関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

浦上で生きる畳店―畳職人の民俗誌―

社会学部 渡邉 晴菜

目次
はじめに
第一章 堤畳店
第一節 来歴
第二節 畳職人の世界
第二章 中山好人商店
第一節 来歴
第三章 鵜飼畳店
第一節 来歴
第二節 二代目から現在へ
第四章 たいら畳店
第一節 来歴
第二節 これからの長崎の畳店
おわりに
謝辞
参考文献


はじめに
 畳は日本の文化であり、時代の変遷と共に生きてきた。今回は長崎をフィールドとして、そのような畳を職とする人々に焦点を置き、聞き取り調査を行うことにした。
 長崎市には畳店が70件ほどあり、長崎県畳工業組合長崎畳四支部会に所属している店は53件である。その中でも所属数14件を占める長崎北支部にあたる浦上地区に注目した。本論文では、『堤畳店』『中山好人商店』『鵜飼畳店』『たいら畳店』に訪問し、お店のファミリーヒストリーを中心に畳職人がどのように生きてきたのかについて論述していく。

第一章 堤畳店
第一節 来歴
 堤畳店は明治時代に創業した店である。寺の過去帳から初代であると推測される堤次平氏佐賀県の多久で畳業を始めた。堤和子氏から六代目堤英明氏へ「幕末に仕えていた多久藩の殿様には3人娘がおり、多久の家老である南里、堤、副島の3家に嫁がせた。」という内容が書かれた手紙が届いたそうだ。その殿様の娘が嫁いできた際に授けられたと思われる日本刀が家にあったが、堤英明氏の奥様の意向で処分され今はない。その後、理由は不明であるが戦前に五代目堤繁氏の代で長崎市浜口町へと移る。
           
写真 1 原爆投下前にあった堤畳店の場所                 

図 1 堤家の家系図を示したもの
 五代目堤繁氏の息子にあたる堤正明氏の記憶によると、戦時中小学生であった正明氏は佐賀の親戚のもとへ学童疎開する。一方、繁氏は長崎県長与町本川内に疎開しており、通いで畳業を行っていた。当時は、県庁の近くに畳組合があり、そこで畳職人が集まり仕事をしていたそうだ。その後、原爆が浦上地区に投下されたため店にあった資料や道具は全て燃えてしまう。そして昭和22年頃に長崎市平野町に店を建て、現在に至る。

第二節 畳職人の世界
 正明氏が中学生のころ、堤畳店には職人や弟子が多くいた。弟子は住み込みで修業し、3年ほどで一人前になる。手縫いから教わり、次に補修やその他の技術を学ぶ。住み込みであったため、朝昼晩のご飯を共に食べ家族のようであったそうだ。正明氏は幼いころから親の仕事を見て育ち、畳を運ぶ手伝いをしていた。しかし、畳の仕事を兄が継いだこともあり、先生の紹介で長崎の呉服屋に勤めた。その後呉服屋の仕事を辞め、20歳のときに畳職人の道を選ぶ。当時は機械ではなく手縫いであったため、その技術は親と店にいた職人から学び、職人と畳を仕上げる時間を競争したりしていたそうだ。そして、職人は大阪で働くため店を出て行き、弟子は佐賀や大村に職人として帰る人や、樫山商店(長崎市北陽町)のように独立する人もいた。このような技術の伝承はもちろんのこと、終戦後から使われているものさしやくわい、しめ鉤など道具も受け継がれている。

写真 2 上:くわい 下:しめ鉤 

写真 3 終戦後から使われているものさし
 畳職人の世界も時代と共に変化している。ここではお客さんとの関係について取り上げる。今はお客さんからの注文を受け、その家に行き、畳を店に持ち帰る。そして、店で作業を終えてから再びお客さんの家へと納めに行くという流れである。その際に会話はほとんどなく、あいさつ程度で終わってしまうそうだ。一方昔は注文を受け、道具や材料を全て持っていき、その家の軒先や庭、無い場合は家の中で作業を行っていた。そのため、お客さんと会話する機会を多く持つことができ、コミュニケーションがとれていたことでお客さんの顔をすぐに覚えられた。しかし今は、そのような会話の機会が少ないため信頼関係を築くことが大変で、すぐに値段の話になってしまう。以上の事から、会話することで自然と距離が近づき、信頼関係が生まれることで次の仕事へとつながっていた昔はよかったと正明氏は言う。
 また、今では市役所や県の仕事をするために畳製作技能士という国家資格を取る職人が多い。その資格の実技試験は、手縫いで何時間もかけて行われる。この資格ができるまでは、競技会のようなものが行われていたが、今はほとんどない。

