関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

小樽の在日韓国人

北村美季

はじめに

 北海道では、大正5年あたりから北海道炭鉱汽船株式会社による朝鮮人労働者の大量採用が始まった。一時は朝鮮人工夫の労働力は「良く服従する」、「優秀な体力」により好評で1000人を超え、増加していたが、昭和5年以降の国内不況により募集はストップした。その後、第二次世界大戦がはじまり、北海道にも国家権力のもと朝鮮人労働者が組織的に大量移入(=連行)された。
 小樽では北海道統計書の国惜別外国人登録者数より、平成21年現在で韓国、朝鮮人は100人いる。北海道では上記のような歴史があるが、では、小樽にはどのような歴史があり、彼らは今どのような生活をしているのだろうか。そして今回民団小樽支部の方に協力してもらい、小樽の在日韓国人の調査を行った。

第1章 小樽の韓国・朝鮮人

(1)戦前――小樽の「朝鮮人
  戦前、小樽に来た人たちは、炭鉱で働く人よりも「木材積取人夫」として働く人が多かった。木材積取人夫とは、伐採され、加工、沿岸などに搬出されている木材を汽船に積み込み、その需要地に輸送する木材積取事業に必要な労働力を提供する人であり、昭和戦前期にはとりわけ樺太材の積み取り事業が小樽港で行われていた。その積取人夫の1割5分が「朝鮮人」とされている。朝鮮人専用の下宿も多く、肉体労働者として低賃金で働いた。日当は60銭~1円で、宿代や蒲団の貸料を引かれ、祖国に送るお金はなかった。

(2)戦後――小樽にやってきた人々
 戦争が終わり、それまで小樽にいた人は、北朝鮮への引き揚げ船で帰っていった人たちが多かった。当時の北朝鮮は今よりも状況が良く、「楽園の生活だ。」と言って、みな期待して帰っていった。
 そして戦後になると、札幌から小樽に「朝鮮人」が続々とやってきた。戦後、小樽は札幌よりも景気がよく、商売の地を求めてきた人が多かったのである。中央市場のあたりはぶつかる人みな「朝鮮人」というほど、戦後すぐは多かった。その多くの人がパチンコ屋を始め、昭和30年ごろにピークを迎えた。しかし、ライバルが増えたため、儲けた人たちは小樽から出て行ったり、二世、三世になるとそのあとを継がなかったりして、パチンコ屋は次第に少なくなっていった。

(3)現在――小樽に住む在日韓国人
 現在、小樽に在日韓国人は20世帯ほどしかなく、非常に少なくなっている。さらに、在日一世はほとんどおらず、二世、三世の世代になっていて、日本国籍を取得していく人も多い。韓国人の数も少ないため、母国の食材を売っているマーケットもないが、今はインターネットや、韓国の親戚などから食材を送ってもらうこともある。集落などもなく墓地も日本にある。ほとんどの方が日本人と変わりない暮らしをしていて、民団の方にもどの家が韓国人だ、という特定はできないという。

第2章 在日一世の記憶

(1)金渠煥さん
 金さんは、1928年生まれ83歳。韓国の金泉出身、現在小樽市に住んでいる数少ない在日韓国人一世である。日本で軍部輸送部の運転手をしていた兄に連れられ、8歳の時に大阪阿倍野へ行く。17歳で終戦をむかえ、戦後は兄について鶴橋の闇市を歩いた。それから、秋田の本庄で米の買い出しを3、4年した。そして、大阪の先輩が東京で麹菌を作ったものをもらったことをきっかけに、麹造りをし、濁酒を作ってそれを売った。それがよく売れ、昭和26年7月に、商売をするため北海道、小樽市へ移った。ここではまず、鉄関係の雑品屋をし、鉄を回収しては北海鋼業(現・新北海鋼業株式会社)に売ったりして稼いだ。そして今は焼肉屋「大仁門」を経営し、また在日本大韓民国民団小樽支部の常任顧問としても活躍して、民団の父のような存在である。

