関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

はしけ船員のライフヒストリー ―愛媛・岡村島から姫路・広畑へ―

はしけ船員のライフヒストリー ―愛媛・岡村島から姫路・広畑へ―
渡辺 早紀


【要旨】

本研究は、はしけ船員であった祖父、田中彰夫氏のライフヒストリーについて、愛媛県越智郡岡村島兵庫県姫路市広畑をフィールドに実地調査を行うことで、岡村島の特色、戦前戦後における生活の移り変わり、はしけ船員の仕事などを明らかにしたものである。本研究で明らかになった点は、次の通りである。

1. 田中氏が生まれ育った岡村島は、漁業が非常に盛んである。田中氏が、島で漁を行っていた当時(昭和17〜35年頃)は、タイとサワラが非常に良く獲れた。特に、タイは「ローラーごち」という漁法で、より盛んに獲られていた。「ごち」は、岡村島の方言で「綱」を指す。このローラーごちは、網を漁船から水深100メートルほどまで降ろし、しばらく引き回す。すると、網に驚いたタイが網に入ったところを、網に通されている2本の綱を引っ張って網の口を閉じ、漁船に引き揚げる。田中氏は、ローラーごちを非常に得意としており、多い時には日に30キログラムの鯛を獲ることもあった。

2. 岡村島で、漁業と並んで盛んな産業がミカン栽培で、平地から離れた山々で栽培されている。ミカン畑は1メートル幅で石の道が作られており、急斜面であっても作業しやすいようになっていた。田中氏は、小学生のころからミカンの収穫を手伝っていたという。一般的に、収穫されたミカンは農協が指定する木のミカン箱に収納されるのだが、ミカン栽培だけで生計を立てている「ミカン百姓」の家ではミカン蔵に収納されていた。ミカン蔵の中は、竹が段々に張り巡らされており、ミカンをすかして保管できるようになっていた。現在、このミカン蔵は使用されておらず、プラスチックのコンテナに収納されている。また、ミカンを平地に持って降りやすくするために、島中にモノレールが建設され高齢者の方も作業しやすくなった。

3. 田中氏は学校卒業後、呉市海軍工廠にて軍艦の備品を作成する仕事に就いた。だが、あまりの低賃金に耐え切れずに退職し、石炭船(九州から大阪まで石炭を運ぶ)や陸軍の徴用船(積み場と降ろし場は様々で、主に鉄製品を運ぶ)にナンバン(機関部の船員、船のエンジンなどを動かす役割)として乗船するようになった。その後は海軍に徴兵され、長崎県佐世保市相浦にて2か月間過ごす。サイパンに出兵する直前に終戦を迎え、岡村島に戻って戦前の陸軍徴用船の所有元である門司海運にて数年勤務した。

4. 田中氏が36歳のとき、岡村島出身者から誘われて、姫路市の広畑海運株式会社にてはしけ船員として勤務し始めた。岡村島の多くの漁師が田中氏とともに広畑海運に入社し、その数は20人前後であった。入社当初は、予備艦員として会社の寮にて暮らし、数か月後からは岡村島出身者とともに広畑区才にて借家を借り、家族で住み始めた。その後、はしけ船員として安定した生活を送れるようになった頃、広畑区に隣接する勝原区宮田にて一軒家を購入し、田中氏は現在もこの家で暮らしている。はしけ船員は、いつ仕事が入るのかわからなかったため、会社から近い広畑区才あるいは則直に住むのが一般的であった。

5. はしけ船員の技術の差は、着港時の舵の取り方に現れる。ボートに引っ張られて動くはしけは、エンジンがついておらず止める際も舵を切ってはしけを止めなければならない。したがって、港にはしけを寄り添わせるようにつけるためには、舵を切るタイミングが全てである。田中氏は、戦前戦後において機関船に乗っていた経験があったため、勘でタイミングを計ることが出来たという。こうして、広畑海運がはしけ運用を全撤廃した昭和58年まで、田中氏は現役ではしけ船員として勤務し、引退した今もなお姫路市にて暮らし続けている。


【目次】

序章
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――2

第1章 岡村島越智郡岡村島
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――4
第1節 越智郡関前村……………………………….4
第2節 漁業………………………………………….9
第3節 ミカン栽培………………………………….13
第4節 少年時代…………………………………….19

第2章 戦前・戦後
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――24
第1節 呉市海軍工廠………………………………24
第2節 石炭船…………………………………………25
第3節 陸軍の徴用船…………………………………26
第4節 徴兵……………………………………………27
第5節 門司海運………………………………………28

第3章 姫路市広畑
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――34
第1節 広畑海運株式会社………………………..…….34
第2節 住まいと暮らし…………………………….……39
第3節 はしけの仕事……………………………………47
第4節 はしけの転換期…………………………………54
第5節 引退………………………………………………56
第6節 後藤一磨氏………………………………………58

結語
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――61

文献一覧
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――64


【本文写真から】


写真1 岡村島 段々畑でのミカン栽培


写真2 岡村港


写真3 才の借家前にて 田中氏・長女・次女・三女


写真4 回漕中のはしけ船団(『広畑海運三十年社史』より引用)


写真5 田中氏が乗船していた鋼製はしけ(『広畑海運三十年社史』より引用)


【謝辞】
 本論文を執筆するにあたって、たくさんの方々にご協力頂きました。
 長きにわたり、お話をお聞かせくださった田中彰夫氏、早苗氏。また、岡村島での現地調査にてお忙しい中協力してくださった田中武重氏、並びに漁業組合の皆様。そして突然の訪問であったのに関わらず、お話を聞かせてくださった後藤一磨氏。
 皆様のご協力なしでは、本論文を完成させることは出来ませんでした。心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました。