関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

八幡浜と旅館・ホテル

社会学部 3年生

船登大輝

【目次】

はじめに
1. 松栄旅館
1-1. 料理旅館としての出発
1-2. 行商と松栄旅館
1-3. 原発と松栄旅館
2. せと旅館
2-1. 瀬戸町から八幡浜
2-2. 遍路とせと旅館
2-3. 行商とせと旅館
3. 八幡浜センチュリーホテルイトー
3-1. 今治から八幡浜
3-2. 伊藤旅館と丸山旅館
3-3. 旅館からホテルへ
4. 清和旅館
4-1. 会館から旅館へ
4-2. 原発と清和旅館
5. ホテルトヨ
5-1. みかんとホテルトヨ
5-2. スポーツイベントとホテルトヨ

結び

謝辞

参考文献



はじめに
 私は、八幡浜地域における旅館・ホテルについて調査した。旅館やホテルは、人の出入りや出会いが多く人々の生活に密着している点で、八幡浜の人々の暮らしや文化を紐解く鍵となると考え、このテーマを選択した。道の駅八幡浜みなっとの方曰く、現在の八幡浜地域の旅館・ホテルの数は約20あるという。今回は、目次に記載している「松栄旅館」・「せと旅館」・「八幡浜センチュリーホテルイトー」・「清和旅館」・「ホテルトヨ」の5つの旅館に協力を頂き、インタビュー調査を行った。インタビューを通して、各旅館・ホテルの創業までのヒストリーや旅館のあり方に密接に関連する様々な側面等、興味深いお話を沢山聞くことができた。ここでは、八幡浜地域の旅館・ホテルの歴史や変遷について調査報告するとともに八幡浜の人々の暮らしやまちの変化について考察してみようと思う。

1. 松栄旅館

1-1. 料理旅館としての出発
 松栄旅館は、1923年(大正12年)に西宇和群宇和町出身の松岡兵太郎さんによって創業された旅館である。兵太郎さんは旅館を創業するまでは百姓に従事していたそうで、宴会の取り締まりや郷土料理を作ったりもしていたそうだ。当時、兵太郎さんの親戚が料亭を営んでいたことに憧れを抱き、材木やタバコなどの産業が盛んだった八幡浜で宴会や料理を営みたいという思いから松栄旅館を創業したそう。八幡浜で働くと成功する、八幡浜で働く事がステータスというような風潮が存在していたほど当時の八幡浜は産業が活発で、人との行き来も盛んであったため、旅館の需要が高まっていたことも背景にあるそうだ。
 また、今回インタビューに対応してくださったのは兵太郎さんの孫にあたる3代目松岡孝さんである。孝さんは、旅館を継ぐまでは神楽坂(東京)の寿司屋さんで働いていたそうだ。勤務されていた寿司屋では出前や宴会もあり、田中角栄元首相御用達のお店でもあったらしく孝さんが働いていた頃は、田中邸へよく出前していたそうだ。その後、孝さんが30歳の時に2代目のお父様にあたる松岡忠さんが倒れてしまった事を機に、松栄旅館のあとを継ぐようになったという。
 旅館名の「松栄」は、姓の松岡が栄えて欲しいという思いからとったそうだ。本来は、「ショウエイ」という読み方が正しいが、あえて「マツエ」という呼び方にしているという。孝さんの従兄弟が「松梅」という割烹を営んでいるそうで「マツウメ」という読み方だったことから、「松栄」も訓読みで統一したそうだ。


