関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

小樽 喫茶店を通して見えるもの―老舗と革新派―

竹中佑里


はじめに
小樽には、戦後から昭和の末まで多くの“喫茶店”が存在した。戦後の日本に純喫茶や、ジャズ喫茶、カラオケ喫茶などさまざまな喫茶店があったように、小樽にも多くの名喫茶店が存在したのだ。喫茶店について記された『喫茶店の時代―あのときこんな店があった―』のなかでも紹介されている喫茶「光」は現在も営業している純喫茶として有名である。調査を始めるにあたって、私は、小樽の喫茶店を調査することでまちや人々の物語の記憶を思い起こしたいと考えていた。そして、調査の途中で小樽のなかでも特殊な喫茶店として開店、発展し、そして閉店していったひとつの喫茶店に出会うこととなった。それが「喫茶エンゼル」であった。この喫茶店については、小数の文献やインターネット上にて紹介されているが、その実態・歴史を詳細に記録したものはない。小樽の老舗として現在も営業されている喫茶店の取材も通して、この喫茶店の歴史を振り返り、これにて記録を残したい。

1. 喫茶店とは
今のように応接間がなかった時代、喫茶店は客人と話をする場、又仕事での取引の場としてビジネスにも利用されてきた。そして、自分の憩いのスペースとしてサラリーマンが利用したり、朝からモーニングをゆっくりと食べたりと、生活の一部としての場でもあった。このように、戦後の日本において喫茶店は公私ともに利用される空間として、大変重要な役割を担ってきたといえる。又、ここでいう喫茶店とはカフェーとは全くことなるものである。昔は女中さん(今でいうウェイトレスのようなもの)がいて、お酒を取り扱う店をカフェーといい、スナックやバーといった感覚の店であった。今ではカフェはおしゃれなコーヒー店として気軽に入れるものであったが、昔のカフェーは基本的に男の場であったのだ。

■写真1小樽運河プラザ1番庫カフェオーナー/佐々木一夫様のコレクションより抜粋

1−1. 日本における喫茶店の歴史概要
茶店の歴史については、明治22年4月に昔鄭永慶によって開かれた可否茶館(かひぃ さかん)が本格的なコーヒー店の始まりであったとされるが、日本ではその後銀座に開かれた「カフェープランタン」や「カフェ・ライオン(精養軒)」によってコーヒーを飲む文化が庶民にも普及し、戦前には多くの喫茶店が庶民にも親しまれる存在となっていた。銀座や新宿などを代表とし、全国各地で1920年代には空前の喫茶店ブームが到来した。1950年代後半にはジャズ喫茶、歌声喫茶名曲喫茶など個性的な店が続々と表れ、1970年代には大ヒットしたスペースインベーダーゲームの登場により多くの喫茶店がゲーム機を設置して、若者にとっても喫茶店は親しみやすいものであった。しかし、昭和の時代とともにそのブームにも終焉が見え始め、日本を代表する数々の喫茶店はその歴史に幕を閉じていった。今では“喫茶店”というと古びたイメージをする若い世代が増えた一方、スターバックスドトール・コーヒーといったチェーン店やカフェがおしゃれなスポットとして親しまれるような新たな喫茶ブームが到来しているともいえる。

2.小樽の喫茶店
上記で記したように、日本では戦後から昭和の終わりにかけて喫茶店ブームが巻き起こった。北海道小樽市ではどうだったか。小樽での聞き取り調査によると小樽でも戦後から昭和末にかけて多くの喫茶店が軒を連ねた。昭和39年小樽市の人口が20万6000人とピークになった年には200件以上の喫茶店が点在したという。現在小樽市内の電話帳にはカフェ7件、喫茶店77件、コーヒー専門店10件が登録されており、全てを合わせてもピーク時の半数以下に落ち込んだことが伺える。

■写真2 小樽運河プラザ1番庫カフェオーナー/佐々木一夫様のコレクションより
    小樽の喫茶店のマッチケースも多く残っていた


2−1.小樽喫茶店 あまとう
小樽を代表する老舗喫茶店として有名なのが「あまとう」である。最近では、「マロンコロン」や「クリームぜんざい」が百貨店の北海道物産展などで人気を呼ぶなど、「あまとう」という名前をご存知の方も多いのではないか。ここでは、3代目の柴田明さんにお話を伺った。
今では、洋菓子が注目を集めているが、あまとうの歴史は昭和4年(駒ケ岳噴火・世界恐慌の年)に当時、まるいちラムネに勤めていた初代柴田昇さんがまるいちの印を用いて「喫茶と食事の店 まるいち 黨党」を開店させたことに始まる。

