関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

「ソーラン節発祥之地」はどこか?−ソーラン節と余市・積丹−

川本 彩
はじめに −ソーラン節と余市積丹
(1)北海道に二つあるソーラン節発祥の地の碑
北海道には、ソーラン節の発祥の地の記念碑が2つある。
一つは、北海道余市町豊浜にある。(写真1)

彫られてある内容:「ソーラン節発祥之地」  
建立年:昭和36年(1961年)
建立者:余市町余市町教育委員会余市漁業協同組合、余市町郷土研究会
建立場所:ローソク岩が良く見える開けた場所、鰊の積み下ろしの港でもあった場所
ローソク岩”というのは(写真1)の右後ろに見える細長い岩のこと。鰊が、ローソク岩のあたりで良く鰊が獲れていたこと、また、ローソク岩から定置網を張っていたことなどから、ローソク岩が良く見えるあたりに碑が建立された。

もう一つは、豊浜から車で一時間程度のところにある、北海道積丹町美国。


(写真2、写真3)

彫られてある内容:「ソーラン節 鰊場音頭のふるさと しゃこたん」
建立年:昭和57年(1982年)
建立者:ソーラン節保存会
建立場所:湾であり、そこから道路がまっすぐ伸びているので一番建てやすかった場所。すぐ近くに観光名所であり、鰊が良く群来ていた宝島がありロケーションがいい場所。

(2)ソーラン節とは
ソーラン節は、北海道の日本海沿岸部の民謡。
北海道で鰊漁に従事するヤン衆(鰊漁などに雇われて働く男たち)たちが唄った。大きなタモで、枠網の中に入った鰊を3、4人で救い上げるおりに唄われる沖揚げ作業の仕事唄。海の上で鰊を捕まえて陸揚げするまでのことを沖揚げという。 タモとは柄の先に円形の木の枠がついており、それに網がかけられている、虫取り網のような形をしたもの。ソーラン節は元をたどると、青森など東北地方の民謡だといわれている。なぜなら北海道で働くヤン衆たちは、東北地方から雇われてやってきていたからである。そーら、そーら、と掛け声をかけることから、「ソーラン節」となった。
ちなみに、YOSAKOIソーラン節とは1991年、北海道の学生が高知のよさこい祭りを見て北海道の民謡ソーラン節とよさこい祭りを融合することを思いつき学生が主体となって北海道から始められた祭り。
ソーラン節は他にも有名なドラマに大きく取り上げられたり全国的にも非常に有名な民謡である。ただしそれらは元のソーラン節とはかけ離れており、実際のソーラン節はかなり泥臭いものである。

(3)余市積丹
余市町
余市町は北海道の西側に突き出した積丹半島の根元あたりに位置する、人口は約2万2千人のまちである。小樽市に隣接しており電車で40分程かかる。
まちの北側は日本海に面し、それ以外は緩やかな丘陵地に囲まれている。
かつて北海道で鰊が大量に獲れていたころ、余市は主要港の一つであった。余市町は、鰊漁によって栄えたまちと言える。
また果樹栽培も盛んで明治時代には、初めて民間の農家によって林檎の栽培が成功した。
余市町は温暖な気候で知られ古くから人が定住し多くの人々の往来が盛んであったため、遺跡や文化財がたくさん残っている。フゴッペ洞窟、旧下ヨイチ運上家、旧余市福原魚場、大谷地貝塚の4つが国指定の史跡、重要文化財に指定されており、その他には水産博物館や、縄文時代の墓であると言われている西崎山環状列石などがある。
余市出身の有名人としては、宇宙飛行士である毛利衛さん、長野オリンピックで活躍した船木和喜選手、斎藤浩哉選手などが挙げられる。
余市町の自然は非常に豊かである。シリパ岬は余市町のランドマークとしてここを代表する風景の一つである。シリパ岬は300m程の高さの断崖で、日本海側に突出している。(写真4、写真5)
そしてそのシリパ岬から、積丹のほうへ続いていく海岸沿いには、えびす岩、大黒岩(写真6)、ローソク岩(写真7)など、面白い形をした岩がたくさんあり、それぞれが観光名所として有名である。




積丹町
積丹町は、日本海沿岸の積丹半島の先端部に位置し、半島の面積の約4分の1を占めるまちである。人口は約2千6百人。余市からはバスに乗って50分ほどで行くことができる。小樽市からはバスで2時間ほどかかる。
積丹半島の歴史は古く、積丹町余市町と同じく明治から昭和初期にかけて鰊が大漁に獲れる町として発展してきた。また、春にはタケノコ、ウドなどの山菜、夏にはウニを代表とする海の幸、秋には山ブドウにキノコ、冬にはタラが水揚げされるなど一年通して、美味しいものをいただける。
積丹町の海岸は約42kmある。切り立った断崖、面白い形の岩もたくさんあり“神威岬”の景観は絶景である。(写真8)

