関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

郷くんちと町ぐんち―長与町の獅子舞・浮立と長崎くんち―

社会学部 山根琴代

[目次]

序章

第一節 長与町と民俗芸能

第二節 郷くんちと町ぐんち

第一章 吉無田郷の獅子舞

第一節 郷くんちと獅子舞

第二節 長崎くんちとの関わり

第二章 岡郷の浮立

第一節 郷くんちと浮立

第二節 長崎くんちとの関わり

第三節 中川組

結語

謝辞

参考文献


序章
第一章 長与町と民俗芸能
 長与町役場政策推進課による「NAGAYO INFORMATION」パンフレットによれば、「長与町は、長崎市の北約10kmに位置し、東を諫早市、南を長崎市、西を時津町と接しています。北東に琴ノ尾岳をはじめとする標高300〜400mの山々、西に50〜150mの小丘陵、南に150〜400mの山々と、三方を山に囲まれ、北は波穏やかな大村湾に面し、町の中心部を長与川が南から北へ流れています。」
明治22年4月に町村制が施行され、9郷をもって自治体が組織され、人口約5千人の長与村が、昭和44年1月の町制施行の時点で、人口13,504人の町となりました。本町は純農村地帯として、柑橘栽培が主体として発展を続けてきましたが、昭和45年頃から長崎市街地が北部へ伸びるに伴い、住宅都市としての要素が高まり、宅地化が進みはじめました。昭和46年3月に新都市計画法による市街化区域等が決定され、これを機会に町では、農業と自然と住宅地が調和した人間性ある町づくり、『農・緑・住』を柱として各種の事業に取り組んできました。その中でも、有効な土地利用計画と生活環境整備を図るため、昭和47年から土地区画整理事業、昭和48年度から公共下水道事業に着手しています。都市化とともに、町の人口も急増し、昭和45年当時と比較すると、昭和55年で2.1倍、平成2年で2.4倍、平成12年で2.9倍、平成22年で3倍となっており、ここ数年は横ばいとなっています。」(長与町ホームページhttp://webtown.nagayo.jp/machi_syokai/konnamachi/gaiyou/index.html)現在、42638人が長与町で生活している。(平成28年1月31日現在。長与町ホームページhttp://webtown.nagayo.jp/gyoseijoho/toukei/jichi_jinkouhyou/28_01.html

写真1 地図(長与町役場政策推進課「NAGAYO INFORMATION」パンフレット)
 長与町には民俗芸能が数多く存在する。それらは長い年月、地域の人々によって守られ、受け継がれてきた。舟津の川船、斉藤郷の竜踊、岡郷の浮立、なぎなた踊り、本川内郷の琴ノ尾太鼓、西高田のにわか、平木場郷の浮立、吉無田郷の獅子舞、道ノ尾の獅子舞と、「ながよインフォメーションマップ」にも記されている。

写真2 ながよインフォメーションマップ(長与町役場政策推進課「NAGAYO INFORMATION」パンフレット)
また、吉無田郷にあるJR長与駅の壁面には、町花である梅の花の他に、獅子舞が描かれたステンドグラスがはめこまれている。

写真3 JR長与駅のステンドグラス
他にも町を歩いていると、様々なところで芸能をモチーフにしたものが見られた。

写真4 地面に埋め込まれた吉無田獅子舞のタイル

第二節 郷くんちと町ぐんち
 くんちとは、長崎県内各地および西九州各地における秋祭りに対する呼称である。長崎では、中でも田舎のくんちは郷くんち、長崎くんちは町ぐんちと呼ばれている。(注1)長崎伝統芸能振興会によれば、長崎くんちとは、10月7日〜9日の3日間に諏訪神社でおこなわれる秋の大祭である。寛永11年(1634年)に丸山町、寄合町の2人の遊女が、諏訪神社神前に謡曲「小舞」を奉納したことが長崎くんちの始まりと言われている。異国情緒あふれる奉納踊りは、江戸時代から豪華絢爛な祭礼として評判だったようだ。この奉納踊りは、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
内容は、10月7日・前日は、踊町と呼ばれる当番町が諏訪神社やお旅所(元船町)、公会堂前広場で踊りを奉納したり、長崎の町中に囃子や踊りを呈上してまわる「庭先まわり」を行う。なお、踊町は、7年一巡のシステムになっており、全踊町が7つに区分されている。また、神事としては、諏訪神社から3体の神輿がお旅所へ渡御する「お下り」がおこなわれる。10月8日・中日は、踊町は前日と同じように八坂神社や公会堂前広場で奉納踊りがなされたり、庭先まわりがされたりする。また、例大祭湯立神事など重要な神事が神社によっておこなわれる。そして10月9日・後日は、踊町によるお旅所や諏訪神社での奉納踊り、庭先回りの他、神輿がお旅所を出発して諏訪神社に還御する「お上り」がおこなわれる。
なお、「くんち」の語源は、「諏訪神社の秋の例大祭がおこなわれる旧暦の9月9日(重陽節句)の「くにち」から「くんち」となったとする説が一般的」(長崎くんち塾,2011)である。町ぐんちは「見ている人が本物だ。」と出演者は言う。観客の盛り上がり方が郷くんちとは全然違うからである。出演者にとって町ぐんちに出ることは大変名誉なことであり、それがモチベーションにもなっている。

