関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

映画館の記憶‐長崎市をフィールドとして‐

社会学部 廣瀬彩乃

【目次】

はじめに

1章 長崎と映画
(1) 長崎の映画史
(2) 『映画時代』

2章 セントラル劇場
(1) 映画館の衰退
(2) セントラル劇場

3章 映画館のこれから
(1) 映画と街づくり
(2) 映画館のこれから

おわりに





はじめに
 映画につながる技術は19世紀後半から、フランスのマレー、アメリカのマイブリッジ、ドイツのアンシュッツなど、多くの人々によって研究されてきた。そしてその後1893年エジソンがキネストコープを、フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフ・リュミエールという、現在のカメラや映写機と基本的な機構がほぼ同じ複合機(カメラ+映写機+プリンター)を開発し1895年にパリのカフェで初めて映画が上映された。そしてその2年後長崎で初めて映画が上映される。映画は現在でも私たちにとって身近な存在であり、娯楽として愛されている。そんな映画が1897年から現在まで118年間、映画は人々の記憶にどのように残っているのだろうか。本レポートでは長崎の映画史から現在も残る単館映画館セントラル劇場、そして映画と街づくりを取り上げる。

1章 長崎と映画
(1)長崎の映画史
 現在、映画館といえば大型ショッピングセンター内にあるシネコンが主流である。街の単館で映画を見ている人はどれくらいいるのだろうか。日本で1番最初に映画が上映された神戸でも現在、単館映画館は4つまで減ってしまった。単館の映画館には、シネコンにはない1つ1つの映画館に個性があった。では、長崎の単館映画館はどのようなものだったのかみていこう。
 日本では、映画館の始まりは芝居小屋であった。1865年長崎では八幡座が常設の芝居小屋として認可された。そして、長崎ではじめて映画が上映されたのは1897年(明治30年)であった。上映された場所は八坂神社の境内。神社は人々が多く集まる場所であったからだろう。世界ではじめて映画が上映されたのが1895年なのでその2年後には長崎に映画が入ってきていた。


写真1 長崎市内の八坂神社

写真2 初めて映画が上映された時の告知
 ではなぜ、そんなにも早く長崎に映画が入ってきたのだろうか。それは長崎という街の特質であると考えられる。長崎は、江戸幕府鎖国政策を行う中で幕府の直轄地としてオランダや中国と貿易を行っていた。そのため、海外との結びつきは強く、海外の文化や技術が入って来やすい街であった。そして海外の新しい文化や技術を受け入れる先進的な街であった。
 そして、八坂神社での上映から13年後1910年(明治43年)に長崎で最初の活動写真常設館(いわゆる映画館)として電気館ができた。その2年後、日本映画産業の始まりである日活が長崎出身の梅屋庄吉によって創設される。

(2)『映画時代』
 日本の映画人口のピークは1958年。日本映画産業の統計によると、年間の入場者数は11億2700万人。当時の人口は、約9200万人。一人が年に12回以上映画館に足を運んだことになる。
そして、長崎に映画館のピークが訪れたのは1955年(昭和30年)から1960年代(昭和40年代)であった。なぜ、この時期に映画館が増加したのだろうか。
それは、長崎の人口の変化に関係があると考えられる。終戦を迎えた1945年の長崎の人口は原爆の影響もあり142、748万人であった。それが1960年(昭和35年)には、344、153万人、1965年(昭和40年)には、405、479万人まで増加した。ここまで人口が増加した要因は長崎に三菱重工の造船所があり、石炭・水産が栄えていたため労働者の流入が多かったからである。そしてテレビや車などがまだ普及していない当時の人々にとって映画は今以上に娯楽であり日常的であった。大人だけでなく、子供もお小遣いを貰えばそれを握りしめて映画館に行くほど映画は当時の人々に愛されていた。
 映画館の外には映画の宣伝の看板で溢れており、各映画館にお抱えの看板屋さんがあった。開店の時には花が飾られ非常に華やかであった。当時の長崎市内は映画館数多くあったため、客寄せのために5千円札を氷の中に入れ、その氷が何分で溶けるかを予想し、当てた人にその5千円をあげるというパフォーマンスをするなど様々な工夫をしていたそうだ。
1958年に開館し、ニュース映画を中心として上映されていた長崎ニュース劇場では、120席の館内は通路までお客さんで埋まった。入場料は30円で現在の映画館の料金と比較すると驚くほど安い。(封切館はもう少し高かった。)映画のフィルムを映画館主の集まりで取り合うこともあったそうだ。映画配給会社の営業担当を接待して、いい映画を回してもらうのも大事な仕事の1つだったという。また、当時は映画館にも組合があった。上映映画のラインナップを書いた新聞を発行し月初めに映画館で配った。長崎県をカバーする長崎新聞では、映画の人気投票に参加した人に抽選で映画の招待券が当たるイベントの企画もした。そして、12月1日は映画の日とし組合に所属している映画館の従業員などを集めた盛大な宴会を開いた。

