関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

小樽と小豆

小樽と小豆

二上 愛

第一章 小樽と小豆産業

(1)栄光とその時代

 小樽における小豆の豆撰産業の発達は、明治22年(1899年)に小樽港が特別輸出港に指定され、日本でも有数の貿易港として発展していくことと大いに関係する。小樽港で取り扱う品目は石炭、海産物、穀物、雑貨など多くの種類を移出していたが、なかでも米や小豆、大豆といった穀物が多数を占めるようになる。そのため、小樽は道内から来た産物の集積地となり、小豆を選別する工場も増えていった。
 そして、大正3年(1914年)、第一次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパの豆主産地だったルーマニアハンガリーも戦場と化し、輸出がストップした。その影響で豆が不足し、世界的に値上がりしたとき、北海道から穀物が大量に輸出された。この時すでに、道内で取れた穀物はほとんどが小樽に集積されるようになっており、第一次世界大戦がはじまった3、4年後にあたる大正6、7年にかけて小豆の豆撰産業の最盛期を迎えることになった。
 最盛期には、現在の色内1丁目〜3丁目の運河周辺に20数件の工場が立ち並び、豆撰工場で働く女工の数が約6000人にも上ったというのだから、驚きである。確かに小樽で小豆の豆撰産業は盛んであったのだと言えよう。
 第三章で聞き取り調査から得た、当時の工場の様子や女工さんの働きを紹介しようと思う。

(2)そして衰退へ

 (1)でも述べたように、小豆の好況は華々しかったがその衰退は早い。多くの資料にもその後の動向は書かれていないが、昭和 初期頃から船舶は大型化、世界の商港は接岸荷役へと転じていたため、小樽港も大規模な工事を余儀なくされ、一時衰退する。それに伴い小樽の小豆も衰退の一途をたどる。昭和に入ると工場は減り続け、女工さんも小樽の地から離れるようになり、現在では渋沢倉庫が形を残しているのみである。
 現在では、小樽市民の方も小豆工場の繁栄を知らない人が多く、その栄光は忘れ去られてしまった印象を受けた。

第二章 活躍した「小豆商人」

小樽における穀物輸出の急激な伸びで、多くの小樽商人が莫大な富を得ることとなる。この章では、特に小豆によって活躍した人々を紹介する。

(1)高橋直

当時のロンドン相場まで揺さぶった彼の名は今でも「小豆将軍」として伝えられ、小樽の小豆を語る上で彼の存在は欠かせないであろう。
 直治は安政3年(1856年)に新潟県で生まれる。18歳で小樽にやってくると約三年間の荒物屋の店員をした後に独立し、味噌・醤油の醸造などを手掛ける。その後も精米所や小樽商会の設立、小樽新聞の出資者になるなど幅広い活躍をし、さらには明治35年(1902年)に、北海道初の衆院議員となる。
 直治は弟の喜蔵とともに、明治30年(1897年)に高橋合名会社を始め、主に米・海産物・荒物・醤油などの売買、委託などをした。さらに、委託だけにとどまらず、積み出しから輸出までをも扱うようになる。
 彼には、次代を見越す力があったのだろうか。第一次世界大戦が始まれば、ヨーロッパの穀物類が不足し、必ず価格は値上がりすると考えた。その予測をもとに、道内から13万俵という膨大な量の小豆を買占め、自分の倉庫に貯え値上がりを待った。この時の小豆の価格は一俵6、7円である。そして予測は的中し、戦火が激しくなるにつれ小豆の価格は上がり、一俵17円の高値をつけると、備えていた13万俵の小豆を一気に売りに出した。それ以来、直治は小豆将軍といわれ、ロンドン市場を揺るがす以外にも世界中の市場関係者の間で知れ渡ることとなる。
 その後も何度か衆議院議員を務め、大正15年(1926年)に生涯の幕を閉じた。

(2)板谷宮吉
 
彼は直治と同郷の新潟県出身で、後に海運王として知られるようになる。直接小豆業と関わることはなかったが、小豆将軍の直治との生涯の友であり、同業として多くの接点があったため紹介した。

(3)その他の小豆将軍

 名前などは残ることがなかったようだが、多くの小豆仲買人が富を得ることとなる。雑穀商の中心地となった堺町筋は「売った」「買った」を叫びながら、店から店へと飛びまわる。そして儲かれば、妙見町界隈の花柳町で札ビラを切る風景も見られたらしい。
 当時よほど儲かっていたことが想像できる。


第三章 「豆撰」全盛時代の話

 では小豆の豆撰産業が小樽で全盛を迎えていた時、当時の様子はどのようだったのであろう。小樽での聞き取り調査にご協力いただいた小樽市在住の北村猪之助さんと同じく小樽市在住の中ノ目定男さんの話を元に紹介していこうと思う。

