目次
はじめに
第1章 長崎くんちと西古川町
第2章 西古川町の「櫓太鼓」
1.起源
2.伝承の断絶と復活
第3章 中尾地区の「角力踊り道中囃子」
1.起源
2.伝承の継続
第4章 西古川町と中尾地区
1.伝承の危機と克服
2.「角力踊り道中囃子」の導入
むすび
謝辞
参考文献
はじめに
今回調査を行った長崎には、長崎くんちという大祭がある。これは、長崎の氏神・諏訪神社のお祭りで、長崎の旧市街の踊町と呼ばれる町が7年ごとに順番に歌舞の演し物を奉納する。その踊町のひとつに西古川町がある。本稿では、その西古川町に継承されている演し物について、現在に至るまでどのような変遷をたどり、誰によってどのように伝承されてきたのかを調査し、明らかにした。
第1章 長崎くんちと西古川町
まず、西古川町について説明したい。西古川町は1672年に造られた町で、長崎くんちには1674年に初めて参加したと言われている。現在もそうなのだが、当時から西古川町は相撲にちなんだ演し物を奉納していた。その理由は、西古川町が相撲と縁のある町であったからだと言われている。というのも、日本で最初の横綱と言われる明石志賀之助が居を構えていたのが西古川町であったり、彼の弟子である西古川町出身の浮舟百度兵衛が長崎奉行から相撲司家の免許を頂戴したりと、相撲に関わる人物が複数いたためである。また、これらを理由に当時九州で唯一の本場所であった長崎での相撲興行を西古川町がすべて取り仕切っていたこともあり、西古川町は演し物も相撲と関係のあるものになったという。
ちなみに、現在西古川町という町名は存在しない。というのも、以前町の区画変更や町名変更などが行われ、その結果、「西古川町」という名前はなくなってしまったのだ。また、以前長崎全体で起こった水害があったのだが、そのあと整備のため行われたバイパス工事によって西古川町では家々の立ち退きが行われた。その結果、人口が減少し、くんちに必要な人数や費用が確保しにくくなったという。しかし、これらのことがあっても現在も長崎くんちにはその地域にあたる人々で「西古川町」として参加し続けている。本稿でも、その実質的な「西古川町」を西古川町として記述していく。
さて、それでは、先述した相撲に関わる演し物というのは何なのかというと、「角力踊り(すもうおどり)」というものであった。しかし、現在西古川町が長崎くんちに奉納しているものは「櫓太鼓」というものだ。現在と過去で演し物が異なっているのである。いったいどのような経緯で変化したのか。
第2章 西古川町の「櫓太鼓」
1.起源
まず、「櫓太鼓」というものは、「角力踊り」の踊りを披露する際にたたかれていた太鼓の事で、実際くんちで奉納するときは飾りを付けた櫓に太鼓が取り付けられた形となる。その起源は明らかではないが、「角力踊り」を最初に奉納していたときには含まれていなかったようで、西古川町が長崎くんちに参加し始めてからしばらくたった、1821年から奉納し始めたものと言われている。
(写真1,2:実際に使われる「櫓太鼓」の天保時代に作られたとされる太鼓。片面ずつ三つ巴と三社紋が描かれている)
(写真3,4:「櫓太鼓」の文政時代に作られたとされる太鼓。現在は皮を張り替えたため片面にのみ三つ巴が描かれている。)
現在は「角力踊り」の一部であった「櫓太鼓」のみが演し物として奉納されている状況であるが、それではどのようにして「櫓太鼓」のみとなってしまったのか。
実は、そもそも「角力踊り」が1916年以降奉納されていない。というのも、1923年に関東大震災のため長崎くんちの奉納が取りやめとなっており、その次の1930年には「角力踊り」ではなく「本踊り」というものが奉納されたという。おそらく、この震災のときに「角力踊り」の踊りの部分は伝えられなかったのだろうと考えられる。一方、「櫓太鼓」はそのまま受け継がれていたようで、「角力踊り」は奉納されなくても、その一部であった「櫓太鼓」のみは引き続き奉納されていった。
2.伝承の断絶と復活
「角力踊り」の最後の奉納となった1916年以降、「櫓太鼓」単体は1951年に再び奉納された。しかし、それも1958年を最後に奉納は途切れてしまった。
この1958年の奉納は、昭和において最後の奉納となってしまったのだが、そのとき太鼓をたたいていたのが永田正男さんという人物である。永田さんは、その撥さばきが素晴らしく高い評判を得ていたが、そのせいで逆に後に続くものが現れなかったといわれている。しかし、永田さんは遊び人として有名であったことから、「撥方になると遊び人になる」とうわさされ、そのせいで続く者が現れなかったのではないか、とも語られている。
