関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

ヤミ市系商店街の民俗誌―一宮・真清田神社前繊維街の事例―

藤村雄一郎
【要旨】
 本研究は、愛知県一宮市にある真清田神社前繊維街をフィールドに実地調査を行い、その形成史及びヤミ市とのつながり、そこで生きた商人たちについて記述し、真清田神社境内に形成されたヤミ市系商店街の展開を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、以下の通りである。

1.真清田神社前繊維街は、大宮食品市場、三協繊維同志会(第一組合、糸部、服部)、真清残糸組合、西商店組合、糸同志会、繊維同志会(現在、消滅)、計8つの組合から構成されている。これらは、1945年(昭和20年)10月3日に戦災者支援の為、真清田神社境内に開かれた露店が、1957年(昭和32年)にその形態を露店から店舗へと変化する際に、組合として整理されたものである。

2.真清田神社境内に戦災者支援の為の露店が形成された理由として、江戸時代にあたる1727年(享保12年)12月18日から真清田神社境内にて、3と8のつく日に三八市という自由市場が開催されていたことが挙げられる。その為、市を開く場所はもとより、真清田神社に行けば、物が買えるという一宮人の認識が醸成されていた。真清田神社は一宮の信仰の中心であるとともに購買力のある場所であった為、戦災者支援に最適の場所であった。

3.戦前は3と8のつく日に三八市が開催されていたが、戦争による物資の不足を機に、3と8のつく日に限らず、常設する露店が増加した。当時、配給制度による統制経済にあった日本だが、物資の不足の為インフレが起こっており、露店では国に決められた公正価格を上回る、いわゆるヤミ値で売買が行われていた。三八市は1948年(昭和23年)の統制解除までに、ヤミ市を経験した。1948年(昭和23年)頃に三八市はヤミを逸するが、ヤミ市を経験したことで、露店の常設化が進み、もはや三八市とは呼び難い状態となった。

4.露店はテキヤの鵜飼亀之助氏によって、1軒につき1坪と区分けされ、区画の移動は無かった。露店が常設化したとはいえ、1948年(昭和23年)頃の露店は地面の上に筵を引き、その上に商品を置くという簡素なものであった為、屋根や仕切りもなかった。その為、毎日、乳母車や大八車に商品を載せては家と露店との行き来をしていた。その後、1957年(昭和32年)までに露店の形態が2度変化した。1度目は屋根と仕切りが出来、商品を置く床台に腰掛けも出来た。2度目は更に、撥ね上げ式の扉まで出来、ついに施錠できるようにまでなった。

5.1954年(昭和29年)になると、唯一焼け残った真清田神社正門東西にある高塀に加え、東門の南の高塀が完成した。これにより、境内の露店商76名が高塀内部に店を持ち、いわゆる出世をした。その際、誰が出世するかといった采配を行ったのも鵜飼亀之助氏であった。その後、1956年(昭和31年)までに神社境内に木造平屋が3棟建ち、高塀同様、56名の露店商が店を構え、出世した。これらは、真清田神社の大祭である桃花祭に用いる馬道具を飾りたてる倉庫として建設されたが、1年の内、2日程度しか使わないことから、真清田神社から商人たちにその場所が貸し与えられた。

6.1956年(昭和31年)までに多くの露店商が出世を果たしたが、場所が足りず出世出来ない露店商もいた。かれらは、1人5万円ずつお金を出し合って、1957年(昭和32年)に大宮繊維会館という2階建ての建物を建てた。これにより、42名の露店商が新たに出世を果たした。

7.出世と同時に建物ごとに組合が出来、出世を果たした露店商達はその扱う商品によって、大まかに組合に分けられ、それぞれの組合に加盟した。ただし、扱う商品が他の組合と同じであった場合においても、加盟する組合はその店の位置する建物に依存した。この組合の整備に伴い、真清田神社前繊維街が形成された。

8.繊維街は神社の境内に形成された為、毎月神社へと地代(現在は家賃と言う)を支払う。その際、神社は組合単位での貸し出しを行っている為、各店舗は組合に組合費を払い、組合が地代を神社へ支払うという構造になっている。その為、組合員が減った場合でも、組合に発生する地代の変動は基本的には無く、組合員が減少すると、残った組合員の負担が大きくなる。また、神社に土地を借りているということで、毎年正月に祈祷や門松の寄付を行っているが、各組合で個別に準備するのは大変ということで、1959年(昭和34年)に大宮発展会という祈祷と門松の手配だけを行う会を繊維街協同で作っている。

