関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

知られざる戦後の生活誌―小樽・後志の樺太引揚者たち―

井手正広

はじめに
 私は今回の研究テーマを設定するに当たり、以前の調査で京都府舞鶴市にある引き揚げ記念館を訪問し、引き揚げ者に対して大きな興味を抱いたこと、また実際に私の母方の祖父が、シベリア抑留からの引き揚げ者であり、当時の話をよく聞かされていたことなどから、樺太からの引揚者の方の戦後の生活について興味を持ち、このテーマを設定した。
余談になるが、北海道・樺太の開拓に私と同郷(佐賀)の島義勇氏や鍋島直正公が大きな功績を挙げたことや、私の両親が出会った場所であり、いわば私のルーツがあるということで、個人的には北海道に強い親近感を持っている。
第二次大戦が終結し、ソ連(現ロシア連邦)の進攻を受けた樺太からは4万人以上の日本人が内地へと引き揚げてきた。引き揚げの過程やその後の生活においては、様々な困難があったことであろう。シベリアへ抑留された者や惨殺された者も多数存在した。また樺太は、8月15日の終戦を過ぎてからも攻撃を受けている。しかし、現在の日本でこの悲惨な過去についてしっかりと理解している人は決して多くない。私自身、樺太終戦後に攻撃を受けていたということは、恥ずかしながら今回の調査に取り組み始めるまで知らなかった。また、特に引き揚げ者たちのその後の生活については、知られていないことが多くある。樺太北方領土を巡っては現在も国際的に微妙な状態にあるため、歴史としても記述しづらいという部分もあるのであろうが、私たちは日本人としてこのような悲惨な事態が存在し、引き揚げ者たちが戦後を苦しみながら生き抜いてきたということを、しっかりと理解して後世へと語り継いでいく義務があると考える。そういった問題意識を持ち、おもに引き揚げ後の住まいと暮らしという観点から私は今回の調査を行なった。

第1章 樺太と小樽
第一節 樺太の歴史
 まず最初に樺太の歴史について記述していくが、今回の調査においてはおもに戦後の生活に焦点を当てているのでここでは簡潔に紹介をする。《詳細は前年度、類似の調査研究を行なった当ブログ2010/2/22 「樺太(海馬島)引揚げと小樽」をご参照ください。》
 樺太は北海道とほぼ同じ面積(76,400㎢)を持ち、そのうち約70%が山岳地帯によって占められている。北緯50度を境として北樺太南樺太に分けられ、北樺太はロシア領であるが、南樺太国際法上いかなる国家にも属していない状況である。しかし、実際にはロシアが実効支配している状況となっている。樺太には古くから樺太アイヌなどアジア系の先住民が居住していた。中国が「元」の時代にはすでに国際社会では、樺太は日本の一部であると考えられていたが、大陸に近いという位置関係もあり、中世から近世にかけては常に中国や朝鮮、ロシアなどに脅かされ続けていた。江戸時代の初め、樺太松前藩に従属し正式に日本の領土として扱われるようになったが、その後ロシアの進攻を受け紛争状態が続いた。明治になると、明治五年に副島種臣樺太買収を試みるが失敗に終わり、逆に黒田清隆が唱えた「樺太放棄論」が採用されて、「千島・樺太交換条約」(1875)によって日本は樺太を放棄した。
 転機は1904年に訪れた。日露戦争が勃発し、この戦争で大勝を収めた日本は樺太全島を取り返すことに成功したが、結局その後のポーツマス条約によって、北緯50度を境界としその南を日本領とすることで落ち着いた。1907年には樺太庁が設置され、南樺太都道府県と同等の位置づけをされることになった。同時に、政府が樺太の開拓に様々な支援策を打ち出したため、日本全国から多くの人々が移住し、農業、林業、漁業、鉱業などの産業を振興するなど、日本的な社会を作り上げ独自の文化を形成していった。特に林業関連や炭鉱関係では多くの雇用が創出され、政府の支援もあって景気もよかった。また寒冷地で米作りができなかったため、米は内地との交易によって入手していた。また、日本全国から人が集まっていたため、言葉には強いなまりが少なく標準語に近かった。ピークには40万人以上の人が住んでいたといわれている。
 そして、太平洋戦争が始まり、日本がいよいよ敗色濃厚になってきた1945年8月、長崎に原子爆弾が投下された9日に、樺太にはソ連が「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄して攻め込んできた。日本軍はなすすべもなく、樺太ソ連に占領された。