このように、理由はさまざまに語られているが、「櫓太鼓」は一度伝承されなくなってしまったことに変わりはなく、その後も長い間奉納されることはなかった。
しかし、その36年後の1994年に「櫓太鼓」は復活している。そのきっかけとなったのが、永田さんの太鼓をたたく音が録音テープに残っていたことだった。このテープの音源を基に太鼓の音を再現し奉納したのだ。当時それを行った人物が田中さんである。田中さんは音楽経験があったらしく、耳だけを頼りにコピーをする、いわゆる耳コピをして再現したそうだ。こうして、1958年以来初めて「櫓太鼓」は奉納されたという。
第3章 中尾地区の「角力踊り道中囃子」
1.起源
ここからは、中尾地区に伝わる「角力踊り道中囃子」について述べていきたい。
まず中尾地区とは長崎市田中町にある地域で、長崎市の東部に位置している。長崎くんちが行われる諏訪神社からは離れている場所だ。
(図1:右上の赤線で囲われたところが田中町。『Goggleマップ』より引用)
ここは長崎くんちにおいてシャギリを担当する『長崎シャギリ保存会』に所属している地域である。シャギリとは演し物を神社や踊り場で奉納する前後の道中、町内のシンボルである傘鉾が舞うときなどに演奏される重要な役割を持つもので、踊町はこの保存会に毎回シャギリの演奏を依頼している。
その保存会の一員である中尾地区に伝わるシャギリのひとつが「角力踊り道中囃子」である。これは、本来「角力踊り」の行列移動の際に大太鼓、笛、締太鼓で演奏されていたシャギリのことで、中尾地区にしか伝わっていない、ほかにはない独特のものである。1965年に県の無形文化財にも指定されている。中尾地区の自治会長・松尾七郎治さんによると、中尾地区は、昔から、少なくとも江戸時代からは西古川町と関係があったという。松尾さんの考えるところでは、中尾地区は野菜の産地であり、その野菜を長崎住民へ供給していたことがきっかけで、西古川町とも関係ができ、長崎くんちの「角力踊り」における「角力踊り道中囃子」に関わっていたのではないか、ということであった。しかし、先述した通り、1916年以降長崎くんちで「角力踊り」の踊りが奉納されなくなった。それと同時に長崎くんちで「角力踊り道中囃子」がたたかれることはなくなった。
2.伝承の継続
長崎くんちで演奏されることはなくなった「角力踊り道中囃子」だが、その後囃子単体は中尾地区の人々に受け継がれ続けている。長崎くんちでの機会がなくなってしまったのに、なぜ受け継がれ続けてきたのか。実は、中尾地区ではそれ以外にも演奏する機会があったのだ。それは、地元の中尾地区のみで毎年行われている中尾くんちやお祝い事の場である。
中尾くんちの場合、「角力踊り道中囃子」はあくまでも道中囃子であるため、演奏するのは本番ではなくアンコールに応えるときである。アンコールの際は、それまで演奏していたものをするよりかは違う方がいいということで「角力踊り道中囃子」を演奏するのだという。そのため、本来は表に出るものではないが演奏できるようにしているということであった。また、先述した通り「角力踊り道中囃子」は県の無形文化財に指定されているため、現在はその使命感からも練習を継続しているという。このようにして、「角力踊り道中囃子」は途切れることなく伝承されてきたのだった。
第4章 西古川町と中尾地区
1.伝承の危機と克服
さて、ここまで述べてきた西古川町の演し物だが、「櫓太鼓」においては再び伝承の危機に陥ることとなる。というのも、第2章において触れた「櫓太鼓」の復活の後、当時田中さんは周囲の人との間に、次に西古川町が参加する2008年に太鼓のたたき方を次世代のためにも別の人たちに教えるという約束をしていたそうなのだが、その2008年になったとき、田中さんは教えないという方向に突然意思を変えてしまったという。当時太鼓の音を再現できたのが田中さんだけであったため、ほかの人では代理ができず、「櫓太鼓」の奉納は再び危ぶまれることになった。