第一章 吉無田郷の獅子舞
第一節 郷くんちと獅子舞
 北部は長与駅周辺、また嬉里郷から続く市街地により、都市化が進んでいる。南部の山地には青葉台、長崎サニータウンなどの住宅団地が広がり、高田郷・まなび野、長崎市女の都と合わせて住宅団地が密集する地域であり、人口も多い。また、東部には三根郷から続く長与ニュータウンの一部がある。現在、吉無田郷には3343世帯、人口8633人が生活している。(平成27年12月31日現在。長与町ホームページhttp://webtown.nagayo.jp/gyoseijoho/toukei/jichi_jinkouhyou/28_01.html
吉無田獅子舞の起こりは、言い伝えによると「文化文政の頃(1804〜29)、長崎深堀の阿茶さん(唐人)から伝授されたという説と、矢上中尾村(現在の長崎市田中町)から習ったという説がある。」(長与町ホームページhttp://webtown.nagayo.jp/machi_syokai/konnamachi/kyodogeinou/kyodogeinou.html)詳しいことはわかっていないが、「江戸時代は、戸数70戸に満たなかった吉無田郷で本浮立を仕立てることは困難であり、それにかわるものとして獅子舞を導入したのだろうと思われる。」(長与町ホームページhttp://webtown.nagayo.jp/machi_syokai/konnamachi/kyodogeinou/kyodogeinou.html)矢上中尾村には享和2年(1802年)銘の鉦が現存しており、少なくともそれ以前から継承されていたものと思われる。
獅子は悪魔を払い、五穀豊穣、家内安全、お家繁盛を守るといわれ、旧暦10月13日の氏神様(摩利支尊天王神社)祭礼の日のほかに、雨乞い、半夏、祇園様、八朔の節句などで上演されてきた。現在でも、毎年摩利支尊天王神社に奉納している。戦前は、大浦くんちや諫早くんちなどの郷くんちにも出演していた。また、昭和46年の全国青年大会郷土芸能の部に県代表として出場し、優秀賞を受賞するなど、戦後も各種の芸能大会に出場している。さらに、戦前・戦後を通じて町ぐんちにも出演している。
踊りは、「月の輪」を皮切りに、続いて子どもの「玉使い」に誘われて獅子が登場する。獅子は、1頭を2人1組で操り、1人が頭と前脚、もう1人が胴と後脚の部分を受け持ち、太鼓、笛、鉦の音に合わせて踊る。まず前半部分は、2人の獅子使いが呼吸を合わせて、耳かきや駒転び、蚊を追い払う動作など、獅子の所作をユーモラスに表現した踊りを巧みに組み合わせて踊る。そして、クライマックスでは、大太鼓の上に飾られた牡丹の花に狂い乱れる「花しぶり」、最後は「牡丹返り」という大技で締める。それらの曲芸にも似たダイナミックな踊りゆえに、吉無田獅子舞は「暴れ獅子」とも言われている。
 現在、吉無田獅子舞保存会は10代から60代までの計76名で構成されている。会則などは特に設けられていないが、誰でも保存会に入れるというわけではない。例えばリズム感がなければしゃぎりはできないし、体力がなければ獅子使いは務まらない。また、活動自体がボランティアであり、踊りもアクロバティックな動きであるだけに怪我をすることも多々ある。和を乱されては困るので、全く知らない人を保存会に入れることはない。その為、現在の構成員は親子などの身内が多く、その他は職場や消防団ソフトボールチームなど、もともと何らかのつながりがあった人たちによって構成されている。