■写真3 柴田昇さんが当時勤めていたまるいちラムネ

■写真4 初代柴田昇さん

■写真5 創業当時の店の様子/女給さんの姿は着物である

当時メニューは飲み物から酒、洋食、寿し、支那食(中華)、そば類など80種類以上を揃えており、昭和11年当時の写真には着物を着た「女給」さんが映っている。当時の客層は近所の家族連れから女性や労働者など様々であったそうだが、初代柴田昇さんは午前10時から午後11時まで営業し、寝る暇がなかったという程の盛況ぶりだった。昭和18年に「まるいち甘黨」から「まるいち甘党」へ改名、昭和20年以降には着物であった制服から洋服へと変わっていった。以下の写真では洋風の制服にオードリーヘップバーンを意識した髪型の女給さんが写っている。大正期から多くの外国航路の船を迎えてきた小樽では、服装や髪型にも外国の影響を受けやすかったのだろうか。
そして、戦後にはメニューを洋菓子専門へ変更、砂糖の供給が少なかった時代にズルチンを使用したアイスキャンデーを発売し大ヒット。「キャンデー部」という部署を設置したほどだ。


■写真7 昭和30年頃の制服と髪型/戦後、着物から洋風の制服に・・・
            
昭和27〜28年頃に増改築し今の店の間取りになった。現在の店名「あまとう」になったのは、昭和31年のことで漢字表記かかな表記かという夫婦げんかの末に、2代目柴田さんの奥様が「あまとう」という表記へ変更させたそうだ。昭和35年にクリームぜんざい、マロンコロンを販売して以降、大ヒット商品となり、現在も愛され続けるメニューとなっている。高校生の喫茶店への立ち入りが禁止されていた頃には、高校生の指定喫茶店として小樽で指定された3店のうちの1店として、女子高校生にも人気のお店であった。現在では、その当時の常連客が親子2代、3代と来店し、小樽市だけでなく多くの人々に愛され続けている。

■写真8 昭和18年頃の甘党

■写真9 現在のあまとう

又、冒頭でも紹介したように最近ではクリームぜんざい、マロンコロンが人気を呼び、新たに札幌市に1店舗がオープン、盛況を呼んでいるが、まだ大きな全国展開には踏み出さないと3代目柴田明さんは語っていた。今後も「あまとう」は小樽を代表とし、小樽、そして北海道の人々に愛され続ける店となっていくのだろう。

■写真10 現在の店内のソファー

2−2.小樽の喫茶店 米華堂
昭和3年創業以来、現在も変わらぬ味を守り営業を続けている「米華堂」は、小樽で最も古い洋菓子と喫茶の店として人気のお店である。創業当時、小樽商科大学の前の地獄坂上り口にあったという店舗は商大の学生が多く訪れたそうだ。

■写真11 花園銀座商店街の通りに面する米華堂 

現在は3代目の八木浩司さんが寿司屋通り横の花園銀座商店街(以降、花銀)に店を構えている。私が訪れた際には、八木さんと奥様、お母様が迎えて下さり、当時から使用しているという温かみのある椅子や店内はとても落ち着いた雰囲気であった。

