関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

地蔵の祀り直しと人々 −八幡浜市大平「おかげ地蔵」の事例−

                               社会学部 3回生
                                   大石桃子
はじめに
1. 七曲りと地蔵
1.1 里道と七曲り
1.2 七曲りと里道

2. おかげ地蔵
2.1 国道建設と地蔵の移動
2.2 宮本俊之氏と地蔵
2.3 地蔵の現在

3. 参る人と休む人
3.1 参る人
3.2 休む人

結び
謝辞
参考文献

はじめに
末法思想の流行とともに地獄での救済者として信仰された地蔵は、仏教の一菩薩として重要な役割を果たしつつ、現代においても人々の暮らしの中で「お地蔵さん」として身近に受容され受け継がれている。人口、人々の暮らし、土地といった様々な変化のなかで、その形、受容のされ方を変えながらもなお我々の生活の中で信仰され、生き続けているものである。本稿では、八幡浜市大平にある「おかげ地蔵」の研究を事例に、地蔵の移動と祀り方の変化、そして現代においてお地蔵さんが人々に受容されている在り方について論じる。

1. 七曲りと地蔵

1.1 里道と七曲り
現在八幡浜市大平から山を越えた保内町へ向かってのびる国道197号線沿いには、突然視界が開け、大平の町が見渡せる地点が存在する。何件かの家と小さな畑に囲まれた山の中に位置する地点であるが、周辺を見渡すと国道から外れたところに、細い道なき小道があり、そこからも大平から山への登山が可能となっている。現在でも特に舗装された跡はなく、人々が山中から八幡浜へと降りていく、いわゆる八幡浜への出入り道として作られた道だと考えられる。

写真1. 大平から国道197号線沿いへ続く小道
幼少期から八幡浜で生まれ育ったという60代ほどの住民の方によると、大平から保内町へ向かって上がってくる小道は、50年前の国道建設以前から存在する「里道」と呼ばれる道だという。里道は大平の町から延びてきて、現在の国道を渡って反対側にある山の中まで続いており、山中の小道は曲がりくねっていたことから人々から「七曲りの道」と名付けられ利用されていた。里道は現在でも存在し、人ひとりが歩けるほどの小さな道として利用されているが、山中に通っていた七曲りの道は国道建設の際のコンクリート舗装によって埋め立てられ、現在は存在していない。道路建設以前、七曲りの道は保内町まで続いた、人専用の道であったという。

写真2. 道路沿いの、コンクリートで舗装された山。道路建設以前、七曲りの道が通っていた。

1.2 七曲りと地蔵
 現在埋め立てられた七曲りの道には、道路建設以前、それぞれの曲がり角に小さなお地蔵さんが並んでいたという。おそらく七か所以上あったであろうその道の曲がり角に存在していたお地蔵さんは総勢で12〜13体ほどで、七曲りの道を通る人々に身近な地蔵として親しまれていた。その地蔵がいつ作られ、どうしてその角に配置されるようになったかは不明であるが、道を通る人々によってお供えがなされ、お世話されていたことから、地域住民に大切に信仰されていたものだと考えられる。

2. おかげ地蔵

2.1 国道建設と地蔵の移動
約50年前、高知県から大分県へ延びる国道197号線の一部として、八幡浜〜大洲間に国道が建設された。国道は大平から保内町まで続き、里道と七曲りの道を分断する形で建設されたため、安全のためとして舗装されたコンクリートによって、七曲りの道は埋め立てられ山の一部となった。その際、地域の人々は里道と七曲りの分断地点である平地に「名坂おかげ地蔵尊」を新設し、七曲りのそれぞれの角に存在した地蔵を回収したのち、地蔵をそこへ祀り直した。地蔵尊設立には、地域住民からの寄付金と八幡浜市の協力があったという。おかげ地蔵が設立された際、新たに7体の地蔵が祀られ、写真3の上7体の地蔵が新しくおかげ地蔵に備えられた地蔵、そして下12〜13体の地蔵が七曲りの道から回収された地蔵である。新たな7体の地蔵のうち、中心の地蔵を挟んだ左の3体と右の3体は六地蔵であり、左から金剛悲地蔵、金剛宝地蔵、金剛願地蔵、金剛撞地蔵、光放王、預天賀地蔵である。七曲りの道から回収された地蔵には、すべて赤い頭巾が着せられ、頭巾には「平成30年」という年号と寄付した方であろう人々の名が記されている。地蔵の周りにはぬいぐるみやおもちゃ、お菓子といった様々なお供え物が置かれており、地域住民の方からよく世話されていることがうかがえる。おかげ地蔵尊はプレハブの小屋であり、入って前方に地蔵が祀られ、そのすぐ左手には訪問者帳が置かれた机があり、建物の中にはいくつかの椅子と長机も設置されている。
プレハブを出て右側にはガラス張りの小さなボックスがあり、その中にもお地蔵さんが1体祀られている。(写真4)住民の方いわく、もともと七曲りから集められた地蔵はみなガラス張りのボックスの方に供えられていたが、数年前に1体を除いて他はみな中へと移されたという。道路建設以来、様々な変化はあったものの設立と同時に作られた石材やお供えとともに現在の形で落ち着いている。