▲資料1 「松栄旅館」外観

1-2. 行商と松栄旅館
 松栄旅館の客層として行商の人々が特徴的だと仰っていた。そもそも、松栄旅館は木賃宿であるという特性から、ビジネス目的で宿泊する行商人をターゲットとし、「商人宿」としての性格を持つという。特に、孝さんのお父様にあたる2代目松岡忠さんの時代(1951~1970)は行商相手が沢山いたという。
約60〜70年前、八幡浜では蚕や生糸・材木の生産が盛んだったことから八幡浜の店で売り買いする人が多く商人の行き来も多かったそう。印象に残っていた行商人として、青木石油(のちの太陽石油)が船に燃料を売りに来たエピソードを挙げていた。戦後、八幡浜は漁業で栄えており港町で商売していたことで船が集まることから、高知から燃料を売りに来る商人が多かったようだ。また、近隣の伊予市から行商人が瀬戸内海でとれた小魚を売ろうと八幡浜を訪れたというエピソードもあったようで、行商人の生態と旅館は密接に関連すると仰っていた。
すなわち、産業が活発な八幡浜で商売をするためにビジネス目的で八幡浜を訪問し、その宿泊場所として旅館を利用する行商人の層が一定数存在していたという。しかし、近年は交通網の発達により電車や車での行き来が可能となったため、日帰り商売ができる環境に変化したことや主要産業の移り変わりにより、行商人の層は減少してきているという。

1-3. 原発と松栄旅館
 松栄旅館の在り方や変遷を握る要素として最も特徴的なのが原発であるという。松栄旅館では創業以来、客層の中で原発関係者による宿泊が最も多いそうだ。八幡浜の隣町の伊方町伊方原発があるため、原発工事やその定期検査・建設等の目的で宿泊する人が昔から多いそう。加えて原発関係者は単身赴任の人が多く、長期にわたって滞在する傾向があるのが特徴的であるという。そのため、松栄旅館は「長期滞在者用の旅館」である事をモットーとしており、長い人で5年滞在する人もいるという。
 伊方町原発が設置されるようになった経緯についてこんな話があるという。元々、四国電力伊方町ではなく、原子力需要のあった高知県窪川町(現・四万十町)に設置する計画だったという。しかし、当時宮崎大学の四天王といわれていた福田さんという方が伊方町の住人に伊方を活性化させようと原発設置を呼び掛けた。これを機に福田氏の同級生でかつ原発を推進する当時の衆議院江藤隆美氏の協力を得て伊方町原発が設置されるようになったという経緯があるらしい。
 これを機に伊方市に原発が設置されるようになり、現在は一号機・二号機・三号機の三つが設置されているという。原発の稼働状態は、旅館のあり方を大きく左右するという。(これについては同様の話が清和旅館でも聞けた為、4-2で詳細を述べる)

2. せと旅館

2-1. 瀬戸町から八幡浜
 せと旅館は、今回インタビューを試みた五島典子さんの配偶者(五島宏さん)のご両親によって80〜90年前から創業されている旅館である。宏さんのご両親は瀬戸町西宇和郡出身であり、お父様である五島伊勢松さんは旅館を創業するまで瀬戸町四津浜村の第20代、21代村長を務めていたそう。その為、県や国との折衷や行き来が多く、八幡浜市へ出向く機会も多かったようだ。当時、八幡浜ではタバコや蚕の生産が盛んに行われ、「タバコ組合」や「紙組合」をはじめとする組合や会議が多かったという。そうした人々の集まる場所や議員同士の交流の拠点にしたいという思いを村長時代に抱いたことから、瀬戸町よりも人の集まりが多かった八幡浜で旅館を創業する事を決意したそう。加えて、経営や料理を務める奥様(五島スミエさん)と協力し、伊勢松さんが村長時代に培った人脈や人様を大切にする精神が旅館の創業に活きていたと仰っていた。その後、典子さんが57年前からスミエさんの跡を継ぐ形となり、現在も経営を継続している。
旅館名の「せと」は、五島さんの出身地「瀬戸」からとって付けたものだという。