神威岬は、ニセコ積丹小樽海岸国定公園に属しており人気の観光スポットだ。岬に遊歩道が整備され、先の方まで歩いていくことができる。カムイとは、アイヌ語で「神」を意味する。
(写真9)は黄金岬の積丹ブルーの海。かつて鰊の見張り台でもあったこの岬は、夕陽に映し出された群来が黄金のように輝きながら岸をめがけて押し寄せてきたことから「黄金岬」と呼ばれるようになった。



第一章 鰊漁の世界
(1)北海道と鰊
鰊はアイヌ民族によって昔から捕獲されていたと思われる。本州から北海道に行った和人が鰊漁をし始めたのも江戸時代以前にまでさかのぼる。江戸時代には北海道の産物として鰊製品が注目され、北前船の航路の整備、また網の改良によって幕末にかけて漁獲量は大幅に伸びた。北海道全体の漁獲量は江戸時代から明治30年頃まで高い水準を維持した。明治から大正にかけてが、鰊漁が最も盛んであった。漁期中の3月から5月は雇いの漁夫や手伝いに来る人々で集落には人が一挙に増え、浜では鰊の加工や運搬が行われ、もの売りもいて、お祭りのように活気付いていたという。
江戸時代以降の北海道沿岸部の発展を支えてきた鰊であったが明治時代末頃から漁獲が全くない地域も見られるようになる。その傾向は道南の方から表れ、だんだん北上していき、昭和の始め頃には豊漁で有名な地帯の積丹でも凶漁となるところがあった。それからの漁獲高には波があり、昭和30年頃には漁獲が途絶えてしまった。

2)旧余市福原漁場
福原魚場とは、余市町浜中町に幕末から定住し、鰊漁を行っていた福原家が所有していた建物群。
海岸に面した主屋を中心に、文書庫、米味噌倉、網倉、便所、物置小屋等が残っており建物の周囲は鰊粕等を干すための干し場となっている。鰊漁がどのように行われていたのか、鰊漁を行っていた人々がどのような生活を送っていたのか知ることができ、それを実際に肌で感じることができる。
明治時代といえば、豊漁だったころのはずである。にもかかわらず、この屋敷の持ち主はどんどん替わっている。(写真10、写真11)このことから、いくら明治時代から大正時代に鰊が良く獲れていたとは言え、やはり全く鰊が来ない年もあり、大金を掛けて漁夫を雇い、漁具を準備する親方にとって鰊漁はある意味賭けであったことが伺える。


また、鰊が来なかった場合に備え、この福原漁場の最後の所有者である川内氏は農業も行っていた。(写真12、写真13)

(3)鰊漁の方法
北海道の後志地方において、明治から大正にかけては江戸時代から続いていた鰊漁がもっとも盛んに行われていた時期であった。大正時代の鰊漁は3月末頃から始まる。まず、前年の年末に東方地方などからやってくるヤン衆たちは契約を済ませる。そこで給料の9割を前金として前払いされ、ヤン衆たちは正月を迎える。そして、漁が始まる1ヶ月ほど前(2月頃)になると、ヤン衆たちは夜具や土産を持って各自の漁場にやってくる。
到着後に軽い酒席が設けられたあと、すぐに準備が始まる。皆で力を合わせ、まず船倉から大きな船を搬出する。また山仕事として道具などに使用する木材の切り出しを行い、海岸では船が入るあたりの石を除けたり、浜慣らし、漁具の点検もした。その後、網を海中で固定するための土俵を設置し、一通りの準備は完了する。
これが終わると豊漁を誓う、漁場で一番大きな宴会が開かれる。
そして、土俵、網の固定が終わった現場に網が実際に入れられ、後は鰊が網にかかるのを待つこととなる。
海では枠船に船頭と数名、起船には漁夫が20名弱乗り込み仮眠や食事を取りつつ、待機する。鰊が来るのは夜中から早朝にかけてであった。鰊が網にかかると、船頭は網を閉じる頃合を判断し、起船の方に合図を送る。起船の方で待機していた漁夫たちは一斉に網を手繰り寄せて鰊を枠船の方に追い込む。追い込まれた鰊は海中にぶら下がっている枠網に落としこまれる。その鰊を、船頭のほかに10名ほどの汲船に乗っている漁夫たちが大きなタモ網ですくい上げていた。この作業をするときに唄われていたのがソーラン節である。(写真14)