第二節 引き揚げ
 1945年8月9日のソ連の進攻に対し住民たちは激しく抗戦したが、15日に天皇陛下による終戦詔勅があったこともあり、降伏して内地への引揚げを開始した。しかし本当の地獄はここからであった。15日以降も各地で攻撃が相次ぎ、多くの犠牲者を出した。そしてついに20日、真岡からソ連軍が上陸し日本最後の地上戦の舞台となったのだ。地上戦といっても、すでに戦う力のなかった日本側は一方的な攻撃を受け、完膚なきまでに叩きのめされた。最悪の場合には、降伏の白旗を振る兵士や女性、子供まで容赦なく虐殺された。各地で集団自決なども相次ぎ、引揚げ船にも攻撃が加えられたという。三船殉難事件では、稚内から小樽へと向かう途中の3隻の引き揚げ船が潜水艇に魚雷攻撃を受けて撃沈され、1700人以上が犠牲となった。また軍人・警官・公務員などはシベリアに連行され、強制労働を課された。日本本土では戦争の終結に一喜一憂し、復興に向けて再起を図っていた頃、北の大地ではまだ悲惨な現実が繰り広げられていたのである。この事実をどれほどの日本人が知っているだろうか。この悲惨な過去は樺太からの引き揚げ者や関係者だけでなく、日本国に生きるものとして当然知っておかなければならないことであると私は考える。この戦闘による民間人の死者は3500人とも3700人とも言われているが、詳しいところはよくわかっていない。それ程資料が残っていないのである。
 引き揚げ港としては稚内、小樽、函館などが指定されたが、戦後すぐに引き揚げることができた人はわずかで、多くの日本人が昭和22年に引き揚げが再開されるまでロシア統治のもとで生活を送った。引き揚げ後、人々は身寄りを頼って各地へちりぢりとなったが、無縁故者と呼ばれる身寄りのない人々は最大の引き揚げ港である函館で10万人にのぼり、その多くが北海道や東北各地に作られた収容施設へと送られた。引き揚げ者たちの戦後の生活は苦しく、特に仕事を見つけるという面で苦労をした者が多かった。

第三節 引き揚げ者と小樽
 小樽は戦前から樺太との交易が盛んで、相互の人やモノの行き来が頻繁になされていたこともあり樺太と深い関係にあった街であるということがいえる。小樽にも戦後多くの人が引き揚げ、最大で約1万人にも上った。無縁故者の受け入れ人数も1390人となり、多くの収容施設が用意された。その収容施設は遊郭跡などを利用しており、古く狭いうえに衛生状態も悪かったため、各地に仮設住宅や郊外住宅が作られ、引き揚げ者たちはそこへ移っていった。その住宅群の一部は今も残っているが、高齢化や家の老朽化により住人が変わったり、建物が建て替えられたりしており、当時の面影を見ることは極めて難しくなってきている。引き揚げ者たちの多くは現金収入を求めて露天商になり、市内の至る所に闇市が構えられた。その闇市が市場へと発展し、現在小樽にはたくさんの市場が存在する。このことを考えると、現在の小樽の礎は引き揚げ者たちによって作られたとも言えるかもしれない。しかし、現在高齢化により樺太引き揚げ者の数は減り続けており、小樽が引き揚げの街であるということを知る人は少なくなってきている。引き揚げ者が始めたとされる市場へ行っても、殆どの方がもうお亡くなりになっているということであり、話を伺うこと自体に苦労をした。



