関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

八幡浜の宮嶋神社 ― 厳島信仰の地域的展開 ―

社会学部3年生

山内 鳳将

【目次】

はじめに

1.勘定と宮嶋神社

 1−1.八幡浜市向灘 勘定

 1−2.宮嶋神社

2.由緒と信仰

 2−1.由緒

 2−2.信仰

3.十七夜まつり

4.合祀の回避

結び


はじめに

 今回の調査は、愛媛県八幡浜市をフィールドに行われた。この報告書では、向灘の勘定という地区にある宮嶋神社(厳島神社)について取り上げる。名前からも分かるように、広島県廿日市市にある厳島神社を総本社とする「厳島」の名を冠する神社の一つである。向灘勘定では、神社や祭りそのものだけではなく、風習やしきたりなど、地域全体を包括する厳島神社の影響が見られた。全国に分布する「厳島」と名のつく神社の一つとして勘定の宮島神社をとらえ、八幡浜市向灘という地域でどのように展開されてきたのかについて記していく。

1. 勘定と宮嶋神社
1-1 八幡浜市向灘 勘定

 本調査のフィールドである、八幡浜市向灘勘定について記述する。八幡浜市愛媛県西部に位置し、佐田岬半島の付け根にあたる市である。宇和海に面した八幡浜港を中心に古くから九州や関西との海上交易が盛んに行われ、商業・交通の要として発展し「伊予の大阪」と謳われた。また、リアス式海岸が形成されていることなどから、豊かな漁場としても知られており、水産加工品のかまぼこは特産品として有名である。向灘は、この八幡浜港の北岸一帯の地域である。権現山の南麓に位置し、東から順に、高城、中浦、大内浦、杖の浦、勘定の5地区からなる。宮嶋神社は勘定にあり、地域の産土神となっている。江戸期には、向灘は同じく八幡浜市の穴井と並び、当時盛んであった鰯漁の中心を担っていた。現在でも、向灘の南部海岸沿いに走る県道八幡浜保内線(海岸通り)に沿って中型トロール業者の事務所がある。また、北部権現山の斜面は、その多くをミカン園が占めており、その品質は「日の丸」印として全国的に知られている。今ではミカン栽培が主な産業となっており、漁業はかつてに比べれば減少傾向にあるというが、かつては半農半漁という生活様式が広く浸透していたという。勘定というのは、向灘5地区の中でも面積、人口の両面で最も規模が大きい地区で、かつては漁民が多く大きなお金が動くことから、勘定奉行が居たという話があり、それが地域の名の由来だという説があるそうだ。

1-2 宮嶋神社

 まずこの神社について、厳島神社と記載される場合(愛媛県神社庁など)もあるが、鳥居に「宮嶋神社」とあること、そして地域住民に「宮嶋様」という呼び名で親しまれていることから、本文中では宮嶋神社という表記で統一する。宮嶋神社は、先述のとおり八幡浜市向灘の勘定地区にある神社である。

写真1.宮嶋神社の外観

写真2.宮嶋神社の拝殿

勘定は海沿いに位置する5地区の中でも特に海に近い地区であり、宮嶋神社も現在の海岸線から直線距離で約60〜70メートルという近さにある。実際に、海際から路地の先に神社を視認することができるという距離である。また、現在の海岸線である県道八幡浜保内線が走る部分は埋立地であり、それ以前の生活道路はそこから20メートルほど内陸側に入ったところにある細い道であった。その分海岸線も今より少し内陸側にあり、その頃は今のようにコンクリートの塀できちんと海と仕切られているのではなく、雁木で海に降りられるようになっていて、宮嶋神社はより海に近い立地であったといえる。住宅に囲まれた神社の境内は、鳥居をくぐると階段が6段有り、それを登ったすぐ左手に手水鉢がある。その先に、それぞれ一対づつの狛犬と灯篭が置かれており、正面には拝殿、その後ろに本殿が配置されている。また、境内右手には小さな鳥居と狛犬、そして祠が2宇祀られている。

写真3.境内の祠

境内には木が生えており、小さな木が多いが、大きめの切り株がいくつか見られることから、かつては大きな木が数本生えていたと推測される。比較的小さな境内であり、上記の建物以外に社務所などはなく、常駐の宮司さんはいないため、八幡浜市矢野神山にある八幡神社宮司さんである清家貞宏氏が兼任されている。兼務社というあり方は戦前から続いているそうで、実際に宮嶋神社の方に訪れるのは祭りが行われる際、年に2度程だという。また、氏子も二重氏子という形態を取っており、およそ130戸だという宮嶋神社の氏子は、同時に八幡神社の氏子でもある。