写真3. おかげ地蔵尊に祀られている地蔵

写真4. 建物の外にある地蔵

写真5. おかげ地蔵尊と刻まれた石材

2.2 宮本俊之氏と地蔵
おかげ地蔵尊設立を成し遂げ、その管理・存続に率先して取り組んだ方が宮本俊之氏である。宮本氏は八幡浜市交通安全協会の会長を長年務めており、国道が建設された際おかげ地蔵尊を建て、3年前にお亡くなりになるまでずっと管理を担当していた。建設の際の寄付の募集や、年に一回の地蔵盆、お坊さんとのやり取り、そして地蔵尊の掃除や世話など地蔵尊の存続に尽力された。宮本氏が交通安全協会の会長であったことから、おかげ地蔵尊では交通安全講習が住民に向けて行われたり、警察官が訪問し住民と交流する場が設けられた。円満寺のお坊さんである武内氏によると、宮本氏と宮本氏の奥さんは頻繁にお寺に参拝に来られる熱心な仏教信者であり、地蔵供養と読経などにも熱心に取り組まれていたそうである。武内氏と交流のあった建徳寺のお坊さんが地蔵尊設立当時、読経のためおかげ地蔵を訪問しており、宮本氏ご夫妻はその建徳寺に月1.2回ほど参拝していたそうだ。交通安全協会の会長、そして熱心な仏教信者である宮本氏だからこそ、おかげ地蔵尊の設立・存続を成し得たのである。現在、地蔵の前には宮本氏が地蔵尊を世話している写真が飾られている。

2.3 地蔵の現在
 現在もおかげ地蔵尊はきれいに管理されており、毎日数人の参拝者が訪れている。現在の活動で最も大きなものは、おかげ地蔵尊設立以来、毎年5月に開催されている地蔵盆である。今年は5月24日に開催され数人の参加者が募ったという。しかし、参拝者の方の話によると、現在の地蔵盆祭りは以前と比べると参加者が少なく、参加しているほとんどは地域のお年寄りや病院の患者数人だという。以前はお餅まきなどが実施され、たくさんの人が参加したというが、現在では参加者が年々減少していてもの寂しい思いがするとおっしゃっていた。参加者が少なくなっている現状でもなお、今年の地蔵盆でも例年通り円満寺の武内氏によるお経念仏が行われ、その後交通安全協会の警察官による、お年寄りの方々に向けての交通安全講習が行われている。参加者の変化とともに、実施方法は変化しているが、毎年の地蔵盆は地域の人々に有意義なものとして行われ続けている。
 現在、おかげ地蔵尊を管理されている村上為彦氏の活動もおかげ地蔵尊存続において重要である。三年前に宮本氏がお亡くなりになって以来、管理を任され、お札の管理・地蔵尊の掃除を担っており、可能な限り毎日地蔵尊に参拝されている。熱心に管理を務められているが、村上氏いわく、村上氏一人での管理は大変であることから、今後は地域全体で地蔵尊を管理していくよう考えているという。

