関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

そば屋から見る小樽のまち

1 小樽とそば屋
・小樽にそば屋が多いわけ
 明治時代、北海道は政府によって開拓され、また多くの天然資源の多い土地でもあった。特に夕張や美唄は石炭がよく取れた。その石炭などを本州に運ぶために小樽は政府の政策で本州と北海道をつなぐ強固な懸け橋となった。政府は北海道の開発に2000万を投入したが絶頂期には一年にそのうちの400万が小樽へ投入された。
こうして本州から北海道への入り口となった小樽には本州からたくさんの人々が仕事を求めやってきた。仕事を求めてくるほとんどは男性だったので小樽のまちは男性で溢れ返った。昼は仕事に精を出し、夜や休日は気を晴らすのがよかったのであろう、劇場などの歓楽街が増え、それに付随して飲食店も増えた。すし屋など様々な飲食業はあったが、その中でもそば屋は居酒屋や料亭やスナックの機能も兼ね備えていたので特に繁盛した。だから小樽にはそば屋が多いのである。

・小樽のそばは関東風
 先ほど「小樽には本州からたくさんの人々が仕事を求めやってきた。」と書いたがその中の多くは北陸出身の人が多く、また今あるそば屋の出身も北陸の出の人が多かった。北陸は関西に近いので蕎麦も関西風かと思っていたが意外にも関東風であった。一つは労働者は塩分・糖分をほしがっており、男性社会で成り立っていた江戸も同じ条件で、関東風のだしのほうがあっていたから。関西風ではだしをとるのに時間がかかることと、何より薄味だったので男性労働社会の小樽では受けいれられなかったのである。もう一つはその関東風の蕎麦を伝えたのが江戸から来た蕎麦職人であったことである。晴れて一人前の蕎麦職人になったところで、江戸の町にはすでにそば屋は飽和状態であった。そこで新たに働けるところを探した蕎麦職人たちは北海道へ向かい、そこで北陸から出稼ぎに来た人々に蕎麦を教えたのである。


2 まちとそば屋
 小樽には様々な市場やかつては電気館などもあり、それぞれのまちに多くの特色をもった所に思える。そしてそのまちにはそのまちのそば屋がある。そこでそば屋から見たまち、またまちの風土に影響されたそれぞれのそば屋を個々に取り上げる。

2−1 銭湯と「三マス本店」
明治10年ごろ、北海道で一番古い銭湯とされているのが信香町にある「小町湯」である。
この銭湯の経営者は銭湯と一緒にそば屋も経営していた。そして石川県から来樽してきた河本徳松がそば屋を買ったところ銭湯も付いてきて、それからも一緒に経営した。私が話を聞いた河本道子さんは毎日銭湯とそば屋を行き来し番頭とそば屋の接客と両方で働いていたらしい。最も繁盛していた時には午後5時に「朝ご飯」なんてことも珍しくなかった。お客は銭湯に入った後蕎麦を食べに来た人々や、海沿いの工場で働いている労働者たちで、工場にはリヤカーで100個もの蕎麦を運んでいた。ずっと繁盛し続けていた「三マス本店」であったが、20年前に当時(明治時代)のままの建造物が珍しいということで、北海道の「開拓記念館」に建物を寄付してからのれんを下ろすこととなった。

2−2 入船市場と「三マス支店」

大正7年「三マス本店」からのれん分けをし、商大通りの緑町に店をかまえた。しかし戦争が始まり経営ができなくなり、戦後も緑町に道路を作る計画が立てられ立ち退きを迫られたので、昭和24年入船市場の中に蕎麦屋を開業した。しかし経営は大変だったそうだ。蕎麦にはゆでたりつゆに使ったりと大量の水が必要である。しかし店から水道までが遠く、不便であった。そして市場は強い生活共同体である。市場は朝早く開店し夕方には店を閉めるので夜の商売ができなかった。このことから今の入船通りへ店をかまえることにした。市場に店があった時は出前が中心で市場の人や入船通りの商店の人に届けていた。

2−3 住宅街と「更科」

最初は都通りに店をかまえていたが借家だったことと予てから坂の上で、出前中心の店にしたかったことから入船の住宅地に開業。坂の上がよかったのは天狗山へのスキー客を狙っていたこともあった。客は都通りからの人が来る時もあるがやはり住宅街の人も多く、出前中心である。昭和50年ごろからはお年寄りの方が多くなったらしい。