写真4.八幡神社

氏子はほとんどが勘定の方で、向灘以外に住む氏子の方はほとんどいないという。さらに、八幡神社の近辺での聞き書きでは、多くの方が宮嶋神社の存在そのものを知らないということから、宮嶋神社が向灘、とりわけ勘定という限定的な地域に根ざした場所であることが分かった。

2. 由緒と信仰
2-1 由緒
 
 勘定の宮嶋神社は、先述のとおり厳島神社という名称でも知られている。その名前からも分かるように、この神社は広島県廿日市市にある厳島神社にその由緒がある。後朱雀天皇の頃、永承年間に神城浦(勘定)の漁民清兵衛が霊夢に感じて安芸の厳島神社に参拝して神印(神璽)をいただいて帰り、祭神として鎮祭したのがはじまりだという由来譚が口伝で残っている。個人で祀っていたものが、後に神城浦全区の産土神となったとされている。主祭神宗像三女神として知られる多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐津毘売命となっていて、これは広島の厳島神社と同じである。また、春にはお神楽が行われ、旧暦の6月17日は祭りの日となっており、これも広島の厳島神社の管絃祭にならっている。このことから、宮司さんや氏子が広島の厳島神社の管絃祭に出向くことは事実上不可能となっている。
広島の厳島神社についてであるが、全国に1425社あるという「厳島」の名を冠した神社の総本社である。そのはじまりは原始時代に周辺の沿岸、島々の住民が弥山を主峰とする宮島の山容に神霊を感じ、これを畏敬するに至ったことに端を発する。「厳島」の名を冠する神社は全国的に分布をしているが、広島からの地理的な近さや海上守護の御利益があることなどから、愛媛県では特に東予から南予にかけての沿岸部・島嶼部の海に生活の場を求めた人々を中心に受容、浸透、拡大していったものと考えられる。松山や今治をはじめ、県全域に分布しており、八幡浜だけでも勘定の他にも舌間など、8社の厳島神社が存在している。

2−2 信仰

 勘定の宮嶋神社は、当初漁民によって鎮祭されたことから、漁や海に関する信仰があったのではないかと考えられる。実際に、境内にある10本の古杉が緑色であれば大漁の年になり、黄色になると不漁の年になるといった言い伝えがあったそうだ。この杉は他にも、1本が枯れると悪疫が流行したため、あらかじめ凶年を知ることができたという話もある。少なくなったとは言え、漁師の町であることは今も変わらないことから、豊漁や海上安全のために信仰する人も多いという。かつて、この地域でトロール漁が盛んだった頃にはトロール船で広島の厳島神社を参拝したという話もあったが、実際に体験したという人には出会えなかった。

写真5.海辺から路地の奥に見える宮嶋神社

 多くの文献や資料でこの宮嶋神社について言及されるのは、安産成就の大神として有名であるという点である。境内には、子種石というものがあり、不妊の婦人は三日間参籠し、神に祈って石を懐にすると必ず妊娠すると伝えられているという記載が多く見受けられる。また、かつて宮嶋神社の氏子は広島の厳島神社の風習に則ったと考えられる形式でのお産を行っていたそうだ。出産のための産屋と呼ばれる小屋を設置し、その小屋で出産をするというもので、小屋を設けることができない場合はお産の数日前から部屋に2畳程の仕切りをして床をとり、安静にしておくという風習であった。このような風習は勘定という地域や、氏子の間に特有のものであったが、安産成就という意味では、かつて八幡浜市において一定の知名度があったようで、祭日には近隣の婦女子が渡船で参拝して賑わったという記述が見受けられる。安産成就としての性格を持つようになったのはかなり昔のことであるようで、いつ、どのような文脈でご利益が付与されたかに関しての資料や文献は一切残っておらず、定かな情報は存在しないが、宮司の清家氏によると、御神体が女性の神様であることに起因している可能性があるという。
 お産の風習からも分かるように、宮嶋神社の氏子や、勘定の住民は総本社である広島の厳島神社の風習や習慣の影響を色濃く受けている部分がある。それは、勘定という地域のケガレに対する忌避という価値観においても同様である。例えば、月経の際に勘定にいると祟があるとされ、勘定以外の集落にある親戚の家で過ごすといったものや、産後一ヶ月は戸外に出ることが禁じられるといったものである。これを出人(でびと)といい、5〜60年前までは一般的に行われていたという。産後や不幸があった際には宮嶋神社の境内に入れないといった風習は一部で今でも存在している。また、葬式の際に家から死体を運び出すにあたって、宮嶋神社の前の道は避けなければいけないという。他にも、死者の布団を海で洗うという風習がこのあたりにあったようだが、布団を海まで運ぶ際も宮嶋神社の前は避け、神社から離れた場所で洗ったという。その頃は海岸線が現在の県道249号線よりも内側にあり、40〜50メートルおきに雁木が設置されていた。

