関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

富山市の銭湯―薬師鉱泉と古宮鉱泉の事例―

社会学部 渡辺早紀


【目次】

はじめに

第1章 薬師鉱泉

第1節 来歴

第2節 白川村の出村家

第3節 出村勝良・悦子夫妻と薬師如来

第4節 燃料の移り変わり

第5節 あかそぶの湯

第6節 新庄町というコンテキスト

第7節 日常


第2章古宮鉱泉

第1節 来歴

第2節 西中野というコンテキスト

第3節 日常

第4節 組合の運動

むすび

謝辞

参考文献



はじめに
 富山市では現在、35件の銭湯が経営されている。その数は戦後から段々と減ってきているらしいが、全国的にみると銭湯業がかなり盛んな地域といえるだろう。
 今回の調査では、その中でも特に神仏関係に由来を持つ銭湯を調査した。それが、薬師鉱泉古見鉱泉である。これらの銭湯経営者の方々のライフヒストリーに沿いながら、二つの銭湯の過去と現在の移り変わりについて述べる。


第1章 薬師鉱泉

第1節 来歴
 
 明治35年頃、1代目主人によって富山市新庄町の地に銭湯が開業された。その当時の主人が薬師如来を信仰していたため、「薬師湯」と名付けられた。詳細は不明だが、彼はかなり裕福な農家の出身だったらしく、複数の店舗を経営していたことが分かっている。その中の一軒が、薬師湯であった。開業とともに、薬師如来の像が作られ、銭湯の玄関に祀られていたとようだ。
 
 その後、1年半から5年くらいの期間で代替わりが頻繁に起こった。その際にも、1代目がつくった薬師如来の像は代々受け継がれていたという。ところが、5代目あるいは6代目の主人の手に薬師湯が渡ったとき、その人物の宗教上の理由でその像を破壊してしまったらしい。
 
 さらに数年を経て、昭和49〜50年に8代目主人として現主人である出村勝良さんが薬師湯を買い取った。この時、「鉱泉」がつく銭湯のほうが今らしいという理由で「薬師鉱泉」に改名した。それから、幾度か建物の改装などを経つつ約40年がたち、現在に至る。


写真1:薬師鉱泉 看板

写真2:薬師鉱泉 建物


第2節白川村の出村家
 
 この節では、薬師鉱泉の主人である出村勝良さんのご家族について触れる。
 1960年代まで、岐阜県大野郡白川村に一家で住まれていた。猟をしたり木こりをしたりしながら、生計を立てていたらしい。しかし、白川村にダム建設の話が持ち上がり、移住せざるをえなくなってしまった。それが、現在の御母衣ダムである。結果として、白川村は複数の集落を売りにだしたという。
 
 その際、勝良さんのご両親は富山市東中野の「すずらんの湯」が売りに出されているのを買い取り、一家で富山市に移住した。当時、銭湯業の景気が良かったことが買い取りの後押しになったらしい。その後、すずらんの湯は長男夫婦主導で経営され、現在はその娘夫婦の手にわたっている。
 
 同時期に、長女が南砺市城端町の銭湯に嫁いだ。しかし、その後その銭湯は、地元の人に売ってほしいと頼まれ、富山市月岡の「開発鉱泉」を買い取り移り住んだらしい。こちらも、現在は長女夫婦によって経営が継続されている。
 次男も富山市で「富士の湯」を経営していたそうだが、現在は経営はなされていない。
 
 現在、これらの3銭湯とのかかわりはほとんどないそうだが、薬師鉱泉は、開業時に定休日をすずらんの湯に合わせて月曜日に設定しているなど、家族間のつながりが垣間見える。


