関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

小樽のニュータウン

小樽のニュータウン 
 木戸 彩香

はじめに

 北海道小樽市という土地を聞いて思い浮かぶのは、小樽運河、レンガ造りの倉庫、市場など港に関することでではないだろうか。それは、今日の小樽が観光地化され、マスメディアでも観光地として報じられ、視覚的に我々の目に記憶されているからであろう。では、小樽市に住む人々はどのような暮らしをしているのか。小樽市は面積243.30平方キロメートル、総人口、約13万人である。札幌市からJR快速列車で30分前後であることから隣接する札幌市のベッドタウンとしての役割を担っている。戦後、小樽は発展を遂げたが、発展を遂げたのは小樽だけではない。札幌も同様に発展を遂げ、さらに札幌は小樽の都市機能までも吸収した。都市機能を吸収され、札幌のベッドタウンとなり小樽にニュータウンができるようになった。このニュータウンの出現により小樽市は郊外のような機能も兼ね備えるようになった。今日のニュータウンとしては小樽市東南部に位置する、望洋パークタウンがその役割を担っている。
 本研究は戦後から今日までの小樽のニュータウンについて着目し、移り変わり、ニュータウンの構造、時代背景などを踏まえ記述、解明するものである。また、時代に応じて、ニュータウンという言葉が示す集合住宅地は特色がそれぞれ異なる。そのような点においても比較していく。

第1章 戦後の住宅対策

(1)戦後の小樽

 日中戦争から太平洋戦争にかけて、小樽も戦争に参加していたが大きな戦災を受けることもなく、戦争終結を迎えることとなった。小樽には港があるため、アメリカの艦船が入港し、連合軍が駐留するなど、北海道の中で小樽が重要視されたこともあった。昭和22年にはソ連からの引き揚げも始まる。サハリン(樺太)や沿海州からの身よりのない引き揚げ者は、小樽に住みつくものが多かった。そのため、戦後の小樽市は人口も急激に増え、終戦直後に 比べると1万4000人ほど増加していた。そういった環境の中で、小樽は食糧不足と経済不安に陥り、物価が跳ね上がった。樺太からの引き揚げ者や、戦災を受けて内地から移り住んだ人々の中には、お金のかからない商法として道端で生活必需品を売る者や、魚を捕って行商に出かける者もいた。特に行商人は各々の品物を小樽駅前で交換したり、露天を開いたりしていた。これが、三角市場の始まりである。小樽が北海道で最も市場が多いことはこのことに由来する。また、小樽は漁港があったことで、戦後重要港湾に指定され、商業活動が盛んに行われた。その後、昭和29年の国際観光都市指定と合わせ、観光面でも力を入れていくこととなる。昭和30年代には、小樽海岸が国定公園に指定され、高度経済成長に先だって開発計画を進め、隣接都市とともに発展を遂げてきた。

(2)戦後の住宅政策

 さて、(1)戦後の小樽で述べた通り、戦後小樽は商業が盛んな都市になったものの、多くの引き上げ者の住宅対策が問題となり急務とされた。戦後の住宅対策はどのようなものであったのだろうか。まず小樽市は、遊郭、料亭、遊休個人住宅など利用し対策を立てた。しかし、昭和25年時点で、依然として住宅難は解消されなかった。そこで、住宅対策も今までのような応急措置ではなく、計画性と恒久性を持った制度を確立し、「公営住宅法」の制度が検討されるようになった。この制度は昭和26年に公布された。これにより、地方公共団体が国の補助を受けて建設・管理し、住宅に困窮する定額所得者に対して、低価格の家賃で賃貸する公共賃貸共同住宅が国の恒久的な政策として確立された。この制度により、住宅難の解消を目的に公営住宅が建設された。公営住宅建設にあたり、住宅建設の敷地の確保が問題であった。小樽市の地形の構造上からも宅地不足で郊外に敷地を求めなければならなかった。道路交通や下水道、交通手段を確保するためにも大規模団地の造成が必要となった。そこで、小樽で最初に造成された団地が最上団地とオタモイ団地である。これらは小樽市の中で初期に造られた庶民のニュータウンとも言えるだろう。この2つの団地は現存しており、現在でも入居者がいる。この2つの団地の中で特に、オタモイ団地を初期のニュータウンの一例として取り上げ、次の章では深く触れたい。

