの21日間一人きりで赤倉での修行を行った。ひたすらご祈祷をし、辺りが暗くなる度に地面に笹を刺して日数を数え、朝に草木に付く朝露のみを口にする日々が続いた。そして来る21日目、朝日が昇ると目の前が急に明るくなり、遂に目が完全に見えるようになった。彼女は喜びのあまり急いで下山し、母に真っ先にその旨を伝えたという。以来彼女は神と繋がることのできるカミサマとしての能力を身につけた。
写真5:岩木山の北側に位置する赤倉山(右上) Google mapより
2-2.室蘭に至る
仁和氏は高校卒業後、民謡団の重役であった彼女の父親が取引していた劇団に入り、20歳の頃(昭和35年)に劇団の公演のため室蘭に渡ることになった。当時の彼女には劇団内に想いを寄せる人がいた。しかし劇団内での恋愛は固く禁じられており、恋愛関係が発覚した場合は男女ともに劇団を追い出されることになっていた。そのため彼女はその人に迷惑が掛からないよう、想いを伝えることなく単身で劇団を抜け出し、以降は室蘭で生活していくことになった。
最初の五日間ほどは東室蘭の駅内の重油ストーブの焚いている側で寝泊まりをしつつ三味線を弾き歌い歩くことで生活していたが、スナックで三味線を演奏した際に親しくなったママに部屋を貸してもらい、それから10年間ほどそのスナックで働くようになった。それと同時期にトヨタの自動車工場にも入社して車の塗装作業もするようになった。自らの能力を用いた占いはこの頃から始めていたという。
その当時まだ若く世の中のことをよく分かっていなかった彼女は、ある時ミシン会社の集金屋に印鑑と印鑑証明書を渡してしまった。その後数年の間に印鑑は悪用され、やがて東京から1000万円以上の借金を取り立てに人が来るようにまでなってしまった。あまりのことに気が動転した彼女は取り立てに来た人物の滞在する建物に火を点けようした。車を走らせ建物の前まで赴きガソリンを蒔いて、ライターで点火させようとした。しかしどういう訳か、煙草のために常に携帯しているはずのライターが一向に見つからなかった。彼女はその時、神にライターを盗られたのだと感じたという。結局放火を諦めた彼女はそのまま洞爺湖まで向かい、その先で老夫婦の営む旅館に泊めてもらった。老夫婦は憔悴しきった様子の彼女を気遣い、快く泊めてくれたという。借金は後に額を正確に計算し把握した上で、東京で事業をしていた母方の叔父にお金を貸してもらうことで無事に返済することができた。
2-3.北海道岩木山神社との出会い
仁和氏が北海道岩木山神社と関わり始めたのは室蘭での生活を始めて3年経った昭和38年のことである。仁和氏が夜の室蘭を歩いていると、子供を背負った母親が自殺をしようとしている現場に遭遇した。仁和氏は女性を引き止めてその訳を聞こうとしたが、女性はただ助けてと力なく呟くばかりであった。仁和氏はそんな女性を叱咤激励し、警察に連れて行き保護させた。やがてこの事が新聞や口頭などの手段で知れ渡ると、そのことや以前から行っていた占いのことを知った津軽衆が仁和氏の元にやってきた。津軽衆は彼女が赤倉山で修行をしたカミサマであることを知ると、すぐさま彼女を北海道岩木山神社に連れて行き、その先で仁和氏にカミサマとして神社を守っていってもらえないかと頼みこんだ。津軽衆達は衰退しつつあった神社を仁和氏のカミサマとしての能力を用いて再興させようとしたのである。こういったわけで仁和氏はなし崩し的に北海道岩木山神社と関わっていくことになった。
初め仁和氏は毎月一日にのみ神社に赴いて、そこで占いを行った。この頃の仁和氏は17時まで車の工場で働き、そこから20時までカミサマとしての占いを自宅で行い、23時までスナックで働き、2時までは家で日本人形を作るといったように、カミサマの仕事のみならず複数の職業を平行して行っていた。後に彼女は神社の婦人部長になり、それによって神社との結びつきはより強いものになっていった。昭和42年には神社を現在の社名に改名をし、同時に神社は独自の宗教法人として登録された。
神社で行っていた占いによって神社の信仰者は徐々に増えていった。そのため昭和47年には、窮屈になりつつあったそれまでの旧社殿から現在の新社殿へと神社の場所を移動させた。昭和63年には弘前の岩木山神社本山からのキャラバン隊を招き、逆にこちらも15~6人でキャラバン隊を作り本山へ向かうというような活動を始めた。また岩木山信仰に則った津軽太鼓や登山囃子を祭祀で披露するなど精力的に活動を続け、現在に至っている。
また神社の運営に必要となる資金は仁和氏自身が賄っている。そのため現在でも着物の着付けや舞踊などの様々な職業に就いている。
2-4.神社との繋がり
現在の神社には津軽衆がいたという名残はほとんど残っていない。現在いる50名程度の氏子達は津軽ではない他府県の出身の人がほとんどである。仁和氏の人柄や占いをしてもらったことによって信仰者となった方ばかりであり、偶然飛行機で仁和氏の隣の席だったことがきっかけでこの神社に参拝している方もいる。かつては津軽衆たちの心の拠り所として建てられた北海道岩木山神社だが、津軽衆達の繋がりはもう存在しておらず、代わりに今はカミサマである仁和氏を中心とした繋がりが形成され、その集団のもとで行われる宗教的な実践によって神社は維持されているといえる。