▲資料2 「せと旅館」外観

2-2. 遍路とせと旅館
 せと旅館では、お遍路を目的に八幡浜へ訪問し宿泊する層が一定数存在するという。お遍路とは、「八十八ヶ所の四国遍路」のことをさし、引法大師(空海)が修行した場所をたどり、四国に点在する88カ所の霊場を時計回りに巡る壮大な寺院巡礼のことをいう。お遍路は僧侶たちによって中世から始まった文化であり、江戸時代以降庶民に広がったという。目的は宗教的な修行だけでなく、病気平穏、先祖供養、家内安全などのほか、リフレッシュや自己発見など人によって様々であり、特に九州や関東地方の人に参加者が多いという。
お遍路の中で地理的に八幡浜に一番近いのは43番の明石寺(めいせきじ)であるが、明石寺を訪問する為に八幡浜に宿泊する人は少ないそうだ。八十八ヶ所の四国遍路には、八十八ヶ所の番外礼所にあたる「別格」と呼ばれるものがあり、別格とは弘報大師(空海)が四国で、八十八ヶ所以外で残した足跡をもとに、20の寺院が集まって1968年に霊場として創設されたものをさす(=「霊場別格二十寺参り」とも言うらしい)。八幡浜ではその「別格」に位置づけられる「出石寺(しゅっせきじ)」(八幡浜から車で1時間程度に位置)をお参りするために訪問する人が多く、一般的には八十八ヶ所をすべて回った人たちが別格を訪れる傾向があるという。交通網が整備されていなかった昔に比べると、今では車で訪れることが可能となり、日帰りでお参りが出来るためお遍路の客層は減少してきているというが、近年では霊場別格二十寺参りへの認識が全国的に少しずつ広まってきていることもあり、出石寺を訪れるという目的で宿泊する層は毎年一定数存在するという。

2-3. 行商とせと旅館
 せと旅館においても、松栄旅館同様ビジネスを目的とする行商の客層が一定数を占めるという。
印象的な行商人のエピソードとして、約70〜80年前の富山の薬屋と京都・大阪地域からの呉服店の行商人を挙げていた。富山の薬売りセールスは非常に多かったようで、年に1~2回八幡浜地域の各家に直接訪問し商売をしていた時期があったそうで、その商売の宿泊場所として旅館を利用する傾向があったそう。一方、京都・大阪地域の呉服店は、各店舗に呉服を売りに訪問する傾向があったようで、連泊で商売をするために旅館を利用する人が多かったそう。呉服店や繊維関係の商人は、得意先や店舗同士のやりとりも多く、最終的に八幡浜の商店街に店を構えることもあったそうだ。いずれの商人も、元々は田舎地域に売り出す傾向があったらしい。そのため、長期的に商売を行う行商人が多く旅館が利用されやすかったようだ。
八幡浜はかつては商業や産業が活発であり、加えて別府や大阪への物の行き来の交通アクセスの拠点としても利用されやすいため、行商の人々のフットワークと旅館は密接に関連すると仰っていた。

3. 八幡浜センチュリーホテルイトー

3-1. 今治から八幡浜
 八幡浜センチュリーホテルイトーは、昭和4年(1929年)から元々は旅館形式で創業されたホテルである。創業者は明治30年生まれ今治出身の伊藤カツさんという方で、創業以前は主人を既に亡くしていたことから、出稼ぎという形で松山で女中として旅館に勤めていたそうだ。そして1929年、当時八幡浜で活発だった薬や呉服の行商の人々の宿泊場所の確保が困難だという状況を踏まえて松山を離れ、産業が活発であった八幡浜に旅館を出すことを決意したそう。
 今回インタビューに応じてくださった伊藤直美さんは伊藤カツさんの孫の嫁であり、カツさんの娘の伊藤フジノさんという方の後を継いだ3代目にあたる方である。今治出身のカツさんやフジノさんとは違い、生まれも育ちも八幡浜で、創業以前は広島で広島電鉄の栄養士として勤務されていたそう。直美さんが25歳の時、八幡浜に戻りフジノさんの跡を継ぐ形となり現在まで約50年勤務されている。現在は、直美さんの息子の伊藤篤司さんが社長を務め、1985年にホテル形式に移行して以降も八幡浜で経営を継続している。
ちなみに、ホテル名には4代続く「伊藤」の姓と100年(century)企業を目指すという意味が込められているという。