写真6.向灘の雁木の様子(八幡浜市誌第四巻、P.70)

水死体や溺死体を引き上げる際にも、神社にケガレを寄せ付けないための決まりがあったという。今、宮嶋神社の正面にある海沿いの電柱から一つ隣の電柱の外側あたりに桟橋のようなものが有り、そこから引き上げなければならなかったそうだ。これらは、広島で厳島神社のある宮島全体が神域、御神体とされ、血や死といったケガレを徹底的に忌避した事と関係している。向灘では、勘定という地域を神域である島に見立てて、ケガレを忌避したとされている。この見立ては、勘定という地名にも影響を与えている。先述のとおり、勘定という地名の由来として伝わっているのは、漁師が多い地域で大きなお金の動きがある場所であったために、勘定奉行がいた地域であったからだという話である。また、現在の地図やバス停など、公式的なものとして使われているのも勘定という表記である。しかし、文献等で、読み方は同じく「かんじょう」であるが、「神城」という表記が用いられている場合がある。お話を聞いた谷本廣一郎氏によると、地域の人々には今でも親しみのある「神城」という表記は、島全域を神とする厳島神社に倣い、地区を神の島に見立てる考えから使われるようになった表記だという。長らく、勘定と神城という2つの表記が併用されていたのだが、公民館や青年団といったものが出来るにあたって、市役所等による公的な名称を定める必要性が浮上し、元々の勘定という表記で統一されたという。
 これらの信仰を集め、また広島の厳島神社の風習を受け入れ実行していた時代は確かにあったようだ。しかし、上記の信仰は今では失われたものも多い。例えば、悪疫や凶歳を
占う際に用いられた古杉は今現在では境内に存在しない。谷本氏によると、台風などで境内の大きな木は折れたり倒れたりし、神社そのものの屋根や、近隣の建物へも損傷の原因となったため伐採されたという。また、子種石に関しても、境内にそれらしき石は見当たらず、清家宮司はあったという事はご存知だったが現在に子種石そのものは伝わっていなかった。また、全てではないが、上記の風習の多くは今から数世代前に途絶えてしまったようである。

3. 十七夜祭り

 広島の厳島神社では、毎年旧暦の6月17日に管絃祭という祭りが行われている。この日付は、海上の神事であることから、潮の干満を考慮したものである。その日付から別名十七夜祭りとも言われるこの祭りは、平安時代に都で盛行した池や河川に船を浮かべて行う優雅な「管絃の遊び」が元になっていて、これを平清盛厳島神社に移し、神様をお慰めする神事として執り行うようになったものが現在行われている管絃祭の起源である。宮島全体が神とされ人が住めなかった時代には、対岸の地御前神社から厳島神社まで管絃船で管絃を合奏する神事であったが、島内に人が住むようになってからは、厳島神社から管絃船が出御し、地御前神社を経由し還御するという現在の形式へと変化した。この管絃祭という神事は宮島に限らず、瀬戸内沿岸各地で今に伝えられている。こうした各地の管絃祭も本来は海上が主であったと考えられているが、現在では「おかげんさん」「十七夜」という名称で、山間部や河川等でも多様な存続をしている。愛媛県でも各地にこの祭りが行われており、勘定の宮島神社では「十七夜祭り」という名称で、旧暦の6月17日に行われている。この祭りは県道を一つ神社側に入った旧道を中心に行われる。