写真1 金さんの経営する焼肉屋「大仁門」。民団の事務所の隣にある。

(2)在日一世をめぐる女たち
 在日一世の方たちには壮絶なライフヒストリーがあることはもちろんだが、彼らには、支えてきた妻や、苦楽を共にしてきた女たちがいる。彼女たちは、在日一世の人たちの記憶を語ってくれた。

・北村外江さん
 北村さんは、日本人であるが、母と一緒になった人「お父さん」が韓国人だった。「お父さん」は手宮の長屋に住む石工で、面倒みもよく、「おじさん、おじさん。」と呼ばれ、近所の人に慕われていた。現在はもう崩され海へ埋め立てされたためなくなったが、稲穂5丁目あたりには石切山があり、細工場で働いていたと記憶する。手宮には当時2人しか在日韓国人はいなかったという。

・孫愛連さん
 孫さんは夫が在日二世であり、孫さん自身も韓国人である。1981年に札幌に住む在日韓国人の方と結婚するために日本に来たという。夫は兄とともにパチンコ屋を経営しており、20年前から銭函に住み始めた。夫の時代はいじめがあり、在日韓国人であることを隠したかったというが今では隠さなくなったという。初めて日本に来て、本音と建前に戸惑ったそうだが、今では日本の友達とキムチと粕漬けを交換したり、また民団婦人会の会長として日本人に韓国料理を教えたりしている。

・柳和江さん
柳和江さんは、東京生まれ、東京育ちの日本人であるが、夫が在日1世だった。柳さんの夫は1925年生まれ(大正14年)、釜山出身でエリートの家系で育つ。昭和14年、東京の学校に兄が通っていたため自分もそのつもりで日本へ行くが、阪神間に友人がいるということで結局そこでしばらく暮らすことになる。戦争が始まり徴用にも行くが、こき使われ、馬鹿にされて逃げて隠れた。そしてその先で神戸の風呂屋で釜焚きの仕事をした。「ぼんさん(関西弁で息子、坊ちゃんなどと言う意味)」と言われてかわいがられ、煙突掃除をするとごちそうをくれた。煙突には体の細い人しか入れないため、自分しか入れなかったからだ。風呂屋の経営者は良い人だったというが、その家族とは別の食事で粗末なものだったりと差別もあった。
 その後一度韓国へ帰るが、再び密航で広島へ渡った。転々としたのち、友人のいる北海道へ行った。米軍の品(砂糖など)を買い、それを札幌の闇市で売って生活した。これで儲け、次は芸能界の楽団を持って全国を回った。この時にご飯には切符が必要だったため、楽団に配られた食券をまた闇市で売って利益を得た。切符が必要なくなると、次は「小樽電家社」「旭川電家社」と家電電器屋を始め、テレビなどの欠陥品を安売りで売りに来るものを買い取り、それを売った。初めは安いし、よく売れたのだが、消耗品ではないのでだんだん売れなくなっていった。その時旭川にいた友人言われ、少しの間弟子入りし、焼肉屋を開いた。「春香園」という名前で20年間続けたが、やめて別の人に譲り、その後は旅行に行きいろいろまわった。
また、自分は学校に行かなかったので子どもたちには教育をしっかり受けさせた。日本人でもなく、韓国人でもないという悩みもあったという。
 
・柳秀子さん
柳秀子さんは、柳和江さんの娘である。現在日本人の方と結婚し、中学生と、社会人の子どももいる。生まれてからずっと小樽にいるが日本人と変わりない生活をしていた。父が在日韓国人であるが学校でも特に差別などはなかったという。しかし、一つエピソードを話してくれたが、春に父が韓国に行くことが多く、よく朝鮮人参をお土産として持って帰ってきていたそうだが、それを飲んだ時に限って、ちょうど家庭訪問の時期が重なり、先生にくさがられたこともあるそうだ。