写真 4 昔の競技会の様子
 次に、変化として畳店の減少について取り上げる。フローリングが誕生し住宅に洋室が増える一方で、畳部屋やイグサが減少していることなど様々な理由により、昔に比べ需要が減り店を閉める畳店が増えている。このような今を生きる堤畳店の七代目西真功氏は、様々なイベントに参加している。「長崎手作り雑貨フェア」に参加した際には、畳のへりで作った小物を出展した。例えば、長財布やカードケース、ハンカチケースなどである。これらは全て真功氏と家族の手作りであり、本を見て畳のへりでどのように作るか考えたそうだ。この畳のへりも近年では、サンリオのキャラクターやくまモンなどの柄もあり、種類が多様になった。このイベントは一度の参加で終わったが、「ものづくりフェスタ」には毎年畳工業組合の青年部として参加している。畳のへりで作ったコースターやミニ畳を作って販売していた時期もあったが、今は手縫いの実演やミニ畳の体験・見学を行っており人気である。このように畳業界が抱える問題に対して真功氏は、ものづくりの楽しさや大切さを伝えるイベントに参加したり、畳を利用した小物を作ったりすることで畳のすばらしさを伝えている。

写真 5 左:カードケース、真ん中:ティッシュケース、右:ミニ畳
 一方で、世代が変わっても残っているものがある。それは畳店同士のつながりであり、ここでは特に浦上地区のつながりに注目する。繁氏の代の時には組合とは別に畳友会という集まりがあり、畳職人が家に来てお酒を酌み交わしていた。また、繁氏が消防団に参加していたこともあり、その仲間同士のつながりもあったそうだ。このようなつながりは今でもあり、諫早で行われる寄合の出席率は高く、北支部はよくまとまっていると正明氏は言う。

写真 6   昭和60年1月 畳友会 五島旅行

第二章 中山好人商店
第一節 来歴
 中山好人商店が創業するまでを知るためには、明治時代まで遡る必要がある。中山好人商店の始まりを築いた田中長一氏は仕事を探しに島根を出発し、長崎にたどり着いた。そして、明治27年に田中商店を創業する。当時は指物業を初めに行っており、その後ガラスや畳を扱い始める。畳業においては職人を雇っており、田中商店から独立していった従業員は多いそうだ。この後、昭和7年に二代目として田中正行氏が継ぎ、店を大きくしていった。
 田中長一氏には14人の子どもがおり、そのうちの9番目のご息女にあたる田中きくえ氏と結婚した方が中山好人氏である。つまり、のちの中山好人商店の創業者である。
 中山好人氏は長崎の三菱造船所で働いていたが、その後田中きくえ氏と共に造船業で上海の江南造船所へ行くこととなる。終戦後、満州から引き揚げ長崎へと戻ってくるが、当時長崎で仕事がなかったため、好人氏は義父にあたる田中長一氏の畳業の仕事を継ぐことになる。そして田中商店ではガラスやサッシを中心に取り扱い、のちに株式会社タナチョーへと発展する。
   
写真 7 中山好人商店の外観
 それから好人氏は独立し、中山好人商店は創業66年となる。店を創業するまでに浦上地区を転々とし、様々な人のお世話になって現在の長崎市城栄町に辿り着いたそうだ。そして好人氏のご子息である兄の正人氏が畳を、弟の直人氏がガラスとサッシを引き継いでいる。正人氏は京都の畳の学校で技術を学び、直人氏は神戸の叔母の下で学んだ。ご兄弟のどちらがどの仕事をするのかは好人氏によって決められ、代替わりが完全に行われるまでは好人氏がどちらの仕事も手伝っていた。好人氏が98歳で亡くなり、現在二代目としてご兄弟で店を営んでいる。

