関西学院大学 現代民俗学 島村恭則研究室

関西学院大学大学院 現代民俗学 島村恭則研究室

教会とくらし−飽之浦・岳をフィールドとして−

社会学部 加藤佐代子

目次
はじめに
第1章 カトリック飽之浦教会
  1.飽之浦と飽之浦教会
  2.Aさんの話
   (1)長崎とキリスト教
   (2)三菱長崎造船所とキリスト教信徒とのつながり
  3.Bさんの話
   (1)ライフヒストリー
   (2)オラショ
   (3)カトリックの現在
  4.ミサ
第2章 岳教会
  1.岳と岳教会
  2.Cさんとの出会い
  3.Dさんとの出会い
第3章 プロテスタント飽之浦教会
  Eさんの話
結び
謝辞
参考文献



はじめに
 今回の社会調査実習では、2つのフィールドを調査対象として取り上げる。まず、1つ目に飽之浦。ここでは、飽之浦のクリスチャン文化やクリスチャンと三菱造船所との関わりについて見ていく。次に、2つ目は福田本町。ここには岳教会があり、クリスチャンの小さな集落の様子について見ていく。以上2つが、本論文における調査テーマである。

第1章 カトリック飽之浦教会
1.飽之浦と飽之浦教会
 長崎駅から見て対岸に位置する飽之浦。ここには、大きな三菱造船所の姿が見られる。長崎駅からバスで約15分、この間、巨大な造船所に目を丸くすることが度々あった。水ノ浦でバスを降り左上の方に目を向けると、坂の上に飽之浦教会が建っている。あのインパクトある教会の色はまた、特色なのであろうか。すぐに心に沁みつく。


(写真1)飽之浦教会に行くまでの階段


(写真2)飽之浦教会

 さて、そのような飽之浦であるがこのまちの大まかなところを簡単に絵にしてみた。すると、海があって三菱があって道路があり家が建っていると捉えることができる。家が建っている方の道路沿いに釛山恵美須神社があることから、昔この辺りはムラであった。また、恵美須神社があることから、昔は神社の真下まで海であった。ですから、三菱造船所や道路はかつて海であったところを埋め立てて造られたと推測できる。これらに加えて現在家が建っているところは最初、山でしかなかった。しかし、働くために人が来て家が建てられるようになった。そこに住む人は全員が三菱の人ではなく、農業で生計を立てている人もいたそうだ。


(写真3)飽之浦のまち


(写真4)坂の上からの眺望

2.Aさんの話
(1)長崎とキリスト教
 日本の宗教は約400年前、イエズス会士フランシスコザビエルによってキリスト教が伝
播した。しかしキリスト教の歴史の中で、250年余りの禁教の時代に突入することになる。
 今から150年前に大浦天主堂で信徒がキリシタンの信徒であることを公にした。すると、浦上のカクレキリシタンは宗教を捨てないということで約3000人の人を流配、幕府は主教を迫った。明治2年から6年はこのような時代であった。
 明治6年日本に宗教の自由が許されてからは、長崎には外海、北松の田平、平戸、佐世保の黒島、上五島下五島などのあちこちからみんなが、私たちもクリスチャンであると公に宣言した。それは、大浦天主堂にパリミッション会という修道会の司祭がいたので、そこにみんなが集まって来て自分たちの教えをひとつひとつ確認し合った。その中で、この信者の中からカテキスタ(カトリックの宗教者)が出てきた。それからは、食べるものも食べないようにして神様の家だけはということで、あちこちに長崎には教会が建っていった。そのような貧しい状態の中で、潜伏キリシタンの場合は迫害があったため、移住するとなるとどうしても原住民が住まないようなところに隠れて住むしかなかった。ですから、そのような非常に条件の悪い所に住まざるを得なかったということになる。

