関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

「地域紙」とは何か −「八幡浜新聞」の事例−

社会学部3年生
藪下華奈

【目次】

はじめに
1 八幡浜と地域紙
2 八幡浜新聞の90年
2-1 八幡浜新聞の創業
2-2 戦時体制と八幡浜新聞
2-3 戦後の八幡浜新聞
3 八幡浜新聞の現在
3-1 八幡浜新聞の一日
3-2 購読者
むすび
謝辞
参考文献


はじめに
 地域紙とはブロック紙、県紙よりも狭いエリアに密着する新聞のことである。今回の調査では八幡浜市の地域紙である八幡浜新聞をフィールド対象とし、八幡浜新聞社を夫婦で経営されている松井一浩氏、潤子氏を中心に話を伺った。県紙やブロック紙とは異なる地域紙ならではの特徴を主に明らかにする。

1 八幡浜と地域紙
 八幡浜市にはかつて多くの地域紙が発行されていた。その中でも現在も地元の人たちの記憶にあるのが八幡浜民報、南海日日新聞八幡浜新聞だ。八幡浜民報は終戦直後に発行された地域紙であり、購読者によると政治に批判的な記事が多かったそうだ。2015年に終刊している。南海日日新聞は1975年に創刊された地域紙で、原発に反対の姿勢をとっていた。1日おきに発行されており、八幡浜の地域紙としては部数が少なかった。2008年に休刊している。そして今回取り上げる八幡浜新聞は1926年に創刊された地域紙で、現在も土、日曜と祝祭日を除く月から金曜に毎日発行されており、八幡浜市で最も歴史のある地域紙である。公平公正な記事を掲載することを心掛けており、市民の多くから支持されている。現在八幡浜市で発行されている地域紙は、八幡浜新聞のみである。

写真(1)八幡浜新聞社

2 八幡浜新聞の90年
2-1 八幡浜新聞の創業
 八幡浜新聞は1926年に、潤子氏の祖父にあたる松井松之助氏によって創刊された。創刊前、松之助氏は大阪で警察官をしていたが退職し、八幡浜に戻って新聞発行をはじめたという。具体的な動機はわからないとのことだが、かつて八幡浜は「伊予の大阪」と呼ばれるほど町が発達しており、新聞も多く発行されていたのでそれらの影響を受けたことが大きいと考えられる。当時の記事を拝見すると面白い記事が掲載されていた。写真(3)は1935年の記事の一部だが、八幡浜の市民がお金を落としたという極めて個人的な記事が掲載されている。当時は現在とは異なり、個人情報を掲載しても問題がなかったため、名前も実名で報道されている。戦前の珍しい記事は、写真(3)しか見つけることができなかったが、潤子氏いわく、当時は駆け落ちや心中などの情報も掲載されていたようだ。地域の情報を市民に提供する地域紙ならではの役割を果たしていたことが考えられる。

写真(2)八幡浜新聞を創業した松井松之助氏

写真(3)1935年の八幡浜新聞の一部。

2-2 戦時体制と八幡浜新聞
 八幡浜の地域紙はもともと多くの広告を載せる「広告新聞」として発行されていた。八幡浜は商業が盛んだったため、多くの広告が集まったという。しかし日露戦争の影響により「皇国新聞」と名を改め、市民に戦況を報じる新聞として市民に戦果のゆくえを伝えた。市民は戦況に一喜一憂し、このころから八幡浜市民は新聞に興味を持ち始めたのではないかと言われている。1926年に創刊された八幡浜新聞も、「皇国新聞」として発行した。しかし太平洋戦争中の1942年、紙不足を理由に言論統制が行われ、「一県一紙」へと新聞の統廃合が行われることになった。当時小学生だった潤子氏の父である脩氏は、警察署長のところへ毎日ゲラ刷りを持っていき、検閲のハンコをもらっていたそうだ。しかし、ある日突然廃刊させられ、転業をしなければならなくなった。松井一家は生計を立てるため農業をはじめ、にわとりを飼い、椅子なども作っていたそうだ。

2-3 戦後の八幡浜新聞
 松之助氏は、戦後1947年から旬刊紙を再開し、1950年には日刊紙を再開した。戦後まもなくは物資不足により、購読数が減ったが、高度経済成長期から少しずつ右肩上がりになった。このころから広告量も増え始めた。「コレサワ時計店」は、1940年から広告を載せている時計屋である。当時、時計の修理や、印鑑、メガネも販売し、繁盛していたため、広告を出していたそうだ。八幡浜市はお年寄りが多く新聞の広告の影響が強いため、現在も出し続けている。八幡浜新聞社にとっても、八幡浜市の店にとっても八幡浜新聞の広告は重要な役割を持ち続けている。
 八幡浜新聞ならではの戦後から現在まで続いているコーナーがある。「戸籍の窓」というコーナーである。このコーナーでは八幡浜市民の出生、死亡を実名で載せている。一浩氏は毎日市役所で、市民の出生死亡の資料を受け取り、新聞に載せる。これらを始めたきっかけは、市民に「不義理をしたくないから載せてほしい」と頼まれたからだそうだ。「戸籍の窓」を見るためだけに購読している読者もいるほど「戸籍の窓」は市民にとって重要なコーナーとなっている。一浩氏は市役所へ向かう際、出生死亡の資料を受け取るだけでなく、八幡浜市内の学校の行事日程や市内のイベント予定をまとめた資料も受け取り、記事作成の参考にする。これらから八幡浜新聞は、購読者に八幡浜市の情報を伝える地域紙ならではの役割を果たしていることがわかる。他にも「卓上一言」というコラムが読者に人気である。松之助氏が「卓上風雲」として掲載していたものを脩氏が引き継ぎ、毎日掲載とした。紙面の中では唯一、主観的な考えを交えて書いており、読者から親しまれ、反響も多いという。脩氏が亡くなられてからは、一浩氏が書いている。

