関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

鰊漁場の200年

岡本千佳
はじめに
 (1) 北海道では江戸時代の文化年間(1800年ごろ)から大正時代にかけて、鰊漁が盛んに行われていた。最も豊漁となった大正14年には、小樽だけで鰊の年間漁獲量7万5,000石を記録した。注:生鰊200貫(750kg)が1石
 収穫高の少なかった時代はアイヌの人たちの労働力だけで間に合っていたが、漁網や漁船が改良、漁そのものが大型化するにつれて水揚げも増し、労働力の増大、強化が必要となった。そこで奥羽などの漁師が、収穫の二割前後をその土地の場所請負人に収めることと引き換えに、自由に鰊漁を行う「追鰊」が行われるようになった。定住するようになった彼らは、蝦夷地への和人の進出の先陣であると言える。 
 鰊は当初食用として用いられた。その後江戸時代に人口が増大したことによって、西日本における米・綿・藍・菜種などの農産物の需要が拡大したため、これらの生産を促進させるための魚肥として重宝されるようになり、北前船によって日本海側や西日本を中心に広められた。
 (2) 漁期である3〜5月には、大群で押し寄せた鰊が放出した白子によって、海が白濁する「群来(くき)」と呼ばれる、様子が見られた。またその時期になると、東北地方から3カ月ほどだけ出稼ぎに来る「ヤン衆」と呼ばれる人々や、日雇いで集められた地元の農民が、網元の「親方」の住居である番屋に泊りこんで漁を手伝った。親方は漁場において栄華を極め、番屋はその大きさと立派さから後に「鰊御殿」と呼ばれるようになったことからも、その様子を窺うことができる。
また、このような大量の人と鰊の動きに伴い、鰊漁場には独特の文化が生まれたのである。
 

写真1)番屋には親方家族の住居部分と漁夫の生活空間が併設されている


写真2)親方たちは居室、漁夫たちは板の間で生活していた

 (3) しかし昭和30年頃を境に群来は途絶え、それまで賑わっていた鰊漁場は急激に衰退した。その原因については現在も不明であるが、
①海水温が上昇し、鰊は冷たい海を求め、北へと移動したため。
②産卵のために日本海に来ていた鰊の漁獲量を制限せず、乱獲を行ったため。
③北海道開拓のための森林伐採と海岸のコンクリート化により、鰊の餌となるプランクトンが減少したため。
という3つの要素が複合的に関係していると現在は考えられている。
しかし、ここ2、3年小規模ながら再び群来が見られるようになり、小樽の人々は当時の建築物や漁歌などを継承する活動を行い、漁の様子を後世に伝えるべく様々な活動に取り組んでいる。

第1章  忍路鰊漁場の記憶
 北海道の代表的な鰊漁場としてにぎわい、松前追分節にも「忍路、高島及びもないが」と唄われている、小樽市忍路で生まれ育った、3名のお話を以下にまとめる。
 (1) 三浦一郎さん、竹内肇さん、阿部繁雄さんからの聞き取り
◎3名の先代はもともとのアイヌ民ではなく、新潟、秋田、青森というように本州から北海道に移り住んできた人々である。また忍路には、滋賀県から毎年手伝いに来る漁夫や、徳島県出身の親方もおり、漁場の人々の出自は多様であった。
◎鰊漁の最盛期には学校は休みになった。子どもたちはモッコを背中に背負って網から落ちた鰊を拾ったり、年下の兄弟の世話をしたり、網の目に詰まった鰊の卵を取り除いたりするなど、子どもにもできる仕事を手伝った。またおやつに鰊の卵である数の子を食べることもあった。


写真3)背中に背負い鰊を運ぶモッコと呼ばれる道具
◎漁場は完全な縦割り社会で、そのトップは親方、そのあとに大船頭、下船頭、若い衆、炊事係と続
く。特に船頭の言うことは絶対で、親方もめったに船頭に指示をしなかったことから、それだけ船頭の責任は大きかった。また序列に伴い寝食の場所も定められていた。