第3節出村勝良・悦子夫妻と薬師如来
 
 勝良さん(1947年生まれ)は、出村家の3男であった。16歳のときに、富山市を出て長女のつてを頼り、三重県の松坂へ奉公に出た。そして、松坂で肉屋に5年間ほど勤めたのち、富山市に戻ってきてスーパーマーケットの肉部門に再就職する。松坂で働いていたと言えば、就職には困らなかったらしい。その後、富山市で美容師をしていた悦子さん(1948年生まれ)と結婚した。
 そして、勝良さんが29歳のときに薬師鉱泉を買い取った。そのとき勝良さんはスーパーマーケット関係の仕事があったため、実際は悦子さんと悦子さんの母が切り盛りしていたという。
 
 買い取り当初、まちの人たちは、彼らもすぐ銭湯を手放すだろうと噂していたようだ。その理由として、薬師鉱泉の前主人までが平均して3・4年で代替わりしていたからである。そして、富山ではもともとの地元民以外の人のことを「旅の人」という意味で「たびのさん」と呼んでいたほど、地元意識が強かったことも影響していると考えられる。さらに、真偽は定かではないが、薬師鉱泉に訪れてから風邪をひく客が多かったらしく、「風邪ひき風呂」という噂も立てられた。その結果として、当時の客の入りは悪かったという。
 
 しかし、あるとき勝良さんが以前は薬師如来の像があったこと、そしてそれが某宗教信者であった先代によって破壊されたことを知る。そして、新しく仏像を作り直した。現在、その仏像はご自宅の仏像に祀られている。


写真3:仏壇(中央が薬師如来像)

写真4:薬師如来

 また、知り合いの銭湯経営者の方から、湯の殺菌のために使用する薬品など、銭湯に関することを色々と教えてもらったらしい。
 それらの結果、お客さんが急激に増え、1日に500人以上も来るようになったらしい。今日においても、1日200人ほどのお客さんが銭湯を訪れている。出村夫婦は、この大盛況を薬師如来のおかげだと感じ、感謝しているそうだ。特に、悦子さんは毎日仏壇を拝んでいるという。
現在は、勝良さんと悦子さんのお二人で仕事を分担し、薬師鉱泉を経営されている。


第4節燃料の移り変わり
 
 薬師鉱泉では、今も昔も変わらず銭湯裏のかまどで燃料を燃やしてお湯を焚いている。ここでは、その燃料の移り変わりについて述べる。
 出村夫婦が薬師鉱泉を買い取った当初、前代と同様に重油を燃料として利用していた。しかし、重油には問題点が多数あった。まず、コストがかかりすぎるという点である。そして、燃料を燃やす際に故障が多く、修理に30分から1時間ほどかかってしまう。また、その修理で手が真っ黒になって取れなくなることも不便であったらしい。
 
 そこで、勝良さんのつてで岩瀬の製材所からおがくずをもらってきて燃料にするようになった。当時、材木はロシアから輸入しており、それを製材所が加工していたのだ。その時におがくずが大量に出ていたので、無料で譲り受けることができたのだった。
 おがくずは、重油と比べて非常に扱いやすい。何時間かごとに様子を見ながら、かまどにくべるだけなので負担が少ないようだ。
 
 しかし、約20年前、ロシアから輸入される材木が加工済みのものばかりになってしまった。そのため、製材所での加工は不要になってしまい、今までは余って仕方なかったおがくずが手に入らなくなってしまったのだ。そのため、当時、倒産してしまった製材所やおのこ業者も少なくないという。
 もちろん、薬師鉱泉も例外ではなく、燃料であるおがくずが手に入らなくなってしまった。そこで、廃品になった車のタイヤや服をもらってきて燃料にしたらしい。主に、服を燃料として燃やしたようだ。
 
 その当時は今ほど廃品回収の場所がなかったため、具服屋に服のぼろが集まっていた。そこから燃料として、服を譲り受けていたのだが、その多くは50〜60センチ角に固められた化繊であった。木綿は、機械の油をふくのに適しており、工場に多く売れていたらしくほとんど手に入らなかったようだ。
また、時々ではあるが舞妓さんのものだと思われるきれいな下駄や着物、帯などが混じっていることもあり、着られそうな衣服類は燃やさずとって置いたこともあるという。
 