▲資料3 「八幡浜センチュリーホテルイトー」外観

3-2. 伊藤旅館と丸山旅館
 伊藤旅館(八幡浜センチュリーホテルイトーの旅館時代の旧名)は、かつて戦争で焼けてなくなってしまった丸山旅館と深い関わりを持つ。丸山旅館は、山口升雄さんという伊藤カツさんの弟が創業した旅館であり、宇和島地域に店を構えていたそう。山口氏は丸山旅館を創業するまでの間伊藤旅館で女中として働いていたそうで、カツさんに子供ができた事を機に宇和島で丸山旅館を創業したという。ところが、昭和20年の空襲により丸山旅館は焼けてなくなってしまい、戦災で焼け出された山口氏がカツさんを頼りに八幡浜疎開し、伊藤旅館の一角で丸山食堂を開業したという。この食堂で、丸山ちゃんぽんやあんかけ焼きそばが伊藤旅館におけるメニューとして提供されていたという。
伊藤さん曰く、中華料理の調理師の経験もあった山口さんがちゃんぽんの提供を始めたことが八幡浜ちゃんぽんの誕生にも繋がったという説もあるという。諸説あるそうだが、八幡浜ちゃんぽんの始まりが山口氏だったともいわれているそうだ。

3-3. 旅館からホテルへ
 イトー旅館は1985年に旅館形式からホテル形式へと移行した。現在、ホテル(宴会)形式になって約30年が経つそうで、50年以上は旅館形式だったそう。
 旅館からホテルへと移行したきっかけは、時代の流れの中で「個室」が求められるようになった事だという。かつては、薬屋や呉服をはじめとするビジネス色の強い「商人宿」としての性格に需要があった。しかし、1964年の東京オリンピックなどを機に社会はインバウンド対策に力を入れるようになり、個室が確保されておりバス・トイレが設置された「国際観光旅館」としての性格が求められる風潮が高まったという。また、時代とともに少しずつ商人の種類も変化しているという。「薬」は商人の商売を待つ形から医者や薬局を訪れるように変化し、「呉服」は需要があった昔とは違い現在は着物を着る文化もなくなってきている。ホテル形式となった今では原発工事や道路関係などの事務職の客層が多いという。
社会の流れや客層の変化、ニーズに合わせて旅館・ホテルのあり方は変遷し続けていると仰っていた。

4. 清和旅館

4-1. 会館から旅館へ
 清和旅館は、約90年前に元々は会館形式で創業されたという。創業者は今回インタビューに応じてくださった佐々木康二さんのひいおじいさまにあたる佐々木甚兵さんである。甚平さんは佐田岬出身で、会館を創業するまでは鉄鋼関係の町工場を営んでいたという。鉄鋼で儲かったために大きな土地があった事から、旅館の他にも様々な事業を展開していたという。その事業の中に洋服屋や散髪屋なども含まれていたため、八幡浜地域に多目的で集まれる場を提供しようという思いで「清和会館」を営むようになったという。
会館から旅館形式に移行したのは今から約50年前だという。 社員の老化や八幡浜の人口減少により洋服屋や散髪屋などの事業が淘汰された事も一因だというが、移行の一番のきっかけは八幡浜地域に商店街が出来たことだという。八幡浜は半分以上の土地が埋め立てであったため商店街の位置には元々海しか広がっていなかったらしい。商店街の台頭により客が商店街の方へと流れ、商店街の商売には及ばないという判断から当時需要が高まっていた旅館のみの形式へと路線を変更したという。
清和旅館の「清和」は、2代目のおじいさまの名前の「清三郎」からとったものだという。


