関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

「日本デンマーク」の消長 −愛知県旧碧海郡地域の農村と農業ー                        

加藤佐代子

【要旨】
 本論分は、愛知県旧碧海郡をフィールドに、「日本デンマーク」について文献および現地調査を行うことで、「日本デンマーク」と人々の関わり方を明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次のとおりである。

1. 近代以前の碧海郡は、雑木や下草の生えた荒地がほとんどであり、その中に点々と集落が存在するところもあった。集落は湧き水が出るところに形成された。東尾は近代以前から存在する集落であり、農業を中心とする零細農業を行っていた。この頃の農村は、水利の便が悪く生産性が低い土地であった。

2. 明治用水の開通によって水の恩恵を受けることができ、人々の努力によって農耕適地な土地へと変わっていく。それによって新しい土地を求め、入植してくる人も増え、集落が形成されていった。明治用水が開通してから集落が形成されたところとして池浦があり、ここは最初尾張地方から人が入ってきて開墾をし、明治用水中井筋に沿って集落が形成されていく。

3. 近代的な農村をつくり上げたものとして①農業団体、②農村教育、③それらを支える農民、これらの存在がある。①では各町村に農会が設立されることで、農会を中心に各町村の発達が見られた。また、産業組合の設立によって農家経済の安定をはかり、共同で販売を行っていた。②では山崎延吉による農業教育によって、農に生きる農民を育成していった。③ではそれら農民の支えによって、近代的な農村をつくり上げることができたのである。

4. 「日本のデンマーク」と「日本デンマーク」という言葉について、碧海郡は全国的に農業の先進地として、当時世界有数の農業国であったデンマークになぞらえられ「日本のデンマーク」と呼ばれるようになった。しかし、実際デンマークは酪農が主であり、その点ではデンマークと農業が似ていない。そのため「日本の」というように「の」が入っていると似ているという意味合いをもたらすため、厳密には「日本のデンマーク」とはいえなくなってしまう。後に「日本デンマーク」といういい方になっていくが、現在ではいい方が両用され、人々も意味を考えず使用しているため、その言葉から時代を時系列に読み解くことは難しい。

5. 山崎延吉の農業政策は、自身の農村理論を展開することで行われていった。最初は、愛知県立農林学校の校長として校訓に思想を繁栄させ農民を育成し、次第に学校内だけではなく学校外へも足を運び講演会等を行うようになる。そして『農村自治の研究』や『農村計画』、「農民道」を打ち出し、農民に必要なことや農民としてのあり方を説いていった。また、晩年には興村行脚を行い、全国各地を回って農村理論を展開していた。これらのことによって、山崎の考える農村が実体化していった。

6. 「日本デンマーク」として、安城碧海郡の中でその中心となっていった。それは、東海道線安城駅や多くの農業機関が安城に存在していたからである。視察者は安城を訪れ、池浦町にある板倉農場、他には安城町農会、碧海郡農会、農事試験場等を訪れていた。「日本デンマーク」としての安城を見ていく上で、池浦町は碧海郡の中でも先進的な農業を行っており、それは近くに板倉農場や農事試験場、農林学校が存在していたからである。そのため、新しい農業を取り入れることができ、農業を工夫するということができるようになっていった。「日本デンマーク」の特徴のひとつとして、工夫して新しいやり方を取り入れるという農業の仕方がある。

7. 「日本デンマーク」時代から、商工業の発達によって農業・農村社会が危機的な状況になっていたが、昭和恐慌を機に、その後の農村のあり方を変えていくことになる。恐慌期は農産物価格が低下し、農家に打撃を与えたが、「日本デンマーク」農業の特徴である多角形農業により、この時期においても比較的持ちこたえることができていた。しかしこれを機に、日本デンマーク農業の将来は陰りが見え始めた。

8. 昭和恐慌の後、「日本デンマーク」に対する批判が出てくる。猪俣津南雄は「日本デンマーク」の特徴である多角形農業について、取り立てて言うほどでもなく、他の農村と同じように危機的状況にあると、多角形農業を批判している。それからというもの、多角形農業に対して批判的な目を向けられ、人々の「日本デンマーク」への見方は「日本デンマーク」批判として変化していく。

9. 「農村都市」として発展していた「日本デンマーク」であったが、安城の発展を考え次第に工場誘致が見られる。この頃は安城町の産業構成も変化し、農業生産額に対して工業生産額が高くなり差が広がる一方である。そして「日本デンマーク」としての安城は、「農村都市」から「工業都市」への道を歩んでいくことになる。

10. 現在愛知県安城市に存在する「デンパーク」という市立公園は「日本デンマーク」の実態とはかなり異なっており、現在を生きる人々に誤った認識を与えている。
11. 総じて、現在「工業都市」に転換した「日本デンマーク」の中心である安城では、「日本デンマーク」のことはあまり人々に認識されておらず、また、認識していたとしても正確な認識ではないこと、そのため次第に忘れ去られている現状である。

以上、本研究は、民俗学の視点から「日本デンマーク」地域を立体的に分析したものである。今後、「日本デンマーク」について考える際には、過去のこととして考えるのではなく、現代社会において「地域経営」という観点から見てももう一度考える必要があり、現代に生かされるべきものである。よって、「日本デンマーク」の実態を明らかにした今後は、現代社会に照らし合わせて考えていきたい問題である。

【目次】

序章 問題の所在 ――――――――――――――――――――7       

第1章 近代以前の碧海郡 ―――――――――――――11

第1節 碧海郡の歴史 ・・・・・・・・・・・・ 12

第2節 碧海郡の農村と農業・・・・・・・・・・・・・14


第2章 明治用水の開通――――――――――― 21

第1節 明治用水 ・・・・・・・・・・・・・・22

第2節 集落の形成 ・・・・・・・・・・・・ 26

第3節 近代的な農村・・・・・・・・・・・・・32


第3章 「日本デンマーク」――――――――――― 39

第1節 「日本のデンマーク」と「日本デンマーク」・・・・・・・・・・・・・・40

第2節 山崎延吉の農業政策論・・・・・・・・・・・・ 42

第3節 「日本デンマーク」としての安城・・・・・・・・・・・・・49


第4章 恐慌と「日本デンマーク」――――――――――― 61

第1節 昭和恐慌・・・・・・・・・・・・・・62

第2節 「日本デンマーク」批判・・・・・・・・・・・・ 63

第3節 工場の誘致・・・・・・・・・・・・・65


結語 ―――――――――――――――――――― 69

文献一覧 ―――――――――――――――――― 72


【本文写真から】

近代以前の碧海郡の農村(東尾)


中井筋に沿って集落が形成


碧海郡農村全貌』による安城第一小学校の生産物販売実習の様子


碧海郡農村全貌』による県立農業補習学校男生徒の実習の様子


農事試験場の景観


現在の愛知県立安城農林高等学校

【謝辞】
 本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただいた。
 お忙しいなか、「日本デンマーク」について、その中でも特に池浦について一緒に現地調査を行い、当時の様子についてお話を聞かせて下さった天野暢保氏、それにともない調査にご協力いただいた現地の皆さま。近代以前からある東尾の集落を案内して下さるとともにお話を聞かせて下さった伊藤基之氏。東尾についてのお話や、多くの資料を提供して下さった東尾町内会の皆さま。「日本デンマーク」についてのお話を聞かせてくださった高山忠士氏、古井町内会の皆さま。これらの方々の協力なしには、本論文は完成にいたらなかった。本論文の完成にあたり、調査にご協力いただいた全ての方々に、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。