関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

小樽と映画館

吉田 依里香

はじめに

アメリカの発明王エジソンがキネトスコープを発明したのは明治22年(1889年)のことだった。その7年後の明治29年の秋、日本の神戸に初めてキネトスコープが上陸し、新開地を拠点に次々と映画館ができる。そして早くもその1年後小樽の小樽の末広座、住吉座でシネマトグラフ「電気作用活動大写真」が上映され、小樽「映画館の時代」の幕開けとなった。その後も映画館は次々に開館し、大正末期には10館を超え、ピークの昭和30〜36年には23館にまで増えた。人口比にして北海道一の映画館のまちになったのである。しかし昭和30年代後半から映画の人気は衰え始め、市内の映画館はあいついで閉館し、平成7年に最後の小樽東宝スカラ座が閉館し、小樽「映画館の時代」は幕を下ろした。
本レポートでは、小樽「映画館の時代」を支えた単独映画館(以下、単館)それぞれのエピソードや小樽の元映画技師下田修一さんへのインタビュー、映画館がその後どういった道を歩んだのか、そして現在の花園町での取り組みをとりあげる。


1章 映画館の時代

(1)単館の世界

21世紀、平成も20年過ぎた今、地域の昔からある小さな映画館で映画を見る人はどれくらいいるのだろうか。いまや映画館といえば大型ショッピングセンター内にある「ワーナーマイカル」の「シネコン」が主流で、大都市大阪梅田でも東宝映画の三番街シネマが平成19年に閉館に追い込まれた。単館にはシネコンにはない個性ある魅力がたくさんあった。では小樽の単館にはどんな世界が広がっていたのだろうか。
小樽の映画館は芝居小屋をルーツにしているものが多い。北海道開拓の時代、本州から渡った開拓史たちの娯楽のために旅の芝居一座が道内を回ったのが始まりだった。明治の中ごろから芝居小屋には内地の役者が来なくなって経営難に陥ったので当時まだ目新しかった映画を上映しだしたのだった。その芝居小屋の名残である桟敷の映画館が小樽にはあった。富士館、中央座(のちの日活オスカー)、電気館の2階が戦前まで桟敷だった。なんと若松館は昭和45年まで桟敷が残っていた。
戦前のスパル座では鈴木澄子主演の映画「化け猫騒動」を上映した際には、まず封切りの前に化け猫のたたりが出てはいけないと神社にお参りに行ったそうだ。そして上映中も化け猫の霊が出てはいけないのでスクリーンの横にお供え物を置き、見終わった客に帰り際に「お清めの餅」を配るという徹底ぶりだった。こういうところに単館の個性が出ていておもしろい。
戦後、昭和26年の映画館の入場料は4円99銭だった。なぜこんなスーパーの安売りの値段みたいな中途半端な額なのか。それは5円からは税金がかかるために映画館の考えた対策だった。でも5円払って1銭お釣りをもらうような人はいなかったという。そんなころ、「蟹工船」が小樽で上映された。この蟹工船の上映でハプニングが起きた。スクリーンを破いてしまった人がいたのである。その人は元海軍軍人。海軍といえば蟹工船の中では労働者をいたぶる悪役。映画の中での軍人の描かれ方に腹を立てスクリーンを引きちぎったのだった。客が破ってしまえるほど小さなスクリーンだったのだ。
昭和30年代になると小樽の映画館は全盛期を迎えた。映画館周辺は活気づき、昭和の懐かしい風景が広がっていた。中でも一際目を引くのが迫力ある大看板やノスタルジックなポスターたちだ。看板をどのように飾るか、ポスターをどこに貼るか、映画技師たちの腕の見せ所だった。図1の「007」の映画の看板(写真1) 撮影者下田

にはある工夫が施されている。客は映画館に入るとき、主役の男女の股の下をくぐって映画館に入るレイアウトになっている。映画館に入る瞬間から映画の世界に入ってほしいという技師たちの粋な計らいである。
 看板だけでなく、ポスターにも物語がある。元映画技師下田さんは「ポスター戦争だった」と語る。映画館の激戦区でポスターを貼る場所を開拓するのは至難の業だった。とくに東映劇場と東宝スカラ座と花園映劇は競いあってポスターを貼っていた。このポスター貼りには一つだけルールがあった。それは「他の映画館の近くには絶対貼らないこと」だった。違反するとすぐにポスターははがされた。ポスターは主に古い木造家屋や商店のウィンドーに限られていたので各館の競いあいが激化し、衝突が起きたこともあった。そんなときは話し合って「上映が始まったら他の映画館に譲る」ということになった。人情味あふれる単館同士ならではのことではないだろうか。ただ悲しいことに、のちにこの譲り合いは閉館した映画館がまだ生き残っている映画館に「ポスターの縄張り」を譲ることにもなった。
 ポスター戦争を繰り広げていた花園映劇にはカーボン映写機という珍しい映写機があった。カーボンを燃やした火で照明をとる映写機で小樽にはこの花園映劇にしかなかった。このカーボンで燃やした火は普通の映写機の電球よりも明るく、1番きれいな映画を上映できたそうだ。しかしこの映写機はカーボンの取り扱いが難しく、操作はめんどうだった。この高度な技術を要する映写機とそれを巧みに取り扱う技師がいる映画館だった。

