関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

大庄屋堀家と龍野の醤油業 ー近世から近代への移行はいかになされたかー

福井雄一郎

 

【要旨】

 本研究は、大庄屋堀家と龍野の醤油業の関わりについて、たつの市をフィールドに実地調査を行う事で、両者の関係を明らかにしたものである。

 1.江戸時代の堀家

 堀家とは、現たつの市龍野町日飼にある、江戸時代にこの地域の大庄屋を務めた一族の事である。

 堀家が庄屋を務めていた日飼村は、揖保川の東岸に位置しており、龍野城下町とは反対の方向に位置していた。延享4年(1747)以降は龍野藩領から一橋徳川家の直轄領となって、明治時代に入るまで支配を受けた

  江戸時代、堀家は日飼村の庄屋、菜種の売買、鯨油商売、高瀬舟を利用した運輸業、金融業、御用金の上納、木綿専売仕法など、多くの事業に着手していた。御用金の上納と木綿専売仕法に関しては一橋徳川家と大きく関わっており、一橋徳川家に大きく貢献していた。一方、醤油業への貢献はほとんど見られなかった。

 2.龍野の醤油業

⑴龍野醤油業の展開

  龍野は日本でも有数の醤油の名産地である。赤松氏の家臣たちによって始められた。龍野はうすくち醤油の名産地である。うすくち醤油は調理をしても料理に色がつかず、見栄えの良い料理を作る事が出来た事から、公家に大変好まれた。龍野藩主である脇坂家は、このうすくち醤油の生産を奨励し、うすくち醤油を生産する蔵元が増え、龍野は江戸時代には日本を代表する“うすくち醤油生産地”を形成していた。

 ⑵港町網干と醤油の流通

  網干は、龍野の醤油の流通、生産において重要な町であった。龍野で作られた醤油は、高瀬舟を用いて揖保川を南下し、網干まで持って行った。網干で廻船に積み替え、大坂・京都まで持って行ったのである。網干は龍野醤油の流通における中継点としての役割を果たした。

 このような網干の町の庄屋が、龍野藩南組大庄屋片岡家であった。庄屋のほか、運輸業や塩田事業も兼任していた。片岡家は、現在は網干に屋敷跡を残しているのみであり、この家についての詳しい情報は得られなかった。

  網干は港町だけでなく、塩田事業も行っている場所であった。龍野醤油の原料である塩は赤穂の塩を買い付けていたが、龍野藩の財政難により、龍野藩は自領である網干に塩田を開発して、網干の塩を醤油づくりに使用するようにさせた。その塩田事業に、龍野藩南組大庄屋片岡家が関わっていたのである。しかし、網干の塩は赤穂の塩ほど上質なものではなく、龍野醤油の品質が下がることが懸念され、醤油業者から多くの反対があった。結果、龍野藩の網干塩の政策は失敗に終わった。

 江戸時代、龍野から網干までは、先ほど述べたように高瀬舟を用いて揖保川を南下して醤油を運んでいたが、高瀬舟を用いた醤油の運搬はあまり良いものといえなかった。運搬が雑で、網干に着くまでに醤油樽が傷ついていたり、悪天候時は舟を出さなかったりと、非常に対応が悪かった事から、龍野の醤油業者は頭を抱えていた。上方で有利に醤油を売るためにも、運搬における醤油の品質確保は非常に重要であったからだ。

 明治時代に入ると、鉄道が敷設されたことにより、龍野醤油の流通は大きく改善された。

 3.明治時代の堀家

 ⑴堀家が行なった事業

  明治時代以降、堀家は武庫郡魚崎の酒造や赤穂の塩田地主への貸金、さらに自ら塩田経営に乗りだしたり、多くの土地の購入、売却の不動産取引を行ったりして、実業家としての一面が更に強くなった。

 中でも、堀謙次郎(兄)・堀豊彦(弟)が様々な会社を設立した。堀謙次郎は龍野醤油株式会社を設立し、社長となった。堀豊彦は、網干銀行を設立して頭取となった後、翌年には堀銀行を設立した。そして、龍野町から網干港を結ぶ龍野電気鉄道を敷設した。堀家の実業家としての顔は一層濃くなっていった。

 

⑵醤油業との関わり

  堀謙次郎が龍野醤油株式会社を設立し社長となった。龍野醤油株式会社は、のちに浅井醤油に経営を委ねる事になる。

 堀豊彦は、龍野電気鉄道を敷設した。龍野電気鉄道は、龍野醤油の流通に大きく貢献した。

明治時代に入り、現竜野駅から大阪方面へ山陽鉄道(現JR西日本山陽本線)が開通し、醤油の流通は大きく改善された。しかし、竜野駅から龍野城下町は離れており、龍野城下町から山陽鉄道の駅までどう運ぶのかという問題は未だ残されたままであった。その問題を解決したのが、堀豊彦が敷設した龍野電気鉄道だったわけである。龍野電気鉄道は、龍野町から網干港を結ぶ鉄道路線であった。龍野電気鉄道とは別に、龍野の醤油業者が中心となって龍野鉄道(龍野町〜竜野駅)の敷設を計画していたが、この計画は実現出来ずに終わった。

 ⑶考察

  堀家と龍野醤油業について把握し両者の関係を見てきたが、江戸時代に関わりを持つことはなく、明治時代以降に関わりを持つようになった。堀家は、龍野醤油業の中でも特に流通面において貢献した。

 では、なぜ堀家は江戸時代に龍野醤油業と関わる事が無かったのか。それは、堀家が一橋徳川家に仕えていた事が原因であると考えている。当時の日飼村は、龍野藩領ではなく一橋徳川家領であった。つまり、堀家は脇坂家に仕えているわけでは無かった。醤油業を奨励している脇坂家が、堀家に醤油業に関する事業を委託しなかった理由は、堀家が一橋家に仕えている身であった事から、脇坂家は堀家に関わりを持つ事が出来なかったが故、堀家は江戸時代に龍野醤油業と関わる事がなかったと結論づける。

 明治時代に入ると江戸幕府が崩壊し、一橋徳川家による日飼村の支配は終わる。この事により、堀家は実業家としての顔を見せ始め、様々な事業を起こすようになった。その事業の一部に、醤油業に関わるものが含まれていたのである。

  

【目次】

序章

第1章 江戸時代の堀家

  • 日飼村
  • 堀家が行なった事業
  • 一橋徳川家との関わり

・御用金の上納

・木綿専売仕法

 

第2章 龍野の醤油業

  • 龍野醤油業の展開
  • 港町網干と醤油の流通

 ・網干

 ・新在家村と龍野藩南組大庄屋片岡家

 ・網干の塩

 ・醤油の流通

 

第3章 明治時代の堀家

  • 堀家が行なった事業
  • 醤油業との関わり

 ・龍野醤油株式会社

 ・鉄道事業

 ・考察

 

結語

 

参考文献

 

【本文写真から】

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江戸時代の日飼村(出典:龍野市立歴史文化資料館 1991 『描かれた龍野-絵図の世界-』より)

 

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堀家の外観

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龍野藩南組大庄屋片岡家家屋

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龍野駅に停車する龍野電気鉄道(出典:神戸新聞総合出版センター 2005 『兵庫懐かしの鉄道-

廃線ノスタルジー-』より)

【謝辞】

本論文の執筆にあたり、お忙しい中インタビューに応じて下さったうすくち龍野醤油資料館の皆様、堀様に厚く御礼申し上げます。