第三章 鵜飼畳店
第一節 来歴
 鵜飼畳店の創業者は鵜飼秋吉氏である。ここで、その歴史を知る前に鵜飼秋吉氏を初めとする鵜飼家のファミリーヒストリーを知る必要がある。
 岐阜県出身の秋吉氏は、おそらくその畳店が名古屋城の仕事をしていたからという理由から弟子入りし、名古屋で勤めていた。当時の働き方は丁稚奉公であり、道具は親方から借りて4年ほど手縫いを学んだ後、1年ほど御礼奉公として恩返しの気持ちを込めて無償で働いていた。
 戦前日本では、南満州鉄道株式会社(満鉄)の仕事のために建築関係や様々な技術を持った人々が満州へと海を渡った。このような時代に、秋吉氏は鹿島建設から「向こうで(上海)でいっぱい仕事があるよ。」とオファーがあり、昭和6年頃に家族で上海へと旅立つ。この仕事とは、「日本人が住むような施設がほしい。」という満州で働く日本人の要望に応えるため、社宅の中で使用される畳を作るということであった。材料は日本から持っていき、現地で作っていた。また、当時は長崎から上海へ出稼ぎに行く人が多くいたそうだ。
 昭和16年、のちに鵜飼畳店二代目となる鵜飼浩三氏は上海で生まれた。当時は上海租界で上海の中でも日本人だけの町があり、そこに日本人は住んでいた。地元の中国人を女中として雇っていたこともあり、その暮らしは良かっただろうと浩三氏は振り返る。また、秋吉氏は地元の中国人を男女ともに雇っており、縫うことはあまりせず配達などの肉体労働を任せていた。自動車はあまり無い時代であったため、大八車のようなもので運んでいたのではないかと浩三氏は言う。しかし、それでも仕事が間に合わないからと長崎から出稼ぎにきた畳職人も雇っていた。
 このような上海生活を経て、昭和21年頃に上海から引き揚げ岐阜へと戻ってくる。当時、浩三氏は小学校入学後少し岐阜で過ごし、すぐに長崎市の浦上地区にあった母親の実家へと家族で引っ越すこととなる。
 戦後、減反政策で米や稲があまりとれなかったことや長崎においては原爆の影響もあり、米も畳も全てが配給であった。「畳の材料の配給に関しては、県や市単位に材料が配給され、それを畳店にも分けてあげるようにと県や市などの役所の仕事をしていた畳店の下に優先的に運ばれる。その後、それぞれの実績に応じて他の畳店へと材料が分け与えられる。当時はこのような仕組みだったために、岐阜から長崎にきた秋吉氏は新参者という立場になり、実績のない畳店とみなされ材料が分けてもらえなかったのではないか。」と浩三氏は言う。また、材料をもらえなかった人は少なく、鵜飼畳店だけだったかもしれないそうだ。
 そこで、秋吉氏は畳業を続けることができないため、お菓子を作る仕事を始める。それは、せんぺいというメリケン粉を加工して作るお菓子である。せんぺいを作るために名古屋から長崎に機械を持ってきて、食料品がない時代であったためよく売れたそうだ。メリケン粉も配給されたものであり、一般の家庭の人が使い道に困り持ってきたメリケン粉で、秋吉氏が加工して売っていた。当時は砂糖がなかったため、サッカリンという甘味料を混ぜて味付けをしていた。店は鵜飼商店という名前でやっていたかもしれないそうだ。そして、個人相手だけではなく自分たちでたくさん作れるようになったため、現在の中華街の辺りにお菓子屋を売る店がたくさんあり、毎日持って行った。昭和25年頃になると、暮らしが良くなりまんじゅうなどせんぺいより良いものが普及する。そのためせんぺいの需要が減り、この仕事を辞めて鵜飼畳店(長崎市松山町)を創業する。

写真 8 鵜飼畳店の外観、鵜飼浩三氏
 この時にはちょうど統制が外れ、材料屋(卸屋)ができたため自由に材料を手に入れられるようになった。当初は鵜飼畳店より先を北に行くと田舎であったため、その辺り(長崎市川平地区)に住む農家の人が正月前になると店の前を通る際に、畳を数十枚単位で買っていったという。このようにしてお客さんの信頼を得た頃に、店近辺に家が建ちだした。
 長崎は坂の町であったため、当時は注文先の家まで材料を運ぶために馬を持っている人に借りて馬で運んでいた。また、材料自体は貨物列車で例えばイグサであれば熊本から出島まで運び、そこから三輪車で店まで運んでいた。
 こうして時代が進み、秋吉氏から浩三氏へと代替わりが行われる。浩三氏は21歳頃まで長崎で肥料販売に関する事務職をしていたが、今のままの稼ぎでは親の面倒を見られないと思い、畳の世界に入り職人となる。そして秋吉氏と共に仕事をしながら技術を学び、34歳頃にその時が来る。当時長崎では昔からいた地主が年を取り、持っていた土地を手放すということがあちこちで起こっていた。鵜飼畳店もまた、借地であったためそのような話が舞い込む。鵜飼畳店の場合、地主が長崎出身のカトリック神父であったため、教会に土地を売ったお金を寄付するという形で土地を処分するという話だったそうだ。こうして秋吉氏が「おれは歳だから、お前が継ぐなら買え。」と言い、浩三氏が二代目として引き継ぐこととなる。