写真(4)1935年の「コレサワ時計店」の広告

写真(5)広告で埋め尽くされる八幡浜新聞

写真(6)「戸籍の窓」

写真(7)「卓上一言」

3 八幡浜新聞の現在
3-1 八幡浜新聞の1日
 今回の調査で、八幡浜新聞ができあがるまでの1日を密着させていただいた。現在の八幡浜新聞は、4人で作成されている。松井さんご夫妻と、校閲担当の山口氏、印刷担当の吉良氏である。それぞれの担当を整理し、新聞作りの工程をまとめる。

(1)記事作成(一浩氏):発行前日に取材したネタをまとめて記事を打つ。その際、「卓上一言」のコラムも書く。それらの原稿をUSBに保存し、潤子氏に渡す。1970年代までは活字を使用していたため、現在よりも時間がかかったという。
(2)編集(潤子氏):受け取った原稿に打ち間違いがないかを確認する。なければ見出しをつけ、それぞれの記事の位置や写真の調節を行う。できあがったら一浩氏に見せ、確認してもらう。
(3)校閲(山口氏):記事内容に関する資料と記事を照らし合わせる。固有名詞のスペルミスや、内容と資料が矛盾していないかを確かめる。
(4)最終確認(一浩氏、潤子氏):山口氏から指摘があった場合、確認を行う。当日に事故や火事などの緊急速報がある場合は記事内容の変更を行う。
(5)印刷(吉良氏):記事の版をとり、印刷する。
(6)配達:八幡浜新聞社以外で働いている方が仕事終わりに配達を行う。隣の町や配達が難しい地域には、郵送で配送する。

写真(8)取材先で記事の写真を撮影する一浩氏

写真(9)昔使用していた活字

写真(10)八幡浜新聞社にある辞書などの資料

写真(11)記事の校閲。指摘が書き込まれている。

写真(12)新聞の版

写真(13)印刷

写真(14)郵送する新聞

3-2 購読者
 八幡浜市では1990年代から若者の人口が減少し、八幡浜新聞の購読者数も右肩下がりとなった。現在の八幡浜市も若者より高齢者が多いため、購読者のほとんどは高齢者であるという。その中で古くから八幡浜新聞を購読し続けている方に話を伺った。元八幡浜市市議会議員、谷本廣一郎氏である。谷本氏いわく、八幡浜市にはかつて多くの地域紙が発行されていたという。その中で、八幡浜新聞を購読することに決めたのは偏りがない新聞であるからだという。例えば八幡浜市では、原発の危険性が問題視されており、原発反対の立場をとる地域紙は、ほとんど批判に偏った記事を掲載していたそうだ。谷本氏が市議会議員であったときも、政治について偏った記事を載せられたことがあるという。しかし、八幡浜新聞は偏った記事を載せなかったそうだ。潤子氏いわく、原子力発電についてはスタッフに専門的知識を持つ者がいない。情報発信する立場からすると勉強不足であり、読者に申し訳ないことだが、賛成派と反対派両者の意見を等分に掲載することを心掛けてきたそうだ。これは原子力問題に限ったことではなく、選挙戦の候補者のコメントからインターハイ出場選手紹介に至るまで、行数、写真の大きさ、距離など、できるだけ公平になるよう心掛けている。八幡浜新聞が古くから購読者に信頼されているのは、この心がけが影響しているからだと考えられる。

結び
八幡浜市で多くの地域紙が発行されていたのは、かつて「伊予の大阪」と呼ばれるほど町が栄えており、多くの広告が出されていたからである。当時と比べると減少したが、現在でも広告を出し続けている店もある。八幡浜市は新聞を購読している高齢者が多いため、広告の影響は大きい。
・戦前の八幡浜新聞は市民の個人的な落とし物、駆け落ち、心中などの情報を細かく掲載していた。現在でも「戸籍の窓」や、市内の行事日程などを掲載しており、地域紙ならではの役割を果たしている。
八幡浜新聞は戦争の影響で廃刊に追い込まれ、復刊後も物資不足により購読者数が不安定となった。その後、高度経済成長期の影響もあり、少しずつ回復するが、少子高齢化の影響で再び右肩下がりとなる。しかし、公平公正な記事を信頼する古くからの購読者の支えもあり、現在まで続く八幡浜市で最も歴史のある地域紙となった。

謝辞
 本論文執筆にあたりご協力いただいた松井一浩様、潤子様をはじめとする八幡浜新聞社の皆様、コレサワ時計店様、谷本廣一郎様、調査にご協力いただいた皆様、お忙しい中温かく迎えていただき、ありがとうございました。皆様のお力なくして本論文を完成させることは叶いませんでした。突然の訪問にも関わらず、調査にご協力いただき、心より感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

参考文献
四方洋(2015),『新聞のある町 地域ジャーナリズムの研究』,株式会社清水弘文堂書房
八幡浜新聞物語」,『季刊 Atlas第8号』,1998年7月31日号,(有)インデクス内・アトラス社
八幡浜新聞社」,『日本地域新聞ガイド 2006-2007版』,2006年3月号,日本地域新聞協議会