関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

女の街―大和郡山と紡績工場をめぐる人びと―

女の街―大和郡山と紡績工場をめぐる人びと―
住田 文


【要旨】
本研究は、奈良県大和郡山市をフィールドに、紡績工場をめぐる人びとの歴史、郡山での女工の生活史について明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

1.大和郡山市は、奈良盆地の中でも中心地に位置する為、限られた資源で生活を強いられていた。そのため、農業だけではない様々な副業が発達した。

2.大和郡山市では、昔から綿作・養蚕が副業として発展していたため、その後、絣やメリヤス、靴下、紡績産業へと発展していったとみられる。

3.郡山紡績工場では女工哀史はなく、女工たちは自分の時間やお金を自由に使い、有意義な青春時代を送っていた。

4.現在郡山紡績工場跡は、正門にある「大日本紡績工場跡」と書かれた記念碑だけで他は公営団地になっており、影も形もない。

5.柳町商店街は、紡績工場のある時代に女工や他市からの人びとでにぎわっていたが、工場閉鎖とともに衰微。今では、町おこしとして商業施設の運営、地場産の有機野菜を販売するなど商店街と地域住民が一体となって町を盛り上げようとしている。


【目次】

はじめに――――――――――――――――――――――――――――――――――――1

序章――――――――――――――――――――――――――――――――――――――4
第1節 奈良盆地大和郡山・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4
第2節 大和郡山の生業文化・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9

第1章 紡績の歴史―――――――――――――――――――――――――――――――19
第1節 紡績の歴史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 19
第2節 女工哀史・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 22

第2章 紡績工場の世界―――――――――――――――――――――――――――――26
第1節 郡山と紡績・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 26
第2節 紡績工場で働く人びと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 35
     (1) 清原三良さんの事例 35
     (2) 西村ウメカさんの事例 38

第3章 紡績工場周辺の町と人びと――――――――――――――――――――――――43
第1節 柳町商店街・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 43
第2節 紡績工場による町の発展と衰退・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 51


結語――――――――――――――――――――――――――――――――――――――56

参考文献一覧――――――――――――――――――――――――――――――――――58


【本文写真から】

写真1紡績工場閉鎖前の写真


写真2紡績工場正門跡地、現在は公営団地の入り口


写真3紡績工場記念碑


写真4寄宿舎跡地、現在はマンション


写真5柳町商店街、空き店舗を利用し商業施設を運営
















【あとがき】
 卒業論文のテーマを決める際に突如として思い浮かんだものがあった。それは幼いころ、夏祭りなどでよく遊んだ「金魚すくい」だ。金魚すくいってどうして“すくう”のだろうか。そんな疑問から、まず金魚について調べていくことにした。すると大和郡山が日本で最初に金魚の養殖を始めた土地であり、過去に日本一の生産量であったということが分かった。なぜ、大和郡山なのか。そしてなぜ養殖する必要があるのか。そんな疑問を抱きながら、大和郡山へと足を運んだ。そこで、私を思いもよらぬ方向に向かわせたものが紡績工場との出会いだった。はじめにでも記述したように、金魚の養殖園の主人が「金魚だけの街ではなく、女の街だ」と証言したのであった。私はここに研究意義があると考え、調査を開始したのであった。
 調査を開始するにあたって、困難を極めた。それは聞き取り調査を通してライフヒストリーを記述するために、大日本紡績郡山工場で実際に働いていた女工、ないしは工場関係者を見つけ、話を聞くことができないのだ。私は計7日間にわたって、大和郡山を調査した。そして、柳町商店街、図書館、紡績工場跡地周辺の家、駅前の喫茶店、などいたるところで聞き込みを行い女工が住んでいないか、知り合いにいないか、などを聞いて回った。しかし一向に、現れないのだ。「今は病院」「5年前に亡くなられた」「引っ越した」など、ことごとく失敗。紡績工場があったのは、60年以上前にあたる。事実が古すぎて会えないのか、それとも自分の調査の仕方が甘いのか。島村教授のご指導のもと、調査方法を変更。情報をもっている可能性の少ない人を転々とあたっていた方法から、知識をたくさん持つ人にあたる方法に変えたのである。つまり、郷土史家や観光センターに声をかけるという事を始めた。まず、大和郡山観光協会に話を聞く。そこで紹介して頂いたボランティアの方に提案された方法で、今回の聞き取りが成功した。それは、大和郡山市の歴史写真集に写真を提供する人に、出版社を通して紹介してもらうという方法だ。時間は少しかかってしまったが、確実に存在する人に対してアプローチを可能とし、女工経験のある方と大日本紡績の人事であった方を紹介していただく事ができた。断片的な知識保持者に聞く事と、知識を持つ人に聞く事の違いと大切さを痛感したのである。

【謝辞】
 この論文の研究に関して、様々な方々にご協力をいただいた。まず聞き取り調査を快くうけてくださった大和郡山市の皆さま、そして長時間のインタビューにお付き合いいただき、またご指導いただいた清原三良氏・西村ウメカ氏。さらに、両氏を紹介頂く際に仲介してくださった樹林舎の方に深く感謝の意を述べたい。本当にありがとうございました。