(2)小樽の中の「東京」

大正3年、「電気館」(写真2)
が現在の都通りにオープンした。当時映画は「電気作用活動写真」と呼ばれていて、明治36年東京浅草に日本で初めて映画専門興行館として「電気館」が開業した。この浅草の電気館にあやかって小樽にも電気館ができたのだ。それで電気館周辺は東京浅草にちなんだ地名がつけられるようになった。電気館前から第一大通りまでの50メートルくらいの細い路地を「仲見世通り」、電気館から南へ2筋向こうの通りを「浅草通り」と呼ぶ(写真3)
この名は、東京浅草を模して明治末期に付けられたという。
 電気館周辺だけでなく、小樽にはもう一つ「東京」があった。小樽にはかつて北郭と南郭(写真4)
という遊廓があった。小樽の遊郭は舟に関係する人たちが主に利用していた。北郭は舟で仕事をしている労働者が行く低所得者向けで、南郭はその舟でやってきたお金持ちが行く高所得者向けの遊廓だった。この南郭は鯉川楼の八木周蔵が作ったもので入り口には今も現存している大きな桜の木があり、大門をくぐれば大門湯という銭湯があった。南郭は仲ノ町、京町、柳町、弁天町、羽衣町で構成されており、東京吉原遊廓と同じ地名である。東京の吉原がそのまま小樽に引っ越してきたような感じだ。戦後になって八木周蔵が女性たちを解放して南郭は消滅するが、実はこの八木周蔵は映画館を2つも作っている。スパル座とスパル座地下が八木周蔵の映画館だった。戦前に遊廓と映画館、そして鯉川温泉まで手がけた八木周蔵とはどんな人だったのだろうか。非常に興味深い人物である。

(3)小樽の元映画技師 下田修一さん
 
小樽の映画館の終焉を看取った映画技師がいる。下田修一さんだ。下田さんは小樽日活劇場から花園映劇、小樽東宝スカラ座、プレミアシネマズへと小樽の4つの映画館で働いてきた。しかし今、映画館は小樽築港駅にワーナーマイカルシネコンが1つあるだけだ。このシネコンの登場が小樽の映画館の衰退に拍車をかけたことは言うまでもない。豊富な客席数に、きれいな館内、そして一つの映画館でたくさんの映画を一度に見られる。たしかにシネコンが1つあればいいのかもしれない。だが、シネコンにも多くの長所があるが、短所もある。小樽のワーナーマイカルも大阪のワーナーマイカルも神戸のそれもどこに行っても同じサービス、同じ風景が広がる。つまり映画館に個性がないのだ。人々は映画を見た記憶を映画館という場所とともに思い出にすることはできない。
 映画を見ようと思って劇場に行く。誰しもが最初にするのは窓口で座席を決め、チケットを購入することではないだろうか。ところが、単館には指定席はない。満席になってしまったときは立ち見も可能だった。常連さんの中には「自分は絶対この席だ」というのを持っていて自分だけの指定席を作ることができた。その「自分だけの指定席」は「自分の居場所」だった。
 そして席についてスクリーンを見ると予告が流れている。それからワーナーマイカルのキャラクター、バックスバニーが上映中の注意や案内についてしゃべりだす。中でも次のシーンに注目したい。バックスバニーが「上映ミスやサウンドミスを見つけたら劇場の係員に知らせてほしい」と言い、画面が意図的に二重になる。「おい!ずれてるぞ!」というコメントとともに画面は通常に戻る。このバックスバニーのセリフに下田さんは疑問を感じている。「ベテランの映画技師がいる映画館で、ミスは許されない。フィルムが逆さまになったり、画面が動かなくなったり、音が出なくなるようなことは技師のプライドとして絶対ありえない。」と悔しさをにじます。
 いよいよ映画本編の上映になるとき、シネコンと単館の決定的な違いが出る。スクリーンカバーだ。ワーナーマイカルなどのシネコンではスクリーンがむき出しの状態になっており、単館には左右にカーテン状の、舞台などでよく見られる幕がある。シネコンでは映画上映の合図は館内が暗くなるだけだが、単館は幕が開く。この幕でも映画技師の技術が試されるのだ。この幕の開閉、実はとてもタイミングが難しいのだ。オープニングではタイミングよく開けなければならないし、エンディングでは余韻を残しつつ閉める。技師たちの観客に対する思いやりで開閉するスクリーンカバー。スクリーンカバー一つにも技師の思いがこめられているのだ。
「映画館のコンビニ化だ」と下田さんは言う。利便性、効率性を重視し、人と人とのコミュニケーションがなくなる。今の映画館は便利さだけが追求され、さらには全国展開、大量配給、まるでコンビニだ。コンビニやスーパーが商店街から客を奪ったように、映画館も同じ道をたどっている。また下田さんは著書のなかで「『小樽・映画館の時代』の最後に、かろうじて滑り込みに間に合った」とこうも述べている。下田さんは映画館のピークが終わり、衰退に向かいつつあった昭和50年から平成11年を映画館とともに歩んでいる。今でも下田さんは、小樽文学館で「小樽・映画館の時代」という企画展に協力したり、自ら講演を行ったりして今でも人々から小樽の映画館の記憶を消さないように活動している。