▲資料4 「清和旅館」外観

4-2. 原発と清和旅館
インタビューに対応して頂いた佐々木康二さんは、ひいおじいさん(約40年勤務)・おじいさん(約30年勤務)に次ぐ三代目にあたる方である。旅館を継ぐ前は測量会社のサラリーマンだったそうで、老朽化に伴う15年前の建て替え工事を機に旅館を継ぐ決意を固めたそう。
康二さんが強調していたことは、やはり原発の稼働状況によって旅館のあり方が大きく変わってくるというということだった。一号機、二号機、三号機それぞれの稼働状態や当時の八幡浜のまちの様子・客層について詳しい話が聞けたので以下に順に列挙する。
一号機(1977年9月30日から稼働)、二号機(1982年3月19日から稼働)は今からそれぞれ約40〜35年前に稼働され、この頃は高速道路やトンネルが未完成な状態で道路も整備されていない時代だったという。一方で、材木やタバコをはじめとする産業が活発で、人の行き来が盛んであったため、映画館やスケート場・ボウリング場など娯楽施設や商業施設が栄えていたそうだ。交通網が未発達の状態でかつ商人を中心とする人の行き来が盛んになったため、宿泊場所である旅館の需要が急速に高まったそうだ。そのため、当時は旅館の数が増え、原発やトンネル工事に携わる人達を中心に宿泊者が急増したという。
しかし、2011年の東日本大震災を機に、安全性や金銭面の問題から四国電力の判断により廃炉が決定し一号機は約2年前(2016年5月10日)に、二号機は約4ヶ月前(2018年5月23日)に終了したという。
三号機は、約20年前(1994年3月29日)から稼働しており、2011年の東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故により一時運転が停止していたが2016年には再稼働したという。しかし、再び昨年広島の最高裁判所の判断により運転差し止めが決定されたという。九州の阿蘇山噴火が大規模噴火した際に火砕流が海をこえて伊方市に到達する可能性があると指摘されたためであるそうだ。これに対し、八幡浜住民はこの可能性はこじつけであると反発する声が多いという。伊方市の原発稼働状態が八幡浜における商売に大きく影響してくるためである。
旅館においても、昨年以降原発が稼働していないため客数が減少してきており、経営を継続するにあって原発稼働が鍵を握ると仰っている。康二さんが旅館を経営してきたこれまでの15年間の中でも東日本大震災や広島の最高裁での判断は大きなターニングポイントになったという。震災前は、原発関係者による宿泊者が沢山いて休みもなかったほどであったそうだが、ターニングポイントとなる出来事が発生して以降は一気に客数が減少し、自身の生活も激変してしまったという。世間では原発反対の風潮が高まる中、原発を稼働して欲しいという声が強い事は、それだけ原発稼働が八幡浜における旅館のあり方や八幡浜地域全体に大きな影響力を持っているということを示していると思う、と仰っていた。

5. ホテルトヨ

5-1. みかんとホテルトヨ
ホテルトヨは、昭和45年(1970年)創業すなわち50年弱にわたって経営されているホテルである。創業当時からホテル形式だったそうで、人の行き来が多い駅のロータリー(現在は空き地)で経営をはじめたそう。現在も、JR八幡浜駅から徒歩3分程の場所に位置している。
ホテルトヨでもメインとなる客層は原発関係であるというが、加えて他旅館・ホテルではあまり見られない特徴的な客層を聞き取ることができた。それは、東京からみかんを買い付けてくる客層である。約20~30年前から、東京の大手スーパーや青果市場など(農協)が新聞に掲載されている情報からみかんについてリサーチし、八幡浜のみかんを買い付ける際に宿泊する客層が一定数いるらしい。みかん主流のJA(農協)の客層としては、買い付け客に加えて肥料・農薬、選果機のメーカー等のお客様もいるという。八幡浜の主要産業がかつての蚕や生糸から現在に至るまでに「みかん」へと移行した八幡浜産業の移り変わりが客層の変化にも表れているのではないかと仰っていた。一方で、他の旅館では挙げられていた行商人の層は創業時から比較的少なかったという。
「ホテルトヨ」という名前は、創業されたお父様(田安照豊さん)とインタビューさせて頂いた息子の田安豊人さんの名前に「豊(トヨ)」という字が共通して含まれていたことからとったという。


