関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

工都室蘭の鉄鋼マン

社会学部 3年 宮本 悠花

 

【目次】
はじめに
1章 日本製鋼室蘭製作所(日鋼)OB 伏木晃氏
1-1 技術職につくまで
1-2 営業の仕事
1-3 郷土史家としての現在
2章 日本製鉄室蘭製鉄所OB 山中克美氏
2-1 新日鉄高等工業学校時代
2-2 新日鉄での仕事
3章 日本製鉄室蘭製鉄所OB Ⅽ氏
3-1 最盛期の室蘭
3-2 仕事と寮
結び
謝辞


はじめに
 鉄の町として1970年頃に大きな盛り上がりを見せた北海道室蘭市には、町を支えた多くの鉄鋼マンがいる。日本の成長を支えた重厚長大産業で働いた鉄鋼マンのライフヒストリーを通して、室蘭という町が鉄鋼マン、そして室蘭の人びととどのような関わりを持っていたのかについて調査した。製鉄と製鋼の違いについて、製鉄は鉄鉱石から銑鉄(鉄鉱石を溶鉱炉で溶かして作る)を製造する工程、製鋼とは銑鉄から鋼を製造する工程を言う。

 

1章 日本製鋼室蘭製作所(日鋼)OB 伏木晃氏

 

1-1 技術職に就くまで
 昭和17年、室蘭市母恋町に生まれる。母恋町は現在のJR母恋町から500mほどの距離にあるエリアでかつて中心地であった室蘭駅とも非常に近い。日鋼も目と鼻の先にあり、室蘭港フェリーターミナルや日鋼記念病院などがあるエリアである。中学卒業後の16歳で日本製鋼室蘭製作所(以後、日鋼)に入社し、以後52年間勤続した。伏木氏は「養成校」の8期生で3年間通っていた。「養成校」とは日鋼の中にある私立の工業高校で、中学卒業後に日鋼に入社した人が通った。伏木氏もこの養成校で午前は学校で座学を勉強し、午後は機械仕上工として現場で働いていた。養成校卒業後、そのまま現場で数年勤務した伏木氏は21歳のときにさらに多くを学ぶため、室蘭工業高校(当時4年間)に編入して2,3,4年生の3年間設計を学んだ。設計を学んだ後は仕上げ工に戻るが、当時の部長から「設計を募集しているから、室蘭工業高校で設計を学んだならどうか」と言われ設計部門へ移る。機械仕上工は技能職、設計部門での仕事は計画書や図面を作成する技術職(=今の総合職)であったため、伏木氏は日鋼の中でもめずらしく技能職と技術職(=総合職)の両方を経験した。伏木さんの家系は祖父、父、伏木さんと3代鉄鋼マン、日鋼では戦時中からの名残で情報が外に漏れないように、身元が知れている人は採用されやすかった。

 

1-2 営業の仕事
 平成4年、伏木氏が50歳の時に、朝突然所長室に呼ばれ九州支店のある福岡天神町へ営業職として移動するように言われる。当時伏木氏は、九州石油で技術指導しており、福岡支店長とも付き合いがあったため、専務から直接支店長に推薦された。営業の仕事は、室蘭で生まれ暮らしていた伏木氏にとって、人脈が広がり大きな分岐点となった。営業の仕事として長崎の三菱重工で発電機のローターの営業や、大分製鉄所、三菱下関等を回るものなどがあり、福岡支店の年間売上高の半分を売り上げたこともあった。伏木氏は、単身で赴任後も福岡の市内を室蘭ナンバーの車で走っていた。そこで出会った人たちといまだに付き合いがあり、沖縄の知り合いとはマンゴー(沖縄)⇔さんま(北海道)の送りあいをしている。

 