写真7.右の県道と左の旧道が分岐する場所

写真8.旧道から見た宮嶋神社

祭りの際はこの旧道を宮嶋神社から50メートル程東に進んだ位置に鳥居が立てられる。地面に木の柱を建てるための穴があり、柱を立てたあとその周りを藁で巻き、山から採ってきた長さ50センチ程の杉の葉をそこに差し込んでいくのだ。すると、表面が緑の杉の葉で覆われた鳥居ができるのだという。鳥居の両側は旧道に沿って屋台が出るほか、鳥居の横にある日の丸みかん農産物集出荷施設の中も店が出るという。提灯が神社から鳥居を繋ぐように吊るされ、そのまま集出荷施設の間を海側へと伸び、県道沿いの海際には木の棒を中央にして富士山のような形で吊るされるようだ。現在でも、規模は縮小傾向にあるものの、このような形で執り行われている。

写真9.鳥居の芯を立てる穴

写真10.祭りの際に鳥居が立つ場所

写真11.日の丸みかん農産物集出荷施設

写真12.対岸から見た向灘

 今、向灘と対岸の大黒町や魚市場などとの交通は、昭和58年に完成した渡海橋(とうかいばし)を陸路で渡るのが一般的である。しかし、かつて向灘と対岸をつなぐ移動手段といえば渡海船(とうかいせん)が主流であった。谷本氏によると、今「フジグラン」や魚市場があるあたりから一銭で中浦へと渡る一銭渡海や、五銭で勘定のあたりまで渡る本渡海があったという。日常的に使われてもいたが、みかんの運搬にも利用されていたといい、大八車で船まで運ぶのも渡海船の役割だったという。昭和20年代には海岸道路ができた関係などから陸路がメインとなり、渡海船は姿を消したそうだ。さて、このように船で渡ることが当たり前だった時代には、宮嶋神社の祭りへも渡海船が使われていたのだが、昭和21年に強制力は無いものの、谷本氏をはじめとする有志の神城青年団が出来た後は、祭りの日に青年団が無料で、宮嶋神社の鳥居から真っ直ぐ海に出たところにあった雁木まで渡し舟を行っていたという。カタクチイワシをとる、四つ張り漁の船が20人程乗せられるもので、これを2艘借りて往復したそうだ。当時、年中行事の進行は青年団が担っており、青年団もそれをきちんと自覚していたことや、地域の人々も我が事として宮嶋様と向き合っていたということもあり、祭りとなると「宮嶋様のことだから」と青年団に船を貸してくれたと谷本氏はおっしゃっていた。これは対岸のマチの人々のためのものであったが、より昔は厳島管絃祭の海上御渡にあやかって向灘の各浦からも小舟に乗って参詣するという風習があった。戦後の十七夜祭りは八幡浜市でも有名で、宮島様の夏祭りということで娯楽のないマチの若者が大勢やってきて賑わっていたという。また、夜も遅くなると渡し舟の乗客はマチの飲み屋やキャバレー、花柳界の女性が多く、店が終わったあとに商売繁盛を願ってお参りした。なぜ商売繁盛というご利益が付与されたのかは分かってはいないが、「ここにお参りするとすっきりする」といった話もあったそうだ。これらの人々のお店はマチの中心ではなくはずれにあったという。

写真13.祭りに関する位置関係

写真14.山型の提灯を吊るすための土台

昭和の間はこのような賑わいが続いていたが、平成に入ってからは、お祭り自体は行われているものの、向灘以外からの参加者が減少し当時の賑わいは失われている。屋台も、戦後の全盛期には場所の取り合いになるほど集まっていたそうで、多くの人が氷屋やラムネ屋が来ていたとおっしゃっていたが、その時に比べると屋台の数も減っているという。また、時期の都合上、台風が重なることも多く、その影響で今年は提灯や鳥居が危険だということで設置されなかったそうだ。