2−4 料亭と氷菓―「伊佐美屋」

昭和11年花園町第二大通り学校通り下で開業する。出前中心の経営で、病院や消防署といった24時間体制のところへも出前をしていたため、深夜2時まで店を開けていたこともあった。住吉神社や水天宮が近いため、正月には参拝客が食べに訪れた。また夏場には蕎麦以外にアイスキャンデーを作っていた。これは店での販売ではなく、朝に駄菓子屋などに配達していたらしい。最初からアイスキャンデーではなく、大学芋など様々な甘味を蕎麦と同時に販売することを考えていた。これはおそらく子どもたちのためではないかという。昭和30年代には近くの「海洋亭」と「豊楽荘」という料亭に相当な量の生蕎麦を納めていた。
















2−5 労働者の色内―「一福」

明治27年開業し創業から115年となる。鳥取出身の一代目は北海道にひと旗あげようと入植した。そして明治34年に色内へ移転する。当時色内は「北のウォール街」と呼ばれるほど発展しており、活気があった。ここで働いている銀行員や呉服屋をターゲットとして移転したのである。これらの人々は毎日一生懸命働いているせいか疲れており、塩分を欲していた。なので蕎麦の味付けは今よりも濃かったという。





















2−6 電気館から商店街へ―「石川屋」

 電気館―今で言う映画館は昭和、小樽でとても流行ったという。小樽駅の前には多い時で50~60軒ほどあった。創業当時から稲穂町に店をかまえていた「石川屋」には映画を観終わった後にそばを食べに来る人が多かった。今の閉店は夜7時であるがその時は夜10時くらいまで店を開けていた。しかし電気館のない現在は商店街など町の常連客が多いそうだ。またこの店は、戦時中も開店しておりそば粉などの材料が入手しにくかったため、代用品として海藻の粉、「カイホウ麺」を使って蕎麦を打っていた。




2−7 国道5号線と「かねさく」

 最初は住之江の新廓の遊び人相手に担ぎ屋台を始めるが、明治29年の住之江町大火のために商売にならず、閉店。それから色内川畔に移転し、労働者相手に屋台蕎麦屋を始めた。当時は手宮野高島の道路の工事現場までかついでいた。店をかまえたのは大正3年頃で、国道5号線の付近で稲穂町を中心に出前を行っていた。昭和に入ってからは色内の小学校や富岡町ニュータウンまで出前をとっていた。だがニュータウンはまだ人が根付いていないため、あまり注文はなかったという。昭和初期国道ではダンスホールがたくさん建っており、その客で店は賑わっていたがそれがつぶれると今度は電気館が建ち、電気館がつぶれるとまたダンスホールができた。また近くには中央市場や銭湯もあり、その帰りの人がよく訪れていた。

2−8 満州引揚者の中央市場と「たかはし屋」


 昭和13年から緑町で菓子屋を経営していたが、先代が戦争で満州に行き、その後満州からの引き揚げ者が作った中央市場で食堂を開いた。当時は食べ物であれば何でも売れたこともあり、お弁当を配達していた。蕎麦の出前も取っていたが圧倒的に弁当が売れたという。しかしコンビニができたことや駅前に長崎屋ができたことで人の流れが変わり、弁当はほとんど売れなくなった。そして昭和50年ごろに今のように蕎麦屋として営業することとなったのである。






2−9 手宮市場と小産業―「ヤマカ加藤」

 最初はラーメン屋台であったが大正14年手宮へラーメン屋として店をかまえる。それから蕎麦も始める。手宮は昔、水産業が栄えており出前のほとんどは水産業で働いている人たちであった。そば屋の近くにはキャバレーなどがあり、色内や稲穂などの中心街から船員さんが多く訪れて、その帰りなどに店にも寄ってきた。水産業のおかげで手宮市場も繁盛しており、市場から帰る人々もよく蕎麦を食べに来ていた。しかしだんだんと漁獲数も減り、水産業も衰退していったので今のお客は出前と近所の人々が中心である。また手宮より市街地へ離れた所には蕎麦屋はない。



おわりに
 私が現在住んでいるまちや、故郷にはこれほど多くの蕎麦屋はなかったので、なぜこの小樽には蕎麦屋があるのか気になったのが調べようと思ったきっかけである。インタビューをしているときよく「別に蕎麦屋でなくてもいいじゃないか」と言われることがあったが、この小樽というまちと根付いた蕎麦屋だからこそ見えてくるものがたくさんあったように思える。また場所によって一つ一つ蕎麦屋に違いが出てきたことは予想外であった。この調査書を作成するにあたってインタビューを受けてもらった蕎麦屋の方々に深く感謝します。


文献一覧
1970 『小樽麺業界の歩み』小樽蕎麦商工組合
2001 『小樽の蕎麦屋100年』小樽商工組合創立100周年記念大会実行委員会