第2章 オタモイ団地 と かもめヶ丘タウン

(1)オタモイ団地

 前節より、戦後の住宅対策として、大規模団地の造成が行われた。これに続いて小樽市には大規模団地が次々と造られていく。では小樽市に初期のニュータウンとして造られたオタモイ団地はどのような特徴を持つのであろうか。フィールドワークでの分析を踏まえ、記述する。
 オタモイ団地へ行くには、JR「小樽駅前」駅からバスで25分である。私がフィールドワークを行ったのは夕方4時頃であった。道を歩いている人は少なく、静かな雰囲気の町であった。建物は古めの平屋
が何軒も連なっていて、新しいマンションのようなビルもいくつか建っていた。
バス停からすぐ近くの「オタモイフード」
というスーパーの奥さんに話を伺った。何十年も住んでいるそうで、昔の話や当時と現在との違いなどを聞くことができた。その話によれば、平屋には今は、5,6人しか住んでいないそうだ。住んでいるのは皆、高齢の方で、身寄りのない者が多い。平屋は長屋が取り壊されてできたもので、長屋は戦後の住宅対策により造られた、おもに引き上げ者の住む住居であった。長屋の頃には、座談会という会が開かれ、近隣同士で深い人間関係が構築されたそうだ。また、オタモイ団地には、現在あるマンションに加え、今後新しいマンションが2件程建つ計画もあるという。
建設予定のマンションには、現在平屋に住んでいる方々が移るそうだ。また、オタモイ団地の近くには、育成院という擁護老人ホームがある。これは、オタモイ団地ができた当初から住んでいた方が高齢になり、入居しているのではないかという推測がたつ。
 このように、オタモイ団地には、平屋という今日あまり見られない建物があった。マンションには、家族が住んでいたもののオタモイの町の人口は高齢者が多い。そう言った点で、時代に遅れている町であるように感じた。これは、オタモイ団地の立地条件にも原因があると考える。戦後、土地買収をするに当たり、小樽市中心部は地価が高く、手が出なかった。そこで、地価が比較的安い、山の手にオタモイ団地を造成した。結果、交通の便が悪く、坂の上に立地しているので、学校、大型スーパー、市の中心部に行くのも一苦労である。この問題は現在も抱えており、中心部へ出る交通手段は主にバスであるし、道路も完全に整備された状態とは言えなかった。以上のようなことを、初期に造られたニュータウンの特徴とし、次に、昭和50年代頃に造られた、小樽の中期のニュータウンについて着目していきたい。

 (2)かもめヶ丘タウン

 昭和55年頃に造られたニュータウンとして、かもめヶ丘タウン(地区としては祝津)がある。高島という地区に隣接して造られた。このかもめヶ丘タウンも固有の特徴を持っている。ここでもフィールドワークによる分析を通して、記述していく。かもめヶ丘タウンへ行くのにはJR「小樽駅前」駅からバスで15分程度である。
高台に位置する、かもめヶ丘タウンへ行く途中に、学校、コンビニエンスストアなどが見られ、生活条件は良いように見られる。住宅群は個別住宅の一軒家が多く、一家に一台、車が見受けられた。かもめヶ丘タウンができた当時のものから建て替えられたのか比較的新しい住宅が多く見られた。道路幅も多く、車の利用も便利になっていた。この地域にも私は夕方頃に訪れたのが、ひっそりとした雰囲気であった。学校帰りの子供がぞろぞろと歩いていたので、かもめヶ丘タウンは家族で住む人々が多いようだ。バスが走っているのに加え、車も利用しやすいので、中心部や市外に通勤するサラリーマンにとっても都合がいいのだろう。学校の近くには公園などもあり、ニュータウンといった要素も持っていた。では、かもめヶ丘タウンよりも後にできたニュータウンはどのような構造であるだろうか。昭和56年から着工し、完成予定では、住宅5000戸にもなる、望洋パークタウンについてもフィールドワークを行った。