第二節 二代目から現在へ
今から50年ほど前から畳業に機会が導入される。手縫いですべて行っていたのは浩三氏の代が最後だろうと言う。浩三氏が親から技術の伝承を受けた時と自らが伝承する時との変化としてはこの点が一番大きい。以前、浩三氏は弟子を1人とっていた。その方は毎熊氏といい、今は独立して「明日香」(長崎県西彼杵郡長与町)という店を創業している。その育成の様子は以下のとおりである。最初、1日に4枚ほど手縫いをさせる。次に、寸法取りを教えるために現場に連れていき、最後に特殊な畳の作り方を教える。昔は子供が多かったためベッドが多く、備え付きの押入れを二段ベッドにする家庭があった。その際、部屋に合わせて畳を敷くためあえていびつに作らなければいけなかった。また、へりなど材料の仕入れ方は教えないが、問屋が来る際に顔なじみになっておくことで独立した時に頼みやすいようにはしていたそうだ。
 機械の導入によって、道具や材料に関しても変化が見られる。浩三氏は道具には日付をつけており、昭和60年から使われている道具があった。昔、竹は狂いがないからと竹で作られた軽いものさしを使っていたが、今ではステンレス製のものを使っているそうだ。また、縫い針には3種類ほどあり、使う畳の厚みによって使い分ける。昔は注文先の家で作業を行っていたため、折れた時に備えて2本ほど余分に持って行っていた。この縫い針に対して、今の若い人は県や技能展などの出し物をする際に感謝の気持ちを込めて針供養を行うそうだ。
  
写真 9 竹とステンレス製のものさし

写真 10 縫い針
材料に関しては、昔の畳床は藁床であったが藁が取れなくなってきているため、20年ほど前から藁と藁の間に発泡スチロールを入れて軽量化する動きもあると言う。また、へりの柄の種類も多様になっているそうだ。

写真 11発泡スチロールの入った畳

写真12 店内にあるへり                

写真 13 へりのサンプル表
 畳店同士のつながりは今もある。昔は畳職人の誰かの家に集まっていたが、料理や片づけにおいて奥さんが大変だからと今は居酒屋で集まるそうだ。昔は浦上だけで畳店が20件ほどあり、家に入りきらなかった。また、終戦後できた長崎県畳工業組合に、昭和60年程前までは約200人が所属していたが、今では半数以下になった。このように、畳店が減り続けているという現状である。
その後鵜飼畳店は、更に代替わりが行われ現在三代目として鵜飼宏氏が引き継いでいる。畳店同士のつながりとして、宏氏は畳を運ぶ際に使う台車について話す。30年程前に、浦上地区(長崎市住吉町)にあった田崎氏という畳職人の方が鉄工所に作ってもらった台車があった。その後、田崎たたみ店が廃業し譲ってもらった台車を宏氏は今でも利用しているという。そして、田崎氏のご子息がまた畳業を始め、同じ台車を業者に作ってもらって使っている。上記で述べた、毎熊氏もまたこの台車を使っているそうだ。資材メーカーに畳を乗せる台車は売っているが、この田崎氏の台車が良いという。その理由は、田崎氏が当時の集合住宅などを回り、エレベーターに乗る際畳を縦にした時に大体の長さをクリアできる台車に設計しているからである。時々乗せられない場合もあるが、今でもほとんど乗せられるそうだ。このように実際現場で働く職人であるからこそ経験によって生まれるものがある。

写真 14  上記で述べた台車(鵜飼畳店で使用しているもの)