■写真12 店内の様子

戦後に現在の店舗の向かい側へ店舗移転し、7年前に現在の場所へ移転したということだが、昭和30年代には商大生がダンスホール向かう待ち合わせに利用したそうなので、商大近くから稲穂のほうへ移転したのは昭和30年代半ばかそれ以降ということになる。また、これを裏付ける資料として、『小樽商科大学 学園だより NO.152 2008.1.31創刊』に『よく商大生がダンスの待ち合わせに利用していた喫茶店。洋菓子屋さんだが,昔はラーメンなどの食事もできた。もちろんスープもしっかり鶏肉から。また2 代目がクラシック好きで,店内にはレコードが流れており,商大生も聞きいっていたそう。英語の「ベーカー(パン屋)」と仏語「ガトー(菓子)」を組み合わせ,漢字をあてて「米華堂」の店名に。』(以上、資料より引用)という記述で米華堂が紹介されていたことから、当時はケーキやコーヒーといった飲食だけでなく、学生たちが集う場としてよく利用されていたことが伺える。
そして、戦時中や戦後には、コーヒー豆が手に入らない時代もあり、大豆などの代用品でまかなうこともあったそうだが、資料中の元商大生の話にもあるように、洋菓子だけでなく食事も取り揃えた時代もあった。移転して以降は、花銀という立地からスナックや飲み屋街のお客が利用したり、地元客、常連客、更に最近では観光雑誌などに紹介されたりと、多くの人々に利用されている。私が伺った時には、地元客らしい年配の女性が3人程来店していた。

■写真13 ご主人と奥様

3.喫茶 エンゼル
小樽を中心に喫茶チェーンを拡大した「喫茶エンゼル」。小崎周平さん(小崎さんは平成18年に他界している)は小樽の大手金物店に勤めていたが倒産し、昭和40年に「エンゼル公園前店」をオープンさせた。その後、昭和40年から53年までに6店舗のチェーン店を開店させた。店の名前は、エンゼルフィッシュの“エンゼル”から由来しているそう。 取材では、奥様で、ご一緒にお店を経営されていた小崎満子さんに当時のお話をお伺いすることができた。

■写真14 当時店内の一部に置かれたグッズ

3−1.小樽初のチェーン店?
まだ小樽にチェーン店が浸透していなかった時代、」ご主人の小崎周平さんは「少し歩けばエンゼルがある」という夢を抱き、小樽にて「エンゼル」チェーン店化を革新的に進めようとした。そして、昭和40年に公園通り店を、昭和44年に和風茶房「嵯峨」(昭和52年6月10日に「エンゼル」銀座店として再開)、昭和46年に綜合ペットセンター「エンゼル」(昭和51年4月20日「エンゼル」駅前店として再開)、昭和51年11月30日サンビルオープンに合わせ「エンゼル」サンビル地下店、昭和53年12月20日一番街店、同年9月18日五番館をオープンさせるという偉業を達成したのであった。

3−2.エンゼル革命
喫茶エンゼルを創業した小崎さんは、喫茶店の経営に関しても革新的であった。当時、喫茶店組合では、喫茶店で提供できるメニューに制限があったが、小崎さんはお客様のために軽食や本格的な料理を提供したいという思いで当時の組合を脱退し、喫茶店としては異例の本格レストランメニュ−を提供した。そして、子供や学生から大人まで楽しめる数々の人気メニューを輩出していく。また、喫茶店としては異例の年中無休、24時間営業、日替わりで色が違う制服、チェーン化のために規律化されたエンゼル厳守事項の徹底をするなど、小樽においてエンゼルを差異化するために様々なスタイルを確立させたといえる。まさに、エンゼル革命である。他にも、一番街店という2階の店舗へエスカレーターを設置したり、内装にシャンデリアやステンドグラス、トレードマークのエンゼルフィッシュが描かれた彫刻画などを配置したりと、店内の内装にかなりこだわりをもってエンゼル革命を行った。エンゼル革命は小樽の人々にとって衝撃的な話題であり、そこへ集う人に幸福な時をもたらす場所であった。

4.エンゼル革命−伝説メニュー
 エンゼルには、数々の伝説メニューがあった。

4−1. ホットサンド
当時の数あるメニューのなかでも人気メニューのひとつであった。今回は特別に当時と同じものを作って下さった。

■写真15 ホットサンド

4−2.ピラフとエンスパ
 小崎周平さんが、このメニューのために組合脱退を決断したというピラフとエンゼルスパゲティー。喫茶にメニューが豊富でなかった当時、学生やサラリーマンなどに大ヒットした。「エンスパ」という略語が客に浸透するほど(エンゼル現象)、盛況なメニューであった。

■写真16 当時のメニュー

4−3.お子様ランチ
 エンゼルのメニューは仕込みから全て手作りであった。手間のかかるお子様ランチは子供だけでなく大人から注文される人気メニューであったという。

■写真17 手間がかかって大変だったというお子様ランチ

4−4.ファンタジー
 カップルに人気のアイデアデザート。大きさの違う2つのグラスを重ねた下に、ドライアイスを入れ、煙の出る細工を施したパフェであった。ここにまで、お客さまを楽しませたいという小崎さんの思いが込められている。