第3章 望洋パークタウン

 望洋パークタウンは現在、1000戸が建設され、約3000人が居住している。小樽市の東南部に位置し、東西約4キロメートル、南北約1キロメートルの広大なニュータウンである。JR「小樽築港」駅からバスで約9分、JR「小樽駅前」駅から約20分というアクセスである。望洋パークタウンは、前節の、オタモイ団地やかもめヶ丘タウンと違い、小樽開発公社や三菱地所株式会社などによる宅地造成がなされ、「青と緑に彩られた、暮らしがリゾートになる街」というコンセプトがある。
フィールドワークを行ったが、確かに、緑の生い茂る緑地や道路の端に花壇が置かれているなど、緑溢れる町であった。
フィールドワークを行っている途中に、望洋パークタウンの現在の町会長である、新保義彦さんからお話を伺うことができた。新保さんは4代目会長である。望洋パークタウンは「望洋台」という町名が創られ、1町目から順に造成されている。望洋パークタウンができた当初の建物も残っていた。
昭和をイメージするマンションで、今でもほぼ全室入居している。人の出入りは比較的激しいそうだ。2町目の方に上っていくと、新興住宅地というような一軒家が軒を連ねている。望洋パークタウン内には、小・中学校、コンビニエンスストア、介護老人ホーム、コミュニティーセンターなどがあり、施設に充実している。道路の幅も広く、車利用者には大変便利である。新保さんの話によると、現在、大型スーパーはタウン内にないそうで、スーパーとタウンをつなぐ無料バスが出ているそうだ。
 当時の様子(昭和60年頃)についてもお話を伺うことができた。当時は、スーパーの代わりとして、コープ生協があったそうだ。(現在は取り壊され、空き地になっている。)また、市内に住む人々がニュータウンを珍しがって見物に来たという。市の中心に出るバスは1時間に1本しかなく、現在よりは交通の便が良くなかったそうだ。
 また、町を歩いてみると、公園が多い。
パーク内に5つあるそうだ。現在、中学には約270人、小学生には約400人が通っている。そのような点からも公園があるということは、子供の生活する環境として良いと言える。
 さらに、望洋パークタウンの住民はどのような人が多いのだろうか。新保さんの話によると、小樽市内から引っ越して来た方や、静かにシニアライフを過ごすため札幌から引っ越して来た方など、出身はバラバラである。共働きが多く、仕事は小樽市内の方がほとんどだが、中には札幌市まで仕事に行く人もいる。これは、望洋パークタウンの位置にも関係していて、望洋パークタウンから札幌都心までは、車で約40分という比較的早い時間行けるからである。そういった意味で、札幌の特徴も兼ね備えているのである。ここが、前節に述べたニュータウンと違っている点ではないだろうか。札幌近郊のニュータンの特徴については、後の付論で述べることとする。

 第4章 まとめ

 以上のように、小樽市に存在する大規模団地、ニュータウンとして、オタモイ団地、かもめヶ丘タウン、望洋パークタウンの3つを例に挙げ、戦後から今日に至るまでの小樽の住宅環境の移り変わりを記述した。ニュータウンの歴史は戦後直後に造られたオタモイ団地から始まり、昭和後期に造られた望洋パークタウンにまで移り変わる。また、小樽市朝里地区には平成に造られた、小樽市で現在最も新しい、小樽ベイビュータウンというニュータウンも存在する。今後も、小樽は観光地として、札幌もベッドタウンとして発展していくのではないだろうか。
また、今回のフィールドワークを行う中で、小樽市民のひとつの意見としてニュータウンとして捉えているのは望洋パークタウンである、という意見も得ることができた。その意識はどのような点から生まれてくるのであろうか。ひとつには、望洋パークタウンのみ、小樽開発公社や三菱地所株式会社などにより本格的にニュータウンとして造られたという点が挙げられるであろう。望洋パークタウンはちょうどバブル期に造られた市街地である。交通の便を考えた道路や、緑をコンセプトにして造られた街並みは今日のニュータウンを想像させるものである。
 さらに、小樽市ニュータウンに共通した点についても言及しておきたい。小樽市に住むに当たって、坂との関わりは切り離せない。また、戦後から今日までを通して言えることであるが、大規模団地、ニュータウンを造成するにあたり広大な土地が必要であるため、どうしても坂の上の丘陵地などに集中する。そのため、どうしても交通の手段が車になってしまう。オタモイ団地に関して言えば、道路の幅が狭く、駐車場の設備などがあまり整っていないため、車を日常に使う人にとっては不便であろう。その点、望洋パークタウンでは道路の幅が広い点では、坂による交通の便は解消されやすいように思う。しかしながら、この地形の特色は今後もつきまとうものである。坂との関わりの中でいかに生活環境を豊かにしていくかが今後の課題であろう。