*1 赤倉山は厳密に言えば山ではなく、岩木山の北麓の赤倉沢を中心とした台地のことを指す。(村上,2017,143頁)
【簡易年表】
・昭和15年:仁和氏、青森県十和田市に生まれる。
・昭和17年:2歳の頃から既に神に呼ばれるような感覚あり。
・昭和19年:4歳の頃、各地の病院を巡っていた最中カミサマと出会い高松神社へ。八戸の下沢で修行を行ったところ、一時的ではあるが目がみえるようになる。これを期に学校にも通い始める。以降様々な場所で修行を行う。
・昭和26年:北海道岩木山神社旧社殿が青森県人会によって建てられる。
・昭和32年:17歳の夏休みに赤倉山にて21日間に及ぶ修行を行い、目が完全に見えるようになる。同時にカミサマの能力を習得。
・高校卒業後、父親が取引していた劇団に所属。
・昭和35年:20歳の頃、所属していた劇団の公演で室蘭へ向かうが後に単身で劇団を抜け、以降室蘭での生活を始める。
五日間程度東室蘭駅で寝泊まりした後、スナックやトヨタの自動車工場で働き始める。この頃から既に占いを行っていた。またこの頃に印鑑をミシン会社に貸してしまう。
・印鑑を貸してから数年後に1000万の借金を請求される。
・昭和38年:23歳の頃、自殺しようとしていた女性を介抱したことを知った津軽衆に連れられ北海道岩木山神社と関わり始める。後に神社の婦人会会長になり神社との関わりが深くなる。
・昭和42年:北海道岩木山神社に社名を改名。
・昭和47年:信仰者の増加から神社を現在の場所に移動、新社殿設立。
・昭和63年:岩木山神社本山からキャラバン隊を招くようになる。
3.巫儀の現場
6月8日に聞き取りを行った際、実際に仁和氏に占いをしていただいた。映像の録画や音声の録音をすると託宣の効果が無くなってしまい良いことが全くないということで、占いの儀式の間の撮影録音は一切禁止であった。占いの形式は仁和氏の身体に岩木山の神が降臨し、彼女の身体を介しての託宣を行うというものである。
占いの流れとしては、まず仁和氏が神社の本殿の前に座り祈祷を行う。その際に岩木山の神以外にも天照大神や秋田三吉神社の神など様々な神格の名前が登場する。祈祷を始めてからしばらくすると、彼女が身体を左右に小刻みに揺らし始める。この状態になると神の託宣が始まる。声を放っているのは仁和氏の身体であるが、話をしているのは岩木山の神である。託宣が終わってからは神への御礼などを再び行い、儀式は終了する。
写真6:正面から見た本殿の様子。
写真7:社殿内の様子。祭事に用いる津軽太鼓などが置かれている。
儀式の後で仁和氏に伺ったところによると、託宣を行っている最中は記憶や意識などは一切無く、自身が何を言っているかも直接には分からない。ただ言っている内容が映画の映像のように頭の中を駆け巡るような感覚があり、それと後で客の述べた託宣の内容を踏まえることで、自身の身体が述べた内容を知ることができるということである。また祈祷の間には身体を龍神が締めつけるような感覚があり、やがてその龍神が彼女の頭に噛みついた時に意識が無くなって託宣が始まるのだという。
占いの時以外にも神からのお告げが来ることはよくあるという。例えば夜寝ている間に夢の中に神が現れて、近々彼女の元を訪れる人の身なりや性格などが告げられ、そしてお告げの後はその特徴と一致した人が必ず訪れるそうだ。また修行で石神山に訪れた際は髭を生やした老人に、カミサマに男は要らない、結婚をしても相手がすぐに早死にするので結婚はしない方がいいと言われ、事実その通りになったということもあった。他にも10年間働いたスナックを辞めた際に神社でお参りをしたところ、神が「よく来た」と言って点いていた蝋燭を龍のような形に変化させたということもあるなど、仁和氏の持つカミサマの能力は非常に興味深いものである。
写真8:神が仁和氏に見せた不思議な現象。蝋燭が昇龍のような形に変化している。
結び
室蘭市にある北海道岩木山神社は、かつて新日鉄に出稼ぎに来た津軽衆達の心の寂しさを紛らわす心の拠り所として建てられた神社であるが、今現在津軽衆たちのつながりはすでに存在していない。代わりにカミサマである仁和美枝氏と彼女の持つ特異な力によって彼女を中心とした新たなつながりが生まれ、その集団のもとで宗教的な実践が行われていることがわかった。
謝辞
今回の調査を行うにあたり、多くの方々にご協力を賜りました。突然の訪問にも関わらず快く応じてくださった仁和美枝様、お忙しい中お集まりいただき、手厚くもてなしてくださった北海道岩木山神社の皆様には大変お世話になりました。このレポートを無事書き終えることができましたのも、ひとえに皆様のお力添えによるものと、深く感謝しております。この場を借りてお礼申し上げます。誠にありがとうございました。
参考文献
・村上晶,2017,『巫者のいる日常―津軽のカミサマからスピリチュアルセラピストまで』,春風社
・金子直樹,2016,『岩木山信仰の伝播についてー主に信仰圏の背景と北海道への展開を中心にしてー』,E-journal GEO Vol.11