関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

㋮と生きる−愛媛県八幡浜市 松浦有毅氏の語りから−

社会学部3年生

植田 悠渡

【目次】

はじめに

1.みかん栽培のはじまり

2.アメリカに渡った人々と真穴

3.真穴から杵築へ

4.現在の暮らしと活動

結び

謝辞

参考文献


はじめに
 西宇和みかんと呼ばれ日本全国で人気のみかんは、愛媛県八幡浜市とそこから延びる佐田岬半島伊方町西予市三瓶町の2市1町にまたがる西宇和地域で生産され、JAにしうわの管内から出荷されるみかんの総称である。西宇和地域の海岸は、宇和海と瀬戸内海に囲まれたリアス式海岸となっている。地形は起伏の多い傾斜地が広がり、平野部は少ない。さらに日照量、気温、降水量という気象条件に恵まれ、柑橘栽培に適した環境である。
 今回の調査では八幡浜市網代に位置する真穴柑橘共同選果場から出荷される真穴みかんについて多く話を伺った。真穴とは真網代地区と穴井地区の総称である。

↑マークがついているところが真穴

↑真穴柑橘共同選果場
この地域では座敷雛という伝統行事が有名で、そのことから「ひなの里」と名前を付けたみかんを出荷している。取材をするにつれてインターネットや文献では知ることのできない話もたくさん知ることができた。主に話を伺ったのはここ真穴でみかん農家を営みつつ、平成15年からの4年間、真穴共同選果場の共選長を務め、後に本稿で参考文献として使用する「北針」という本の制作、講演などにまつわる活動である「地域文化振興協議会・北針」の会長、「真穴みかんの里雇用促進協議会」の代表、「真穴座敷雛保存会」の会長、「真穴の子どもを育てる会」の会長など地域の様々な活動に熱心に取り組まれている松浦有毅氏である。本稿では、松浦有毅氏の語りに沿って取材内容を報告する。

1.みかん栽培のはじまり
今でこそ全国に認知されるほどになった真穴のブランドみかんだが、柑橘の導入は125
年以上も前に遡る。1891年(明治24年)に真網代大円寺の住職が佐田岬の三崎村から持ってきた夏柑を桑園に植えたことが真穴におけるみかん栽培の始まりだとされている。

大円寺八幡浜市網代
それ以前は陸地では麦や甘藷、海ではイワシ漁などで半農半漁の生活をしており、明治以降は養蚕が盛んとなった。1907年(明治40年)には真網代に製糸組合ができ、農家が集まって養蚕組合を設立するなど生計の大半を養蚕でまかなっていた。このことから分かるように、昭和の初め頃まではみかんの収穫量も少なく、みかんだけで生活することは難しかったようだ。
 1912年(明治45年)に真網代柑橘組合が設立し、みかんの出荷も増え始め高値で売れるようになっていった。最新となる平成27年度のデータでは真穴の農家戸数は182戸、栽培面積は264.83ha、温州みかんの合計生産量が7,209,020㎏であった。

↑現在のみかん農家は専業の方がほとんどである
 真穴に向かう途中で海に養殖の施設が広がっているのが見えた。何を育てているのか聞いてみると、タイやスズキ、マスだそうだ。漁船も多く港に泊まっていて、そちらもまた漁業を専業でされている様子だった。