第2章 引き揚げ者の住まいと暮らし

第一節 樺太での生活
 日本領であった時代の樺太は、前章でも述べたように資源が豊富で、王子製紙が島内各地に大規模なパルプ工場などを作って活性化した林業や、鉱業、漁業などがとても盛んだった。なかでもニシン漁は毎回大漁で、浜にニシンが溢れて打ち上げられ、跳ねていたほどであったという。ニシンは内地や他国との交易に使われ、その代わりに米など多くのものが樺太にもたらされた。石炭も良く取れたが、炭鉱夫の給与は樺太庁が移民を呼び込む目的で手厚い優遇策をとったため、本土の倍ほどはあったとされている。このように島内の景気は比較的良く、今回聞き取り調査を行なった5人の話者も樺太での生活は比較的豊かであったと語っている。樺太名物の食べ物に、タラバガニの足をまるごと1本乗せたカツカレーならぬ「タラバカレー」があったというからうらやましい。また、樺太では米が取れないため多くの引き揚げ者は引き揚げ後、田植えをする光景を見て驚いたという逸話もある。

第二節 小樽における引き揚げ後の生活
 引き揚げ後、多くの引き揚げ者はまず住まいと仕事という壁にぶつかった。そのため北海道内や東北を中心に各自治体は、住む家のない引き揚げ者のために収容施設を作った。小樽でも主に梅ヶ枝町や松ヶ枝町の遊郭跡などを再利用して、引き揚げ者を収容した。一方の仕事面では、各自治体の努力もあって運良く再就職先を手に入れることができた人もいたが、そうでない人は現金収入を求めて行商や露天商、日雇いなどに従事し、何もない道端や川の上に木の板で蓋をして闇市を形成した。しかしそういった人々が挫けることなく地道に努力をしていった結果、引き揚げ者たちによって作られた闇市は市場へと変化し徐々に成長していった。その後、高度経済成長とともに市場は最盛期を迎え、市場内は人が多すぎて真っすぐ歩けなかったほどであったという。この頃小樽は市場の町として名を馳せ、遠方からも多くの人が訪れた。その時代はまだ小樽運河が観光地になっていない頃であるから、小樽ブランドを最初に知らしめたのはこの市場たちであったということも言えるのではないか。その市場の代表的なものが、駅前にある三角市場や中央市場、また南樽市場や川の上に築かれた妙見市場などである。三角市場は現在、観光客向けの市場として生まれ変わり、観光名所的な存在になっている。しかし、ここに挙げていない市場を含めて多くの市場は時代の流れとともに活気を失い、妙見市場に至っては最盛期の約100店舗から現在は20店舗未満にまで減少してしまっている。


写真上:南樽市場 写真下:シャッターばかりの妙見市場
 第三節 引き揚げ者住宅
戦後に話を戻すと、収容施設で生活する引き揚げ者たちは、古さや狭さの他に衛生状態の悪さに悩まされ、生活の質は劣悪であった。そんな状態を改善するため行政は、昭和24年に住宅対策を開始し市内各地に引揚者用の公営住宅仮設住宅を建設した(今後引き揚げ者住宅と記す)。引揚者たちは随時それらの住宅へ移住していき、昭和20年代から30年代にかけては至る所に引き揚げ者用の住宅が点在していた。これらの住宅はバラックで作られ、長屋の場合が多かったため決して快適だとは言えなかったが、引き揚げ者にとっては自らの家を持てるということは大きな喜びであった。そんな引き揚げ者住宅も昭和40年代には団地へと姿を変えたり、個人の所有へと変わっていき、長屋型の住宅は姿を消していった。先に紹介した南樽市場もそうであるが、小樽はとても火事の多い町であったため、防火対策のために改修や建て替えが推進されたケースが多い。旧引き揚げ者住宅として現在知られているのが、郊外にあるオタモイ団地などである。
第四節 現存する引き揚げ者住宅
これまで述べたように、小樽に多く作られた引き揚げ者住宅は現存していない場合が多い。市役所で引き揚げ者住宅について尋ねてみると、戦後の混乱期のことであり、市が所有していない土地に関しては資料などもほとんど残っていないとのことであった。だが、市が今も所有しており市民に貸している土地に関しては、今でも現存しているとのことであったので、場所を教えてもらいとにかくその場所に行ってみることにした。しかし市役所の職員さんの話では、その場所の住宅もほとんどが改修や建て替えを行っていて、住人も入れ替わっているため当時の面影を見ることは難しいであろうということであった。
市所有の引き揚げ者住宅として現存している場所は、長橋2丁目21番・南赤岩町25番・南赤岩町412番・南赤岩町139番・最上1丁目21番の5ヶ所である。
このうち赤岩と最上で調査を行った。
 赤岩では予想通り、ほとんどの家が改築されており、当時の面影はあまり感じられなかった。住人の方に尋ねても、もう引き揚げ者の方は住んでおられないということであった。しかし、予想に反し所々に当時のままの建物や街並みが見られたという点は収穫であったといえる。
当時の写真:昭和26年撮影(小樽市役所資料)