・岩本静香さん
 岩本さんは夫(李鍾杰さん)が在日一世であった。李鍾杰さんは大正12年生まれで釜山密陽出身である。昭和18年、畑仕事中トラックで連れて行かれ、北海道に行くことになる。その時一緒にいた李さんのいとこに許可を得て連れて行ったそうだが、当時は近所に住む人も急にいなくなったり、勝手に連れていかれた人が多かった。李さんは炭鉱ではなく、兵隊として連れて行かれ、真っ暗な汽車に揺られ、着いたところは室蘭だった。それから鉄工所で働かされ、過酷な労働なため朝起きられず木刀などで叩かれたりもした。このときに「岩本鍾太郎」と名前をつけられた。その後は滝川の工場で働いたり、同町で防空壕掘りをさせられたりした。そして室蘭で終戦を迎えた。帰国することもできたが北海道に残った李さんは、同町で雑品屋として働き、病気を患った友人を助けるために必死で働いた。その後釘師となり、パチンコ屋で務めた。そして北海道余市に金魚、小鳥ショップ&ゲームセンター「甲子圓」を経営した。岩本さんは今でも近所の人に、名字ではなく「甲子圓さん」と呼ばれているという。 



第3章 小樽と民団

(1)民団とは
 民団とは、「在日大韓民国民団」の略称であり、「在日同胞の 在日同胞による 在日同胞のための生活者団体」を基にして、1946年に創立された。各都道府県に地方本部が置かれており、現在北海道には12支部設置されている。

(2)民団小樽支部
 民団小樽支部小樽市の色内一丁目にある。

写真2 色内1丁目にある民団小樽支部

写真3 民団小樽支部 正面。
 2階では韓国語講座が行われている。ここに事務所を構えるまではビルの一角を借りたりして転々としていた。駅前の道路拡張のために立ち退きを余儀なくされ、それをきっかけに今の場所に事務所を建てた。また、小樽支部では小樽市だけでなく、後志管内(倶知安ニセコ、余一)を管轄している。主な活動は韓国語講座、パターゴルフ会、月1回の婦人会の集まり、料理講座、団費の集金(1000円以上で決まった額はない。)などである。札幌から講師を招いている韓国語講座では、現在受講生のほとんどが日本人であったり、パターゴルフ会には管轄している警察官の方も交えて行っていたりして、日本人も気兼ねなく参加できる場がある。
現在、小樽市全体もそうであるが、小樽在住の在日韓国人の人口が少なく、高齢化も進んでいる。そのため、あまり大きな活動はできない状態であり、札幌にある本部からの指示で活動することがほとんどで、札幌との合併も考えられているという。

写真4 婦人会の方に作っていただいシッケ(韓国の甘酒)。

写真5 小樽支部は2010年で創立50周年を迎えた。

写真6 民団小樽支部の方たちと一緒に(左から柳秀子さん、孫愛連さん、金渠煥さん)。

まとめ

 現在小樽に住む在日韓国人の方たちは、集落などもつくらず、小樽市民として他の日本人たちと変わらない暮らしをしている。そして、戦後は多かった在日韓国人の数も、少子高齢化や小樽商業の衰退とともに減少してきていることもあり、今の小樽市民の人には在日韓国人の方がかつて小樽に大勢いたことやその生活などは知られていない。しかし、今でこそ笑顔で話してくれたが、今でもはっきり覚えているくらい一人一人には壮絶なライフヒストリーがあり、苦労をしてきていたことが分かった。また人生の先輩として、さまざまな壁を乗り越えてきた方たちの話は学ぶところが多く、今回の調査はとても貴重な経験となった。

謝辞

 今回の調査に際し、民団小樽支部の金渠煥さんはじめ、何度も電話で対応してくださった柳秀子さん、婦人会の皆さんには、お忙しい中ライフヒストリーなど大変貴重なお話をしていただきました。心からお礼申し上げます。

参考資料

桑原真人(昭和53年)「北海道における在日朝鮮人史」『近代民衆の記録10―在日朝鮮人―』新人物往来社
佐野眞一(2009)『誰も書けなかった石原慎太郎講談社文庫。
116回(平成21年)北海道統計書http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ss/tuk/920hsy/09
在日本大韓民国民団ホームページhttp://www.mindan.org/index.php