4−5.エンちゃん
 女性や学生に人気のエンゼルパフェ。これも客に「エンちゃん」と呼ばれ、親しまれるメニューであった。

■写真18 エンゼルパフェ

5.フェリー就航と24時間営業(駅前店)
昭和45年のフェリー就航より夜中に小樽へ到着した客がエンゼル駅前店を利用するようになったという。そのため、その客をつかまえようとするタクシーによって店の前がタクシーの待ち場のようになることもあった。フェリー到着前の時刻にはは花園町などのママと客などが利用し、その客が帰る頃に丁度フェリーが就航するため、フェリー到着前の時刻になると従業員が慌しく動き、大量の来客に備えていたという。 

6.エンゼル厳守事項
小崎さんは、エンゼルが初の試みとしてチェーン店ならではのマニュアル「エンゼル厳守事項」を作っていた。ここでは、他業者が視察に来たり、勉強にきたりと、エンゼル現象が起きていた。

■写真19 エンゼル厳守事項

7.日替わりの制服
小崎さんのこだわりは制服にまであった。毎日(月)黄、(火)オレンジ、(水)緑、(木)茶、(金)ピンク、(土)青、(日)赤、と曜日ごとに色分けされた制服で客を迎えるのだ。 この制度には、アルバイトのウェイトレスにも人気であったという。

■写真20 日替わりの色

■写真21 水曜日の制服

8.小崎周平さん
これまで紹介したように、小崎さんは喫茶エンゼルを小樽に広めるにおいて、惜しみなく様々な試みを実行した。小崎さんは、エンゼル創業当初2階で飼っていたペットがきっかけでペットセンターもオープンさせた。動物好きであった小崎さんは、ペットセンター開業のときに『月刊おたる12月号』にも取り上げられ、インタビューを受けたり、小樽市内の全小学校にカブトムシを寄付するなどして、新聞にも取り上げられたりした。エンゼル革命を起こした人物は お客様第一主義であり、人のために尽くす優しい人であったのだ。

■写真22 小崎周平さん

■写真23 北海道新聞に掲載される

■写真24 月刊「おたる」に紹介される

9.エンゼルおばさん
 一方、奥様の小崎満子さんは、学生から「エンゼルおばさん」と呼ばれ、親しまれる存在であった。常連の商大生たちが集った際には、「俺たち、ファンクラブつくろうって言ってんだー」という話があったほどだ。また、客からの置手紙では満子さんを歌に詠ったものが書かれているほど、喫茶エンゼルの顔として客にとって大きな存在であった。

■写真25 エンゼルおばさん 小崎満子さん

10. 時代と共に…
小樽の喫茶店全盛期はちょうど人口ピークに達した昭和30年代後半から40年代前半といえる。この喫茶店ブームに陰りが見え始めた頃、エンゼルは生まれ、その革命的戦略に一時はエンゼルブームが起こることになる。多くのまちの人が夢をもらっただろう。しかし、札幌への人の移動が加速し、小樽の人口減少やひとのながれが変わってしまったことで、客足も減少し、豪華すぎる店内や手間のかかる仕込みなどと採算が合わなくなっていく。そして、「喫茶エンゼル」から「喫茶と食事の店 エンゼル」へ。定食などにメニューを変更した。(駅前店の看板から「喫茶」という部分をを小崎さん夫婦は泣きながら外したというエピソードまで聴かせていただいた。)


11.小樽の人々にとってのエンゼル
インベーダーゲームが流行した昭和54年には、ゲーム機を設置していた駅前店に学校帰りの学生が集まるようになった。そこでは、攻略法の教えあいなどがさかんで、今の個人化されたゲーム機にはない交流の場ともなっていたようだ。話を伺った米華堂奥さんもその一人で、女子高生時代にエンゼルへ通い、インベーダーゲームをしながら「エンちゃん」を食べた記憶があるとおっしゃった。
また、まだ駅前開発がされていない頃、駅前にはビジネスホテルがあったために、エンゼルにモーニングを食べに来る客が多かった。