しかしここで現在「櫓太鼓」の保存活動を行う『文銭會』の代表を務める、岩永和之さんが立ち上がった。この危機は突然のことで、その時すでに長崎くんちで「櫓太鼓」を奉納することが決まってしまっていた。そのため、奉納を突然取りやめることはできず、岩永さんは、自分たちで何とかしなくてはいけないと周囲の人々と協力して「櫓太鼓」の復活に臨んだという。その方法としてまず、岩永さんはただのコピーではないものを再現したい、と太鼓や撥がどのようなものから作られているのかなどの基礎的な知識の勉強から始めた。そして、テープ音源で聞き取った音を擬音語で表現し、その音のタイミングも記した楽譜のようなものや個人個人が一番たたきやすいよう材質や長さ、太さを変えた撥も作成した。
(写真7:岩永さんが作成したいくつかの撥。)
(写真8:撥の手元には材質名や使用する人の頭文字などが記されている。)
そうした工夫の後、音楽経験のあった知人の許龍成さんらに、残っていた永田さんの太鼓の音源から、分担して一部分ずつ再現していくようにお願いしたという。しかし、うまく聞きとれなかったり、聞き取れても映像がないためどのようにすればその音が鳴るのかわからなかったりした。また、太鼓の音は撥の太さや長さ、叩き方などでも細かく異なってくる。当時のものはテープに残された音のみであり、岩永さんは「完全再現は不可能」とおっしゃっていた。しかし、太鼓の音が異なるのはたたく人が違うのだから仕方がない、今は各々が近いと思うものを持ち寄ってできるだけ近いものをつくろう、と考えたという。そうして、岩永さんらは何とか形にして、2008年の長崎くんちにて「櫓太鼓」を奉納することができたのであった。
2.「角力踊り道中囃子」の導入
2008年の長崎くんちにおいて、「櫓太鼓」を奉納することができた岩永さんたちであったが、このとき演し物に加えたものがある。それが「角力踊り道中囃子」である。これは先述した通り、中尾地区にて伝承されてきたもので長い間長崎くんちでは演奏されてこなかった。岩永さんは「櫓太鼓」について勉強していた際にこの存在を知り、「できるだけ昔のものを昔のまま再現したい」という思いから、踊りは形にできないが道中囃子だけでも、と長崎くんちで演奏してもらえるように中尾地区のほうに依頼し、実現したという。
2008年には、岩永さんの希望もあり、「角力踊り道中囃子」は本来の形に則り、大太鼓も加えて演奏された。しかし、その次の2015年での奉納時には大太鼓は用いらなかったという。中尾地区は諏訪神社から離れているため、人も道具もそこから移動させる必要がある。しかし、それにかかる費用や時間の負担が大きすぎたため、断念したそうだ。
(写真9:西古川町に残る大太鼓。現在使われるのはこれではないが、昔使われていたのではないかと考えられている。)
このように、完全再現ではないものの、現在できる範囲で昔のものを再現しようと『文銭會』の方々は日々努力をされている。ここまでするのは、岩永さんの強い気持ちがあるからだろう。岩永さんは「くんちは嫌いだ」とおっしゃっていた。人もお金も時間もかかるからだそうだ。しかし、それでもここまで努力するのは、「バトンを偶然にも受け取った、そのバトンをどうやって受け渡すか」という使命感だという。また、自身が「櫓太鼓」の再現に努めた際、今までの伝承は記憶頼りであったため文章など目に見える形で記録されているものがほとんどなく、とても苦労をしたそうで、その経験から岩永さんは先述した楽譜作成のように、できるだけ形に残すように心がけているという。
むすび
ここまで、「角力踊り」からそれぞれ残された「櫓太鼓」と「角力踊り道中囃子」についてその変遷を述べてきた。今回の調査で、①「櫓太鼓」は伝承が途絶えていたが復活したこと、②「角力踊り道中囃子」は長崎くんちで奉納されなくても伝承され続けていたこと、③どちらもその伝統を受け継ぐ町の人たちによって再現されたり、保存されたりしていたこと、以上の3点が明らかとなった。この調査を通して、伝承についての困難さや文化にさまざまな人々の思いや努力が詰まっていることがわかり、その重要性を再確認することができた。
謝辞
本論文の執筆にあたり、協力して下さった方々にこの場を借りてお礼申し上げます。
特に岩永さん、松尾さんには大変大世話になりました。突然の訪問にも関わらず親切にお話いただいたり、親身になっていろいろなことをお教えくださったり、大変助けていただきました。そのほかにも長崎にてお会いできた皆様の協力があってこそだと思っております。本当にありがとうございました。
参考資料
・マイベストプロ長崎,「岩永和之 コラム」(2017年1月28日閲覧,http://mbp-nagasaki.com/iwanagakanamono/column/)
・岩永和之さん作成資料