 付論

 (1)恵み野ニュータウン

 先ほど、望洋パークタウンは札幌近郊のニュータウンの特色も兼ね備えていると述べた。それに関して、札幌近郊のニュータウンである、恵み野ニュータウンあいの里ニュータウンのフィールドワークによる分析を通して、付論で述べておきたい。
 恵み野ニュータウン札幌郊外そのものという感じの印象をうけた。JR「恵み野」駅前には、自転車置き場や、タクシー、バスなどが止まるロータリーがあった。
また、大型ショッピングモールであるイトーヨーカドーもあった。道路、歩道とも新しく舗装された様子である。
住宅も新築が多く、周辺には、飲食店などもあった。
このニュータウンの利便性は住宅、ショッピングモールともに、駅から近いことであると考える。また通勤、通学者にとっても駅から自転車を使えば、自宅から駅までもそんなに多くの時間はかからないと予想できる。

 (2)あいの里ニュータウン

 恵み野ニュータウンに引き続き、あいの里ニュータウンについてもフィールドワークを行った。JR「あいの里公園」駅で降り、周辺を歩くことにした。
駅前には、新興住宅地が広がっていた。
また、駅の左手には、スポーツジムのような施設も見受けられた。街の中を歩いていき、茨戸福移通という通りに着くと、新築マンションも建設されていた。
その周辺には、恵み野ニュータウン同様に、大型ショッピングモールのような施設があった。
また、近くには、あいの里教育大学、北海道医療大学病院などもあり、生活環境としては整っているといえよう。

 (3)望洋パークタウン

 では、以上の、札幌近郊のニュータウンと望洋パークタウンが類似している点はなんであろうか。それは、札幌とのつながりではないだろうか。小樽市民の多くは、小・中・高・大、社会人になるまで、小樽の中で過ごしている。それは、小樽市で人生の多くを過ごせる環境にあるからであるが、望洋パークタウンの人々の中には望洋パークタウンは札幌近郊のニュータウンという認識を持っている人も多い。ゆえに、小学生から中学受験をして、札幌市内に通う中学生や、札幌市に通勤するサラリーマンがいるのである。しかし、付論で述べた3つのニュータウンを比較したとき、はっきりと差がつくのは、札幌までの移動手段と距離である。恵み野ニュータウンあいの里ニュータウンは、JR「札幌」駅まで、電車1本で、約15分たらずで行くことができる。その一方で、望洋パークタウンから、JR「札幌」駅までは前者と比べると、はるかに遠い。また、一般の認識として坂の存在がより遠いというイメージに結びついているのではないだろうか。しかし、恵み野、あいの里、小樽と比べたとき、小樽という地名ブランドははるかに高い。よって、小樽市には、そのブランド力を利用して、今後も発展してほしいものである。

 おわりに

本研究に際して、様々なご指導を頂きました小樽市総合博物館の皆さまに深謝致します。また、現地での聞き取り調査を快く引き受けてくださった、望洋パークタウン町会長、新保義彦様に感謝致します。そして、多くのご指摘を頂きました島村恭則教授に感謝致します。

文献一覧

荒巻 孚
 1984  「北の港町 小樽‐都市の診断と小樽運河‐」、古今書院
小樽市 市政資料
 2005  「小樽市住宅マスタープラン」
小樽市
 1977  「小樽市東南部地域(毛無山ろく)開発基本計画
望洋台町会
 2008  「望洋台町会のしおり」