写真4) 番屋の「板の間」の壁沿いにある漁夫の「寝台」(ねだい) 健康な若者が上
段を使用した
◎鰊漁は3〜5月ごろに最盛期を迎えるが、そのほかの時期はカレイやコウナゴ、ホッケの漁を行った。半農半漁の生活を送る人たちもいた。
◎生の鰊は粒鰊と呼ばれ、貨車で道内各地に運ばれた。一方鰊の多くは腹を抜いて背骨を取り除き乾燥させて「身欠き鰊」に加工された。大型のきれいなものは身欠きにされ、小型の崩れたものは、そのまま鰊釜と呼ばれる釜で煮上げられた後に絞られ、肥料粕にされた。身欠きの主な作り手は、女性を中心とした地元の人で、浜のあちこちに乾燥させるための干場が見られた。干場の下には鰊の身から油がしたたり落ちるため、大根や芋などを栽培した。

写真5)身欠き鰊の干場  出典:忍路鰊場の会(1994)創立20周年記念誌かもめのあしあと
身欠き鰊は蛋白質の含有が多い割に値段も安いことから、蒲焼や煮染、味噌煮など様々な方法で調理された。また腹もちもよく高カロリーであることから、野良仕事や山仕事の間食用として携帯された。

写真6)鰊の塩焼き
◎鰊漁場では鰊漁にまつわる様々な行事が行われた。漁に先立って3月15〜25日ごろには網下ろしが行われた。鰊の大漁と舟の海上安全を祈願すると同時に、漁夫の士気の鼓舞と出漁の前祝いとして宴会が催された。また2月の立春前日の豆まきは、鰊漁場では重要な行事だった。神棚に上げた大豆を主人が並べ、それぞれを忍路、祝津というように場所にあてはめ、燠で焼き、白く焼けると豊漁、黒く焼けると不漁というように考える「豆占い」を行った。
◎3月末ごろになると水温は摂氏6度くらいになり、群来が予想されるころになる。すると船頭は枠船の上で「さわり糸」を手にして、さわりの感触や鰊の量、周りの状態を判断し、若い衆に網起こしの指示を出す。そしていよいよ戦闘開始となる。そこから約3カ月にわたる、いわば「祭りのような戦争」が始まる。また建
網漁をスムーズに行うために欠かせなかったものが、いくつもの歌であり、よく知られるソーラン節のほかにも様々な漁歌が今に伝えられている。
◎昭和30年ごろ、突然群来が見られなくなり、漁場は急速に衰退していった。一部移築保存されたものを除いて、番屋の多くは壊され、忍路を離れ出稼ぎに出る人、カレイ、アワビ、タコ、ウニなどほかの漁に移る人、他業種に移る人など様々であった。


写真7)阿部繁雄さん、竹内肇さん、三浦一郎さん

 忍路の網元の親方の妻として、鰊漁場の華やかな時代を実際に見てこられた須摩さんのお話を以下にまとめる。
 (2)須摩トヨさんからの聞き取り
◎親方は高額納税者であったために、当時の貴族院選挙権を与えられ、その土地において大きな力を持っていた。網元が漁夫たちに賃金を支払う方法としては、給料制と歩合制が併用され、お金に余裕がある網元は給料制をとることが多かった。
◎親方の妻は基本的に漁には関与しなかった。番屋には炊事係がいて、出稼ぎ漁夫と共に来たその妻が担うこともあった。
◎出稼ぎにきた漁夫に対して「ヤン衆」、「鰊殺しの神様」という呼称があるが、実際の漁場では使用しなかった。「ヤン衆」の呼び名はソーラン節の“ヤーレン”、“雇い”、アイヌ語で網という意味の“ヤ”からきているなど、様々な由来が伝えられているが、俗称の意が込められているため、彼らを貴重な人材と考える親方たちは「若い衆」などと呼んだ。
◎鰊漁場の経営は大きな危険を伴う投機事業であり、当たれば巨額の利益を得ることができた。豊漁の年や、そうでなくても計画的な資金繰りを行う親方の生活は豪勢なものであったが、すぐに全財産を使い果たしてしまい、資金を他の親方に前借りして、次の鰊漁までの1年間を質素に過ごさなければならない親方もいた。

