関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

祭をめぐる2つの祭神観―京都府宇治県祭の事例から―

祭をめぐる2つの祭神観―京都府宇治県祭の事例から―

加藤有貴


【要旨】

 本研究は、毎年6月5日から6日にかけて行われる県祭について、京都府宇治市をフィールドに実地調査を行うことで、県祭をめぐる2つの神社とそれを取り巻く関係者たちの対立の様子について解明したものである。本研究で明らかになった点は、つぎのとおりである。

1.50年近くも続く県祭をめぐる県・宇治両神社間の対立の裏には、「県神社と宇治神社の考える<県神社の立ち位置>の違い」という考え方の相違がある。県神社は<県神社の立ち位置>について、「平等院との関係が切れた後、県神社は宇治神社との関係もなくなり完全に独立した神社になった」と考える。これに対して宇治神社は、「県神社は、もともと宇治神社末社であり宇治神社の一部として存在している神社である」と考える。

2.県・宇治両神社間の対立の裏には、「祭神観の違い」という両神社間の考え方の相違がある。県神社は、「県神社の祭神は「木花咲耶姫命」である」と考える。一方宇治神社は、「県神社の祭神は「宇治神社の祭神莵道稚郎子の母神にあたる宮主矢河枝比売命」である」と考える。

3.県祭は夜中に真っ暗闇で行われることから「暗闇の奇祭」とも呼ばれ、毎年大勢の人が訪れ賑わっていた。その発展には近畿一円に広がる講社の存在が不可欠であった。講社の人々は今でも祭当日だけでなく、祭の準備の際も何度も遠方より足を運び県祭を支えている。

4.1965年に顕在化し、裁判にまで発展した県・宇治両神社間の県祭をめぐる対立の裏には、両神社間の「県神社と宇治神社の考える<県神社の立ち位置>の違い」、「祭神観の違い」という考え方の相違が存在した。しかしそのさらに裏には、「祭の主導権争い」や「金銭的な問題」が隠れているという意見もある。

5.観光協会宇治橋通り商店街振興組合など宇治の経済や町興しに関わる人々によって発足した団体が県祭保存会である。保存会は祭の中でも「神事」ではなく町衆が関わる「祭」に携わり、その中で県神社と宇治神社、そして担ぎ手たち奉賛会の複雑に絡み合う対立関係を仲介していく役割を果たしている。また、宇治市民から協賛金を集めるという重要な役割も持っていた。

6.県神社宮司は、「「あがたさん」は新しい時代は果敢に挑戦していく道しか残されておりません」(田鍬到一2005‐2006:378‐382)。というように、分裂開催のまま独自の県祭のあり方を模索しようとしている。一方、宇治神社や県祭保存会の小山氏を始めとし、祭関係者や市民の中にはやはり分裂開催ではなく、県・宇治両神社が共同で開催する梵天渡御に戻って欲しいという意見が多い。


【目次】

序章―――――――――――――――――――3


 第1節 問題の所在……………3

 第2節 県神社と宇治神社……………4

  (1)県神社……………4

  (2)宇治神社……………11

 第3節 県祭……………15


第1章 対立の顕在化――1965年――43

第2章 裁判――1968年〜1978年――49

第3章 県祭保存会――1981年――56

第4章 くりかえされる対立と和解――1982年〜2003年――63

第5章 分裂開催――2004年〜2012年――81

結語―――――――――――――――――――91

文献一覧―――――――――――――――――――94


【本文写真から】


現在も多くの人で賑わう県祭の露店(2012年6月撮影)


県神社の梵天渡御(2012年6月撮影)


宇治神社梵天渡御(2011年6月撮影)












【謝辞】

 ここで、本研究を進めるにあたりお世話になった方々に謝辞を述べたい。まず、資料探しを手伝ってくださった宇治市歴史資料館の方、祭に対する熱い気持ちをお話ししてくださった県神社宮司の田鍬到一氏、お忙しい中、貴重な時間を割いてくださった宇治神社宮司の花房義久氏、久保田勇宇治市前市長、桐原会会長の神田耕司氏、木ノ花会の堀井義信氏、宇治市民としての意見をくださった矢部文雄氏、御茶屋としての意見をくださった岩井亨氏、そして最後に本研究のために多くの方を紹介いただき、たくさんの話を提供してくださった県祭保存会の小山勝利氏、他研究に協力してくださった皆様に心より感謝申し上げる。