4. 合祀の回避

向灘の五地区には、それぞれに地域の氏神となる神社がかつては存在した。しかし
昭和2年に勘定の宮嶋神社を除く四地区、六社の神社は権現山にある石鎚神社に合祀され、石鎚向日神社として祀られている。この際、宮嶋神社がなぜ合祀されなかったのかについて、考えられる理由を本章で記していく。まず、何度か触れたように、勘定奉行がいたというだけあって、元々他の集落よりも裕福であったと考えられる。面積、人口ともに五集落で最も規模が大きく、漁師の親方が多かったという事からも、漁業面で経済的に潤っていたということが分かる。さらにもう一つ裕福だった理由がある。アメリカ移民の先駆者である西井久八の生まれが勘定であったという事である。西井久八は1856年に勘定で生まれ、海外渡航を夢見て外国船の水夫として働き渡米し、洋食店や農地経営など様々な事業で成功し、大実業家となった人物である。その後久八自身が帰国し日本人を連れて渡米したこともある。また、久八の成功談が伝わっている八幡浜では、日米移民紳士協約が成立し渡米が難しくなったあとも密航による渡米が絶えなかった。このような背景で八幡浜地方からのアメリカ移民は非常に多いのだが、特に勘定は西井久八の生まれ故郷ということもあり渡航者が多く、向灘から渡航した計101名のうち56名が勘定からの渡航者である。西井久八の人脈を頼り、アメリカで成功した渡航者は故郷にお金を送ったため、渡航者の多い勘定では当然他の地区よりも経済的に潤ったと考えられる。
 宮嶋神社は、元々は海上安全や豊漁というご利益があり、海から近く漁師の多い勘定の人々にとってとても身近で、生活との関係が深い存在である。また、これまで様々紹介したとおり、その信仰は宮嶋神社だけではなく、勘定(神城)という地域全体としての意味合いが強いという事もあり、海の神、漁の神を自分たちの手で祀りたいという思いが強かったという事も考えられる。他の四地区の人々に、自分の地区の氏神様を自分たちの手で祀りたいという考えが無かったとは言えない。しかし、実際には神社の維持だけでなく、祭りや年中行事などを行いながら維持していくのは相当なコストと労力が必要となってくる。実際に、合祀以降勘定の宮嶋神社の氏子たちは、祭りに際して宮嶋神社、二重氏子である関係から八幡神社、さらに向灘として祀っている石鎚向日神社の3社の祭りに春夏それぞれに負担金が生じる。三ヶ所に負担金がかかるのは勘定だけであることから、谷本氏が世話役であった頃に負担金を減らしてもらったというが、それでもほかの地域より多くの負担金が必要であるといえる。もちろんそれ以外の理由との複合的な要因で合祀が行われたのは間違いないが、そういった点に関しては、勘定という地区の裕福な経済状況というのが合祀の回避の一因であったと考えられる。

結び

 これまで、宮嶋神社に関する信仰や祭りの事例について記述してきた。これらの信仰、習慣は今残っている物自体少なく、今の住民の数世代前までで途絶えたものや、或いはまさに今新たな世代に受け継がれなくなっているものも多かった。実際に安産にまつわる話などは、地域住民でも知らない方が多かった印象がある。しかし一方で、神社の由緒が広島の厳島神社にあることや、そこから持ってきた神印(神璽)の話については、今回お話を聞いたほとんどの人がご存知だった。そして、そのことに対する信頼感というのは非常に大きく、地域の人々には「由緒正しい宮嶋様はなんでも聞いてくださる」というふうに捉えられているようで、今では豊漁の神、安産の大神という風に特化しているわけではなく、「なんでも聞いて下さる」願いの中の1つとして豊漁や安産、或いは商売繁盛が位置づけられていると言えるだろう。

謝辞

 今回の調査にあたって、谷本廣一郎様と奥様、宮司の清家貞宏様、谷本様にお取次ぎいただいた総代長の岩切様、並びに聞き書きをさせていただいた向灘地区の方々をはじめ、色々とお世話になったみなと交流館など、その他本当に多くの方々にご協力頂きました事を、この場をお借りして御礼申し上げます。ありがとうございました。

参考文献

・竹内理三 編,(1981),『角川日本地名大辞典 38 愛媛県』,株式会社 角川書店
・野坂元良 編,(2002),『厳島信仰辞典』,戎光祥出版株式会社
・宮島町立宮島歴史民俗資料館宮島町市編さん室,(1987),『宮島の歴史と民俗
No.5』, 宮島町立宮島歴史民俗資料館
八幡浜市,(1987),『八幡浜市誌』,豊予社
八幡浜市誌編纂室,(2018),『合併10周年記念版 八幡浜市誌 第2巻 自然環境編 民俗・文化編 産業経済編』,八幡浜市
八幡浜市誌編纂室,(2018),『合併10周年記念版 八幡浜市誌 第4巻 写真集』,八幡浜市
・尾上悟楼庵,(2005),『八幡浜のまつり』,八幡浜新聞連載,八幡浜市民図書館 製本
八幡浜新聞港街抄録尾上悟楼庵 まつり物語⑥、⑧〜⑬
・福田アジオ他 編,(1999),『日本民俗大辞典 上』,株式会社吉川弘文館
愛媛県神社庁 http://ehime-jinjacho.jp/