2.アメリカに渡った人々と真穴
 明治30年を皮切りに真穴からアメリカの西海岸に渡る人々が増えていった。長男が真穴で親の職を引き継いで生計を立てると次男三男が継ぐ土地が無くなることや経済的な理由から渡航者は増加した。松浦氏は日本経済新聞の取材の中で真穴について「土地柄として、進取の気質に富み、他所からの情報にも敏感だった。それゆえ、大きな夢を抱いて荒波を突き進むことができたのだろう。」(日本経済新聞,2008年4月23日,「文化」)と語っている。その証拠に、アメリカに渡った人々はガーデニング、芝の手入れ、料理など、身一つでできる仕事を日本人の器用さを活かしてお金を儲けた。多くの人々が日本にお金だけでなくチョコレート、コーヒーやココアを始め様々な食べ物やお土産、そして見聞を持ち帰ってきた。それに触発されますます新天地で一旗挙げたいと思う人たちは増えた。結核が流行った時代にはアメリカで手に入る抗生物質を送ってもらった人もいたと松浦氏は語ってくれた。
アメリカへの渡航は明治時代のうちは良かったものの、大正時代に入る頃にはアメリカでは白人の職が奪われる危機感、そして日露戦争の勝利による日本人への恐怖感もあり排斥運動が高まった。サンフランシスコの当時の新聞には日本人は勤勉だという記述があったらしく、使う立場にとっては便利な存在であったが、同時にそれは労働者からすると脅威だったと予想される。


アメリカでの鉄道工事の様子
 その頃からは密航という形でのアメリ渡航が相次ぐようになった。汽船への潜伏を手引きしてもらう方法もあったようだがかなりの大金が必要だったため、当時底引き網漁に使用されていた打瀬船という小さな帆船を使い太平洋の横断を試みた。

 ↑アメリカへの密航に使われたものと同じ形の打瀬船
1913(大正2年)に初めて出航した打瀬船は旧保内町(現八幡浜市)のものだった。真穴からも天神丸という名の打瀬船に15人が乗って源蔵前の入り江から太平洋に漕ぎ出した記録が残っている。磁石と帆のみで58日かけてサンフランシスコのポイントアレナへの上陸に成功したが、すぐに捕まり強制送還になった。真穴も含めて合計で6隻の太平洋横断が成功している。

 ↑密航出発地の源蔵前

 ↑源蔵前に建つ記念碑
1905年(明治38年)にアメリ渡航者の家族を中心に渡航者の無事を祈るアメリカ講「萬歳講(ばんざいこう)」が作られた。家族が年に数回氏神様に集まり、お籠もりをして宮司さんにお札やお守りをもらい、それをアメリカの家族の元に送っていたようだ。真網代では「アメリカ籠もり」、真穴では「萬歳講」と呼ばれていて、今も続いているのは真網代の「アメリカ籠もり」だ。時代とともに疎遠になりつつあるが現在も神事として残っている。

アメリカ籠もりの様子(2015年)
さて、このような彼らの努力による真穴への恩恵はとてもみかん栽培とその発展に大きく貢献している。アメリカの文化、産業、生活様式を真穴での生活に取り入れた例として、農道の整備がとても重要だ。私が取材に行ったとき、トラックに乗せてもらって畑の間を縫うように整備された農道を通って山の上まで登ることができた。当時アメリカは車が発展しており、道が広くて快適だった。真穴にも道を作ればいいという話が持ち上がり、昭和8年に着工し、後に全長18kmにもなる農道の整備が進められた。

↑農道整備時の写真(年代不明)
水に関する整備も早く、水洗トイレが他の地域に比べて早かったと松浦氏は語ってくれた。動力噴霧機の導入は1945年(昭和20年)で、これらの整備が進むことにより栽培の効率が上がり、品質の良いみかんの生産量の増加に繋がったと言える。
 そのようにアメリカから帰国する人が多かった中で、永住する人たちもいた。松浦氏の家族の中だと、母親の兄は早くからアメリカで成功していたため、松浦氏の両親もアメリカと縁があり、住んでいたこともあったという。アメリカ滞在時に生まれた長男はアメリカに市民権があったため永住して、今は二代目・三代目の世代になっているという。松浦氏の父親は40年ほどアメリカに住んだ後に真穴に帰ってみかん農家をし、母親は永住した。そういった永住者たちはアメリカの社会に溶け込み、子どもは学校を出て会社に勤めているという。自分のルーツを確かめたいと真穴を訪れた人もいたようだ。