3. 参る人と休む人
おかげ地蔵尊には毎日数人の参拝者が訪れる。地蔵尊によく参拝するという方によると、主に訪れるのは、おかげ地蔵尊の熱心な信者の方、近辺の病院患者とそのお見舞い客、散歩途中の地域住民、地域の老人会の人々である。そして、四国八十八ヶ所のルートから外れているため珍しくはあるが、お遍路さんが地蔵尊の建物の中で寝泊まりすることもあるという。このように様々な参拝者が訪れるおかげ地蔵尊であるが、今回の研究で分かったことは、地蔵尊への朝の訪問者と夕方の訪問者の間には違いが存在し、訪れる目的、時間、過ごし方において両者特徴的であるということだ。
3.1 参る人
 朝に地蔵尊へ訪れる人は主に、地蔵へ参ることを目的に訪れている。およそ7〜10人ほどの地元の住民が朝、地蔵へ手を合わせて去っていく。お賽銭を入れ手を合わせ、地蔵尊で出会った人に一礼して地蔵尊を離れる人がほとんどだが、滞在時間は5分もないほどだ。自転車で通りすがりにお辞儀だけをして去ってゆく人もいた。朝9時ごろに訪れた方は、毎日大平から保内町までの散歩途中におかげ地蔵尊で手を合わせるのが日課だという。ご利益などは考えていないが、地蔵尊へ参ることが自分の健康と暮らしに良いと考えているそうだ。朝10時前に訪れたご夫婦は、毎朝おかげ地蔵に参拝し、願い事や家族の健康などを祈っているという。ご夫婦曰はく、おかげ地蔵はご利益があると評判で、各地から信仰者が訪れている。実際、おかげ地蔵のいわれやご利益について知ることはできなかったが、ご夫婦にとっておかげ地蔵は何でも叶えてくれる地蔵だという。朝の参拝者は、散歩の途中で立ち寄るといった人が多かったが、おかげ地蔵へは手を合わせ、自らの健康や幸せを願い、すぐに立ち去っていく、そしてまた次の日もその次の日も日課として地蔵へ参りに来るという人がほとんどである。


写真6.7 朝、参る人々

3.3 休む人
 夕方におかげ地蔵を訪れる人の特徴としては、地蔵尊に滞在する時間が長く、そこを休み場所として利用しているということだ。実際、地蔵に手を合わしてすぐ去っていく人もいたが、ほとんどの人は手を合わせに来るというよりも、中でゆっくり休むか、外の石段で誰かとゆっくり会話しに来る人が多い。地蔵尊は小さなプレハブ上の室内にあり、5〜6人が座れるベンチもあるため、ゆっくりと滞在できる休憩所になり得るのだ。朝に比べて、日が沈むころは訪問客は少なく3〜5人程度であったが、ベンチに腰掛ける人は、朝よりも多かった。おかげ地蔵の前の石段に腰かけてランニングの休憩をとっている人や地蔵尊の中で友人と待ち合わせしているという人はそれぞれ、地蔵尊を参る場所としてではなく、休む場所として利用しているようであった。また、三日間の研究の中で、実際夕方に訪れる訪問者に多く出会うことはできなかったものの、前日の日中にはなかった飲み終えた甘酒の缶が、次の日の朝に増えていたり、朝にたばこの吸い殻が増えていたという点で、夕方の訪問者が地蔵尊の中で滞在しゆっくり時間を過ごしていったということが考えられる。

写真8 研究2日目の夕方にあった甘酒のゴミ

写真9 3日目の朝には一つ増えていた。

結び
国道の建設とともに行われたおかげ地蔵尊の設立によって、山中に存在した地蔵は祀り直され、新たに祀られた地蔵とともに今もなお人々に信仰され受け継がれている。今回の実地調査によって明らかになったことは、地蔵尊誕生までの大きな動き、そして地蔵を訪れる人々と地蔵尊との関係である。おかげ地蔵尊は、朝、参拝する場として存在し、夕方は、休憩所としての役割も持つ。今もなお大切に守られているお地蔵さんは、人々の暮らしの中で様々な在り方で受容され続けている。

謝辞
本論文の執筆に際し、様々な方のご協力を頂きました。心から感謝申し上げます。お忙しい中、たくさんのお話を聞かせていただき、貴重な資料を提供してくださった村上為彦様、武内正和様には大変お世話になりました。皆様の協力なくしては本論の執筆は叶いませんでした。突然の訪問にもかかわらず真摯にご協力いただき、誠にありがとうございました。

参考文献
・小川直之(1996), 『歴史民俗学ノート-地蔵・斬首・日記-』吉川弘文館
・国道197号(大洲・八幡浜・西宇和間)地域高規格道路建設促進期成同盟会, 「国道197号「大洲・八幡浜自動車道」全線の早期完成を目指す」(http://www.city.yawatahama.ehime.jp/docs/2016052500014/files/2802.pdf, 8/10 アクセス)