(上:写真1 下:写真2)


(上:写真3 下:写真4)
写真4では二件の家が長屋によって繋がっていることがはっきりわかる。また、写真1や写真2のように変わった形をした長屋も存在した。
現在の様子:平成22年8月


(上:写真5 下:写真6)


(上:写真7 下:写真8)
写真5や6は建て替えが行われており、当時の面影はあまり感じられないが、写真6付近の家の配置は引き揚げ住宅当時とほとんど変わらないという。また、写真7と8は若干の改修が行われているものの、トタンや古い木材でできた壁面が当時の面影を残している。

(写真9)
写真9で注目すべきは、元々あった古い家屋と新しい家屋が合わさっているという点である。敷地が狭く、窮屈であった引き揚げ住宅は、このようにさまざまな工夫をすることによって現在にまで引き継がれている。

次に、戦後当時と現在で同じ場所から撮影した写真を比較してみる。


(上:写真10 下:写真11)
写真10は昭和30年代の引き揚げ者住宅の写真であるが、写真11と比べてみると右側の建物は当時にかなり近い形で残っていることがわかる。右手前にある青い屋根の建物は一部が取り壊され、賃貸アパートのようなものが建っている。


(上:写真12 下:写真13)
この家の住人によると、この家は立て替えをしているが、建物の形や場所は変えていないとのことであった。また、当時は手前にも長屋があったが、今は取り壊され、家庭菜園に姿を変えている。右奥に見える塔が当時のまま残されている。

 一方、最上では面白い発見があった。それは、実際に引き揚げ者に関係のある方が現在も住んでおられたということである。最上にそういう事実があったということは、赤岩や長橋にもまだ引き揚げ者と繋がりのある方、または引き揚げ者本人が生活をしている可能性も大いにあると考えられる。


(上:写真14 下:写真15)

(上:写真16 下:写真17〈現在〉 同じ地点)




これらの写真は、最上の現在の様子である。
これらの写真から、赤岩同様建て増しや改築をすることによって引き揚げ者住宅が現在まで引き継がれていることがわかる。しかしその偏移の中でも、住宅が建設された当時の建物は今でもしっかり残っているということがわかった。この傾向は特にこの最上で多く見られた。

長屋の面影
この写真の家屋では、当時の長屋の面影がとても顕著に見られた。建物自体は改修され新しくなっているが、写真からうかがえるように玄関が3つ存在しており、この家屋に昔は複数の世帯が入居していたということがわかる。現在は2世帯が入居しているが、このように現在でも引き揚げ者住宅当時と似た家屋の使用形態が残っているという点は、おもしろい発見であった。
第五節 記録に残っていない引き揚げ者住宅
先にも述べたが、今まで紹介してきた旧引き揚げ者住宅は現在小樽市の資料として残っている場所であり、記録には残っていないが昔は引き揚げ者住宅であったという場所が、小樽市内には数多く存在する。