鰊漁の漁法は北海道が蝦夷地であったときから、全盛期に至るまで漁網の発明や改良を繰り返し発達していった。
蝦夷地における鰊漁はタモ網漁で、海から寄せてくる鰊をすくうという簡単な方法だった。その頃の鰊はタモで簡単にすくえるほど群来ていた。本州の人間が鰊漁業に携わるようになってからは刺網、笊(ざる)網、行成網、建網と改良され使用されてきた。

(4)鰊の用途
鰊は他の魚とは違い、食べる以外に作物の肥料としても利用されていた。鰊漁業最盛期には全体の80%以上を肥料が占めており、中でも締粕が大部分を占めていた。締粕とは、鰊を煮て圧搾し、油をとったあと乾燥させたもののこと。窒素や燐を多く含み、魚肥として使用される。
それらは、例えば、岡山の綿や麦、徳島の藍、愛媛のさつまいも、和歌山のみかんなどの肥料として北前船で全国に運ばれていた。鰊の主な用途は長い間、肥料であったが、大正末期頃からは次第に身欠鰊、数の子等、食料としての需要が増加し、太平洋戦争、そして戦後の食糧難の時代には食料としての需要が肥料としての需要を上回るようになっていった。(写真15、16)

第二章 消えた鰊
(1)原因不明の鰊不漁
後志地方において鰊は明治から大正の時代にかけて大漁の時代が続いていた。けれども鰊漁は網を張って鰊がくるのを待つ、という全て鰊任せの漁法であるからその漁獲高は不安定なものであった。後志地方の鰊漁は明治27年(1894年)の大豊漁以降、好漁、不漁を繰り返しつつ次第にその漁獲高は減少していった。落ち込みはその後も続き、今では「幻の魚」となってしまった。その原因にはさまざまな説がある。海水温の変化や乱獲、などと言われているが、はっきりとした理由は不明である。

(2)まちの衰退
鰊の漁獲高の減少とともに、鰊漁に支えられ発展してきたまちは元気が無くなった。大正から昭和にかけての漁獲高の減少や、世間の不況により、漁家が銀行からの借金を返せなくなる事態が発生した。道庁や銀行が調整に乗り出し、手を打ったものの、肝心な漁獲高が増えることはなかったため上手くいくことはなかった。
まちの衰退は人口統計からも見てとれる。後志地方の各町村は鰊の最大漁獲高を誇っていた年代の前後に最大人口を記録している。また、人口の減少の背景には間違いなく鰊が獲れなくなったことが関係しており、いかに鰊がまちの盛衰に影響を与えているかが分かる。

(3)余市積丹の現在
余市町では現在、鰊に代わり、えび、いか、かれい漁などが盛んに行われている。
また第一章に記したように果樹の栽培が明治初期から試みられた結果、リンゴ、ブドウ,梨などの生産では全道一を誇っている。身欠きニシンや燻製など各種の水産加工製品が産業として盛んであり、他にも余市の気候は非常に醸造業に向いていることからワインやウィスキーも盛んに作られている。
そして、鰊が来なくなったことに伴って廃れていくソーラン節の普及、そして継承、まちの振興を祈願し正調ソーラン沖揚音頭保存会によって「北海ソーラン祭り」が毎年開かれている。
実際初めて訪れてみて、余市は非常にのんびりしていて魅力的なまちであったし観光地としてまち全体が力を入れているように思われた。ソーラン節発祥之地碑の建立も観光事業の一環と言えるだろう。
積丹町では現在、ほっけ、いか、あわび、うになど日本海の幸が陸揚げされる。私が訪れたときは鮭が水揚げされていた。釣り好きの人々の間でも人気の場所となっているそうだ。
積丹町でも、まちの振興、観光事業に力を入れているように感じられた。積丹町で、毎年6月に開かれる積丹ソーラン味覚祭りでは、鰊漁について高らかに唄いあげる積丹町鰊場音頭が披露されるそうだ。またその祭りでは積丹町ならではの海の幸が楽しめたり、YOSAKOIソーランの舞が楽しめる。積丹町では夏から秋にかけイベントが盛りだくさんで非常に活気付いている。私が積丹町で感動したのは、水中展望船だ。水中展望船では、船底から海の中を覗くことができ、動く水族館のようで感動したし、船の上に上がれば綺麗なエメラルドグリーンの海の色を見ることが出来る。カモメへの餌やりもでき非常に良い思い出が出来た。
また、私が積丹町でお話を伺うことができた方は、積丹町の鰊場としての歴史や伝統を継承し、まちを活性化さそうとする取り組みを行う、「ヤン衆小道」づくりに参加されている方で、その拠点となるであろう、改築されている最中の鰊漁最盛期の木造建造物「旧ヤマシメ邸」も見せていただいた。
肝心の鰊については、石狩湾周辺の鰊の漁獲高が平成9年(1997年)以降急増していたり、平成21年(2009年)には余市でも群来たそうだ。今後、鰊の動向に注目したいところだ。