1-3 郷土史家としての現在
 8年間営業の仕事を務め、福岡から室蘭へ戻って札幌支店を経た伏木氏は、日本製鋼所迎賓館の「瑞泉閣」の館長を6年間66歳まで務める。瑞泉閣は当時皇太子であった大正天皇が室蘭に行啓された時に宿泊施設として建築された。67歳で館長を退職すると、国内旅行業務取扱管理者の資格を取得、さらに観光ツアーガイドの会を立ち上げ、室蘭の工場夜景の案内等を行っている。しかし、JXTGエネルギー室蘭製造所が2019年3月31日で事業所化したことで工場夜景の今後は未定である。そのほかにも知り合いにパソコン教室を頼まれ、隔週でパソコン指導も行っている。伏木氏は私家本を書かれている。私家本第五作では、『室蘭に製鉄・製鋼所をつくった井上角五郎翁』を制作、井上角五郎(福沢諭吉に弟子入りし同じ思想を持っていたとされる)が製鉄・製鋼事業を起こし、室蘭を鉄の町にしていったか、製鋼所設立の経緯にあたりイギリス工場の視察や歴史、また製鋼所の福利厚生、現在の小学校の社会科の授業での鉄の町の生い立ちなどの内容が記されている。現在は、東京都町田市在住の方からの執筆の依頼で、戊辰戦争時の官軍参謀・世良修造について書いた「~怨讐を超えて~ 官軍参謀 世良修蔵」を執筆したところである。さらに伏木氏は、大学で開かれる研究フォーラムシンポジウムで講演を行ったり、「朝日新聞×HTB北海道150年室蘭を鉄の街にした男」のテレビ取材を受けるなど、現在も郷土史家として幅広い活動を行っている。

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伏木氏が編集・印刷・製本した私家本


2.日本製鉄室蘭製鉄所OB 山中克美氏

 

※現在の正式な社名は「日本製鉄株式会社」であるがライフヒストリーなので当時の社名を使って「新日鉄」と呼んでいる
平成31年になって、戦前の「日本製鐵」と区別するためと、鐡という字にこだわりがなくなり日本製鉄となった(それまでは鉄は金を失う、と書くため好まれていなかった)
ライフヒストリーでは一般的に使われていた「新日鉄」を使用する

 

2-1 新日鉄工業高校時代
 昭和27年、当麻に生まれる。当麻は北海道上川郡にあるエリアで旭川都市圏の東の玄関口と呼ばれている。山中氏は、中学三年生の11月、富士製鐵室蘭高等工業学校のテストを受け合格。テストの倍率は7倍であった。中学卒業後、富士製鐵高等工業学校に入学。山中氏の学年では、一学年は43人おり、普通科と工業化のどちらの内容も学ぶため夏休みが短いことが特徴であった。当麻から室蘭へ移り、一,二年生は富士製鐵の学生寮、その後学校寮の収容人数が少ないことから、三年生になると近い人は自宅通学、遠方からきている生徒のうち一部の人は市内の高砂町にある緑が丘寮(社員寮)に移り入社後も同じ寮で生活する。製鐵会社の社員寮は天神町には桜が丘寮、知利別会館のあたりには大卒社員の如水寮があったが、今は輪西寮に高卒・大卒・女性社員が集約されている。二年生の頃、実習で3交代(当時から製鐵会社は24h稼働)職場の製鋼工場の現場へ入った。三年生の2・3学期は、製鐵所内で保全業務の実習も行った。新日鉄工業高校には、山中氏のように地方から出てきた人が多く、室蘭市内から入学した生徒は少なかった。学校を辞めた人以外はほとんどが昭和45年に富士製鐵から新日鉄へ変わり新日鐵の卒業一期生として入社した。

 

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如水寮

 

2-2 新日鉄での仕事・楽しみ
 官営製鉄所と聞くと多くの人が八幡製鐵所を思い浮かべるが、戦後の財閥解体により、旧日本製鉄は八幡製鐵株式会社と富士製鐵株式会社に分けられた。高度経済成長の景気や朝鮮戦争の景気に支えられ、富士製鐵は重厚長大産業として大きくなった。この八幡製鐵と富士製鐵二社の合併により新日鉄が発足した。この合併は山中氏の入社の前年、昭和45年の出来事である。会社では、保全業務を行う「整備課」(40∼50人ほど配属)で働いていた。会社に保全課ができたのは昭和29年であった。整備課は各工場にずっと張り付いて日常的にずっといるといった勤務形態で、突然トラブルで呼び出しがあることもあったという。呼び出しは月1ペース、多い人で2,3回ある人もおり、自分の時間を過ごしていても呼ばれるとすぐにタクシーで向かった。そのため、誰かに呼び出しがかかることがあるため職場で旅行に行くときは近場が多かった。山中氏は高砂にある緑が丘寮(第一、第二)に住まれていた。寮の後は港北町の社宅、その後家を購入した。新日鉄ではある一定の年齢になると社宅の家賃が上がるようになっており、現在は会社自体が社員に持ち家させる制度がある。昭和60年前後に室蘭製作所が縮小し転勤するひとが多くいたという。当時の転勤は数年おきに転勤するというものではなく、北海道から千葉、愛知、大分などへ場所を変え仕事の内容も変えるといったものであった。これは当時の鉄鋼マンにとって大きな悲哀であった。中島本町に新日鉄系列のお店「ビアキャビン」がありそこでよく宴会が行われ、ジンギスカンなどをしたという。