これらの写真は、赤岩2丁目21番の昭和40年代の写真である。上の写真の奥に見える平屋が引き揚げ者住宅群であった。現在は、跡地に「グループホームはる」という養護施設が建設され、住人の多くは市の斡旋により手宮の市営団地へと引っ越したという。

引揚者住宅跡に建つ特別養護老人ホーム

市の斡旋により多くの人が移り住んだ手宮の市営団
今回の調査で分かったこと

1、建て替えが進みもう残っていないと思われていた、引き揚げ者住宅建設当時の姿が、いたるところで残っていたこと。

2、引き揚げ者住宅は、建て増しや改築を繰り返すことによって時代の流れに取り残されず、現在にその姿を残すことができた

3、多くの引き揚げ者たちは、引き揚げ者住宅から市営団地などに移り住んだ。

4、引き揚げ者の子の世代は、引き揚げ住宅を継がず他の家へ移っていく場合がほとんどである。
    ⇒引き揚げ者から他の住人への入れ替わり

5、戦後に作られた旧引き揚げ住宅は、現在記録に残っていない場所がほとんどであり、姿を変えながら小樽市内のいたるところに点在している。


今回の調査では、3日間という限られた期間のなか、調べきれなかった部分も多くあったと反省している。しかし一方で、引き揚げ住宅は今も当時の面影を残したまま存在しており、引き揚げ者関係の方がまだ住んでおられるということを発見できたことは良かった。

第3章 樺太引き揚げ者の方のライフヒストリー
第2章では、主に引き揚げ者の住宅や仕事について述べたが、第3章では実際に5人の引き揚げ者の方にお話を伺い、戦後樺太から引き揚げてきて現在に至るまでの生活について語っていただいた。

(左:畑澤民之助さん 右:藤田清司さん)
畑澤民之助さん 古平町在住

畑澤さんは樺太敷香町で生まれ育ち、20歳の時に終戦を迎えた。父は昭和初期に開拓のため江差から樺太へ渡り、造材業を営んでいた。現地では生活に困った記憶はないという。畑澤さんは、現地の学校を卒業した後樺太庁へ勤めたが、戦況の悪化によって徴兵され戦地へ赴いた。戦地で終戦を迎えた畑澤さんは、その年の9月にシベリアへ抑留され過酷な労働を課された。シベリアでの生活は、病気や寒さにより困難の連続であったという。そんなシベリアでの生活を耐え、昭和23年7月日本に引き揚げた畑澤さんだが、その家族はというと、母と妹はソ連の空襲から逃れて親戚のいる名寄に身を寄せ、父は戦後すぐに一人で引き揚げ、無縁故者として古平の収容所へ送られていた。古平の収容所は鉱山の社宅を開放したもので、当時はとても荒れた土地であったという。その後家族全員がその家に集まり生活をするようになったが、やはり当時の生活は大変であったという。両親は炭焼きをして生計を立て、妹は郵便局で働いた。畑澤さん自身も仕事を斡旋してもらい、商工所の出所に勤めた。これは畑澤さんが樺太庁に勤めていたためであった。このように引き揚げ者たちには、樺太時代にやっていた職種に再就職するというケースが多く見られたという。その後畑澤さんは古平役場へと移り、古平町長にまで登りつめた。畑澤さんは言う。「樺太の歴史を若い人にもっと知ってもらいたい。ちゃんとした情報が伝えられず、歴史が塗り替えられている。多くの人が8月15日の終戦後にまで攻撃を受け亡くなった。太平洋戦争最後の犠牲者が出たのが樺太であるということをどれほどの人が知っているであろうか。本当にあったこと、事実を知ってほしい。」