(1)小豆工場の仕組み

 小樽の小豆工場と他の工場の違いはその外観である。雪が多いこの地では三角形をした屋根が多いが小豆工場の屋根は平らになっている。


 まず女工さんたちが、工場内で集積された小豆の選別を全て手作業で行い、それを麻袋に入れ、屋根に通じる梯子を登る。そしてその豆を屋根の上に天日干しにし、それが終わればもう一方の梯子から戻ってくるという流れ作業を行うために屋根は平らになっている。
 しかし屋根が平らでない工場もあり、その場合はだだっ広い外の空地までいき、天日干しの作業を行っていたそうだ。
 また、石造りの工場内は防火対策として窓が少なく、それゆえ中は薄暗く湿気が多かったようだ。
 このように、小豆工場はほかの工場とは違った特徴を見せ、工夫が凝らされていたことが分かる。

(2)女工さんの働き

 最盛期の頃、小豆工場へ吸い込まれて行く多くの女工さんを見てか、人々に小豆工場は「豆撰女学校」とも言われていた。
 女工さんたちは年齢も10代〜50代くらいとさまざまであった。
 給与体系は工場ごとに異なっていたそうだが、どのくらい悪い豆を見つけることができましたよ、あるいは良い豆をこんなにも選別しました、ということを評価基準にする請負賃金制が基本だったそうだが、それでは賃金をもらいたいがゆえに嘘の選別をする女工さんもいたそうだ。そのため、問題が起きた工場などは日給や時間給に変更するところも多くなっていた。しかし、賃金を巡っては最善の解決策がなかったようで、困ったこともあったそうだ。
 そんな豆撰産業に代表する女工さんたちも、小豆が衰退の一途をたどるのと同じように小樽を後にしていくこととなる。明確なその後の所在地は分らないが、さらに発達している町の中心部や太平洋側の地域に移ったのではないかと考えられている。

第四章 小豆の建物今・昔

 この章では、文献や聞き取り調査の結果分かった小豆に関する場所を現在ではどのように変化したのかを写真とともに紹介していきたい。

(1)小豆工場

 渋沢倉庫は第一章でも紹介したように現在唯一残る小豆倉庫である。場所は色内町の運河沿いにあり、写真のように屋根が平らで、小豆工場の特徴をはっきり残していることが分かる。第三章(1)内で示した渋澤倉庫の写真の反対側に回ってみると、お洒落な建物が今では居酒屋さんとして使われているようだ。


 次に、勝納町にある銭湯「汐の湯」は、昔豆撰であったとされている場所だ。当時の資料は残っておらず、明確ではないが銭湯の方たちに聞くと代々その話が伝わっていたというのだから、おそらくそうであろう。

(2)小豆将軍の家

 現在、小樽市歴史的建造物となっている旧寿原邸は、第二章でも紹介した高橋直治が創建者であったとされる。



明治42年の土地明細録、大正3年の土地台帳によると、土地所有者は「高橋直治」となっていたが、電話番号簿では昭和9年には寿原外吉に変わっていた。(http://www.mmjp.or.jp/OTARU/kyoyou/jr-27.htmlより)場所は東雲町の高台にあり、邸宅内の様子からも高橋直治の優雅な生活ぶりが想像できる。
 次に、同じく第二章で紹介した板谷宮吉の邸宅も、旧板谷邸として小樽市歴史的建造物となっている。和風の母屋とその北側に続く洋館は独特の雰囲気を醸し出し、高台に建つ広々とした敷地は風格がある。現在は休業中のようだが2005年に商業施設となり、母屋で日帰り入浴やエステサロン、洋館ではフレンチが楽しめるお店になっているそうだ。




まとめ

 小樽での豆撰は小樽港の繁栄とともに多くの工場や女工さんに支えられて栄えた。その栄光は数十年という短い期間だったが、今回の調査を行い、たしかに存在していたことを確認することができた。しかし文献を調べたり、小樽に行きフィールド調査を進めていく中で、現在小樽に住む人々にはあまり知られていないことであったように感じた。
 今回調査するにあたって、小豆産業の繁栄という今から約80数年前の事実を掘り起こすことは本当に困難なことであると実感した。この調査で得たフィールドワークの方法は今後活かしていきたい。そして、このリポートによって小樽の小豆産業の栄光が少しでも色褪せてしまわない事を願う。

謝辞
本稿の調査にあたっては、小樽市在住の北村猪之助氏、中ノ目定男氏、小樽市立博物館の石川直章先生、佐々木美香先生に多くのご協力を賜りました。ここに記して感謝を申し上げます。

文献一覧

小樽市
 1981 『小樽市史 第二巻小』図書刊行会。

合田一道
 2004 『目で見る小樽・後志の100年』郷土出版会。

小樽商工会議所HP
http://www.otarucci.jp/

北海道中央タクシーHP
http://www.chuo-taxi.jp/feature_articles4.html(小樽の歴史)