写真3 映画館で配られたチラシ
 セントラル劇場の前田氏によると、当時の映画館は人が溢れて画面が見えないということがしばしあった。現在の映画館は座席を自分で決めて見るが当時は指定席というものはなく座って見られないときは立ってみることもあったという。また、お正月は家族みんなで着物を着て映画を見に行くのが当たり前だったそうだ。現在では考えられない光景だ。家族で映画を見に行き感想を言い合う。家族だけではなく、当時は、一人で映画を見に行きロビーで知らない人と感想などを共有することもあった。そして、現在の映画館からは想像できないが、昼間から映画館のロビーでお酒を飲みベロベロに酔っぱらっているおじさんがいたという。
このように当時の映画館の在り方は今とは異なる部分が多くある。そしてもう一つ現在の映画館と大きく異なる部分がある。シネコンの映画館はどこも内装が似ている。映画を見に行きその映画の内容が記憶に残ることはあっても映画館そのものが記憶に残ることは少ないのではないか。しかし単館には一つ一つの劇場に個性があり、見に来る人々にも階級や年齢に特徴があった。それを以下のようにまとめた。

映画会社     作品の傾向・内容      観客層
東宝     怪獣・文芸・サラリーマン喜劇  都会の上流・中流
松竹     ホームドラマ・人情もの     都会・庶民
東映     時代劇からやくざもの      労働者
大映     時代劇・都会派の現代劇・文芸  都会
日活     アクション・青春もの      若者・学生
東宝    キワモノ            労働者

2章 セントラル劇場
(1) 映画館の衰退
長崎の単館映画館はテレビの普及やマイカーブームでしだいに衰退していくことになる。車が普及したことで様々な場所に出かけることができるようになり、人々の娯楽は多様化した。1960年代には30件ほどあった映画館も現在はセントラル劇場だけになってしまった。そこで閉館した単館映画館を写真と地図を用いてまとめた。

A 喜楽館→長崎東宝→ドラッグストア
B電気館→(映画館として変遷を経て)→長崎松竹→火災で焼失→大型ショッピングセンターのフロアに映画館(長崎松竹を併設)→シネコン進出によってネットカフェ
D第一映劇(洋画封切)→証券会社
E長崎大映→パチンコ(大映倒産)
F中央映劇(日活)→証券会社→雇用求人事業
G東館(新東宝)→日本映画の再映館→飲食ビル
H芝居小屋→長崎宝塚→ホテル
ニュー大洋(洋画再映)→長崎会館(洋画封切)→長崎日活→長崎東映→飲食・カラオケ(シネコン進出により閉館)
I榎津東映(東映)→長崎日活(ロマンポルノ)→(ロマンポルノがなくなり閉館)→オフィスビル
J芝居小屋→富士館→ステラビル(映画館併設のファッションビル)→シネコン進出により閉館→マンション
Kニュース劇場(ビルの地下)→ビルリニューアルにより閉館→ホテル
記載なきもの
新世界(洋画封切)→マンション(シネコン進出により閉館)

写真4 A 喜楽館
              
写真5 B長崎松竹

写真6 D第一映劇                 

写真7  E長崎大映

写真8 F 中央映劇(日活)


写真9 G 東館


写真10 H宝塚              


写真11 富士館



写真12 ニュース劇場


写真13 当時の映画館の場所を表す地図
 
 まとめてみると、一見まとまりのないように見えるが、D・Fが映画館から証券会社に変わった1960年頃は証券ブームであった。また、Eはパチンコ店に変わっているがこれも当時パチンコが人気だったからだ。そしてB・J・Hなど多くの映画館がシネコンの進出により閉鎖に追い込まれ、当時人気だったカラオケやパチンコなどに変わってしまった。このように映画館の移り変わりにも時代背景があることが分かる。