藤田清司さん 余市郡仁木町在住
 藤田さんは樺太珍内町で生まれ、終戦までそこで暮らした。父は東北出身であり炭鉱で働いていた。樺太での生活はとても豊かであり、北海道や東北、京都や四国など日本全国様々な場所の出身の人がいた。終戦後も、ロシア人との個人的な仲はとてもよかった。22年6月、藤田さんたち家族7人は函館へ引き揚げ、母の実家のある仁木町銀山で暮らすことになった。内地に来てまず驚いたことは、田植え休みがあることだったという。樺太には田園風景がないのである。時は戦後の動乱期、仕事を探すのが本当に大変であった。父は日雇いで日当を稼ぎ、母は農業を手伝いをした。それでも生活はとても苦しかった。藤田さんも家計を助けるため、中学に上がるとアルバイト漬けの日々を送った。兄は郵便局に勤め家計を支え、藤田さんは高校へ進学することができた。この当時は家族全員が力を合わせ、助け合いながら暮らしていたのだ。昭和30年、藤田さんは銀山の役場に勤務するようになり、臨時職員から正規職員に登りつめた。その後、助役を経て55歳の時仁木町の町長に選ばれた。畑澤さんには同じ樺太出身の町長仲間として、とてもかわいがられたという。このように樺太出身者には強い仲間意識があり、つながりは非常に大きい。以下は藤田さんの言葉である。「引き揚げてきてから常にみんなが助け合っていた。そういう意味では樺太出身で良かった。もし樺太が今日本だったらと時々考える、できることなら樺太に帰りたい。やっぱり樺太が好きなんだ、私の故郷だから。」

(左:佐藤博司さん 右:大森日出雄さん)

佐藤博司さん 小樽市在住
 佐藤さんは樺太の落合町で生まれ育った。両親は北海道出身で、結婚後樺太に移住した。父は王子製紙に勤務していた。現地の方言は北海道と似ているが、本州などの方言と混ざり、独特のなまりがあったという。現在小樽の都通り商店街に町おこしの一環として小樽の方言を紹介する垂れ幕がかかっているが、その方言のほとんどは樺太でも使われていたものらしい。このことからも小樽と樺太がとても深い関係にあったということがうかがえる。佐藤さん家族は、終戦数日後にソ連から機銃掃射の攻撃を受けて防空壕で3日間生活することを余儀なくされた。攻撃が止み防空壕から出てみると、そこはすでに我が国「日本」ではなく「ソ連」という外国になっていたという。ロシア人が早くも入植してきていたのである。その後はロシア統治のもと2年間生活を送った。昭和22年5月、佐藤さん一家は函館へ引き揚げ、母の実家である苫小牧近郊の白老に住んだ。一家は農業で生計を立てる一方、父は建築関係の仕事を見つけ、その父の手によって新しい家が建てられた。昭和33年、佐藤さんは小樽の会社に就職し、その会社で定年まで働き通した。佐藤さんは引き揚げ者という言葉に抵抗があるという。「引き揚げ者には無縁故者の人が多く、みんな本当に苦労している。そういう人たちの気持ちをしっかりと理解してほしい。」佐藤さんのメッセージである。

大森日出雄さん 小樽市在住
大森さんは昭和8年に、10人兄弟の三男として樺太久春内村で生まれ育ち、終戦後は引き揚げまでロシア人とともに学校生活を過ごした。佐藤さんと同様、終戦後5日間で国が変わってしまったと大森さんは言う。また、大森さんは面白い逸話を披露してくれた。学校内に土足で上がり、掃除もロクにしないロシア人たちに腹を立てた大森さんたちは、裏山にロシア人を呼び出して袋叩きにしたそうだ。この出来事に対し、当時担任だった日本人の先生は大森さんの言い分を聞いて、あまり大森さんたちを怒らず黙ってロシア人将校に頭を下げていたという。先生も同じような不満を抱えていたのであろう。この頃学校では、日本人・ロシア人・中国人・朝鮮人が共同で学校生活を送るというとても珍しい状況となっていたという。その後ロシア人ともすっかり仲良くなった大森さんは、一緒に遊んだりしてロシア語もたくさん覚えたそうだ。昭和23年、函館に引き揚げる際には、ロシア人の友達たちが見送りに来てくれたりもした。引き揚げ後は後志の小沢にある父の従兄弟の寺に住み、1ヶ月間本堂で寝泊まりした。その後空き家に移り3年間暮らすことになるが、その頃大森さんは家計を助けるため日々アルバイトに明け暮れた。昭和30年、大森さんは小樽のデパートに就職を果たすが、高給を求めて建設業に転職する。しばらく建設業で資金を貯めた後、大森さんは兄と二人で起業。しばらくしてその事業が軌道に乗り、成功を果たした。バブル崩壊前に会社をたたんだ後、大森さんは札幌の建設業へと転職し、70歳で退職した。大森さんの自宅周辺には、他に3人の樺太出身者が暮らしており、現在は彼らとともに「樺太連盟」に所属して、次の世代に樺太の歴史や現在の状況について考えてもらうための活動をしている。