  

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ビアキャビン


3.日本製鉄室蘭製鉄所OB Ⅽ氏

 

3-1 最盛期の室蘭
 C氏は昭和27年、室蘭から150キロほど離れた空知地方の岩見沢で生まれる。高校3年生の夏休みに、学校の斡旋で高校卒業後に室蘭製鉄所への入社が決まる。C氏は昭和45年に新日鐵一期生として入社、新日鉄は43年から45年頃、人を多く採用しており室蘭の人口も18万人ほどいたという。親も鉄鋼マンが多い日鋼とは異なり、新日鉄は室蘭外からも多く採用が行われ、いろいろな地域の学生が室蘭へ集まっていた。C氏もその一人であった。入社当時は人力しかなく、「仕事は腕」を粋に感じて、皆が主体的に働いていたという。新規の工場が増え、今は一機になってしまった高炉も当時は四機あったため栄えていた。当時、仕事は見て覚える時代であり人とのつながりをとても大切にしていたそうだ。当時と比べ、現在の飲食店の数は半分ほどに減少、室蘭は鉄鋼の町として栄えたが、鉄鋼の力に頼りすぎたと感じることもあった。新日鉄では、スポーツが盛んで軟式野球には百チームほどあった。寮対抗運動会なども行われたが、現在チームの減少により行われなくなった。

3-2 仕事と寮
 当時は東室蘭駅よりも東の輪西・室蘭エリアが最も栄え、ボーリングがはやった時はみんなでやった。C氏は桜ヶ丘寮に入っており、輪西で飲み会をしたときはそこからタクシーで天神町にある桜ヶ丘寮に帰った。毎日の通勤で新日鉄には各寮から出るバスで通っており、急な呼び出しにはバスで向かったという。寮以外にはスーパー「ARCS中島店」のあたり一帯に木造の社宅があった。白鳥台のあたりが最初にニュータウンになり家を買う人もいた。当時、登別に「山水荘」という会館があり安く使うことができたため、利用することもあった。また、中島本町の「ビアキャビン」にもよく行っていた。やはり、新日鉄で働く鉄鋼マンに愛された店であることがわかる。さらに当時は、輪西駅で降りると赤雪が舞い鉄のにおいがしていた。赤雪は鉄粉が舞ったものが雪のように見えることから赤雪と呼ばれ、それほど活気ある鉄の町だったことを表している。新日鉄は工場が24h稼働のため三交代制(甲乙丙番)であった。乙番は15時から22時半までの担当であった。C氏は、高炉で働いていたのちに設備部の電気関連の仕事へ、その後出向して数年後新日鉄に戻る。60歳で退職し、65歳までの五年間シニアで働いた。

 

結びに
 今回の調査では3人の鉄鋼マンにお話を伺った。この調査を通して、以下のことが分かった。
・井上角五郎の尽力により室蘭という地が鉄の町として発展した。
・新日鉄は八幡製鉄と富士製鉄の合併により発足した。
・鉄鋼マンになった経緯は人によってさまざまである。
・会社に、企業内工業高校があった。

 

謝辞
 本論文の作成にあたって、多くの室蘭の方々にお話を伺いました。お話を伺った皆様にこの場でお礼を申し上げます。
お忙しい中、私の質問に丁寧に答えてくださり、室蘭を案内していただいた日鋼OBの伏木様、新日鉄OBの山中様、C様、お話を伺うために知り合いの方に連絡を取ってくださった居酒屋『まんまる』店主 丸山様、皆様の温かいご協力に感謝申し上げます。初めての室蘭という地で論文を作成できたのは皆様のおかげです。本当にありがとうございました。