第2章 蛸漁師、小樽山の手の人々から見た鰊漁
 鰊漁は小樽の街に大きな経済効果をもたらし、様々な影響を与えたが、直接鰊漁に従事しなかった小樽の人の目には、鰊漁師たちはどのように写っていたのだろうか。現在は引退されたが、小樽築港付近でかつて蛸漁を行っていた池田栄次さん、小樽山の手で生まれ育った方のお話を以下にまとめる。
 (1)池田栄次さんのライフヒストリー
 大正17年小樽に生まれる。家は床屋であったが、尋常小学校4年生のころ、山形県酒田の親戚のもとで単身、漁を学ぶ。数年後東京に出たのち、志願兵として戦争に出兵する。敗戦後23歳で捕虜として広島に引き揚げ、昭和22年小樽築港で漁師を始める。小樽の親戚がかつて漁場としていた場所を引き継ぎ、漁を行っていたが、当初はよそ者扱いされるなど不遇な日々を送る。始めは櫓や櫂を使った人力の船で磯物漁を行っていたが、昭和30年ごろには電気チャカと呼ばれる車のエンジンのようなものを積載した船、昭和33年にはダイヤディーゼルなどが登場したことから、漁の内容も次第に変化し蛸漁を始めた。
 (2)蛸漁と鰊漁の違い、蛸漁師から見た鰊漁師
蛸は3〜10月が旬だが、時期によって漁場を移動することで、1年中行うことが可能な漁である。とくに池田さんは水温を計測したり、蛸にタグをつけて放流し蛸の動きを調べたり、また蛸つぼにも改良を重ねたりというように熱心に様々な研究を重ねた。


写真8)改良が重ねられた300×420×185の蛸つぼ

このように堅実に漁を行う蛸漁師にとって、かつての鰊漁師は1年分の稼ぎを春の数カ月間で得ることに賭ける、博打うちのように見えていたようである。
 (2)小樽山の手、旧手宮線沿いの色内で生まれ育った方のお話
戦争当時、食糧が不足したため、2,3日だけ干した鰊をよく食べていた。自転車で他人の家の軒先で干されている鰊をむしって食べたこともあった。鰊の記憶は食糧難だった戦時中の記憶に直結し、あまり思い出したくない。

第3章 祝津鰊漁場の記憶
 小樽市祝津の海のそばで、板垣フサさんは漁業と深くかかわりながら暮らしてこられた。幼少期の魚場での生活の記憶などのお話を以下にまとめる。
 (1) 板垣フサさんからの聞き取り
◎長女として学業よりも、漁に出る親に代わって弟たちの面倒をみることや、家事を手伝うことを優先していた。
◎春は一家総出で鰊の身欠き作業、夏は昆布漁、あるいは父親だけ出稼ぎで北見紋別にホタテ漁、冬場になるとシャコ漁に出向いた。
◎小学生の頃、家族のためにモッコに氷を入れて、寒くて暗い夜道を懸命に歩いたことを「氷」という題名で作文にすると、表彰され展示されることになり、とても嬉しかった。
◎子どもの頃、近所で強盗殺人事件がおこり、犯人は「ヤン衆」ではないかという噂が広まった。捜査のために血がついたカムチャッカナイフを警察官に見せられ、とても恐ろしかった。
◎漁協に就職し、タイプライターでの文章作成などを20年ほど任された。務めていた間とても忙しい日々を送った。
◎その後魚屋を開業した。