大森さんだけでなく畑澤さん、藤田さん、佐藤さんも同様に「樺太連盟」に所属され、今回のように当時の様子を語る語り部として、また樺太についてのイベントを行なったりして、私たち若い世代に当時の樺太引き揚げ者のことを知ってもらうための活動をされている。


最後に、戦後の動乱期を小樽で過ごした方の貴重な体験を紹介する。

写真:橋本克久さん
橋本さんは樺太留多加町生まれで、その後豊原町へ移住した。橋本さんの祖母は石川県金沢の出身で、明治時代に開拓のため樺太へ移住した。そのため、親戚も含めて橋本家一族の多くは樺太で暮らしていた。樺太は資源が豊富だったため、食べ物で苦労したことはなかったという。豊原は終戦前後には大規模な空襲を受けたが、当時橋本さんたち子供は家の周辺の弾丸探しを楽しんだり、大通りの着弾跡のクレーターを見学したりして遊んでいたという。子供ならではの感性である。終戦後、45年10月頃には家にロシア人家族がやってきて同居することになり、家屋は二分された。また、街のビルの壁面には一面にスターリンレーニン肖像画が掲げられており、学校ではスターリン賛歌を覚えさせられた。橋本さんは現在でも賛歌を記憶されており、私の前で披露していただいた。ロシア人との仲は個人的には良かったという。46年12月、橋本さん一家は小樽に引き揚げた。橋本さん一家は無縁故者であったため、梅ヶ枝町にあった楼閣に収容された。その楼閣は現在、アパートになっているという。料亭の雰囲気を残した中庭はとてもきれいで、橋本さんもお気に入りであった。しばらく楼閣で共同生活をした後、橋本さん一家は市の住宅対策によって建てられた最上の引き揚げ者住宅へ引っ越した(第2章参照)。引き揚げ住宅では親戚を含め多いときで13人が共同で生活をした。第2章に載せている住宅の間取り図を見れば、それがどれほど大変なことかがわかる。(その頃、同じ最上の引き揚げ者住宅に住んでいたKさん一家は、今も改築を行なって同じ場所で暮らしているという)厳しい生活の中、母は妙見市場の付近でてんぷらなどの販売を行う店を開き、家計を支えた。一方父は起業を繰り返したが、なかなか上手くいかなかった。その後母は店舗の場所を変え、一家6人でその店舗の屋根裏へと引っ越した。店を移した「マルイ裏通り」付近には、当時他にも多くの引き揚げ者たちが店を構えていたという。