(2) 唯一の単館・セントラル劇場
セントラル劇場は1960年(昭和35年)日活の二番館としてオープンした。(二番館とは再映館とも言い封切から約半年ほどで半額の値段で映画を見ることができる映画館のことを指す)創設者の浦川正さんは、駅前映劇副社長から独立しセントラル劇場を始めた。現在は浦川さんの娘さんである前田眞理子さんが代表を務めている。セントラル劇場がオープンした頃前田さんはまだ小学生だった。まだテレビもそんなに普及しておらず、家はテレビよりも映画だったという。テレビが普及してももったいないから映画をみなさい。と言われたこともあった。
前田さんがセントラル劇場の経営者になったのはお父さんが亡くなられてからだった。当時、映画館の経営は厳しくお父さんが亡くなる時「映画館はやめたほうがいい。」と言われた。しかし、常連のお客さんからの「やめないでほしい。」という声があり前田さんはセントラル劇場を続けていくことを決めた。
そんなセントラル劇場にはこだわりがある。上映映画は上映する前に前田さんが一度見てきめており、フランス映画やイタリア映画が多い。邦画はやっていない。また、映画館といえば、ポップコーンのイメージが強いがセントラル劇場は原則、場内では飲食は禁止である。セントラル劇場には一人で映画を見にきて集中して楽しみたい人が多いため苦情がでたことがある。お菓子の袋を開ける音や食べる音が気になりお客さんが直接注意をしにいくこともあった。映画を集中して見たかったのに。と泣いて帰ってしまうお客さんもいた。それだけ映画を見ることにこだわりが強い。そのため常連さんのことも考え映画に集中できるように飲食禁止にした。そして映画を見た後にお客さん同士で感想を言い合い、おしゃべりができるようにコミュニティの場としてもともと狭かったロビーを広くした。
セントラル劇場の内装はオレンジと白を基調としておりポップな印象だ。壁には映画のチラシがたくさん貼り付けられている。私が訪れた時は平日の昼過ぎだったが、三人の女性のお客さんがいた。一人は私と同世代くらいの方だった。


写真14 セントラル劇場

 最後に前田さんにとって映画とはどのような存在なのか聞いてみた。「映画は自分の知らない世界を教えてくれ、日常生活では体験できないこと体験させてくれる。そして、感動を与えてくれる。」と話してくださった。映画を見て自分の知らない海外の話や、テロを行う人々の教育のされ方(精神論)を知る。ロマンスや冒険映画をみてワクワクし、旅行では行けないところにも行ける。映画は人々に様々なものを与えてくれる。

写真15 前田さんの仕事風景

3章 映画館のこれから
(1) 映画と街づくり
セントラル劇場は「浜んまち映画祭」という映画祭の会場になっている。この映画祭を主催しているのがハマスカ実行委員の方々でその一員である安元哲男氏に話をお伺いした。


写真16 ハマスカ実行委員 安元哲男氏

安元さんは、高校一年生まで長崎市内の茂木で暮らし大学卒業後、33年間サラリーマンとして働いていた。一方で幼いころから映画館で映画を見るのが好きで常に映画とともに生きてきた。映画館は人が集まり、人々に楽しみを与えてくれる。また、非日常体験の場でありコミュニティの場であると考えた。そしてそれを街づくりにつなげることができないかと考えた。
そして、街づくりには文化産業の基盤が必要だと考えた。映画は人々に昔から愛され親しみが強いため新たな事業の可能性があるのではないか。そしてその一つとして映画祭を思いついた。
映画祭を開催するにあたって、せっかくならみんなが知っているメジャーなものではなく公開可能性の低い映画を上映しようということになり、フランソワ・トリュフォー(フランスの映画監督。ヌーヴェルヴァーグを代表する監督の一人。) 映画祭を企画する。そして、セントラル劇場に協力を依頼し協力体制ができた。
しかし、映画祭を開催するにはお金が必要であり、協賛をさがすことに。すると、浜の町商店街が協力すると声をあげる。条件は毎年映画祭を開催すること。安元さんはこのような条件を出されるとは思っておらず、驚いたという。こうして第一回浜んまち映画祭が開催される。浜んまち映画祭ではチラシを配るなどの宣伝をし、そのかいあって日頃はセントラル劇場に来ないお客さんもチラシを見て映画館にやってくることもあった。
また、映画祭期間中の半券で商店街のプレゼントやサービスが受けられるようにした。たとえば、商品の割引やドリンクのサービスなどだ。    