 このように、廃品を燃やす日々が数年続いたのち、再び勝良さんの知り合いの廃材所から廃材をもらえるよう段取りがついた。その廃材所は、主に山等で土砂崩れが起きた際に、倒れた木を取り扱っている。撤去した廃材を燃料として譲り受けているのだ。


写真5:積み重ねられた廃材

写真6:かまど

 現在も、その廃材所から、主にけやきの木をもらっている。勝義さんがかまどの番をしており、1時間に1メートルのまきを10〜13本くべるそうだ。その後、出た灰は農家の方に配布するなど、燃料の再使用にも余念がない。
 悦子さんによると、今の燃料である廃材が、経営上最も良いという。ガスや重油ではコストがかかるため、今後も廃材を利用していく予定だと語った。


第5節 あかそぶの湯
 
 薬師鉱泉には、透明のお湯と赤いお湯の2種類が沸いている。その赤いお湯こそが「あかそぶ」である。薬師鉱泉の名物であり、これを目当てに通われているお客さんも多い。このあかそぶは、有馬温泉の金の湯と似た性質を持っており、美肌効果が期待される。したがって、特に女性のお客さんに人気があるようだ。
 今や多くのお客さんに愛されるあかそぶだが、開業当初から湧いていたわけではない。そのあかそぶ発見のきっかけとなったのは、買取後に行った建て直しである。

 勝良さんたちが薬師鉱泉を買い取った2・3年後、お客さんが増え、より広い駐車場が必要になった。それに伴い、もともとは道沿いに銭湯の建物があり裏に住まいが建っていたのだが、その住まいがあったところに新しく建物を建て、1階を銭湯、2階を住まいとした。そしてもとあった銭湯の建物を取り壊し、駐車場としたのである。
 この時に、新しく掘った井戸から湧いたのがあかそぶであった。その井戸を掘った井戸屋が、これは銭湯のお湯として使うべきだと助言したため、あかそぶ用の浴槽を用意したそうだ。わずかに温泉としての成分がたりなかったものの、その効果は引け目をとらないといえる。
 理想として、あかそぶの温度は27〜28度が好ましい。だが、それではぬるすぎるというお客さんの声に応えて、現在は集めの温度で提供している。


写真7:あかそぶの湯


第6節 新庄町というコンテキスト
 
 戦時中、富山の市街地は大空襲を受けた。しかし、薬師鉱泉の残る新庄町は戦火に合わず今もそのままの面影を残している。
 
 薬師鉱泉が沿っている道は旧国道8号線であり、商店街として昭和49〜50年頃まで賑わっていたという。まちとして非常に力が強く、旧国道8号線が駐車禁止になりそうになったときも人々の反対でそれは却下できたほどだった。そのため、今もその道は駐車違反になることはなく、薬師鉱泉のお客さんも駐車場が出来るまでは道路沿いに駐車していたようだ。
 
 悦子さんは、この商店街でほとんどのものがそろったと語る。服屋、仕出し屋、床屋、金物店、雑貨屋、精肉店総合医院などがあった。
そして、この商店街では、薬屋である金岡本店が大きな影響力を持ち、まちの人々は当時の主人のことを「旦那さま」と呼んでいたほどだという。現在は、県に寄付され県民会館として利用されている。
 
 商店街の人々が薬師鉱泉を訪れることもあったらしく、今と変わらず薬師鉱泉新庄町の人々の生活に寄り添っていたことが伺える。
 現在、新庄町の商店街は雰囲気こそ残っているものの、営業を続けている店舗はごくわずかだ。時間の経過とともに、まちは住宅街へと変わりつつある。