3.真穴から杵築へ
 昔の家族は兄弟が多く、次男三男は土地がないため他の園地を求めて外へ出て行った。1952年(昭和27年)に九州の大分県杵築市に移住して温州みかんの栽培を始めたという記録があり、松浦氏の話によると30軒以上は杵築市へ行ったようだ。真穴から以外にも、同じ理由で山口県広島県の次男三男も入ってきていたという。なぜ杵築市の大内という場所なのかというと、地形がゆるやかで機械の導入がしやすく、生産費を抑えることができたことが一番の理由である。そのため真穴の一人あたりの平均農地面積が一町二反(一町=10,000㎡、一反=1,000㎡)だったことに対し、大内では三町という大きい土地を管理することができた。主に屋外の畑で育てる露地栽培の方法をとり、ゆるやかな地形に対して縦に農道を整備した。真穴と同じように石垣を組んだが、九州は火山灰の堆積した土地であり、酸が強くみかんの育ちが悪かった。量の時代ではなく質の時代へと変わっていくにつれ、品質が真穴に劣るみかんは単価で考えると値段の差が大きく、杵築市の規模でやっていてもほぼ同じ程度の収入だった。松浦氏も杵築市に土地を所有しており子どもに継いでもらうつもりだったが、放置状態になっているという。
 当時杵築市への移住を決断して海を渡った人々は帰ってきた人は少なく、ほとんどが九州にそのまま住むことを決めたという。もちろん二代目・三代目の世代になっているが、二代目までは農業に従事していても、そこから先は会社で働く道を選ぶ人が増え、農業から離れた生活を送っているようだ。しかし一部では今でもみかん栽培は行われていて、1974年(昭和49年)頃からハウス栽培が増えてきた。寒い時期にハウス内を加温し、春と同じ環境を作ることで、露地栽培よりも早い時期に収穫ができる点が特徴だ。
 真穴から隣の三瓶町などにも移る農家もいたが、真穴のブランドに並ぶことができずに撤退したようだ。松浦氏の語りの中から三瓶町の人々はオーストラリアへ真珠を採りに行っていたという話も聞けた。真珠だけでなく大きな貝はボタンにするなど、出稼ぎの流行があったようだ。しかし海へ潜っての作業のため、死亡者が多数出たとのことだった。ただ稼ぐことが目的だったため、永住者などはいなかった。

4.現在の暮らしと活動
 冒頭でも少し触れたが、松浦氏は幅広い地域の活動に参加している。そのどれもが真穴の暮らしを豊かにするための活動であり、みかん栽培だけでなく生活全体がいきいきとしている真穴の空気に私も少しながら触れることができた。松浦氏が参加した取り組みの中で最も感激したものが、「みかんの里アルバイター事業」である。真穴だけでなくどこの地域、どの農業も直面しているが、農繁期の人手不足が問題になっていた。

↑真穴のアンケート調査で後継者の有無を質問した際の回答
 そうした中1994年(平成6年)にアルバイター事業を始めたのが、なんと松浦氏だった。真穴とすぐ近くの川上と舌田のみかん畑も範囲で、時期は11月〜12月下旬頃まで住み込みで働いて給料は平均して30万円ほどもらえる。当初の雇用人数は32人、翌年は27人とそれから増減はありつつも去年の2017年はなんと250人を採用した。真穴みかんの名が全国的になってきたこともあり、面接は東京の新宿で行い、採用のお知らせを送るシステムになっているという。アルバイターは農家の家にホームステイする。2015年11月12日に八幡浜市が閉校となった小学校を改築して作ったアルバイターが宿泊できる施設「マンダリン」をオープンした。以来そこで寝泊りをし、朝から働きに出るという人もいる。
はじめにも紹介したが、松浦氏は「真穴みかんの里雇用促進協議会」の会長を務め、この制度の発展に携わってきた。お話によると始めた当時は3つの目標を立てていたという。1つ目は単純に労働力不足を補うため、2つ目は真穴みかんの宣伝、そして3つ目にお嫁さん不足の状況を良くしたいという思いだった。時間が経つにつれ若者が減っていき後継者不足になることを不安に感じていたようだ。松浦氏によるとマンダリンのような施設も嬉しいが、本音としては農家のお宅に住み込みで働いてもらい、約1ヶ月寝食を共に過ごすという体験を重視しているようだった。親交が深まると来年また来てくれることも多くなり、そこが一つの帰ってくる場所になるからである。実際に農家の後継者と結婚まで至ったアルバイターもいる。
また、冒頭に紹介した「地域文化振興協議会・北針」についても説明しておく。「北針」とは、打瀬船でポイントアレナに上陸した15名の旅について描いた小説の題名である。この本の作者である大野芳氏の取材のサポートを松浦氏がつとめたことから繋がった縁で1993年(平成5年)に発足したこの会の代表として活動してきた。翌年の94年には打瀬船の出航の地である源蔵前海岸に記念碑を完成させた。「北針」と名の付いた清酒を販売、講演会の開催、半分の大きさで打瀬船を復元するなど多岐にわたる活動を行ってきた。アメリカへの3回の足跡調査の末、真穴の打瀬船が上陸したポイントアレナには1996年(平成8年)に記念碑が建てられた。