(2)三菱長崎造船所とキリスト教信徒とのつながり
時代が過ぎていき、飽之浦地区住人も多くなってきた。なぜかというと、三菱造船所の工員募集のために五島や外海、伊王島などから人が集まってきたからだ。その中でも特に、外海からの人が多かったという。どのような人が飽之浦に集まってきたかというと、カトリックの場合は子どもが非常に多かったので、本家に残る人以外は出ざるを得なかった。例えば、長男以外の次男三男は仕事を探すために、おじさんやおばさんを頼っていた。そうすると、三菱という大きな受け皿が長崎にはあるので、そこで働いている人がいたら採用試験時入社して三菱の社員になった者もいれば、通勤に便利な三菱関連の下請けの企業に入っていった者もいたそうだ。
 このように、飽之浦地区のクリスチャンのほとんどは三菱造船所という大きな受け皿で働きながら教会に通うことで、日常の家庭生活と教会での神様との関わりを深めたという。

3.Bさんの話
(1)ライフヒストリー
 Bさんは飽之浦で生まれた。幼児洗礼を受ける。小学校1年から要理教室に通い、中学校3年の時に堅信式をして一人前になる。大学では東京に行き、卒業してからは長崎に戻ってきて現在まで生活している。
 Bさんの父が外海の人だった。中学から外海を出て三菱電機の専門学校に通い、卒業してから三菱に就職。そして、飽之浦の方と結婚してずっと飽之浦に住んでいる。

(2)オラショ
オラショについて「カクレキリシタン オラショ−魂の通奏低音」(宮崎賢太郎)の本か
ら、家の中で座ってオラショを唱える写真が載っていたので、現在でもこのような形でオラショが唱えられているのか疑問に思い訊ねてみた。すると、Bさんはオラショの経験がないという。ここ50年くらい飽之浦に居るが今はしていないそうだ。では、なぜ今は家の中でオラショを唱えることがされていないのか。それは、教会があるから。今は、教会があって神父様もいるから信者として教会で祈る。その一方で、潜伏時代は教会がなく神父様もおらず祈る場所がなかったため各自の家で祈っていたらしい。また、Bさんによると平戸のある村では現在でも教会に行かず各自の家でオラショをしていると思うと教えてくれた。しかし、詳しくは平戸に行ってみないと分からない。これらのことから、禁教時代からわずかな資料を頼りにすることや口で引き継いできたオラショは、現在では家で行われているところは少ないことがわかる。

(3)カトリックの現在
現在では、カトリックの人口が減少している。飽之浦教会では、子どもも大人の数も減ってきている。そのため、今の教会は危機を感じている。カトリック信者の中からも神父様のなる人が少なくなっており、現在では外国から神父様に来てもらっている地区もあるそうだ。飽之浦地区のカトリックの末裔を考えると寂しい限りである。それでは、なぜ飽之浦地区のカトリック信者は減少しているのだろうか。その原因を考えてみると、昭和40年代くらいから飽之浦教会の若者が①県外の大学へ進学し卒業後も都会に就職するため、長崎県内には戻って来ていない。②飽之浦地区が高台で道路がなく車が横付け出来ないことから、便利な地区外へ出て行った。③カトリック信者同士で結婚しても、その子供達が学習塾、部活動等で教会とは疎遠になり、その子供達が大人になってカトリック教会から離れている。また、現在まで教会を支えてきた大人が④高齢になり亡くなっている。このようなことが考えられる。これらのことから、長崎県内における飽之浦地区のカトリック信者は減少している。

4.ミサ
 普段は人通りが少ない飽之浦の坂道に人の姿が見られる。みんなが教会に集まっていき教会が賑やかになっていく。11月29日、日曜日の午前9時から10時のミサが行われるためだ。私もこのミサに参加した。すると、どうだろうか。教会には50人程の人が足を運ばれ、男女比は女性の方が圧倒的に多く、全体の約7割を占めていた。その中でも特に高齢の方が多かった。これは、男女どちらにも共通する。子どもや若い方は高齢の方に比べるとあまり見られず、全体の約1割を占めるくらいであっただろう。このミサを見るだけでも、飽之浦における信者の大まかな年代層などがわかる。ミサの中では、お歌をうたったりお祈りをしたり聖書の箇所を読み上げたりしていた。この間、非現実的な世界へと体が吸い込まれていくように感じ、終わった後は何だか感じたことがないようなあたたかな気持ちになった。