写真8:商店街の一角①              

写真9:商店街の一角②


第7節 日常

・営業時間前

 薬師鉱泉では、定休日である月曜日を除いて、毎朝6時半から準備が始まる。朝の仕込みは勝良さんの担当だ。
 銭湯入り口の裏側にかまどがあり、まず勝良さんはそこで作業をする。タンクのお湯が90度に達するまでまきをくべ続けるのだ。
 浴槽のお湯は前述したとおり、通常のお湯とあかそぶの湯の2種類である。これらの温度設定は、現在自動で調整できる機械を導入している。通常のお湯は44度、あかそぶの湯は41度らしい。
 
 こうしてお湯が設定の温度に到達し浴槽に湯がたまると、今度は表にまわり男湯・女湯の浴槽の掃除を始める。現在、掃除の際に使っているのは高圧洗浄機だ。勝良さんはこれを使い、隅から隅まで掃除をする。実際に体験させて頂いたが、この洗浄機を使うのには、力が必要でかなりの重労働だと感じた。
 浴槽清掃が完了すると、勝良さんの朝の仕込みはとりあえず終了である。ここからの脱衣所の掃除は、悦子さんの担当だからだ。悦子さんは、男湯と女湯の脱衣所を掃除機で清掃し、大きな鏡を磨く。
 浴槽にお湯がたまり、掃除が終了したら、営業時間までつかの間の休息である。


写真10:脱衣所の様子①            

写真11:脱衣所の様子②

写真12;浴場の様子①            

写真13:浴場の様子②

・お客さんについて

 薬師鉱泉のお客さんの年齢層は、だいたい50〜70歳代の方が多い。そして、あかそぶの湯の美肌効果も関係してか、若干女性のお客さんが多いようにも見えた。
 営業は14時からなので悦子さんが番台に向かうのもその頃なのだが、13時頃からやって来て番台にお金を置き、既に入浴しているお客さんもいた。しかし、きちんと料金は支払ってくれており悦子さんも黙認しているようだ。

 もちろん営業が始まっても、お客さんは途切れない。袋にシャンプーやタオルなどを入れて持参し、脱衣所のかごに荷物を入れて入浴する。店内に鍵つきのロッカーもあったが、利用されている方はほとんど見られなかった。薬師鉱泉における人々の秩序と信頼を垣間見たような気がした。

・薬草風呂
 
 薬師鉱泉では、毎週日曜日と1月2日は朝8時から営業しており、薬草風呂を用意している。昔は毎日行っていたがタイルの汚れがひどく掃除が大変だったため変更したらしい。
 主な薬草は、よもぎやひのき、りんご、みかん、イチジクの葉などバリエーションに富んでいる。これらは、昔勝良さんがスーパーマーケットで働いていた関係で安く手に入れることが出来るようだ。
 
 現在は使用していないが、悦子さんのおすすめは牛乳と米ぬかだったそうだ。双方とも肌がかなりすべすべになるが、時間が経つと匂いがきつくなるという理由でやめたという。
 また、チューリップの花びらも好評だったらしい。昔は開きすぎてしまった花は栽培所から無料でもらえたのだが、現在花びらも他所で再利用するため手に入らなくなってしまった。
 このように、日々の営業に変化を加える工夫が薬師鉱泉存続の理由なのかもしれないと感じた。

・銭湯の役割
 
 2013年7月、薬師鉱泉で火事が起こった。大事にはならなかったそうだが、修理のため2か月間の休業を余儀なくされたという。その際、何度もお客さんからの問い合わせがあったそうだ。
この出来事によって悦子さんは、銭湯が地域の人々にとって不可欠なものだと再確認したらしい。ここが無くなると近所の人たち特にお年寄りが困る、出来るだけ続けたいとも語っていた。勝良さんも同じ思いを持っており、「銭湯は半公共」だと考えているという。
 