第四章 たいら畳店
第一節 来歴
 たいら畳店は、昭和6年7月に平政智氏によって創業される。政智氏は長崎県諫早市高来町にある実家で畳業と農業を営んでいたが、戦争が始まり中国へ行くこととなる。そして、中国で日本兵士のための畳に携わる仕事をしていた。現地では畳業者の人に「ここを手伝え。」と言われ、その際にさらに畳の技術を習得してきた。政智氏は鉄砲や人の命に関わるより、日本の仲間の暮らしを支えるこの仕事の方がいいと言っていたそうだ。その後、中国から引き揚げ諫早市の実家に戻る。そこで再び畳業と農業を行うが、お客さんが少ないため生活に困ると判断した政智氏とその姉は、畳業一本で長崎市の浦上地区へと出ていく。2年後、生活できるくらいお客さんが付いてきたため家族全員で浦上地区に移り住むこととなる。長崎畳工業組合は政智氏の代の時にできたため、古株であったそうだ。

写真 15 たいら畳店の外観
 政智氏には5人の子供がおり、その後二代目となる平敏光氏は5番目の三男にあたる。敏光氏の兄が畳業を引き継いだため、敏光氏は長崎の三菱造船所の職工として働いていた。しかし、その兄が畳業を辞めて三菱造船所で働きたいと言い出し、「兄弟二人とも継がないと親がかわいそう。」と思った敏光氏が6年間働いていた三菱造船所を辞め、畳業を引き継ぐことにする。こうして畳職人としての修業が始まるが、子供の頃から親の仕事を見ているため要領は分かっていたそうだ。政智氏は店に畳の機械があるにもかかわらず、敏光氏には機械は触らせず10年間全て手縫いでしていた。また、政智氏は車の免許を取っておらずリアカーのみで仕事をしていたため、お客さんは100件ほどであった。そして時代が進み、敏光氏の息子であるのちの三代目平和也氏も畳の道を進むことにする。和也氏もまた、アルバイトとして店の手伝いをしていた。和也氏が「畳職人になる。」と言った時に、敏光氏は大学に行くことを勧めるが、和也氏は「その4年間がもったいない。」と言う。これを聞いた敏光氏はせっかくするのなら、敏光氏の知らない技術も学ばせないといけないと思い、茨城県にある茨城県畳職人訓練校に修業に出させた。そして、たいら畳店に戻り現在三代目として引き継いでいる。
(左:平和也氏写真提供)
写真 16 茨城県畳職人訓練校での作品
 話の中で、畳職人であるからこその平家のファミリーヒストリーを聞くことができた。まずは猫を飼い始めた話を取り上げる。昔、たいら畳店は店の中に藁畳を置いており、藁畳の中には米が混じっていた。そのため、店の隣の空き家にいたネズミが食べに来ていたそうだ。それに困り、政智氏の代からネズミ対策として猫を飼い始めた。その後猫も代替わりし、現在は「みかん」という猫が家族の一員として店を守っている。

写真 17 たいら畳店の「みかん」
 次に、親子間での経験について取り上げる。政智氏は畳を手縫いする際に、縫った後針の先を外側に向けて抜くため一度和也氏は少し刺されたそうだ。このように政智氏は怖い仕事をしがちであったため、それを見た敏光氏と和也氏は針の先を内側にして抜くようにしている。また、敏光氏と和也氏はある畳の様子をバーコードと言う。というのも、安い畳はすぐ傷み、時間が経てば畳の表面の焼き方がまばらになる。この様子をバーコードに例えているのだ。他に、敏光氏と和也氏とでは畳を運ぶ際の担ぎ方が異なる。敏光氏は、畳を横にして腕と肩と頭で支えて運ぶ。一方、和也氏は畳を運ぶ際に使うための用具を利用するそうだ。しかし、運ぶ距離がある際は共に帽子を被り、その中にタオルを入れて、頭の上に乗せて運ぶ。そのため、職業病としてはひざや腰を痛めがちであり、身長も縮んだと話す。

   写真 18 敏光氏の運び方
  
   写真 19 和也氏の運び方(上:前から撮影、下:後ろから撮影)

写真 20 運ぶ距離があるとき

写真 21 長崎の坂道で畳を運ぶ様子(平和也氏写真提供)

