関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

民間宗教者の現在ー長崎市「地蔵寺」の事例ー

社会学部 山田 早織

【目次】
はじめに
第1章 地蔵寺
 第1節 寺の外観
 第2節 庭の仏像
 第3節 地蔵寺の活動
第2章 日野弘眞氏
 第1節 生い立ち
 第2節 天理教との出会い
 第3節 基山信仰との出会い
第3章 冨田覚聖氏
 第1節 修業時代の事故
 第2節 日野氏との出会い
 第3節 独立
 第4節 基山信仰からの離れ/自分の信仰
 第5節 親の死
 第6節 寺のありかた
結び
謝辞

参考


はじめに
 今回の調査は長崎市に葬儀を主な活動としている「地蔵寺」がある。本論ではその「地蔵寺」の住職冨田覚聖氏のライフヒストリー、師匠の日野弘眞氏のライフヒストリーをまとめ、民間宗教者である冨田氏が、なぜ「地蔵寺」で葬儀を扱うようになったのかを記していく。

第1章 地蔵寺
第1節 寺の外観
 長崎市のとある住宅街の中に地蔵寺はある。細い路地を抜けると「地蔵寺」という看板が出ている民家がある。この看板がなければたどり着くことはできないだろう。


写真1 寺までの道のり


写真2 寺の外観

第2節 庭の仏像
 外観は一般の民家と同じだが、一歩その敷地に入ると何体もの仏像がある。


写真3 庭の仏像
これらの仏像は集めたものではなく、いろいろな事情がありこの場所へ来ることになった。


写真4
 この仏像は山伏の修行をしていた人が亡くなり、管理をする人間がいなくなると相談を受け、寺に来ることになった。寺に来るまでに、住職と坊守さんで100日参り、受け入れる心を作り、山から背負ってこの庭まで運んできた。
 他にも水神様の石碑を海に流すことができなくなったので、預かってほしいという依頼や、息子と一緒に住むことになりもっていくことが出来ない仏像をぜひ受け取ってほしいと頼まれてこの場所に来た仏像がある。


写真5


写真6

第3節 地蔵寺の活動
 地蔵寺は主に葬儀の相談を受けている。地蔵寺ではどの宗派でも葬儀を挙げることが出来る。これは地蔵寺の「各宗派の葬儀を真心でサポート」という理念によるものだ。納骨堂もあり、家具屋に売っているサイドボードを使って、安価で預かっている。
 地蔵寺は年に4回ほど寺の近況や、地蔵寺の家族の近況を報告する、『地蔵寺だより』を信者に発送している。平成6年から発行を開始した地蔵寺だよりは20年の歴史がある(2014年12月時点)。最初は寺の行事案内の為だったが、どんどん家族の暴露話や家族旅行の思い出を載せると、信者から発送の催促の電話が来るようになった。


写真7 地蔵寺だより
 また、季節の行事も行っており、夏には廊下にたらいを置いて水を入れてヨーヨーすくいやスーパーボールすくいなどまるで夏祭りのようなイベントを行った。またクリスマスにはツリーを飾り、まるで寺とは思えないようなイベントも行っている。


第2章 日野弘眞氏


写真8 冨田氏が編集した日野氏のライフヒストリーをまとめた冊子

第1節 生い立ち
 冨田氏の師匠は日野弘眞氏という女性であった。18歳の時に芸者の置屋をやっていた親戚を頼りに大阪で働き出す。始めは女中奉公として働いていたが勧められて、お座敷に上がるようになった。そしてあるお座席で東京の実業家と出会い、妾として東京で生活を始める。
 しかし、22歳の時に甲状腺がんが発病する。手術をしたがあまり経過は良くなかった。鎌倉にある寺に相談に行くと、前世で男性を3人殺した因縁があると告げられた。男性が恋心を抱くが、その思いを拒絶する。すると男性が思いつめて首つり自殺をしてしまう。そうして男性を殺してしまった因縁が、今、首に出てきているのだと。病気や、妾といういわゆる日陰の生活を送っていくことに耐えきれなくなって、福岡に逃げてくる。一度旦那が福岡まで追って来たが、もう戻ることはできないことを伝えると、当時の金額で100万円を、あなたが困らないように、と生活費として渡された。こうして福岡での生活を始めた。