2章 映画館のその後

(1)各映画館のその後

小樽にはピークで23館もの映画館があった。明治から平成まで全ての映画館をあわせると39館もあり、とくに転業先や廃業時に特徴のあるものを以下の表にまとめた。

映画館     廃業、    転業先
高島劇場・・・・・スーパー
若松館・・・・・・スーパー
錦映劇場・・・・・スーパー
新星映画劇場・・・スーパー
入船映画劇場・・・スーパー
手宮劇場・・・・・出火後改装復旧、閉館後スーパーへ転業
富士館・・・・・・焼失後再建、 また焼失、廃業
電気館・・・・・・焼失後再建、 また焼失、廃業
住吉座・・・・・・焼失、廃業
末広座・・・・・・焼失、廃業
星川座・・・・・・焼失、廃業
八千代館・・・・・焼失、廃業
公園館・・・・・・焼失、廃業
大和館・・・・・・焼失後、倉庫に転業
松竹映画劇場・・・焼失後ダンスホールへ、さらにボーリングへ転業
日活劇場・・・・・ボーリングに転業、また映画館に戻る
東宝スカラ座・・・ゲームセンター

小樽市史、下田さんの話から作成

 こうして表を見ると、開拓の昔から火災の多い町とされてきた「火災の街小樽」がくっきり浮かび上がる。映画館の消滅の原因に火災が多い。とくに富士館や電気館は2度も火災に見舞われている。巻き添えになったのもあるが、映画館の映写室からの出火という映画館自体も小樽の火災の原因のひとつになっている。
また中でも1965〜70年代に転業先として目立ったのがスーパーだった。映画館のピークに陰りが見え始めた頃と、商店街や市場からスーパーが台頭しだした頃がちょうど同じ昭和30年代後半だったのだ。映画館も商店街も高度経済成長の波に押され、近現代化への転換の時を同じくしている。
 そして高度経済成長とともに娯楽の多様化も進んだ。テレビの家庭への普及により映画館への来場者の減少、ボーリングやスケート場など新しい娯楽施設も生まれた。それを受けて松竹映画劇場や日活劇場はさっそくボーリング場に転換している。しかしボーリングの流行もつかの間、日活劇場はまた映画館に戻った。スカラ座はゲームセンターになり、生き残りの策として一般映画館から成人映画館へと転換した映画館もあったが、レンタルビデオ屋の登場に敗れた。そして平成7年、東宝スカラ座が閉館して単館は小樽から姿を消す。
 2009年9月、かつて映画館が密集していた花園町(写真5)
を訪れた。ここには東映(写真6)
スパル座(写真7)
日活(写真8)
東宝劇場(写真9)
花園映劇(写真10)
松竹座(写真11)
の6つの映画館が同じ町内に軒を連ねていた。閉館後、いろいろ姿を変えてきた映画館たちは最終的にどのようになっているのだろうか。
 映画館の建物は面影もなく、ほとんどが駐車場になっていた。スパル座はスパルビルというスナックが複数入った夜の商業施設に、松竹座はマンションに変わっていた。90年代から駐車場になる映画館が急増したのはバブルが終わり、新しく何かを建てるよりも更地にするほうが楽だったためだろう。