第二節 これからの長崎の畳店
 たいら畳店では、「畳業は職人の仕事である。」と何度も強く強調した。機械が導入され、今は手縫いができない職人が多い。そのことを含め、「今は考え方が職人ではなく商売人の畳店が多い。」と敏光氏は言う。敏光氏によると、「お客さんに一枚の畳を長く使ってもらいたい。」という想いでお客さんとの信頼関係を大切にし、店の名前を代々守ってきた店もある。一方で、信頼について考えず安い畳を詐欺のような売り方で商売したり、材質を偽って説明したりする店がある。「このような仕事を絶対にしてはいけない。お客さんが『畳ってこんなにいいものなのだな。』と思えば、これからも畳の部屋は残り続ける。」と敏光氏は減りゆく畳に対しこのように話す。
 また、畳製作技能士の資格を取るために、手縫いを学ぶ人がいる。その指導免許を持つ和也氏は「長崎のやり方は本式にお客さんの家に入れる畳の縫い方としては最悪である。」と言う。そのため、指導の際にはこのやり方はあくまで試験用のものであり、実際にお客さんの家でやってはいけないと教える。長崎の場合、年配の職人がこのやり方で習ってきたため、だめなやり方もよいやり方として通してきた。それ故に、長崎は悪習ばかりであるそうだ。「この縫い方は地方によって異なり、地方独自でやるため、地方各地を回っていいところを取るべきだ。」と和也氏は話す。そのため和也氏は、様々なところへ足を運び畳について学んでいる。その例として、手床について取り上げる。手床とは、藁を編んだのちに重ね、その後手で縫って締める畳床の作り方である。昔は、道の通りに重ねた藁を置いて通行人に踏んでもらうことで圧縮していた。また、手床を作るのは丁稚である一番下っ端の仕事であった。長崎は原爆の影響で手床自体の現存が少ないため、見る機会がない。そこで、ほとんどの文化財の仕事がいくという荒川製畳所(山口県山陽小野田市)に何度も学びに行っている。
 このように畳業のこれからを考え、敏光氏は和也氏を茨城の学校へと修業に出した。そこで和也氏は、有職畳を作る技術を学ぶ。有職畳とは、伝統的な工法で作られた畳のことである。和也氏の作品の中に円形の畳があり、これを作るには円に縫ってへりを縮める必要があるが、この技術を知らない人が多い。

写真 22 様々な有職
 また、長崎の寺に仕事に行った時に使われていた有職畳は、お坊さんがわざわざ京都に注文しており、和也氏が作れると聞いて驚いていたそうだ。こうした経験から「長崎でもこのようなものも作っていかなければいけない。」と敏光氏は言う。
 
写真 23 お坊さんがこの上に座る

写真 24 八重畳

おわりに
 今回の調査では、長崎の浦上地区をフィールドとし、畳店の職人がどのように生きてきたのかを聞き取り調査することで以下のことが分かった。
・戦前から戦後にかけて、日本から中国へと渡った多くの日本人の住宅空間を作るために、長崎から中国へ畳職人として仕事に向かい、引き揚げた経験を持つ畳店が多い。
・同じ畳業であるが、そこに家族の歴史が加わることでその店独特の知識や語り継がれる経験があった。
・時代の流れと共に、変化するものもあるがそれとは別に続くつながりや信念があり、畳を残すために畳業界だけでなくそれぞれの店が趣向を凝らしている。

謝辞
 本論文を執筆するにあたり、たくさんの方々から大変あたたかいご協力をいただきました。度重なる訪問に快く応じて下さいました堤畳店の西真功さん、堤正明さん。突然の訪問にも関わらず、ご丁寧にお話をして下さった中山好人商店の皆さま。2度の訪問にも関わらず、時間をかけて詳しくお話をしてくださった鵜飼浩三さん、鵜飼宏さん、鵜飼智佳子さん。畳の作品や写真などを見せていただき、ご丁寧に説明してくださった平敏光さん、平和也さん。本論文が完成いたしましたのは、貴重なお時間を割いて調査にご協力していただいた皆様のおかげです。そして上記以外にも調査にご協力していただいた全ての方々に心より御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
・gooタウンページ「長崎市にある畳店」(2016年1月9日取得)
http://townpage.goo.ne.jp/result.php?min_gyo_code=Z371925&pref_code=42&city_code=201
長崎県畳工業組合長崎畳四支部会「加盟店一覧」(2016年1月9日取得)
http://n-4shibu.net/list.html
東京商工会議所中央区老舗企業塾」(2016年1月9日取得)
http://www.tokyo-cci.or.jp/chuo/shinise/reserch03/
・タナチョー「タナチョーの歩み」(2016年1月9日取得)
https://www.tanacho.com/09history/01nenpu.html
・荒川製畳所「手床」(2016年1月10日取得)
http://www.tatami-u.jp/tedoko.html