第2章 岳教会
1. 岳と岳教会
 果たしてこの山道をどこまで上がっていくのだろう。そのようなことを思いながら、飽之浦からタクシーに乗って約15分後、岳教会に着いた。岳教会は福田本町に位置する。周りには家が数軒、人はあまり見られない。「飽の浦小教区史 飽の浦・岳・福田」によると、
稲佐山の南に連なる山の頂上には現在長崎カントリー倶楽部というゴルフ場がある。その近下に教会を中心としたカトリック信徒の集落がある。』(浜崎靖彦 2002:63)

『外海の出津村牧野郷より水口勘右衛門が長崎の福田村岳郷に入植したのは明治38年のこと』(浜崎靖彦 2002:63)だった。その後、『土質の良い土地が目当てとなって続々移住してきた。』(浜崎靖彦 2002:63)そして、『明治40年勘右衛門は現在の岳教会の敷地に住居を構えた。』(浜崎靖彦 2002:63)それからというもの、『次第に三菱に職を得る人が増えて半農半漁に移行し、勤務の関係で飽の浦のミサに与かる数も多くなっていた。』(浜崎靖彦 2002:63)『現在の教会は昭和45年に新築された。飽の浦教会の信徒は毎年5月の聖母月になると岳教会のルルドに参詣し、岳教会の信徒と交流する。』(浜崎靖彦 2002:64)
山道を上がりきった結果、このようなところにたどり着いたわけである。


(写真5)岳教会入り口


(写真6)岳教会入り口に立っているマリア様


(写真7)岳教会


(写真8)岳教会


(写真9)マリア様


(写真10)教会の中

2.Cさんとの出会い
 まず、岳に行ったらCさんに出会った。Cさんは畑を耕しており、そこでは多くの畑が見られた。きっと農業で生計を立てている人が多いのだろう。この集落には家が18軒しかないという。確かに見たところによると家がぽつぽつと建っており、一体がとても静かな様子だ。ほとんどの家がクリスチャンであるが、1軒だけはクリスチャンではない。なぜかというと、今住んでいる人は岳で生まれ育った人ではなく、6、7年前に息子が戻ってきたそうだ。このように、村全体がキリシタンというのは全国的に珍しい。ここは、明治時代に外海から移住してきた人が多かった。外海のどこから来たかは定かでない。Cさんは松浦市からお嫁で来たそうだ。
 ここで暮らしている人は当時、農業で生計を立てている人もいれば三菱で働いて生計を立てている人もいた。この山奥から三菱へ働きに行くのはさぞかし大変だっただろう。
 日曜日にはみんなミサへ行く。岳教会でのミサは月3回、第1、第2、第3日曜日である。神父さんは飽之浦の人だそうだ。ですから、1人ではまわることができない。そのため、岳でミサがないときは岳の人が飽之浦教会に行ってミサを行っているという。


(写真11)集落の様子


(写真12)集落の様子
3.Dさんとの出会い
 次にDさんを紹介してもらった。Dさんは岳教会の鍵を持っており、岳教会を案内してもらった。岳はもともと開拓地であり、自給自足をしていた。当時は井戸があったため、ほぼ井戸水で生活をしていたという。また、岳から三菱まで働きに行っていた人もいたそうだ。岳には、外海からの人が流れてきたらしい。そして、この岳の地を開拓するようになった。外海の人がなぜここを開拓するようになったのか、なぜここを選んだのかはわからない。岳に教会がなかったとき、前は木鉢の方に教会があったためそこまで歩いて行っていたという。木鉢はクリスチャンが多い。木鉢までの道のりは約1時間かかり、山道を上ったり下ったりだったそうだ。
 岳の集落には一体のマリア像が集落の中の大石の上に立っていた。このマリア像はルルドと呼ばれ親しまれている。今そこに立っているルルドは、250kmほどの階段を上ってマリア様を運んだという。その階段というのは、山の中にある岳の集落と集落に入る道をつないだものである。そして、そのマリア像は岳の集落を見下ろすように、岳の信者の子孫の繁栄と平和を祈るかのように立っているのである。
 岳でのミサについて、今までは毎週日曜日だったけれど、今は第1、第2、第3日曜日だけだという。あとは、飽之浦のミサに参加している。岳の人は、車で何人か乗って飽之浦に行く人や前日から行く人もいるそうだ。
 墓地については、飽之浦教会の墓地ではなく岳は岳の集落にあるそうだ。何年か前は穴を掘って土葬だったという。今は火葬でブロック式のお墓であるとのこと。お墓はゴルフ場の側にある。階段を10mほど上がるとマリア様がおられる。11月の死者の月は、そこで墓地ミサを行うらしい。しかし、今年はあいにくにも雨でできなかったという。