第2節 天理教との出会い
 福岡にやって来て、ゼロからやり直すつもりで天理教の門をくぐった。37歳の時だった。
 天理教に入って間もなく、求道者のT氏に気に入られた。ある時、T氏が重篤でついに呼吸困難になり、もう誰が見ても危篤の状態の中で突然T氏に、歌ってください、と言われる。T氏との別れになるのではないだろうかという不安と悲しみで、歌えるような気持ではなかったが、知っている歌謡曲や民謡を歌った。歌っているうちに幼いころに枕もとで母が歌ってくれた子守唄を思い出した。心を籠めてまるで子供をあやすように歌っていると、不思議なことにT氏の荒かった息遣いがどんどん治まり、蒼白だったほほに赤みが差し、すやすやと眠りだしてしまった。奇跡が起こったと思うと同時に、この世には科学や世間的な「常識」では到達することのできない不思議な世界があるのだと思った。
 T氏に気に入られていた日野氏は、ある時久留米の大教会の会長になりなさいと言われる。しかし、会長にはちゃんと修行をして信者に信用されている人がなるべきだと思った。そのため、会長になる話を断り、同時に福岡を離れることにした。

第3節 基山信仰との出会い
 福岡から離れ、長崎に戻って来た。縁があって東浜町で旅館を経営している、ある女性と出会う。この女性との出会いが、日野氏が基山信仰と出会うきっかけとなった。
 日野氏は長崎に戻って来てから、生活のために銅座町に『クラウン』というスタンドバーを開業した。しかし、甲状腺ガンは完治しているわけではなく、体調が悪いとのどが腫れ、咳が出て、とても立っていられないような状態になる。このため店の経営はバーテンに任せっきりになっていた。いよいよ、店を続けられる状態になくなりオープンから3年ほどで店を閉めることになった。店の整理をしていると、なんと300万もの負債があった。どうやら店を任せていたバーテンに店の金を使い込まれていたようだ。生活のために始めた仕事で、多額の負債を負うことになってしまった。
 女性は日野氏の過去の因縁や事業の話を聞き、日野氏を半ば強引に自分が信仰していた基山信仰の道に導く。基山信仰はいわゆる人助けの寺である。「お不動様なら因縁を切れるよ」と告げ、国鉄に乗って一泊二日で佐賀県の基山にある中山一之滝に向かった。
 日野氏は滝場へ行ったが、自分は滝行をしないと女性に言っていた。しかし、周りの人が滝へ入っていくのを見ると自分もできるのではないかと思い、滝に打たれることになった。滝に打たれた瞬間、日野氏の口から思いもよらない言葉が次々と出てきた。そのうちに「1000万」という言葉が出てくる。本人はその時は、1000万円がくじで当たるのか、と思っていたそうだ。しかし、後々になり「1000万に換え難ない宝を授ける」と自分の口を使い、滝場の不動明王がおっしゃったのだとわかった。これがお慈悲を頂戴した瞬間であった。お慈悲とは仏様の言葉ということである。お慈悲を頂戴した後、いざ水から上がろうと思い片足を上げた瞬間、身動き一つ取れなくなった。トランス状態に陥ったのである。それだけご苦労が激しかったのである。周りにいる信者ではどうすることも出来ず、信者を束ねる親仏を呼んできてもらい、念仏を唱えながらやっとのことで体が動ける状態になった。トランス状態に陥ったことで、恐怖心が芽生え、もうこれきりにしようと思ったがなぜか惹かれてしまい、それから山へ通うことになった。
 お慈悲を頂戴すると頭がのぼせ上ったような状態になり、いろいろなものが見えたり聞こえたりするようになる。人を見ると、恥ずかしいところにある黒子や、抱えている悩みなどがわかってしまい、それを口に出してしまう。そうした日野氏のうわさが巷に広がり、お参りをしてほしいという人が、日野氏が身を置いていた、女性の旅館に訪れるようになった。最初は断っていたが渋るので、一回きりだと条件を付けてお参りをするとピタリと当たる。これがまた評判を呼び、お布施を貰いお参りをするようになった。何年かするとなんと300万の負債を返済することが出来ていた。これが、滝場不道明王が言っていた「1000万に換え難ない宝を授ける」の意味だったのである。「1000万円」を与えるわけではなく、人を助ける力を与えることで、得たお布施で負債を返済することが出来る、という意味なのであった。
 こうしてお参りをし、力をつけ、基山信仰の中で親仏になっていた。信者も増えたことで、いつまでも旅館でお参りをするのはどうかという話になり、寺は造れないが代わりに家を借りようということになった。「中山一之滝の布教所」という看板を上げた。その後宗教法人となり「光明念仏身語聖宗1)長崎教区立江地蔵教会」と名を替えた。そして昭和45年、日野氏と冨田氏が出会う。


第3章 冨田覚聖氏
第1節 修業時代の事故
 冨田氏の実家は時計屋であり、家業を継ぐために18歳の時に北九州の時計屋に徒弟制度によって弟子入りする。そこで2年後の冬に、火事を起こしてしまう。
 いつもの様に、ベンジンを使って掛け時計の修理をしていた。まだ寒い時期に石油ストーブを焚きながら、ベンジンを一斗缶から一升瓶に移す作業をしている最中、誤ってベンジンをこぼしてしまった。ストーブの熱で温められたコンクリートの上にこぼれ、座布団1枚ほどの広さが燃えてしまったが、すぐそばにいた人によって火は消された。その際手にやけどをしたため、水で冷やしタオルを取り出そうとドアを開けた瞬間、ドアの前に置かれていた一升瓶が倒れ、1.8ℓのベンジンが流れ出て火の柱が立った。すぐに逃げ出し無事だったが2、3軒が類焼した。
 その晩、冨田氏を時計屋に紹介した卸し屋の社長や、組合員、親も駆けつけて今後についての話し合いをすることになった。話し合いが始まった瞬間、冨田氏が親に相談もなく「一生仕えるので許してください。」という声を上げる。冨田氏は、自分が火事を出してしまったので、当然のことだと思っていた。そして時計屋で修業を続けることとなった。
 火事の1カ月半後にお店が完成し、営業を再開すると、近所の人やお客さんが「大変だったねぇ。」と声をかける。そのたびに「この人が火事を出して。」と朝から晩まで答える。修理をしながらその言葉を聞いていた。自分が火事を出してしまったので、申し訳なく、頑張って働こうと思っていた。しかし2カ月ほど経つと、毎日のその言葉がストレスとなり、不眠症になる。朝ごはんの白米をかむと口の中で砂をかんだようになる。ついには死まで考えるようになっていた。
 父親も悩み、いろいろなところに相談に行っていた。これといった解決のすべがなかった。そんな中、眼鏡問屋さんが父親に日野氏を紹介した。「逃がしなさい。何もトラブルが起こらないように、お不動様がしてくれる。」と父親に助言した。
 その数日後に、何も知らない冨田氏は「もぅ、逃げ出そうかと思っている。」と父親に電話した。父親からその助言を聞いた。「逃がしなさい。何もトラブルが起こらないようにしてくれる。」の言葉に心が動いた。「お父様、お母様のなさる信仰なら間違い無いでしょうから、僕もします。」と冨田氏は素直な気持ちで両親に初めてすがった。1週間後に店から逃げることになった。店から逃げ、日野氏の指導で1カ月ほど母の叔父の元に一旦身を隠し、その後長崎の実家に戻った。そこで初めて日野氏と出会う。

第2節 日野氏との出会い
 実家の手伝いを終え、夜9時ごろに寺を訪ねるとちょうどお参りの最中であった。ちょっと待ってください、と振り返った顔を見た瞬間に、この人になら一生ついて行けれる、と思った。
 日野氏から、「あなたが生まれ変わる2世前の時に、観音様のお堂の中で背中を刃物で刺され、倒れるときに一緒に蝋燭も倒してお堂とともに焼け死んでいる。お堂を燃やして、人々が礼拝する場所を失くしてしまったので、あなたが火事の因縁を背負うことになった。あなたはいつか人が礼拝するような宗教施設を造らないといけない人なのです。」と伝えられる。火事の因縁が冨田家は昔から絶えなかった。こんな苦しい思いを将来、子や孫にさせたくない、と自分の代で因縁を切ろうと決心をする。日野氏のすすめで、日常生活をしながら信仰をすすめる「在家の得度」という形で父と一緒に出家をする。
 本山で得度式をし、滝場のすがり堂で日野氏とともに「なんまんだ なんまんだ」とお参りをしていると、目の前の瞼の裏に小さな蝋燭の炎が、山のように立っている様子などがカラーで鮮やかに見えた。一瞬消えて、次に火のついた大きな2つの蝋燭が現れた。その蝋燭が消えると、全体的に白くて上の部分だけが薄らピンクに色づいた蓮の花のつぼみが現れ、目の前で消えた。真言宗では白色は大日如来を表す。得度を受けたばかりの人間が格の高い大日如来を表す白い蓮の花を見たということで大騒がせすることとなった。こうして華々しい得度のスタートを切った。
 得度を機に、日常生活の中で目に見えないものが見えるようになっていた。特に死者の姿がよく見えるようになった。最初の1,2年はいろいろなものが見えたり聞こえたりしてうるさかった。自分ではコントロールすることが出来なかった。しかし、3年もすると自分でコントロールすることが出来るようになった。お参りをしない時は何もなく、必要な時に求めることが出来た。順調に日野氏に育ててもらい、いつしか日野氏も冨田氏のことを跡取りだと紹介するようになっていた。

第3節 独立
 そんな中、冨田氏が28歳の時に日野氏が亡くなった。日野氏は64歳であった。
 日野氏の余命いくばくもない夜中に一人で、基山の滝場へ行った。滝に打たれながら、「もし助かる命ならお助けください。もし助からないのであれば苦しませずに引き取ってください。」と祈った。基山でお世話になっていたA氏が滝場でお参りをしていると、立江地蔵教会の跡取りが来ているぞ、というお不動様の声を頂いた。その声に導かれ、滝場のすがり堂の前で待っていると、祈りを終え涙を出しつくした冨田氏が出てきた。やっぱりあなたでしたか、とA氏は確信した。
 いよいよ日野氏が亡くなり、冨田氏が喪主となり葬儀を挙げた。葬儀の後、座談会が設けられ跡取りの話になった。冨田氏は先輩が後を継ぐものだと思っていた。しかし、滝場で冨田氏の姿を見たA氏は冨田氏を跡取りとした。日野氏の死や、跡取りの件で離れる信者もいた。最初の一年間で半分の信者が離れた。その後残った信者を先輩方と冨田氏がそれぞれ連れて分かれた。最終的に冨田氏には30人程度の信者が残った。そして、家を借りて「中山一之滝山立江地蔵寺」の看板を上げた。

第4節 基山信仰からの離れ/自分の信仰
 冨田氏から離れた信者の中に、もともとの日野氏の直系は冨田氏だからそちらにもお参りをしよう、と二股をかける信者が出てきた。そうした人にもお参りをすると仲間内で、冨田氏のお参りも結構当たるよ、と評判になった。そうして二股をかける信者が増えた。するとその信者グループの中から、冨田氏が信者を取ったと陰口を言う者が現れた。
 A氏は、一年間月に一回、冨田氏の元を訪れた。それは日野氏の跡取りとして、立派な親仏にしようとするためだった。A氏に、忙しい中来てもらうので、信者を直接お参りしてもらい、護摩焚きや、おみくじを引いていただいた。A氏が来てくれることはありがたいことだった。
 30歳の時に、新たに家を買い引っ越した。不動産の広告を見て今の家を見つけた。信者には家を買うための寄付はお願いしないので、そのままついて来て欲しいと頼んだ。そうして新しく家を買い、開山式をするためにA氏に来てもらった。するとその帰り道にA氏が、「今まで通り自分に仕えるように」と言った。しかし、これから家のローンを払っていかねばならないし、子供もいたので、生活が第一と考えた。A氏は宗教活動上育ててくれたに過ぎない。私の師匠は日野弘眞ただ一人。『師匠の上に、師匠無し』これからは、仏様を師匠とし、自分の信仰を持とうと思った。この出来事を機に、基山信仰から離れることになった。
 基山信仰から離れることで自分から離れる信者もいた。しかし残った信者による口コミのおかげで、相談に来る人は絶えなかった。その頃から悩みを抱えている親の子供を寺で預かるようになった。シンナー中毒の子供や、やくざがやくざに金を貸したその金を取り立てに行く、命がけのことをしている子供を預かった。子供たちを導く中に得度の選択肢があれば得度もすすめた。そうして35歳から40歳手前まで人助けの道を進んだ。
 40歳になると、生活にも余裕が出た。昼は釣りに行き、夜はキャバレーに行った。信者との約束を忘れて釣りをしていたこともあった。急いで帰り、何食わぬ顔でお導きをすると、「ありがたい」と言って信者は帰っていく。夜飲みに出て明け方帰って来ると、朝5時にお参りに来る信者夫婦の姿があった。朝帰りの姿を見られたくなくて必死に姿を隠した。こんな自分に嫌気が差した。釣りも夜遊びも、ちょっとした息抜きのつもりであった。ある時、釣りから帰って、釣ったクロを3枚に下ろそうとエラに包丁をいれた。その途端にエラから大量の血が出て手を真っ赤に染めた。それを見て「おれの手は血塗られている。」と思った。必死に手を洗った。魚にも赤い血が流れている。なんて申し訳ないことをしてしまったのだろう。もう釣りはやめようと決心した。家族に釣りと夜遊びはやめると宣言した。家族にも信者にも恥ずかしくない自分でいようと思った。
 釣りも遊びも止め、目に見える部分は変わった。しかし、自分の内面にはまだまだあさましい部分がある。このままでは仏様に申し訳ないと思った。何事にも心を動かされない「空」の心でいようと、本物の「坊さん」になろうと思った。本物の「坊さん」は朝早くに起き、清らかな心のままでそのまま一日を終えるものだと考え、実践しようとした。しかし、朝寝坊をしてしまう。朝寝坊をした代わりに朝のお勤めを頑張ろうと思ったが、頑張ることが苦しかった。改めて考えてみると、そのなりたいという気持ちに心が囚われているのではないかと思った。ありのままの自分を受け入れよう、朝寝坊したっていいじゃないか、朝のお勤めができなかったらその時はしょうがない、こだわりなく自然体でいようと思えたとき、心が楽になった。仏様に対する申し訳なさも無くなっていた。