写真17  浜んまち映画祭のチラシ
       
 では、なぜ浜の町商店街は映画祭に協力したのか。浜の町は、長崎市内の最大の商店街だった。しかし、駅前にシネコン付きのショッピングモールができ、新幹線が計画され港も新しくなり、その近くにショッピングモールができたことで浜の町商店街はお客さんが減少傾向になっていった。そこで、もともと歴史があり街の中心であった浜町や思案橋を活気のある街にしたいと思い、浜の町商店街は映画祭に協力することにした。  
 また、長崎市内ではまちぶらプロジェクトが計画されている。これは、長崎駅周辺と松が枝周辺の整備により、長崎のまちが大きく変わっていく中で歴史的な文化や伝統を残す長崎中心のまちなかも賑わいを再生しようとする計画だ。
そして、今となっては浦上も長崎市内であるがもともとは市内の中心であった浜町や思案橋と浦上は別々の歴史を歩んでいた。長崎に原爆が落ちた時、浜町や思案橋は山があったため浦上に比べ被害は少なくて済んだ。また、浦上はキリシタンの街であり、浜町や思案橋とはカラーが違っていた。そのため、「原爆は浦上に落ちた。」と表現する人もいるという。

写真18 まちぶらプロジェクト

(2)映画館のこれから
 今、長崎市内には単館の映画館は1つしか残っていない。街を歩いていてもここに30件ほどの映画館があった面影は感じられない。今では、大型ショッピングモールに併設させたシネコンで映画を見る人がほとんどだろう。映画を見に行くのだからどんな場所で映画を見るのかは重要ではないかもしれない。しかし、現代の映画館にはかつての単館映画館にあった個性が失われているのではないか。映画館が、ただ映画を見るための「場所」になっているように感じる。
そして長崎で、その時代の個性を唯一残しているのがセントラル劇場である。セントラル劇場に今回初めて訪れてみて、壁一面のポスターや、温かみのある内装が記憶に残っている。私自身、単館の映画館を訪れるのは初めてだったがシネコンとは全く雰囲気が違った。壁一面のポスターやディスプレイされている雑誌、その1つ1つに手作りのあたたかさがあった。今回映画を見ることはできなかったが、セントラル劇場は記憶に残る映画館だと感じた。
 また、映画祭を通して、地域の人々の結びつきが強くなったのではないかと考えた。長崎市内はもともと、くんちの影響もあり町の結びつきが強かったが、新たに映画祭が開催されるようになりさらにつながりが強くなったと思う。映画祭で、セントラル劇場で映画を見るお客さんが増えただけでなく、半券を利用した商店街のサービスなどが町の人々をつなげたのだと思った。しかし、映画祭でセントラル劇場のお客さんが少なからず増加したが、まだ私たち世代のお客さんは少ない。商店街が活気ある街になっていき、多くの人から愛され続けてきたセントラル劇場がこれからも続いていくためには若者を集客する必要があるのではないだろうか。
 また、今回調査して初めてセントラル劇場や浜んまち映画祭について知ることができた。長崎がどういう街で、どのような歴史を歩んできたのか。映画が長崎という土地でどのように根づき、愛されてきたのか。調査を通して初めて知ることがたくさんあった。今回の調査で学んだこと、発見したことを多くの人々に広めていくことが私の役割ではないかと感じた。
長崎が映画館の黄金時代だった頃の様子を唯一残しているセントラル劇場がこれからも人々と共にあり続けること、そしてまちづくりとしての役目も背負っている浜んまち映画祭がこれからも開催続けることを願う。

おわりに
 本稿の調査にあたっては、長崎セントラル劇場代表、前田眞利子氏、そしてハマスカ実行委員代表、安元哲男氏に多大なご協力を賜りました。貴重なお時間を割いて調査にご協力くださいました方々のおかげです。ここに記して感謝を申しあげます。