3章 花園町とキネマ祭

(1)花園町 人々の記憶
 
夜になると立ち並ぶ料亭の明かりが辺りを照らし、寿司屋通りにあった妙見見番という置屋から派遣されてきた芸者たちが華やかに行き交っている。戦前、花園町は人々が続々と集まってくる小樽随一の歓楽街だった。稲穂町から花園町へかけて置屋は29軒、芸妓が90名所属しており、その繁栄ぶりを証明している。ところが昭和12年ごろから軍人の出入りが目立つようになった。そして16年にはついに軍部の統制を受け、料亭は軍部専用のものになり庶民から遠い存在になってしまった。
現在も稲穂町から花園町にかけての地域はスナック街の嵐山新地(写真12)
や、飲食店が立ち並ぶ繁華街である。しかし花園町(写真13)
がにぎわっていたのは夜だけではなかった。かつて、花園町には前述した6つの映画館があったのだ。
「子供のころ、よくタダで映画を見せてもらったなぁ」と東宝劇場の隣にある三川屋のご主人は懐かしそうに話してくれた。昔、映画は「実演」と呼ばれており、女優がPRしに映画館まで舞台挨拶に来ていたのだ。美空ひばりこまどり姉妹ザ・ピーナッツなど大物芸能人たちの来館に花園町は沸いた。芸能人は東宝劇場の非常口から抜け出して、三川屋を控え室として利用したそうだ。そのお礼に招待券をもらえたので、子供のころから映画館は遊び場の一つであり、なじみ深い場所だったという。越後商店の大正生まれのご主人は松竹座、中央座(のちの日活)で弁士のいる無声映画を見たことがあるそうだ。BGMもその場での演奏で洋画なら楽隊が、邦画なら三味線の演奏があったと当時を振り返る。このまま、映画館は当時を知る人々の記憶の中に埋もれていってしまうのだろうか。

(2)キネマ祭
 日本で3番目に鉄道が開通してから炭鉱でにぎわい、戦後には樺太からたくさんの人が引き揚げてきて小樽は港町として大きく発展した。だが戦後になって北海道の経済の中心が小樽から札幌へと移ってしまったため、小樽は衰退してしまった。しかし小樽運河をPRした観光事業の成功により、小樽はにぎわいを取り戻した。小樽運河の成功の影で、衰退の一途をたどるままだった花園町。その花園町で「映画の都復活祭・小樽キネマ祭」が平成18年に開催された。同祭は今年(平成21年)で4回目を迎えた。この祭りの内容は野外にスクリーンを用意し、昭和の小樽の映画を上映するというものである。また、抽選会や屋台などもある(写真14)
運河に客をとられることと、商店街の衰退を防ごうと花園映劇の跡地の裏にある石倉のスナックの人が呼びかけたのがきっかけだった。祭りは花園映劇の跡地で開催し、石倉をスクリーンに石原裕次郎の映画を上映する。この映画上映は石原裕次郎記念館とのコラボで実現した。お客さんはほとんど花園町の人だが、なかには小樽商大生もちらほら見受けられる。しかし若いお客さんは映画自体に興味はなく、水天宮のお祭りに合わせた開催なので、なんとなくお祭りの雰囲気につられて来場している人が多いという。会場には映画関係者もおらず、せめて当時の雰囲気の映画館のセットでもあれば、「映画の都」を強調できるのではないだろうか。

おわりに

 今、小樽の街にはかつて映画館の街だったころの面影がまったくといってない。映画館だった建物も今となっては駐車場やマンションだ。「小樽と言えば」と聞かれたら多くの人が「運河」と答えるだろう。「映画館がたくさんあったね」と答える人はこれからだんだん少なくなるだろう。映画館は単館からシネコンへと時代とともにシフトし、映画館も技師の技術いらずの機械化、個性なきチェーン店化の時代を迎えた。そんな中、花園町は映画の街の記憶を復活させ、町おこしに励んでいる。嵐山新地やスナック街に昭和の面影が残っている。その映画の街復活祭で、もし昭和の情緒あふれる映画館や街並みが再現できれば、今注目されている「B級観光」のスポットになりうるのではないか。観光地化だけが町おこしではないが、映画館の記憶の灯火が消えないようにこれからも毎年キネマ祭が開催し続けられることを願う。


この研究をレポートとして形にすることが出来たのは、担当して頂いた島村恭則教授の熱心なご指導や、下田修一さん、越後久司さん、花園町の商店街の方々のおかげです。協力していただいた皆様へ心から感謝の気持ちと御礼を申し上げたく、謝辞にかえさせていただきます。  





文献一覧

下田修一
 2007 『エッセイ集 レトロな映画館につれてって』緑鯨社。
小樽市
 2000  小樽市史 第10巻文化編
《小樽なつかし写真帖》編集委員会
 2007 「月刊小樽なつかし写真帖」発行 どうしん小樽販売所会。
神戸100年映画祭実行委員会/編 神戸映画サークル協議会/編
 1998 『神戸とシネマの一世紀』 神戸新聞総合出版センター

URL
http://www.shurakumachinami.natsu.gs/03datebase-page/hokkaido_data/otaru%20hanazono/hanazono_file.htm
http://theaterkino.net/yomoyama/015.html