第二節 長崎くんちとの関わり
 前述のとおり、吉無田獅子舞は戦前から町ぐんちに出演している。吉無田に残っている資料によれば、最も古いのが昭和23年の玉園町(当時の上筑後町)の獅子踊りとしての出演である。翌24年には大井手町の獅子踊りとして2年連続で出演している。その後、昭和58年の町ぐんちに34年ぶりに玉園町の獅子踊りとして出演し、その後は毎回玉園町として出演している。しかし、毎回出られると決まっているわけではなく、踊り町が回ってくる年の1年前に玉園町から依頼され、翌年に正式に出演が決定する。そして4月から練習が始まる。
平成17年以前は玉園町に踊り手は1人もおらず、踊り手はすべて吉無田から出されていた。踊りに関することは全て吉無田に任されており、練習なども吉無田郷にある稽古場で行われていた。平成17年の町ぐんちの際に、「町ぐんちに出たい」という子どもが出て、初めて玉園町から踊り手が出された。その際玉園町の子どもが演じたのは子獅子で、その後も平成24年の町ぐんちでは、前回の子獅子に加え、玉つかいも演じられた。玉園町とは、以前は7年に1回だけの交流であったが、平成24年頃から、「普段から交流していきましょう」ということで年に1〜2回、交流の場を設けている。
 平成3年の町ぐんちでは、それまで1頭獅子で踊っていたものを2頭獅子に仕立て、平成10年の町ぐんちでは親獅子7頭を披露、平成17年と24年には子獅子2頭を登場させている。また、町ぐんちでは奉納踊りに時間制限が課せられているため、吉無田獅子舞の本来の踊りを全て披露することはできない。そのため、前半の動物の所作を表現した踊りを短くし、後半のダイナミックでアクロバティックな動きの踊りを多く入れるなど、観客が喜ぶ踊りを追求している。

写真5 倉庫に保管された獅子(左)と子獅子(右)
現在、保存会の会員76名のうち、踊り手は16名である。そのうち8名が吉無田郷外の集落から来ており、そのうち4名は長崎市内から来ている。全く知らない人を保存会に入れることはない、ということは先にも述べた通りだが、町ぐんちでの踊りを見て、「吉無田で獅子踊りをしたい」と長崎市内から人がやって来ることもあった。現に8名の集落外に住む踊り手たちは、もともと何らかの繋がりがあったにしろ、町ぐんちでの踊りに魅せられて入会を希望したのである。


第二章 岡郷の浮立
第一節 郷くんちと浮立
 琴ノ尾岳の西麓に位置し、大村湾に突出する半島状の地形が広がる。斉藤郷の崎野との間に長与港がある。中央部の満永周辺に埋立地があり、長与総合公園などの公共施設が並ぶ。国道207号沿いに集落が並び、浜崎は区画整理が行われており、住宅が多く立ち並ぶが、他の集落、特に半島部は人家もまばらである。ミカン、イチジク、ビワを生産する。また、堂崎には三菱重工業長崎造船所があり、釣りの適地でもある。現在、岡郷には1519世帯、人口3973人が生活している。(平成28年1月31日現在。長与町ホームページhttp://webtown.nagayo.jp/gyoseijoho/toukei/jichi_jinkouhyou/28_01.html
 「戦国時代、龍造寺隆信大友宗麟と戦い、まさに敗れんとしたとき、佐賀の豪族鍋島平右衛門は、一族郎党に鬼の面をかぶらせ、笛・鉦・太鼓の音勇ましく大友勢に撃ちかかり敗走させたという。この戦勝祝いに笛・鉦・太鼓に合わせて踊ったことから浮立が起こったといわれている。」(長与町ホームページhttp://webtown.nagayo.jp/machi_syokai/konnamachi/kyodogeinou/kyodogeinou.html長崎県内では、類似するものも含めると176件の浮立が確認されているが、その広がりは諫早市北高来郡を起点に大村市東彼杵郡から佐世保市北松浦郡へと広がり、もう一方では、南高来郡島原半島へと展開する。岡浮立は約200年の歴史をもち、諫早浮立の流れをくむと言われている。岡浮立は行列を組んで踊る行列浮立であり、出し物は先頭から、傘鉾・カラ・ヤバコ・ササラ・ネツヅミ・カケ踊り・太鼓・鉦の9部門から成る。「昔から町の祝賀行事や雨乞い、稲の虫追いなどに催され」(長与町ホームページhttp://webtown.nagayo.jp/machi_syokai/konnamachi/kyodogeinou/kyodogeinou.html)、その伝承には岡郷民がこぞって参加するため、千人浮立と言われてきた。しかし、保存会会長の前田宏幸氏が幼い頃、岡浮立は途絶えつつあった。昭和41年、前田氏が20歳になった頃、「なんとか継続しないと」という思いで前田氏を中心に勇姿が集まった。以来、会員集めに勤しんでおり、現在は裏方含め約200名で担っているが、その数は減少傾向にある。

第二節 長崎くんちとの関わり
 岡浮立と町ぐんちとの関わりは傘鉾にある。

写真6 岡浮立の傘鉾
傘鉾が岡浮立の出し物の1つであることは先にも述べた通りだが、町ぐんちでの傘鉾は、「踊町の行列の先頭を1人の傘鉾持ちに担がれて進むもので、オリンピックの入場式のプラカードと国旗を合わせた役割を果たしている」(長崎くんち塾,2011)。いわば町のシンボルマークのようなものである。
その構造は、「丸い傘のような台の上に飾られているものを、傘鉾の『飾り』または『だし』という。輪には丸輪やしめ縄、蛇籠をかたどったものがある。丸輪は本体が籠で黒繻子や黒ビードロで包みこんだもの、しめ縄型は籠で形を作り、これにわらを一本一本貼り付けたもの。飾りが鳥居や神社にゆかりのあるものはしめ縄になる。[中略]輪の下に布が幕のように下げられている。この幕を『垂れ』または『さがり』という。垂れの内部には、笠に差し込まれた心棒があり、これに横木が2本あり、うこん木綿の布団をあてた上の木を肩にあて、下の木をにぎって担ぐのである。傘の上には、鈴をぶらさげ、一歩進むごとに、『ちりーんちりーん』と鈴の音が響く。」(大田,2013)

写真7 傘鉾の構造(長崎伝統芸能振興会「長崎くんちの栞」)
傘鉾持ちは踊町の中から捻出されるのではなく、岩屋・川平・三川・柳谷・田手原・本河内の6地区の人たちによる長崎傘鉾組合が踊町から依頼をうけて受け持っている。このうちの柳谷町の中川組に岡浮立の傘鉾持ちが加盟し、町ぐんちで傘鉾を担いでいる。平成12年、現中川組棟梁の中川禎浩氏が長与町舟津に指導に来ていた際、「岡郷には町ぐんちで踊っても恥ずかしくない人がいる」と聞いたのをきっかけに、現在でも岡浮立から4名が中川組に加盟している。
 先にも述べたが、岡浮立の担い手は減少傾向にあり、人員集めに勤しんではいるもののその問題は深刻化している。しかし、傘鉾だけは町ぐんちに繋がっているため、「やりたい」と言って来る人がいる。また前田氏によると、岡郷から町ぐんちの傘鉾持ちが出るまでは、長与町の人々で町ぐんちを見に行く人も少なかったが、自分たちが町ぐんちに出るようになってから長与町の人々も町ぐんちを見に行くようになったと言う。

第三節 中川組
 中川組は現棟梁の中川禎浩氏で3代目で、親から子へとその座は受け継がれてきた。現棟梁の中川禎浩氏は、父親が病気を患っていたこともあり、20歳くらいの頃から傘鉾組合の棟梁の集まりに参加していたという。組合名は地区名をとって呼ばれることがほとんどだが、中川組の組員は、自身のことを柳谷組とは呼ばず中川組と呼んでいる。以前は組員が町内に住んでいたが、現在柳谷町に住んでいるのは棟梁の中川氏のみであるからだ。現在組員は14名で、長与町時津町などから来ており、岡浮立の傘鉾のようにそれぞれ郷くんちで活躍している人が多い。他の5つの傘鉾組合に比べると中川組の組員の数は多い。傘鉾は7人1組で持つので、中川組からは2組つくることができる。
現在、奉納踊りを行う踊町は43ヶ町あり、毎年5〜7ヶ町ずつ回ってくる。6ヶ町の年は傘鉾組合もちょうど6組であるため、それぞれ1ヶ町ずつ担えばよい。7ヶ町の年は、以前は6組からそれぞれ1〜2人ずつ出し寄せ集めの1組を作っていたが、現在では中川組から2組出し、2ヶ町を担っている。5ヶ町の年は、話し合いでどこが出ないか決めるが、現在は組合制度があり、どの踊町をどの組が担うかが決まっている。一般に傘鉾の重さは100kg以上、大きさは、傘の直径約2m弱、高さ3〜4mであるが、踊町によって、重さはもちろん、担いだ時の感触などが大きく異なり、同じ傘鉾の方がやりやすいため組合制度によって固定された。現在中川組の担当は、興善町・榎津町・玉園町・紺屋町・万屋町・西古川町・小川町・五嶋町・馬町・今籠町の10ヶ町である。

写真8 中川組が受け持った10ヶ町の傘鉾をパネルにしたもの
中でも万屋町の傘鉾は、中川禎浩氏の父親や祖父、つまり中川組棟梁が代々担いで来たこともあり、特別な思いがあると言う。中川組の中で誰がどの傘鉾を持つかは、例えば重さに強いなど、それぞれの得手不得手を考慮し決めている。あるいは、当日は現地までタクシー移動のため、便宜を図って住んでいるところが近い者同士7人を同じ組にしている。
 7人1組といっても、7人で一斉に傘鉾を担ぐわけではない。実際に担ぐのは1人ずつ、順番である。では、担いでいない時は何をするのか。「長い垂れで覆われた傘鉾は、中から前が見えないので、紗と呼ばれる竹の先に小旗を付けたもので傘鉾を誘導する。その先導役を紗振りという。」(大田,2013)7人のうち1人はこの紗(シャ)振りを担い、傘鉾を誘導する。また、町のシンボルマークである傘鉾を倒すなど、あってはならないことで、もし倒してしまった場合は、町内には出入り禁止になってしまう。それは傘鉾持ちにとって大変不名誉なことである。そのため、実際の担ぎ手と紗振り以外の5人も、不測の事態に備えて気を張っている。練習でも踊町の傘鉾は持たせてもらえず、実際に担ぐのは10月4日のリハーサルである「人数揃い(ニゾロイ)」と本番だけである。
現在、町ぐんちでの傘鉾の出番は、諏訪神社・お旅所・八坂神社・公会堂前広場などの奉納場所である。いずれも踊町による奉納踊りが行われる前に、傘鉾の奉納が行われる。以下は諏訪神社踊り馬場での傘鉾の奉納についての記述である。「最初に棟梁が清めの塩を傘鉾に撒いてから、傘鉾を回し始める(清めは、傘鉾の垂れの布地を傷めないように塩は用いず、あらかじめ清祓をうけた切弊(キリヌサ)が使用される)。傘鉾は3回の演技までが奉納で、その後が余興となり変化のある演技を行う。」(土肥原,2014)1回目の演技を1番、2回目を2番、3回目を3番と呼ぶ。
まず1番は力の限りゆっくり回る。速く回るのは勢いづいて回りやすいが、ゆっくり回るのには大変力がいる。これは、神様によく見てもらい、傘鉾に乗ってかえってもらうための大事な舞である。2番は、ちょこ走りという歩き方で、1番よりも小さく速く回る。ちょこ走りは鈴(リン)を鳴らさないための歩き方である。そして3番も同じくちょこ走りで、2番よりも大きく回る。ここまでが儀式である。儀式といっても、各組によって回り方は異なり、それぞれ代々先輩から受け継がれている。3番が終わると「大きく輪をかいて回れ」という意味の「フトーマワレ」の掛け声がかかり、4回目の演技、4番が始まる。3番までは右回りだけであるが、4番以降は左回りも加わる。中川組では、左右どちらから始めてもよいが、終わりは右回りと決められている。そして5回目の演技、5番である。5番が最も派手な回り方で、左右に何回転もする。
「3体の神輿に乗られるその次の神様を乗せることができるような舞を」と中川氏は言う。回り方もそうだが、傘鉾の持ち方も各組によって異なる。斜めに持つ組もあるなかで、「神様によく見てもらうためにまっすぐでないといけない」と正面を意識して持っている。これらの傘鉾の奉納は、各町から「3分でやってほしい」「5分でやってほしい」と時間を定められ、その中で収めなければならない。これは、1つの踊町にあてられた時間が30分と決められているからである。また、紗振り以外の6人がどのような順番で担ぐかは、現在はみんなが最も難しい回し方ができるようになったため、担ぐ前にじゃんけんをして決めたりする。
 先輩から代々受け継がれてきたのは傘鉾の回し方や持ち方だけではない。例えば、衣装は町からの借り物であるため、ベタッと座ったり膝をついたりしてはいけないと厳しく言われた。また、茶髪や長髪、ピアスは禁止、時計も身につけてはいけない。会則なども特にないが、「人ができないことをするから、酒をたくさん飲め、ごはんをたくさん食べろ」とはよく言われたという。
 各町との関わりは、ここ5年くらいは、人数揃い以外にも6月1日にある小屋入りで、出演者の一員として諏訪神社で清祓を受けている。また、鍋洗いと呼ばれる、町ぐんちの1ヶ月後に行われる各町の打ち上げにも呼ばれることがある。町によっては、アーケードなどに傘鉾を飾る町もあるため、その際は傘鉾の組立や解体なども受け持っている。また、「昭和39年(1964)までは出し物と同じように3日間傘鉾呈上の庭先まわりをおこなっていた。担ぎ手の力量は今以上に必要であった。」(土肥原,2014)庭先まわりとは、「神前に奉納した縁起のいい演し物を、氏子に『お裾分け』して披露呈上するもの」(長崎くんち塾,2011)である。現在は行われていないが、中川氏は7人1組であるのを10人1組にするなどして、庭先まわりもしたいと言う。


結語
 長崎市周辺の郷村が、しゃぎりや傘鉾持ち、あるいは奉納踊りなどで町ぐんちに関わっているということはこれまでも明らかにされてきた。本論文では、長崎市郊外の長与町に焦点を当て、以下のことを明らかにした。
・町ぐんちに出るということは大変名誉なことであり、そのことがモチベーションにもなっている。それほど、町ぐんちは長崎市周辺の郷村の人々にとっても特別な祭りである。
・郷くんちでは人員不足の問題が深刻化している芸能もあるが、町ぐんちでの踊りを見た人が「やりたい」と市内などの集落外からやって来ることもある。町ぐんちによって、市の郊外から人が集まるだけでなく、このように、逆に市内から周辺の郷村に人が流動することもある。
長崎市周辺の郷村が町ぐんちに出ることによって、これまで町ぐんちに対して関心のなかった周辺の郷村の人々も足を運ぶようになった。


1)「く」が濁るか濁らないかで統一感がないが、これは中川禎浩氏による聞き取り調査に基づき、そのままの表現をとっている。

謝辞
 最後になりましたが、本論文の執筆にあたり協力してくださった皆様には大変感謝しております。貴重なお時間を割いてお話をしてくださった吉無田獅子舞保存会の皆様、岡浮立保存会会長の前田宏幸様、中川組棟梁の中川禎浩様、本当にありがとうございました。また、本論文では触れはしなかったものの、上記以外の方々にもお話を聞かせていただきました。
 皆様の協力なしでは本論文を執筆することはできませんでした。お力添えいただいた全ての方々に、この場を借りて心よりお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
長与町役場 政策推進課「NAGAYO INFORMATION」
長与町ホームページ「町の概要」(2016年2月16日取得,http://webtown.nagayo.jp/machi_syokai/konnamachi/gaiyou/index.html
長与町ホームページ「自治会別・郷別人口表」(2016年度)(2016年2月16日取得,http://webtown.nagayo.jp/gyoseijoho/toukei/jichi_jinkouhyou/28_01.html
・長崎伝統芸能振興会「長崎くんち」(2016年2月16日取得,http://nagasaki-kunchi.com/
長崎くんち塾『「もってこーい」長崎くんち入門百科』,2011,株式会社長崎文献社
長与町ホームページ「長与の郷土芸能」(2016年2月16日取得,http://webtown.nagayo.jp/machi_syokai/konnamachi/kyodogeinou/kyodogeinou.html
・大田由紀『長崎くんち考』,2013,株式会社長崎文献社
・丹羽漢吉『長崎くんちの栞』,2006,長崎伝統芸能振興会
・土肥原 弘久『諏訪神社長崎くんち」取材記録 平成26年番』,2014,ゆるり書房