そして、たとえこの先後継ぎが見つからなかったり、自分が薬師鉱泉を経営できなくなったとしても、ここを風呂屋としてずっと残したいと語った。


第2章 古宮鉱泉

第1節 来歴
 
 古宮鉱泉は、神様のお告げが発祥となって今日まで続いている銭湯である。資料が残っておらず詳細は不明ではあるが、経緯は以下の通りだ。
 
 始まりは、加賀の白山比竎神社の御分霊を奉祀するために郷布市村に白山宮が建てられたことにある。
 その後、元亀年間(1570年)に白山宮は現西中野に移されたが、後享保年間(1720年)に中野新町に移され白山総社と改名した。したがって、もとあった西中野は古宮と呼ばれるようになった。

 天明3年(1783年)、成願寺川と神通川が洪水で氾濫し、1672人の死人が出たという。さらに、その周辺で疫病もはやりはじめた。西中野に住む百姓、海野庄助の娘であるミヤノもこの疫病にかかり、苦しんでいた。ある晩、このミヤノの夢に菊理姫命(白山社ご祭神)が出てきて、古宮の地、つまり西中野に祠を立てるようにと繰り返した。同時に、そこには霊泉があるのでそれを沸かして入浴すると疫病は必ず治るとも告げた。
 
 ミヤノは村の人々に夢の話を伝え、村中で古宮に祠を立て、霊泉を掘った。すると、不思議なことに次々と病人は回復したという。そして、白山総社の御分霊として新たに西中野にも神社を建て直し、白山社とした。


写真14:白山総社(西中野)

写真15:白山社(古宮、中野新町)

 その後、霊泉は明治初年まで約85年間富山藩の指定湯治所として管理され、廃藩置県後は、町湯に降りてきて「古宮鉱泉」となる。そうして、明治・大正・昭和と一般の方によって経営されていたらしい。
ところが、戦時中に祠も銭湯も焼失してしまい、どちらも戦後に建て直されることとなった。
詳細は不明ではあるが、この頃舟坂家が古宮鉱泉を買い取ったらしい。何代かの経営者を経た後、現主人である雅美さんが受け継いだ。雅美さんが27、28歳のときであった。そして約30年がたち、現在に至る。


地図1:富山市西中野・中野新町

写真16:古宮鉱泉

写真17:古宮鉱泉横の祠

写真18:古宮鉱泉



第2節 西中野というコンテキスト
 
 戦前、今の古宮鉱泉がある場所には、風呂屋・旅館・料亭が並んで立っていた。何かの宴会が開かられる時には、町の人たちは3店セットでよく利用していたという。しかし、西中野一帯は戦災にあい全焼してしまったという。そして戦後、白山の祠と一緒に銭湯だけを建設し今に至る。
 
 西中野には、大泉・小泉という地名があることから伺える通り、非常に水に恵まれているらしい。政美さんによると、立山常願寺川の方から地下水が流れてきており、マグネシウムやカルシウムが非常に豊富であるという。そのためか、富山の水質が非常に良かったため、江戸期には大奥で化粧水として使われていたという逸話も残っているらしい。
 また、西中野は城下から少し離れたところにあり、かつてから銭湯は集会の中心であり、人々の息抜きの場であったともいう。


第3節 日常

・燃料
 
 古宮鉱泉の燃料は、おがくずとまきである。それらはガスでお湯をたくよりも冷めにくく、湯あたりもよいようだ。
 そして、お湯の温度は時間によって変えるようにしているらしい。だいたい夕方まではお年寄りが多いため、体に配慮し、ややぬるめの設定でたき、19時以降は段々熱めにわかしていくという。昔は今よりもっと熱めの設定であったらしいが、今も十分熱めの温度である。そのため、熱めのお風呂が好きなお客さんが自然と多くなり、「古宮鉱泉はお湯が熱いらしい」と聞きわざわざ通っている方もいるほどだ。
 雅美さんの経験では、熱めの温度を好むお客さんは、土木関係の仕事に従事していたり、スポーツをしていたりと、体をよく動かす方が多いという。