▲資料5「ホテルトヨ」外観

5-2. スポーツイベントとホテルトヨ
 ホテルトヨの客層の特徴として、最近ではスポーツイベントに伴う客層が挙げられるという。
 八幡浜地域では、20年程前から八幡浜市が運営するソフトボール大会やマウンテンバイク大会が開催されるようになり、それらの参加者や関係者が宿泊する層が多いそう。ソフトボールは主に女子学生の参加、マウンテンバイクでは、現在海外からの参戦者もいるほどの大規模な大会となっており、市民の愛好家達によってコースや道路が整備されていったという。加えて、愛媛県全体でサイクリング観光促進が行われている風潮から、近年ではバイクや自転車のツーリング客が増加傾向にあり、それによる宿泊者も増えてきているという。
 近年ではこうした八幡浜地域でのイベントや観光促進プロジェクトが、旅館の客層や在り方に変遷をもたらしてきているそうだ。

結び
以上の旅館・ホテルの調査から、考察できることを以下に記す。
まず、旅館のヒストリーは実に様々であることが改めて考察できる。創業までの経緯や創業者の境遇、旅館の変遷は旅館によって実に様々であり、旅館の名前の由来も名前からとったもの、出身地からとったもの、読み方にこだわりがあるものなどバリエーションに富んでいることが分かった。
また、創業した時期や社会背景によって客層に違いがあるという特徴も見出すことができた。約100年前に創業された比較的古い松栄旅館やせと旅館では、蚕や生糸・材木・タバコなどの産業が非常に盛んな時代であり行商の層が大部分を占めていた。一方で、約50年前に創業された比較的新しいホテルトヨでは行商の客層の話はあまり挙がらず、みかんやスポーツイベントといった新たな客層のお話を聞くことができた。これは、八幡浜の主要産業が蚕や生糸からみかんに移り変わった事が影響しているといえ、時代や産業の移り変わりによって旅館のあり方が変化しているということができる。
このように、八幡浜地域における旅館・ホテルは「行商」・「原発」・「お遍路」・「みかん」・「スポーツイベント」・「交通網」など様々な側面(要素)と密接に関わりがある事が分かった。また、時代や産業の移り変わりによって求められる旅館のあり方は変化してきており、八幡浜の人々の暮らしや社会の変化と密接に関わっているといえる。すなわち、今回の調査を通して旅館・ホテルのあり方を左右する上記の側面(要素)が、八幡浜地域で暮らす人々の暮らしや社会をあらわす重要な要素であると私は結論づける。

謝辞
 本論文を作成するにあたり、八幡浜市の多くの方々にお世話になりました。この場をお借りして改めて厚く御礼申し上げます。お忙しい中、突然の訪問にも関わらずインタビューに快く対応頂き、笑顔で温かく迎えてくださった松栄旅館・せと旅館・八幡浜センチュリーホテルイトー・清和旅館・ホテルトヨの皆さまにはただただ感謝いたしております。皆さまのご尽力なしには、本論文を作成することは出来ませんでした。深く感謝しております。今後の皆さまの益々のご発展をお祈り申し上げます。ありがとうございました。

参考文献
四国電力株式会社HP, 2018,「設備概要」,
(http://www.yonden.co.jp/energy/atom/ikata/page_02.html , 2018年8月26日アクセス)
日本旅館協会・四国支部連合会, 2012, 「四国霊場八十八ヶ所御案内帖」, 2-3
八幡浜市史編集纂会, 1987, 「八幡浜史誌」, 124-125 142-143