第三章「ソーラン節発祥之地」はどこか?
(1)どちらが発祥の地か
北海道には、ソーラン節発祥の地の記念として建立された碑が二つある。どちらにも建立された理由はちゃんとある。
余市町に場合、石碑の裏面にこんな文章が刻まれている。
安政2年鰊枠網漁法発明され鰊沖揚げに合わせて唄われる民謡としてソーラン節この地に生まるユナイ場所キロクバッコ口伝」
ユナイというのは豊浜地区のこと、キロクバッコというのはこの話を伝えたとされるアイヌのおばあさんのことだそうだ。余市の豊浜辺りに住んでいたアイヌのおばあさんによる、枠網が発明されそれを使うときにソーラン節が唄われ始めた、という話からこの石碑が作られたのだそうだ。けれども、この話は本当かどうか疑わしく、実際このおばあさんが本当に存在したかも謎であるらしく真偽の程は定かではない。
積丹町の場合、明治18年(1885年)、鰊漁に使われる網がそれまで行成網だったのを、積丹の斉藤彦三郎がすでに鮭漁では使われていた角網に試しに変えて使ってみたところ大成功であったため、積丹町をソーラン節の発祥の地として石碑を建立したのだそうだ。ちなみに、ソーラン節は角網が使われ始めたときに唄われ始めたわけではない。行成網を使用していたときには既に唄われていたと思われ、大きな網を使用したときからであると考えると笊網使用のときから唄われていたと思われる。

(2)真実の発祥の地とは
ソーラン節の発祥地はここだ、と言えるような場所は存在しない。後志地方において、どことなく生まれたのだろう。だから、2つの碑は正しいとも正しくないとも言える。

(3)発祥の地の利用
碑は余市町のものが先に建てられた。それを見た積丹町は「本家は積丹町」だとして余市町を追って積丹町に建てた。私は、余市町積丹町それぞれで、それぞれ碑に詳しい方にお会いすることができ、互いのまちが、もうひとつのまちの碑についてどう思っているのか気になったが、どちらの方ももう一つの碑を貶したりされることはなかった。むしろ、お話を伺っていると協力し合って地方の振興を目指しておられるように思えた。余市町でも積丹町でも、ソーラン節発祥の碑はまちおこしのために建てられたのだろう。どちらのまちも、以前のように毎年来るわけではない鰊を今でもしっかりと観光資源として“利用”し、まちおこしに役立てている。鰊によって栄え鰊のせいで衰退し、そしてまたその鰊を利用して再び地域の振興を計る余市町積丹町。鰊、また鰊漁によって生まれたソーラン節は鰊漁が廃れた今でもこの地域にとって大切な資源なのだ。

謝辞
本稿の調査にあたっては小樽市立博物館の石川直章先生、よいち水産博物館の乾芳宏先生、浅野敏昭先生、積丹町美国在住の成田静宏氏の多大なご協力を賜りました。ここに記して感謝申し上げます。

文献一覧
前田 克己
1983 『余市の石碑(改訂版)』 余市教育委員会
余市水産博物館
1995 『鰊』 余市水産博物館
よいち水産博物館
2001 「第27回特別展 『鯡が群来たころ』 に際して作られた展示解説書」 よいち水産博物館
余市水産博物館
2002 『余市水産博物館研究報告書 第5号』 余市水産博物館
余市水産博物館
2007 「余市水産博物館特別展図録 『海山川の記憶−地図と写真に刻まれたふるさと−』」 余市水産博物館
特定非営利活動法人 歴史文化研究所
2005 『後志学 後志鰊街道』、後志鰊街道普及実行委員会
特定非営利活動法人 歴史文化研究所
2006 『おたる案内人 小樽観光大学校 検定試験公式テキストブック』 小樽観光大学校

http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/sagyou/syoukai.html
http://www.kanko-shakotan.jp/gaiyou.html
http://www.geocities.jp/nishinsobagoten/page005.html
http://www.bunka.go.jp/1hogo/shoukai/main.asp%7B0fl=show&id=1000000866&clc=1000000153&cmc=1000000171&cli=1000000221&cmi=1000000833%7B9.html
http://www7.ocn.ne.jp/~rukankou/00kankouchi/03ougonnmisaki/01.html
http://www.pref.hokkaido.jp/kseikatu/ks-bsbsk/bunkashigen/parts/10269.html
http://www.hamanasu.or.jp/news_detail.shtml?topicsKey=1231115268