・お客さん
 
 古宮鉱泉に訪れるお客さんは、60〜70歳台の方が多い。
 私たちの生活を思い返しても、風呂は生活サイクルの一部に組み込まれている。それと同じように、銭湯に来るお客さんにとっても銭湯は生活の一部である。
 
 そのため、お客さんが毎週同じ曜日・時間に銭湯に通う中で、自分と似た生活サイクルで過ごしている人と銭湯で一緒になり、「風呂友達」になっていくという。たとえ「風呂友達」になったとしても、銭湯の外でわざわざ会うようなことはないし、どんな仕事をしている人かは全く関係ない。銭湯という限られた空間の中で、何も身に着けてない状態だからこそ、このような友達の形が生まれるのでは、と雅美さんは語る。

・薬草風呂
 
 古宮鉱泉も、毎週火・土曜日に薬草風呂を行っている。
 銭湯の組合で共同購入した入浴剤を使用しており、本来なら割高なものも比較的安価で手に入るという。その種類は非常に多く、アロエ、ローズ、ラベンダー、しょうがなどが代表的だ。その中でも北海道から仕入れているというラベンダーは特に好評らしい。
 また、夏にはレモン風呂、冬はゆずやすだち、伊予かんなど、季節に合わせた薬草風呂の実施を行っているようだ。


第4節 組合の運動
 
 富山県公衆浴場業環境衛生同業組合があり、その中に富山市浴場組合が属している。雅美さんは、現在この組合の地域役員をしている。
 
 組合では、銭湯業のさらなる活発化のために様々な活動を行っている。例えば、5月には銭湯を利用した子供に無料でジュースを配布したり、和歌山県と協賛し、「じゃばら湯」を組合所属の銭湯で大々的に行ったりしている。ちなみに、このじゃばらは和歌山県の名産であり、ゆずに似た柑橘である。
 
 また、組合によるお客さん向けのサービスとして「遊湯クラブ」というものがある。銭湯に訪れたときにスタンプを押し、期限内にスタンプがたまったら商品と引き換えが出来るというシステムだ。
 今年は「孫とSENTO」がテーマになっており、お年寄りが小学生までの孫やひ孫と一緒に銭湯に来るとポイントを一つサービスしてもらえる。


写真19:スタンプカード

 こうして、子供のうちの大きな風呂に慣れていると、その子供が成人してまた子供を産んだ時、「自分も連れてきてもらったから」と子供と一緒に銭湯に戻ってくることが多いらしい。また、組合が積極的なサービスを提供することで、お年寄りの引きこもり防止にも貢献するという。
 
 役員として活動する雅美さんは、銭湯という場を通して世代をこえたつながりを大事にしたい、そして、目先の利益のために銭湯を経営するのではなく、お客さんのために少しでも長く営業してきたいと語った。


むすび

 薬師鉱泉と古宮鉱泉が今日まで地域に根付いているのは、各々の持つ地理的な背景や戦前から戦後におけるまちの在り方など、様々なコンテキストがあったからだと考えられる。そして、それに加え調査によって、この双方の銭湯において、神仏というコンテキストが非常に大きな意味を持っていることが分かった。
 
 そして、銭湯は昔から続く伝統文化であると捉えながらも、薬草風呂や組合による活動など、生き残っていくための取り組みを行っている。つまり、過去から知恵や工夫をを新たに創造していると考えることができるのだ。


謝辞

 本調査を行うにあたって、薬師鉱泉の出村勝良さんと悦子さん、そして古宮鉱泉の舟坂雅美さん。突然の訪問であったにも関わらず、私をあたたかく迎えて下さり、惜しみなく貴重なお話をして下さったことに心からお礼申しあげます。また、上記以外の方々にも、調査にご協力して下さった全ての方々にお礼申し上げます。本当にありがとうございました。


参考文献

1:白山社奉賛会、『白山社』(2011)
2:富山県公衆浴場業環境衛生同業組合ホームページ
  www.furoya.or.jp/guide/