橋本さんの母が店を出していた妙見市場川下付近 現在は暗渠となっている。

橋本さん一家が移り住んだマルイ前通り付近。最盛期の頃はまっすぐ歩くのも難しいほど賑わっていたが、今はその面影は感じられない。

小樽の学校へ編入した橋本さんは、漁師気質のクラスメイト達のやんちゃぶりに別世界を感じたと話す。成績が優秀だった橋本さんは学級委員長などを務めるなど、学校の中心的な役割を果たした。しかし、自分が樺太出身の引き揚げ者であるということに対し、心の奥ではコンプレックスを持っていたという。そのことはその後の人生についても同じであったと橋本さんは話す。他人から見れば立派な人生を歩んでいたとしても、本人にしかわからないコンプレックスを常に抱えながら生活をしなければならない、そのことは引き揚げ者たちの宿命なのかもしれない。高校を卒業した橋本さんは、小樽市内のデパートに就職し3年半務めた後、上京して大学病院の職員として勤務。その後も大学内や大学入試センターで定年まで務めた。定年退職後は第二の故郷小樽に戻り、現在はペーパークラフトで建物などを造る職人として活躍している。また、町内会の総務部長や街並みを守るNPO法人にも所属し、小樽の街の活性化に力を注いでいる。橋本さんは樺太に戻れたとしても戻りたいとはあまり思わないという。きっと引き揚げ後に、今回の聞き取りでは話せないような苦労や困難に多く直面されたことと思う。そのような事態を招いた樺太に対し戻りたいとは思わないというのは当然のことなのかもしれない。しかし、少年時代を懐かしむという意味では、樺太に対しても思い入れがあると橋本さんは話す。

部屋に飾られた樺太の地図

まとめ
 今回の調査では、小樽市内に存在する引き揚げ住宅が現在どうなっているのかということを中心に調べ、そこから引き揚げ者の方の戦後の生活についての手掛かりを得ようと試みた。調査では多くの方にお話を聞くことができ、実際に当時のままの姿で住宅が現存していることや、形を変えながら現在まで生き残ってきたことがわかった。また、引き揚げ者関係の方がいまだに居住されているという事実を発見することもできた。しかし、実際にお話を伺えなかった点は悔いが残る。
次に、樺太出身である5名の方に伺ったお話はとても興味深く、学ぶことが多くあった。皆さんがそれぞれに、引き揚げ者であるという事実や苦労を逆にバネにし、人生において普通の人以上に充実した人生を送っておられた。その裏にはきっと人一倍の努力があるのであろう。終戦後のロシア人との関係にしても、資料などに一般的に書かれている「不仲」ではなく、むしろ仲良くやっていたという事実もとても印象的だった。結局は、政治的なものが関係をややこしくしているだけなのである。このことは、中国などと微妙な状態が続いている現在の日本にも当てはめて、よく考えなければならないことだと思う。しかし、今回の調査でも当時の様子を話したくないという方にも何人か出会った。やはり、引き揚げてきてからの生活というものは、今でも思い出したくないほど過酷なものだったのだろう。今回話を聞けた方の中にも、今でも話せないほどつ辛い経験をした方が多くおられたかもしれない。聞き取り中ほとんど戦後の辛かった体験などを話されることはなかった。そんな中、勇気を振り絞って当時の経験などを伝えていこうとする樺太連盟を始めとした樺太出身者の皆さんに対し、深い尊敬の念を感じる。
最後に「故郷」というものについて考えてみる。自分の故郷が無くなってしまったらどのような気持ちなのだろう。私は今回の調査に通してそのことを強く考えるようになった。樺太出身者の方が幼少時代を過ごした大切な故郷はもう存在しない。その事実を自分に置き換えて考えてみると、やりきれなくて胸が熱くなった。私は今回の調査以来、自分の故郷をとても大事な存在として考えられるようになったと思う。里帰りした時にもいろいろな場所に足を運び、故郷の事を深く知りたいと考えるようになった。もっと故郷を大切にしよう、そう考えている今日この頃である。

謝辞
本研究を進めるにあたって、多くの方に協力をしていただきました。

小樽市総合博物館の石川先生 全国樺太連盟北海道支部 小樽市役所の皆さん 松田印刷店の松田和久さん 橋本克久さん 藤田清司さん 畑澤民之助さん 佐藤博司さん 大森日出雄さん 木田商店の皆さん 北洋市場の皆さん 島村恭則教授

本当にありがとうございました。

 
文献一覧

小樽市 1990「小樽市史 10巻 社会経済編」

創価学会青年部反戦出版委員会 1976 「北の海を渡って:樺太引き揚げ者の記録」

北海道新聞社編 2005 「戦後60年100人の証言」