9.1970年(昭和45年)頃までは、繊維街の扱う商品の良さ故に、一宮の機屋で働く多くの女工さん(織姫さん)が買い物に訪れていた。また、女工さん目当ての男性も多く集まり、繊維街は人でごった返した状態にあった。

10.その後、車社会になったことから、正門からのアクセスではなく、神社の駐車場がある裏手からのアクセスが増えた。その為、神社正門付近に店を構える繊維街の方では人の流れが減った。また、和服や洋服、生地など繊維街で取り扱う商品に対する関心が時代とともに薄れていき、1989年(平成2年)に行われた消費税の導入や輸入物との価格競争、1990年(平成3年)に近隣にあったダイエーやトポスといったスーパーマーケットが閉店したことで、さらに人の流れが無くなり、下火となっていった。

11.繊維街にある店の多くは小売りであるとともに問屋でもあったが、自身の高齢化に伴って、問屋としての機能は縮小し、商売の中心を小売りとしている。しかし、上記の理由に伴う小売りの不振によって、仕入れ先である問屋が先に衰退し、問屋の衰退の為に、小売りがさらに不振になるという悪循環となっている。

12.現在、繊維街で営業をしている店は、ほとんどが2代目にあたるが、それでも、高齢化を迎えている。高齢化を迎え、かつてのように少しでも利益をあげるというよりも、無理せずやれるだけやるという考えになったということで、現在も営業を続けている店がほとんどである。しかし、どの店も儲からないから継がせられないという理由で、後継者はなく、ほとんどの店が当代限りで店を閉めてしまうという状況にある。

【目次】

序章 問題と方法−−−−−−−−−−−−−−3

第1節 問題の所在−−−−−−−−−−−−−3

第2節 三八市−−−−−−−−−−−−−−−6


第1章 「真清田神社前繊維街」の形成−−−7
 
第1節 ヤミ市の時代−−−−−−−−−−−7

第2節 店の獲得−−−−−−−−−−−−10

第3節 大宮前発展会−−−−−−−−−−13

第4節 繁栄と衰退−−−−−−−−−−−13

第5節 現在の真清田神社前繊維街−−−−15


第2章 商人たち−−−−−−−−−−−−−17


 第1節 大宮食品市場−−−−−−−−−−19

 (1)ハトヤ−−−−−−−−−−−−−19

 第2節 三協組合・第一組合−−−−−−−−21
  (1)ナカノ種苗宮前店−−−−−−−−−22

  (2)堀田商店−−−−−−−−−−−−24

  (3)万盛商店−−−−−−−−−−−−27

 第3節 三協組合・糸部−−−−−−−−−31

  (1)すぎやま−−−−−−−−−−−−32

  (2)今井商店−−−−−−−−−−−−35

 第4節 三協組合・服部−−−−−−−−−37

  (1)趣味の呉服小島呉服店−−−−−−38

  (2)木村婦人服店−−−−−−−−−−40

 第5節 真清田残糸組合−−−−−−−−−42

  (1)赤林時糸店−−−−−−−−−−−43

  (2)末広商店−−−−−−−−−−−−49

  (3)岩田商店−−−−−−−−−−−−51

 第6節 西商店組合−−−−−−−−−−−−53

  (1)一宮熱帯魚センター−−−−−−−54

 第7節 大宮せんい会館−−−−−−−−−−58

  (1)小林商店−−−−−−−−−−−−60


結語−−−−−−−−−−−−−−−−−−−63

文献一覧−−−−−−−−−−−−−−−−−67

謝辞−−−−−−−−−−−−−−−−−−−68

【本文図表より】

【本文写真より】

写真1.真清田神社前繊維街正面


写真2.三協組合・服部の西側


写真3.西商店組合


写真4.真清残糸組合


写真5.大宮繊維会館

【謝辞】

本論文の執筆にあたり、多くの方々にご協力していただき、深く感謝しております。お忙しい中、お話を聞かせて下さった、真清田神社前繊維街の皆様、真清田神社宮司山本様、その他本論文では触れていませんが、調査に関してご協力していただいた全ての方々、皆様のご協力なしには、本論文を完成することは出来ませんでした。心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。