第5節 親の死
 50歳になるころ、立て続けに両親が亡くなった。父親は心筋梗塞、母親は糖尿病だった。父親が死ぬ1週間前に、医師からもう治療の手立てはないと告げられた。父親には北九州の火事から今日までいろいろ迷惑をかけた。助けてくれてありがとう。少しでも安らかに逝けるように家族全員でお参りをした。もしもの時は自分が葬儀を出すと誓った。助けきれないどうしようもない悔しさと、別れのつらさで涙が止まらなかった。最期の時には涙も出なくなり、落ち着いて見送ることができた。
 葬儀は自分で出したが、金銭的に余裕はなかった。息子の友人が葬儀会社に勤めていたため、金のかからない葬儀を出すことはできないかと頼んだ。式場を使えば通常だと100万ほどかかると言われた。そこで、両親の住んでいた家で出すことにし、棺桶と、霊柩車を手配してもらった。いとこの仕出し屋に簡易的な祭壇を借りた。あとは自分たちで行い、手作りの葬式をした。息子と二人でお経をあげた。親の為なら何でもして送ってあげたいという気持ちだった。こうして無理を言って13万で葬儀を出すことができた。
 実際に親の葬儀を出したことで、世の中には自分たちのように葬儀代で困っている人がたくさんいるのではないかと思った。過去に3度ほど身内の葬儀をしたことはあった。もし今後葬儀の縁があるならば、自分の親と同じようにお世話したいねと家族で話し合った。その後、息子が葬儀社の友人から、「お寺を持っておられない家庭が結構あって、お寺探しに困っている。」という話を聞き、「うちのお父さんやったら、困っている人のことを考えてしてくれるはずだよ。」と話したという。
 しばらくして息子の友人の葬儀社から1件の依頼があった。息子が博打ばかりして、金銭的に余裕のない家庭だった。葬儀社の担当者がお布施は15万と告げていた。葬儀の日、息子が泣きながら僧侶の控室にやってきた。親戚中に頭を下げてどうにか工面してきましたと言い、涙声で自分の親不孝を悔み、「お願いします」と差し出されたので、お布施と息子の気持ちを涙ごと頂戴した。
 最初は一部の社員からの紹介のみだったが、葬儀社が地蔵寺流の葬儀を挙げた家に集金に行くと、いいお寺さんを紹介してくれてありがとう、という言葉を社員が聞く。社員も、こちらもいいところを紹介させてもらってありがとうございます、と返す。そしてこの評判が社員に広まり、徐々に紹介が増えてきた。