(写真13)当時岳に行くときの道、長い階段を上っていく


(写真14)階段


(写真15)急な階段


(写真16)遠くに集落を見守るルルドが見える


(写真17)ルルド


(写真18)墓地


(写真19)墓地


(写真20)墓地


(写真21)墓地

第3章 日本キリスト教団長崎飽之浦教会
1.Eさんの話
 1906年明治39年4月15日、現在の銀屋町教会がある瀬の脇(恵美須神社付近)に講義所という形で開設された。この講義所は、鎮西学院の学生や先生がお世話をしてきた。これが、スタートである。その後、アメリカの宣教師フランシス・N・スコット宣教師夫妻が愛児2人を日本で相次いで亡くしたことを記念して、祈りと苦労の中から1928年に現在地に建てられた。
 Eさんは、クリスチャンの家庭に生まれてずっと飽之浦に住んでいる。大学のとき1回外に出てまた戻ってきた。飽之浦教会に幼稚園の先生として来るようになってからは洗礼を受けるようになった。Eさんの父は島原から来たそうだ。そして三菱に勤めていた。Eさんの母は飽之浦の人だそうだ。
 この教会に通っているひとは三菱関係の人が多い。かつては、教会で英語教室を開いてそこに人が集まってきたそうだ。今は外国人の方もちらほら来るという。最近であったら、フィリピンやベトナムの人がいるそうだ。三菱で働くためにこちらに来て、教会があるからのぞいたという。また、飽之浦教会は子どもの遊び場として開放している。教会に隣接する飽浦小学校の児童がよく遊びに来るらしい。子どもは、信者ではない子も多いという。親御さんが主催となってイベントをしたりして、教会の活動に携わっている。今は小学校があるため、子どもたちとのつながりが強いことが特徴である。
 教会にはどのくらいの人が通っているのだろうか。礼拝は8〜10人くらいだそうだ。そのうち高齢の女性が3、4人、若い男の人が1、2人だという。この男の人はまだ洗礼は受けていないらしい。このことから、プロテスタントカトリックに比べて人数が少ないことが分かる。

結び
 今回の調査で明らかになったことは次の通りである。まず、①飽之浦にはカトリックプロテスタント、2つの教会があるということ。それらの教会の信徒は、②外海から来た人が多く三菱造船所との関わりが強い。この他にもう1つ、③山の上に岳教会がある。岳は外海から来た人が多く、開拓地であり、自給自足をしていた。大まかに以上の3点である。

謝辞
 本論文の執行にあたりご協力していただいた皆様に、本当に感謝をしております。ありがとうございました。現地にて協力していただいたAさん、Bさん、Cさん、Dさん、Eさん、突然のお訪ねにも関わらずお時間を許してくださいましてありがとうございました。その他にも、現地で出会った全ての皆様に感謝しています。
この場を借りて、先生を始めとして現地の皆様、全ての皆様に感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

引用・参考文献
・飽の浦小教区史  発行者:浜崎靖彦 発行所:カトリック飽の浦教会
2002年8月15日 
・長崎飽之浦教会創立100周年記念誌 発行:長崎飽之浦教会100周年委員会
 2008年3月31日