関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

廃仏毀釈のゆくえ-鹿児島県日置市「妙円寺詣り」の事例-

 社会学部 川路瑞紀

 

【要旨】

本研究は、鹿児島県日置市伊集院町をフィールドに、鹿児島三大行事の一つである「妙円寺詣り」について実地調査を行なうことで、鹿児島県において、廃仏毀釈が現在に残したものとは何かを明らかにしたものである。

本研究で明らかになった点は、以下の通りである。

 

 1.妙円寺は、鹿児島県日置市伊集院町にある、曹洞宗の寺である。1604年には、島津義弘の菩提寺に定められた。島津義弘は、数多くの遺徳を残した人物であり、関ヶ原の戦いでは「島津の退き口」と呼ばれる敵中突破を敢行した。この苦戦を偲び、関ヶ原の戦いの前夜である9月14日に、鹿児島城下の武士たちが、鹿児島市内から妙円寺までの往復40キロメートルの道のりを参詣するようになったことで始まった行事が妙円寺詣りである。

 

2.妙円寺詣りは、江戸時代では、薩摩藩の独特な青少年教育である郷中教育を受けていた二才(14、5歳~24、5歳くらいまでの男性)を中心に、心身の鍛錬を目的として行なわれていた。明治以降も、青少年が中心となって参拝したことに変わりはなかったが、明治維新という時代の変化を受け、郷中教育は学舎教育へと変化を遂げた。学舎教育とは、郷中教育の伝統を受け継ぐ鹿児島県独自の新しい教育形態として成立したものである。

 

3.明治時代に全国的にみられた廃仏毀釈(神道を国家の宗教政策の柱とすべく、仏教を排斥すること。多くの寺院・仏像が破壊された)は、鹿児島県では特に過激であった。1066あった寺院は全て廃寺となり、2964名いた僧侶は全員還俗した。さらに木像は焼かれ、石像は破壊され、代々薩摩を治めていた島津家ゆかりの寺院は、ほとんど神社に変えられるといったことが起きた。

 

4.廃仏毀釈の影響を受け、1869年、妙円寺は廃寺となり、同年には、その跡地に徳重神社が創建された。その際、元々は妙円寺で行なわれていた妙円寺詣りが、徳重神社で行なわれるようになった。徳重神社の御神体は、妙円寺に安置されていた島津義弘の木像である。廃仏毀釈が終わり、1880年に妙円寺が復興して以降も、そのまま徳重神社に参拝する形が継続され、現在に至っている。

 

5.妙円寺詣りに関する資料の中にある、妙円寺と徳重神社についての表現には問題があった。それは、「妙円寺詣りは、廃仏毀釈で妙円寺が廃寺になったあと、徳重神社に参拝している」という表現があったのに対し、「妙円寺が復興している」という表現はなかったことである。そのため、妙円寺と徳重神社を同一だと勘違いする人々がおり、妙円寺で受けたいと考えていた祈祷を、徳重神社で受けてしまった人がいたことや、徳重神社のお守りを妙円寺へ求めてくる人がいた等の弊害が生じるようになった。

 

6.妙円寺側は、これらの弊害が起きたのには、「妙円寺」の名で徳重神社に参拝する行事を行なっている理屈に反論できないため、妙円寺と徳重神社を区別して伝えてこなかったのであろう市に非があるのではないかと考えている。妙円寺は、「妙円寺はすでに復興している」という正しい歴史を伝えて欲しいと願っており、ホームページ等を活用して、その旨を発信している。結果、妙円寺詣りの際には、妙円寺への案内看板が出されるようになったといった市と和解した部分はあるが、未だ妙円寺詣りのルートの中に、妙円寺が入っておらず、正しい歴史を伝えていこうという形にはなっていないと思われるため、今後も引き続き発信していきたいと考えている。

 

7.徳重神社側は、徳重神社の御神体が妙円寺に安置されていた島津義弘の木像となったのは、廃仏毀釈の際に上からいわれた命令によるものだとしている。妙円寺が復興している現在も、木像が徳重神社に安置され続けている、かつ、妙円寺詣りの際に、徳重神社に参拝する形がとられていることについては、歴史的事実であるため、どうにもならないと考えている。

 

8.妙円寺詣りは、1951年から行政が関与するようになった。妙円寺詣り当日は、剣道、弓道、相撲競技、空手道、柔道、ゲートボール競技の武道大会や、「妙円寺詣りフェスタ」と呼ばれるイベントとして、様々なステージイベントの開催やご当地ならではの飲食ブースの提供、さらには大田太鼓踊りや徳重大バラ太鼓踊り等の郷土芸能、学舎による武者行列が行なわれている。しかし、現在はイベント色が強いものとなっているため、妙円寺詣りはあくまでも島津義弘の遺徳を偲んで夜に歩く行事であるのに、イベントとして捉えるのはどうなのかと学舎がこの状態を危惧しているという側面がある。

 

9.廃仏毀釈の問題に対し、市としては、妙円寺を差別し、徳重神社を優遇しているといったことは全くないとしている。ただし、参拝は宗教的行為であるため、市が参拝場所について誘導するといったことはできない。今後も、妙円寺詣りの際には、妙円寺への案内をとっていきたいと考えているし、妙円寺との話し合いも真摯に行なっていきたいと考えている。

 

【目次】

序章 問題の所在 --------- 2

第1章 妙円寺詣りの誕生 --------- 5

 第1節 妙円寺の誕生 --------- 6

 第2節 島津義弘 --------- 10

 第3節 妙円寺詣りの誕生 --------- 17

第2章 妙円寺から徳重神社へ --------- 21

 第1節 廃仏毀釈 --------- 22

 第2節 妙円寺と徳重神社 --------- 25

 第3節 廃仏毀釈後の妙円寺詣り --------- 28

第3章 妙円寺詣りの現在 --------- 34

 第1節 妙円寺の見解 --------- 35

 第2節 徳重神社の見解 --------- 39

 第3節 市の対応 --------- 39

結語 --------- 47

文献一覧 --------- 49

 

【写真本文から】

 

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 写真1 妙円寺本堂(妙円寺発行のポストカードより)

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写真2 伊集院駅前の島津義弘公像

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写真3 島津義弘公の位牌

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写真4 徳重神社

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写真5 学舎の人々が徳重神社内に集まっている様子

 

【謝辞】

 本論文の執筆にあたり、多くの方々のご協力をいただきました。

 お忙しい中、貴重なお話をお聞かせ下さったうえ、たくさんの資料まで提供してくださいました、妙円寺の伊藤様、徳重神社の岩永様、日置市役所の久木崎様、瀧川様。

 妙円寺詣りに関する資料の提供や数々の助言をくださいました、鹿児島県歴史資料センター黎明館の内倉様。

 皆様のご協力がなければ、本論文は完成しませんでした。今回の調査にご協力いただいた全ての方々に、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。