↑当時の吉見市長が除幕式に参加する様子
同年、活動の様子はテレビ愛媛に取り上げられ、ドキュメンタリー番組「密航船、天神丸物語〜海を渡ったガイナ奴」が放映されるなど、地域の取り組みをしっかりアピールした。

結び
・柑橘導入から125年以上経った今も気候、地形に恵まれた真穴の地でみかん栽培を続けている農家の方たちの苦労と努力の成果を肌で感じることができた。
・導入から発展までの歴史の中にアメリカとの強い関わりがあることが分かった。昔の人々のフロンティア精神を今も受け継ぎ、真穴の人々は生きている。
・次男三男の移住を余儀なくされるほど昔は大家族が当たり前だったようだ。杵築での当時の様子を知ることができた。
・真穴の農家を長い目で見て支えていけるアルバイターの制度を取り入れ、地域の文化や先人の意志までも絶やさずに受け継いでいこうという様々な取り組みを知ることができた。

謝辞
 今回の論文作成にあたっては、八幡浜市のたくさんの方々にご協力いただきました。真穴柑橘共同選果部会の事務所長の宇都宮英晃様をはじめ、車で畑の方まで案内してくださった事務所の方々。二日に渡って快く取材に応じてくださった松浦有毅様、そしてお忙しい中連絡を取っていただいた息子さんの喜孝様。真穴地区公民館を取材の場として開けてくださり、最後は車で送ってくださった高田夫妻。本当にありがとうございました。
ここで最後に紹介しておきたいものが、真穴共同選果場に訪れた際に資料として購入させていただいた「真穴みかん 柑橘導入125年−2016−」という本です。

これは農家の方たちなどが協力した記念誌編集委員会が、節目ごとに真穴に関する資料を集めて一冊の本を作るという活動で、前回は100周年の記念の年に発刊されたものです。内容は、基本的な数字のデータ、年表、座談会、資料写真などそれぞれがとても濃く、全190ページ以上にも渡ってオールカラーでした。他の生産地ではこのような本は出していないとのことだったのですが、今回この本があったことで大変レポートの作成に役立ちました。大切に保存しています。本当にありがとうございました。

参考文献

愛媛県生涯学習センター,『データベース「えひめの記憶」』
(i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/47/view/6227,2018年8月22日にアクセス).
大野芳,2010,『北針(復刻版)』,潮出版社
川井龍介,2018,『第8回 成功者のあとを追って』
(www.discovernikkei.org/es/journal/2018/3/23/uwajimaya-8,2018年8月22日にアクセス).
柑橘導入125年記念誌編集委員会,2017,『真穴みかん 柑橘導入125年−2016−』.
日本経済新聞,2008,『文化』.
真穴地区公民館ブログ,2015,『渡航者の安全祈願「アメリカ籠もり」』
https://maanakouminkan.blog.fc2.com/blog-entry-60.html,2018年8月22日にアクセス).
八幡浜商工会議所百年記念史部会 編,2001,『八幡浜商工会議所百年史』八幡浜商工会議所.