小樽市立美術館職員 遠藤さん(60代)は浪人中によく勉強しにいったという。勉強の息抜きにお店に来ることもしばしばあったそうだ。

えびぬま歯科 海老沼先生(50代)は平成になってから歯科の前にあったエンゼル駅前店へ毎日通い、エンゼルおばさんとよく話をして癒されたと懐かしんだ。当時、駅前店には、本物のエンゼルフィッシュが大きな水槽に飼われており、この魚にも癒されたという。

12.エンゼル閉店
次第に銀座店、公園前店(昭和55年)、五番街店、一番街店という順に閉店してしまう。平成15年には、駅前の道路拡幅工事により駅前店までもが閉店する。平成18年に周平さんが亡くなり、平成19年駅前開発によりサンビル地下店も閉店することになる。
そして45年間のエンゼルの歴史に幕を閉じたのであった。

13.現在店舗はどうなったか

エンゼル公園前点は現在は美容室へ

■写真28 エンゼル駅前店
昭和51年開業当時の写真と現在(駅前道路拡張のよって店の位置が大幅に減少)


■写真29 サンビル店(シャンデリアがあった)
 現在のドーミーインホテルがサンビルと呼ばれていた。駅前開発により店舗はなくなった。 駅前開発前には現在の紀伊国屋のあるビルが1ビル、長崎屋のビルが2ビル、ドーミーインが3ビルと呼ばれていた。


■写真30 エンゼル銀座店 昭和52年 現在、店はそのまま
(ファッションキャバレーになっている)
現在の花銀通りは、 当時レインボー通りといって各店様々な色のテントが。


■写真31 エンゼル五号館 昭和53年
本格レストランメニュー のあるお店

エスカレーター・ステンドグラスがあるお店
現在のサンモール一番街にあり、エスカレーターは健在であった。

■写真32 エンゼル一番街店のエスカレーター
■写真33 天井にはステンドグラスがある


14.小樽において
エンゼルは地元に徹し、他地域に移転の申し出は一切受け付けなかったという。また、革新的なスタイルを持ち込んだが、当初はおたるのひとには理解されない(ビュッフェスタイルで持ち帰る客が多発する失敗例)こともあり、ゆったりと時間の流れる小樽には早すぎた、あるいは風土にあわなかったのかもしれない。
一方、あまとうは物産展などで、札幌に支店をオープンさせるなど、小樽にありながら、じわじわと全国へ人気がでてきている。米華堂もまた、洋菓子と珈琲専門の確固としたスタイルを維持しながら、観光やグルメ誌に取り上げられるなど、新たな客層に人気を呼んでいる。そして、私が訪れたときも主婦層や女性客が多く目立った。喫茶店には女性に人気のメニューが多いこともあり、現在では喫茶店が主婦の井戸端会議の場所として利用していることが覗えた。時代と共に、日本の住宅事情も変わり、喫茶店が女性の場へと移行しているともいえるだろう。

おわりに
今回、エンゼルを中心に取材をして、エンゼルという喫茶店がおたるの人々に愛された喫茶店であったと感じた。また、おたるには今でも愛され続ける老舗の喫茶店が残っているが、そこには時代が変わってもずっと変わりのない「昭和のノスタルジー」(“あまとう”の柴田明様の言葉より引用)が詰っている。そんな喫茶店の魅力を、次世代の人々に再発見してもらいたい。小樽の喫茶店がこれからもその歴史を深めていってほしい。

謝辞
なお、この論文を作成するにあたって喫茶エンジェル/小崎満子様、小樽博物館/石川様、小樽運河プラザ1番庫カフェオーナー/佐々木一夫様、小樽文学館館長/玉川薫様/遠田様、洋菓子・喫茶あまとう/柴田明様、米華堂/八木浩司様、ご家族の方、えびぬま歯科/海老沼先生、斉藤淳様、等々その他本当に多くの方々にご協力頂きましたことを、この場をお借りして御礼申し上げます。有難うございました。

参考文献
琥珀色の記憶』[時代を彩った喫茶店]/奥原哲志/河出書房新社/2002
『喫茶店の時代―あのときこんな店があった―』/林哲夫編集工房ノア/2002
小樽商科大学 学園だより NO.152 2008.1.31創刊』