第6節 寺のありかた
 親の葬式を機に、なぜ葬儀へ方向性を替えることになったのだろうと自問自答した。昔の人々の生活の苦しみや病気は、博学な坊さんの導きによって助けられてきた。それが「民間信仰」であった。しかし、坊さんが檀家制度によって、特別なアピールや人助けをせずとも檀家に守られるようになると、信者の言葉に耳を傾ける寺が無くなっていった。寺と信者に距離が生まれることで、敷居が高い、寄付を請求される、葬式代や戒名料として一方的な金額を言われる、というイメージを作り出してしまった。そうでもない寺もあるが、少数であろう。
 この寺に来る多くの主婦は、菩提寺を持っている。しかし、菩提寺では恥ずかしくて相談できない家庭の悩み事を抱え、民間信仰のお大師様を訪ねてくる。民間信仰はそうした、坊さんの聞いてはくれないようなことも寄り添って聞いてくれる、人生の万相談所でなければならないのだ。そしてその相談できない悩みの中に葬儀のことがあると自分の経験も踏まえ、思った。そして今、寺に求められているものは「葬儀の時の救い」なのだ、お寺が各家の宗派に合わせて真心で葬儀のサポートをしようと決心した。
 葬儀の寺になろうと決心したが、それは一宗一派ではことたりない、元々自分には、父方の浄土真宗と母方の禅宗、基山の真言宗系と3つの宗派にご縁がある。仏教=釈迦という原点(宗派の元)。元々仏教はお釈迦様の教えで一つなのだからと勉強すると、各宗派につながった。しかし、お経については今さら他の寺に行って教えてもらうのはいやだった。そこで、聞き流して覚える英語の教材があることを思い出した。車の運転をしながら聞き流していれば身につくと思ったのである。覚えるならば間違いのないお経を覚えなければならない。ネットで探すと各宗派の大本山が出しているお経があった。それを常に聞いていた。
 ある時、真宗の信者の月参りの際に、阿弥陀経をあげていた。すると信者がぽつりと真宗東のお経が聞きたいとつぶやいた。後日信者の息子が、仏具店で真宗東のお経のCDを買って、親が喜ぶのでぜひ覚えてあげてほしいと頼んだ。ありがたいことだと思い、CDを受け取ったがなかなかこれが難しい。すぐには覚えきらず、最初の頃はイヤホンで聴きながら、それに合わせてあげていた。しかし家でも、車でも常にお経を流していると自然と口ずさむようになっていた。半年もするとだんだんと真宗西と真宗東でのリズムの違いも理論的にわかってきた。こうして各宗派のお経を唱えられるようになると葬儀を挙げた家族も喜んだ。
 「真心でサポートする、『葬儀の時の救い』が今寺に求められていることなのだ」と冨田氏は強く語る。


写真9 冨田氏と坊守さん


結び
 冨田氏は始めから民間宗教者ではなかった。ごくごく一般の人だったが、師匠である日野氏と出会い、自分の因縁を知った。そして得度の道に入り、お慈悲を頂戴した。冨田氏は「縁」という言葉でいろいろな出来事を表現している。「縁」によって自分と巡り合った人を導くのが、前世での因縁を切る方法であった。民間宗教者はいわゆる寺の「坊さん」ではなく、些細なことも寄り添って親身になってくれる、人生の万相談所でなければならない、という考えを持っていた。自分の経験もあり、今寺に求められているのは「葬儀による救い」なのだと考え、寺の方向性を替えた。


謝辞
 本論文の執筆にあたり、地蔵寺住職冨田覚聖氏には大変お世話になりました。お忙しいなか、日野氏やご自身のお話をしてくださいました。また貴重な資料もお貸しくださいました。調査にご協力いただいた地蔵寺の皆様にこの場を借りて、心よりお礼申し上げます。



1)木原覚恵上人と同覚法上人親子が修行霊験中、お告げをあずかり一念発起して、身語聖進行の流布と根本道場の整備、興隆を祈念して、中山一之滝場の霊石に坐禅し、不動三昧の念仏観法を10余年修法して、仏力加被の霊験を得た。そこで昭和5年4月、佐賀県三養基郡基山町に「光明寺」と称号して教えを宣布した。昭和15年5月、寺号を「本福寺」と改め、高野山真言宗の別格本山となり、昭和31年3月、真言宗泉涌寺派九州総本山。昭和50年3月、泉涌寺派を離脱し、同年9月、光明念仏身語聖宗設立。昭和52年2月28日、宗教法人。(『新宗教辞典』:82-84)


参考
松野純孝編『新宗教辞典』1984廣済堂
冨田覚聖『信仰十余年を省みて 日野弘眞導師遺稿』1977