写真9)当時のエプロンを身につけてくださった板垣さん

第4章 鰊文化の継承
 昭和20年頃を境に大規模な群来は見られなくなり、かつての鰊漁の賑わいや漁の様子は人々の記憶から姿を消しつつあった。しかし近年の様々な研究や試みにより、少しずつ鰊の姿が海岸に再び見られるようになった。そればかりではなく、鰊漁の中で生まれた様々な文化も、多くの人の力で後世伝えられようとしており、またかつてのように鰊漁で街は賑やかになろうとしている。
 (1) 蕎麦屋「藪半」
 北前船によって小樽から京都に伝わった鰊は、鰊蕎麦として多くの人に食されるようになった。しかし、小樽には約40件の蕎麦屋があるにも関わらず、鰊蕎麦をメニューに出す蕎麦屋は当時1件もなかった。
 そこで鰊で小樽を活性化させようという「鰊プロジェクト」の一員で、蕎麦打ち5段の須藤さんが「群来蕎麦」を提案した。「群来蕎麦」とは身欠き鰊を入れる通常の鰊蕎麦に、野菜、海藻、数の子、そして群起に見立てたとろろを加えた、従来の一般的な鰊蕎麦とは異なる特徴的なメニューである。高コストであることやメニューを均一化させることへの懸念などから当初は支持が少なかったが、「藪半」の代表取締役の小川原さんの呼びかけで「群来蕎麦」は実現し、鰊のふるさと小樽の看板蕎麦となった。
 (2)「祝津たなげ会」
 「祝津たなげ会」は、観光資源や伝統文化の活用によって、小樽祝津の街を活性化させる取り組みを行っている団体である。使われなくなった番屋を改築し、人々が鰊漁の知識を深める場として活用、また毎年5月頃に「おたる祝津にしん祭」を行うなど、祝津を再び鰊の街とするべく地元の人々と協力し精力的に活動されている。


写真10)茨木家中出張番屋の隣の「にしん街道」の標柱
 (3)「忍路鰊場の会」
 鰊漁場で行われる様々な行事や、漁労にかかせなかった船漕ぎ歌、網おこし歌、沖揚げ音頭、子叩き音頭などの小樽市無形文化財に指定されている歌を保存し、後世に伝える活動を行っている団体である。忍路では夏祭りなどで、漁歌が披露される。
 以下は今回の調査中に、小樽市総合博物館で行われた鰊漁歌の公演の様子である。


写真11)船を漕ぐ際の掛け声から生まれた船漕ぎ歌の様子


写真12)鰊が入って重くなった網を引く際に息を合わせるために歌われる網起こし歌の様子


写真13)タモで鰊を舟に汲み上げる際の掛け声から生まれた沖揚げ音頭(ソーラン節)の様子


写真14)網に付着した鰊の卵(数の子)を叩き落す際に歌われる子叩き音頭の様子

おわりに
 江戸時代後期から昭和初期までの約200年間、小樽の祝津、高島、忍路などの町は、約3ヶ月の間集中的に、別名春告げ魚と呼ばれる鰊を獲る事で、ほぼ1年分の収入を得ていたことからも明らかなように、鰊漁に依拠した生活が成立していた。
 現在の東北地方を中心とした内地からの人の流入や、鰊輸送のための北前船の影響で、それまでになかった人や物の流れが発生した。また直接舟に乗るのは男の仕事であったが、女性や子どもも巻き込んで漁は行われ、鰊漁場ならではの生活習慣や文化も生まれた。
 鰊漁に対して抱いた思いは、立場や性別、年齢によって様々であるものの、小樽の人々の生活と小樽の街の歴史に大きな影響を与えた事は間違いない。
 鰊が獲れなくなった事により漁場は衰退し、独特の文化や鰊漁の記憶も失われるのかと思われたが、漁師に限らず町の人々が力を合わせて、積極的に後世に伝える活動を行うことで、今なお守り続けられている。

謝辞
調査にあたり、祝津たなげ会の渡部満事務局長、築港の池田英次氏、小樽市漁業協同組合の方々、蕎麦屋藪半の代表取締役で観光カリスマの小川原格氏、忍路場の会の三浦一郎氏、竹内肇氏、阿部繁雄氏、小樽市鰊御殿の小倉氏、祝津の板垣フサ氏、元忍路鰊場の会網元の須摩トヨ氏、須摩氏のご友人関アヤメ氏、小樽市総合博物館の石川直章先生、優しく快く接してくださった小樽の方々、そして島村恭則教授、最後まで支えてくれた佐野さん、本当にありがとうございました。その他の協力、助言をしてくださった全ての方に心から感謝の意を表します。

参考文献一覧
須摩正敏 (1989) 『ヲショロ場所をめぐる人々』 静山社
内田五郎 (1978) 『鰊場物語』 北海道新聞
山内景樹 (2004) 『鰊来たか 「蝦夷地」と「近世大阪」の繁栄について』 かんぽう(政府刊行物)
朝日新聞・小樽通信局 (1989) 『小樽 坂と歴史の港町』 北海道教育社
小樽観光大学校運営委員会 (2007) 『おたる観光大学校認定検定試験公式ガイドブック』